それからの話


「またあそこで短期バイトを?」
「ああ」
 驚いて声を上げた総士に、ミルでコーヒー豆を挽きながら、一騎はこくりと頷いた。


 疏水に面した一面の窓ガラスから、やわらかな光が店内に射し込んでいる。窓の外では、ここ数日の冷え込みで鮮やかに色を変えた樹々の葉が秋風にそよいでいた。周囲には豆を挽く音とともにコーヒー豆の香ばしい香りが充満していて、それだけで心が安らいでいく。
 ほかに客もいない平日の昼下がりに、一つ授業が休講になったのをさいわいと、さっそく喫茶楽園に来て一騎のコーヒーを堪能していた総士だったのだが、一騎の思いもかけぬ一言に、コーヒーを口に運ぶ手を止めた。
「あそこ、一人急にバイトが辞めることになったらしくて。もし俺の手が空いてたら、また短期でいいから入ってくれてって溝口さん伝手で頼まれたんだ」
 あそこというのは、一騎が一時期短期でバイトをしていた駅前のカフェチェーン店のことである。すぐそばに大学があり、またほかに入りやすい喫茶店が少ないことから、いつも学生たちをメインに賑わっている。朝はサラリーマンやOLの姿も多い。馴染みのデザインがプリントされたペーパーカップを片手に、颯爽と改札を抜けていくのをよく見かける。
 半年ほど前まで、総士もその店の常連だった。積もるばかりのゼミの課題をこなすのに、もっとも適した場所だったからだ。それが一転したのは、今まさに目の前でコーヒー豆を挽いている人物のおかげである。
 春もおわりかけの時期、ゼミ終わりで疲れきったところを接客され、その笑顔に絆された上に、初めてペーパーパックにメッセージとイラストを書いてもらうという経験をして一気にすっ転んだ。つまり、店に行く意味がガラリと変わった。
 コーヒーは課題をやるための眠気覚まし、カフェは作業場所。そう割り切っていたはずの総士は、いつの間にか一人の店員目当てにカフェに通うという、少し前の自分であれば考えられない行動をとるようになっていた。いや、最初は無自覚だった。それに気づかされたのは、当の店員である一騎の姿を突然カフェで見かけなくなってからだ。
 一騎がいるのといないのとでは、カフェの空間も口にするコーヒーもまったく違った。一騎に会えないことが寂しいのだと気づいたときはショックだった。いささか心が荒みもした。気持ちを切り替えて新しいカフェを開拓しようと、剣司に教えてもらったこの喫茶楽園を訪れるまでは。
 一騎と衝撃の(?)再会を果たしてからはや三カ月。店でコーヒーを淹れてもらうばかりか、大学で飲む分のコーヒーまで淹れてもらうようになった。ちょっと特別なお客様以上の何者でもない存在が、今の皆城総士である。いや、友達にはなれている。連絡先も交換した。なにかあれば、メールを送ったり電話をかけたりできる関係になった。だがそこまでである。そこまでもなにも、こうして交流が持てているのだから構わないのではないか、いったい何が不満なのか? と自分の中のよく分からない感情に首を傾げている最近の総士だった。
 そもそも一騎と連絡を取れるようになったというだけでも、ものすごい進歩なのだ。ここに至るまでにもすでに紆余曲折があった。
 一騎と再会したときに自分の名刺を手渡した総士だったが、じゃあ俺も、と一騎がメモに書いてくれたのが電話番号だった。番号からして固定電話のようだったが、そのときはとくになにも思わずありがたく受け取って、大切に手帳に挟んだ。ずっと会いたかった人物の連絡先が分かったというだけで浮かれていたことは否定できない。
 翌日の昼頃、先日の礼を伝えようとメモを片手にスマホで電話をかけた。もしかしたら仕事かもしれないが、留守番電話に伝言を残すだけでもいいだろうと考えたのだ。
「もしもし、皆城ですが」
 はやる気持ちを抑えながら、そう名乗った総士の耳に響いたのは、まるで聞き覚えのない老婦人の声だった。
『はい、西尾です』
 ――西尾!?
 いったい誰だ。
 電話をかけた先を間違えたのかと思ったが、表示されている番号は教えてもらった通りのものだ。総士は混乱を来しながら、口調だけはなんとか冷静を装って電話先に確認した。
「すみません。皆城と申しますが、こちら真壁さんの電話ではないのでしょうか」
『おや、一騎の友達かい』
「は? ええ……」
「一騎なら朝から仕事に行ったよ。伝言があるなら伝えとくよ」
「ありがとうございます。大丈夫です。失礼いたしました」
 夜には戻るという西尾婦人の言葉にそう返し、総士は財布だけひっ掴んで自宅マンションから喫茶楽園に向かった。
 直接会った方が早い。
 じゃっかん汗だくで喫茶楽園にたどり着いた総士を、一騎はキョトンとした顔で迎えた。昼時だからなのか店内はほぼ満席だ。カレーのいい匂いが漂っている。だが、今の総士には一騎の姿以外目に入っていなかった。
「あれ? お前今日休みって言ってなかったか?」
 どうしたんだ? コーヒーか? と首を傾げる一騎に、総士は席の確認でもコーヒーの注文でもなく一騎の名前を叫んだ。
「一騎……!」
「はい?」
 どうもコーヒーを飲みに来たわけじゃないらしいぞ? と気づいた一騎が、メニューを胸に抱えたまま、ちょっと背筋を伸ばして返事をした。
「お前……携帯を……いや、そもそも自宅に電話がないのか!?」
「ああ、そうだけど」
 ――なんだと。
 予測はしていたが、あっさり言い切られて総士は床に崩れ落ちそうになった。
 そんなのありか。ありなのか。
「あ、もしかしてうちに電話してくれたのか? 行美さんいただろ?」
「一騎……行美さんとは」
「あれ、俺……話さなかったっけ?」
「聞いていない」
 え、そっか、ごめんな! と慌てる一騎に、ひとまずは仕事中に突然やって来てしまったことを詫び、改めて休憩時間に事情をきちんと話してもらうことになった。
 なんでも、一騎は古いアパートの二階で一人暮らしをしているのだが、その大家が西尾婦人であるらしい。双子の孫がいて、その片割れは今も駅前のチェーン店で働いていることも教えてもらった。つまり一騎の後輩だ。一騎が電話を持っていないことを知り、なら代わりにうちの番号を使っていいと言ってくれたとかで、ありがたくそうさせてもらっているらしい。問題があるとしたら時間帯で、固定電話であるため、電話連絡は夜十時までという時間制限がある。……夜型には厳しい。
「ご家族はそれで心配しないのか……」
「うーん、でも父さんも行美さんなら安心って言うしな」
「大らかな父上だな……」
 どうコメントしたものか分からず、正直な感想を無難に述べた。大らかというにはあまりにもざっくりしたその考え方からして、もしかしたら一騎によく似ている可能性が高い。
「それに俺、家にいないときはここで仕事してるし、ほかにどこか行くとかもないから、とくに困ったことないぞ」
 そんなことわざわざ確認しにくるなんて、お前律儀なやつだなあ、と一騎は笑いながらサービスだとコーヒーを淹れてくれたが、総士からすればまったくもって笑いごとではなかった。
 現に、総士は一騎と一度関係が途切れている。一方的な繋がりだったから仕方がないことではあるが、今後一騎の環境になにか変化が起こったとき、総士からは一騎に直接繋がる手段が何もないということだ。一騎に自分の連絡先を渡してはいるが、こちらからアプローチできないのは心もとなさすぎる。というか無理だ。思わず口走っていた。
「一騎、携帯はいいぞ」
「へ?」
 これはもう一騎に携帯を持ってもらうしかない。いっそプレゼントしてしまいたいくらいだが、友人からのプレゼントとしてはさすがに重たいし、少なからぬ金銭が発生するものは一騎も断るだろう。ならばその利便性を説くしかない。
 がんばれ皆城総士。僕はプレゼンの鬼だ。
 その後、あらゆる携帯会社のパンフレットをかき集め、一騎が使いやすそうなものに付箋を貼りつけて、その特徴を箇条書きにして書き込んだ。ちょっとした厚さになったそれを紙袋に入れて喫茶楽園に持っていき、一騎に手渡したところ、一騎は唖然としていたものの、とりあえず携帯を持ってもらえそうな雰囲気にはなった。
『お前って……ほんと不器用だな……』
 一騎がそう呟いていた気がするが、なぜ彼がそんなことを思ったのか総士にはわからない。一週間をかけてなんとか一通り目を通したらしい一騎から、「時間のあるときに携帯買いに行くのついてきてくれないか」と電話があったときは――もちろん西尾家の固定電話からである――目頭が熱くなった。
 休みを合わせて一緒に街に出かけ、結局一騎が選んだのは、《らくちんホン》という初心者・シニア向けのガラケーだった。色は爽やかなミントグリーン。画面の下にあるボタンに、連絡先を三つまで登録できるのが決め手だった。①に「とうさん」、②に「行美さん」と登録したあとに、③「総士」と一騎は登録した。これで大丈夫だなと笑う一騎に、総士は心底安心したし、もはや幸福感さえあった。
 駅前まで買い物に来たのだしせっかくならと、帰りに例のカフェチェーン店を訪れて休憩した。当然ながら見知った店員がいたらしく、客として来るのってなんだか恥ずかしいな……と一騎はそわそわと首を竦めていたが、総士としてもかなり久しぶりの来店だった。なにせ喫茶楽園に通うようになってから、一度も来ていない。
 一騎と出会ったときのことを思い返しながら、本日のコーヒーを注文し、席に着いたあとで、総士は一騎に携帯ストラップをプレゼントした。慣れない行為に準備するのも苦労したが――とくに心理的な面である――、一騎が淹れてくれるコーヒーと、毎回添えてくれるイラストやメッセージへのお礼のつもりだった。選んだのは、一騎が最初に描いてくれたネコのストラップだ。あれがネコを描いてくれたのだとわかっただけでも価値がある。そんな思い出と感謝を込めたプレゼントを、一騎は驚きながらも嬉しそうに受け取ってくれた。
「ありがとな!」
 その満面の笑みに、周囲の席にいる客とさらには彼らの様子をひそかにうかがっていたカフェの店員たちまでがざわついたのだが、当の二人が知るところではなかった。
 携帯はストラップをつけた状態で、今も一騎の手元に置かれ、仕事中はエプロンのポケットに入っている。総士はこうして一騎と連絡が取れるようになったのだった。


 そして話は冒頭に戻る。
「来月は溝口さん別の仕事で忙しいらしくて、ここもあまり開けられないらしいんだ。俺が一人で回せそうなら店開けてもいいとは言われたんだけど、まあせっかくだしあそこで働いてもいいかなって」
 駅前のカフェで働くことについて、一騎はそう続けた。
 コーヒーの豆はすべて挽き終わったらしい。総士のお代わりの分と、自分用に淹れたコーヒーのカップを持って、総士が座る座席の向かいに腰かける。ほかに客がいないときは、こうして休憩をとるのが習慣になっていた。
「そうか……」
 差し出されたお代わりをありがたくいただきながら、総士はそっとため息を吐いた。
「こっちは不定休になると思うから、店開けるときは連絡するな」
「ああ……」
 総士は頷いたまま考え込んでしまった。
 様子を連絡してくれることはありがたい。だが、一騎があそこのチェーン店で働き、喫茶楽園が不定休になるということは、ここで一騎のコーヒーを飲む機会が減るということだ。それは総士にとって大問題だった。
 一騎の話に、ずいぶんと自分は落胆した様子を見せていたらしい。
「ごめんな」
 一騎はそう申し訳なさそうに口にした。
「お前、ここのコーヒー好きだもんな」
「ああ……」
「いつも来てくれて、ありがとな」
「……」
 礼を言うべきはこちらの方だ。頻繁に来ても常に歓迎してくれるどころか、大学で飲むコーヒーまで淹れてくれるのだ。
 ここでときどきの食事もとるようになったが、それもすべて美味しい。なぜかカレーだけは毎回売り切れていて未だに食べる機会がないが、オムライスもシチューもカツレツもスパゲッティもなにもかもが美味しかった。コーヒーと同じ、どこか優しい穏やかな味がする。食後に出されるコーヒーは、食事メニューに合わせて調整したものなのだろう。口の中の油をさっぱりと洗い流し、気持ちを切り替えて爽やかにさせてくれる絶妙な濃さとキレがあった。
 そう。重要なのは、一騎が淹れてくれる喫茶楽園のコーヒーというところなのだ。加えて総士の日常に彩りを添えてくれる一騎のイラストつき一言メモ。あれがあるときとないときでは、その日のテンションさえ変わってくる。
 ちなみに一騎のイラストは一向に上達をする気配がない。
一騎は後輩が貸してくれたという動物図鑑を見ながら描いているというが、それがイラストに反映された試しはない。そもそも一騎のゆるい微妙な線で構成されるタッチは、リアルな動物がズラッと並ぶ動物図鑑の挿絵に残念ながらまったく追いつけていないのである。それでも果敢にイラストを添えようと奮闘する一騎の姿は、健気というかいじましいの一言に尽きる。そこに総士は大変なしあわせを感じているので、描かれるものが恐竜でもゴリラでもカワウソでもミジンコでもまったく構わなかった。
 だが、そんな明後日の方向に独創性のある画力のせいで、総士は一騎が何を描いたのか未だに当てられた試しがない。一度、これはゴリラだろうと自信満々に指摘したら、顔を赤く染めて俯きながら、「お前のこと描いたつもりだった……」と小さな声で告白された。いっそ自分がゴリラでも構わないのではないかと真剣に思った瞬間だった。もちろんその一枚も丁寧に保存している。
 立地は、駅前のチェーン店の方に圧倒的に軍配があがる。だが、総士はもうそんなメリットがメリットに思えないくらいの価値を喫茶楽園に見つけてしまったのである。それだというのに、当の一騎は総士のそんな気持ちをまったく理解していないように思える。
 一騎が、あのカフェでまた一時的にでも働くというのなら、きっと自分はまたあそこに行くようになるのだろう。一騎が働いている時間に合わせて。
 でもきっと、そこで一騎の姿を目にしても、以前抱いていたような、接客されるだけで心を浮き立たせていたあの頃と同じような気持ちを抱くことはできないだろう。なぜなら、自分はもう、一騎との今の距離を知っている。大勢の客の一人として訪れたところで、仮に一騎の接客を受けても、そのコーヒーを淹れてくれるのが一騎とは限らないし、今こうしているような会話と時間を楽しむこともできないだろう。一騎は、きっとあのカフェでもペーパーカップにイラストを添えてくれるに違いない。けれど、それでも自分はきっと物足りないと感じる。感じてしまう。一騎との距離に苛立ちさえ覚えるかもしれない。
 そんな予測が嫌だった。でもきっと、その予測通りの事態になるだろうと総士は分かっていた。
 無言で考え込んでしまった総士に、一騎は慌てたらしい。
「ほんと、ごめんな」
 一騎のせいではないのに、こっちの都合ですまないと詫びてくる。そうしてこう続けた。
「お前が、ここのコーヒー好きなの分かってるからさ。だからえっと、大学に持っていく分とかはちゃんと用意できると思うぞ。溝口さんに、ここの豆使ってもいいか聞いとけば大丈夫だし……」
「……」
 必死に口にする一騎を前に、総士はだんだんとイライラしてきた。総士が抱く思いが、まったく相手に伝わっていない状況にである。
 一騎は、総士が喫茶楽園のコーヒーを気に入っているから、ここに通っているのだと思っている。
 それは正しい。けれど、ある意味で正しくない。
 その理由は、ここに来る前から、あのカフェチェーン店で初めて接客されたときから決まっていることなのに。
「必要なら、総士が家で淹れられるように粉を分けることだってできると思うし、淹れ方のメモとかもちゃんと書いて、」
「一騎!」
「な、なんだよ」

「僕は! コーヒーじゃなくてお前が好きなんだ!」

 とっさにそう口走っていた。
 叫んでしまってから、はっとなる。
 目の前では、マグカップを両手で持ったまま一騎がぽかんと口を開けていた。間抜けでかわいい。いや、そうじゃない。
 自分が何を言ってしまったのかに気づき、総士は今更慌てた。
「いや、だからといってコーヒーが嫌いというわけではない。コーヒーも好きだ。だいたい好きでもなければ、こんなに飲むことはない。それにお前が淹れてくれるコーヒーは本当に美味しい。安らげるし落ち着く。だが、そう感じるのは、お前が淹れてくれるからで、」
 ――駄目だ。
 正しく想いを伝えようとするほどに迷走していく。レポートや報告では矛盾なく論理を展開できるのにどういうことだ。
 コーヒーが好きなのも、ここに来たいと思うのも。

 ――一騎が好きだから、僕は。

 理由なんて、一つしかない。最初から。
 きっと一騎を当惑させているだろうと覚悟しながら、改めて自覚した気持ちを一騎に伝えようと決めて顔を上げると、そこには顔を真っ赤に染めたまま目を大きく見開いた一騎の顔があった。手から今にもマグカップが落下しそうだ。改めて告白する前に、まずはそれを指摘してやると、一騎は慌ててマグカップをテーブルに置いた。カタンという音がひどく大きく響いた。
「かず、」
「あのさ、俺からもいいか」
「なんだ」
 総士が名前を呼ぶ前に、一騎の方が口を開いた。その目線がひどく泳いでいる。そわそわと耳まで顔を赤くしたまま何かを言おうとする一騎の言葉を待つ。
 ――どうしたんだ?
「そのさ、総士」
「うん?」
 一騎は何かを躊躇っていたようだったが、やがて大きく息を吸い込むと、顔を上げてまっすぐに総士を見た。かすかに潤んだ柔らかな鳶色の瞳が、正面から総士を射抜く。
 総士、とその唇がもう一度名前を呼んだ。

「喫茶店にいるときじゃなくても、俺のコーヒー飲んでくれるか」
「――は?」
「お前に、飲んでほしい」

 その言葉が、総士の気持ちへの承諾であったこと、さらには一騎の部屋でコーヒーを飲まないかという自宅への誘いであることに総士が気づき、顔を真っ赤にして口元を抑えるのは三分後のことである。
 秋も過ぎればもうすぐ冬。次の春までは未だ遠い。しかし一足先に、総士に今度こそ本物の春が訪れようとしていた。コーヒーの香りとともに。



2017/09/24
「某カフェ店員のまかべくんと大学生のみなしろくん」の書き下ろし①です。関係が1.5歩くらい進んだ。

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