はじまりの話


――あいつ、また来てる。
 客の注文を作りながらカウンターの内側から客席を確認し、一騎は胸の内で呟いた。


 アメリカに本店を持つ、このカフェチェーン店で一騎が働きはじめてから、もう二カ月になる。バイトをはじめたときは、まだ桜は蕾が綻びかけている程度だったが、はやいものであっという間に満開となり、このところは桜の花びらが舞い散る中をバイト先まで通っていた。抜け道に使っている人気の少ない道路はピンクに染まり、風が吹くたびに花びらがくるくると踊って、歩いているだけで楽しい気持ちになる。店に来る客の様子も、春という季節のせいか、どこか浮き立つような空気をまとわせていた。
 一騎はもともと、別の喫茶店で働いている従業員だ。それがなぜここで働くことになったのかというと、クビになったわけではない。店舗が改装することになり、その間無職になりかけた一騎に、店のオーナーである溝口が、改装が終わるまで別の喫茶店で働かないかと言ってくれたのだ。喫茶店でもレストランでもほかのどこでもいいからやります、と答えた一騎に、溝口がそれならと紹介してくれたのがこの店だった。
 二カ月も経てば、店のルールや、機材の扱い方、メニューへの対応、人間関係など、一通りのことは覚えるものだ。コーヒーの淹れ方についても、多少のとまどいはあったものの真っ先にマスターした。だが、どうしても慣れないものが一つあった。
 一騎は、レジで注文を受けるのが苦手だった。なにせここは誰もが知るカフェチェーン店。しかも駅前にあるとあっては、ひっきりなしに客が来る。それも色んな年齢層の客だ。喫茶楽園では自分のペースを保ちながら受け答えが出来たのだが、ここではそうはいかなかった。
「一騎先輩! 笑顔ですってば、笑顔! その武器うまく使ってくださいよ!」
「武器ってなんだよ……」
 一週間遅れて入ってきた後輩にドヤされながら、一騎は嘆息した。だいたい笑顔って使うものなのか?
 客の様子をよく見てこちらから積極的に声をかけて気遣うようにとも指導されているが、何か気づいても声をかけるタイミングがよくわからなかった。なにしろ一騎はあまり自分に自信がある方ではない。むしろほとんどないといっていい。俺なんかと思ってしまうのだ。そんな感情が、客に声をかけることをためらわせる。
 後輩も、もともと人とうまく話せないという問題を抱えていたらしいが、そんな過去を感じさせないほど、テキパキと客を捌いていく。それでいてきちんと店側のサービスを心がけて客とコミュニケーションを取っているのだから大したものだ。
 しかし、いつまでもカウンターの内側でコーヒーだけ淹れているわけにもいかない。とりあえず笑顔で、あとは注文を間違えないということだけを心がけ、ときどき注文を受けるようになったが、それも客が少ない時間だけだった。
 それでもなんとか仕事をこなしていたのだが、知らず気疲れが溜まっていたのだろう。先日、コーヒーを飲むついでに一騎の様子を見にきてくれた幼馴染の真矢が、一騎くん疲れてるねとひどく心配そうにしてくれた。
 真矢は一時期一騎と喫茶楽園で働いていたこともある。もともとずば抜けた観察力を持つ上、あそこでの一騎の様子をよく知っているだけに、余計に一騎の無理が目に付いたのだろう。
 ――俺、ほんとダメだな。
 無理しちゃだめだよという真矢の言葉を思い出す。真矢が言うほどに自分は疲れて見えるのだろうか、そんな人間が店員では問題があるんじゃないかとじゃっかん肩を落としつつ、回収台に積み上がった皿やトレイを回収しようとホールに出たとき、視界に飛び込んできたのが彼だった。
 カウンターからは少し影になる、壁側に設置されたソファ席の一番端に、その青年は座っていた。なぜ、今までその存在に気づかなかったのか不思議なほど、青年の姿は鮮やかに一騎の中に焼きついた。
年のころは、一騎と同年代だろうか。亜麻色の長い髪を背中で一つに結わえ、黒縁のメガネをかけている。手元にトールサイズのペーパーカップを置き、紙の束と開いた本に目を走らせながら、ものすごい勢いでパソコンのキーボードを叩いていた。
――す……すごい忙しそうだな……。
一騎は思わずぽかんとなった。周囲など目に入っていない様子で一心に作業をしている。なによりも……。
 ――なんか俺よりよっぽど疲れた顔してるけど……。
 大丈夫なのか?
 あんなに険しい顔でパソコンに向かっている人間は、サラリーマンの中にだって見たことはない。
 気になって後輩に聞けば、ここの常連らしい。道路を挟んだ向かいにある大学の学生で、この店のスタッフにとってはとっくに馴染みの存在だった。
「むしろ今まで気づいてなかったとか、そっちのがすごいんですけど」
「そうか……?」
「だって、目立つじゃないですか。女子とか裏でたまに話題にしてるし。聞いてないんですか?」
「は?」
「確認した俺が馬鹿でした」
 なんでもひそかなあだ名があり、《紫のMacBookの人》と呼ばれていることまで教えてもらった。
「なんで紫なんだ?」
「持ち物とか、ほらペンとかスマホカバーとかが紫じゃないですか。それで必ずMacBook広げてるし」
「へえ……?」
 言われてみれば、パソコン用らしいメガネケースや、ペンケースも紫だ。彼の雰囲気には似合っている。
 ――紫が好きなのか……?
 いったん注意が向くと、青年が店に来るたびに一騎は彼のことが気になるようになった。
 だいたい昼前か、あとは夕方六時以降にやってくる。昼であれば滞在時間は一時間ほど、午後の場合は三時間か、場所が許せば閉店までいることもある。頼むのはエスプレッソだけ。食べ物を注文しているのを見たことはない。
 そのエスプレッソも、作業の合間に一口含むという様子で、ひと息つくために飲んでいるという感じではなかった。何度か彼の注文を作っているが、ショットをよく追加しているところを見ると、おそらく眠気覚ましに使っているのだろう。もちろんエスプレッソが好きだというのもあるのだろうが、彼にとって、コーヒーというのは気持ちを落ち着けて飲むものではないらしい。それは人それぞれだから構わないのだが、それよりも。
 なんだか胃を悪くしそうだな……と、一騎は青年が店に来るたびに勝手な心配をした。


 それは、春も終わりに近づき、桜の樹が青々と葉を茂らせはじめた時期だった。
 一騎は午後からバイトに入っていた。あと一時間半もすれば閉店するという時間だったが、昼過ぎほどの混雑はないものの、あいかわらず人の流れは絶えない。
「一騎先輩、レジ入れますか?」
「あ、ああ。わかった」
 後輩の声に頷き、レジへと移る。自然とため息が零れそうになるが、なんとかこらえた。
 ――よし、笑顔だ。
 そうして気持ちを切り替え、目の前に立った客に「ご注文を」、と言いかけて一騎はうわっと声をあげそうになった。
 そこにいたのは、あの青年だった。そして一騎が驚いたのは、青年がいたことではなく、その顔だった。
 ――今日もすっごい疲れてそうだな……。
 いや、今日もどころではない。今までの中で一番疲れた顔をしている。おそらく注文を口にするのもおっくうなのだろう。視界でも霞むのか瞬きを繰り返し、どこかぼんやりとしながらメニューを確認している。その様子に思わず声をかけていた。
「おつかれみたいですね」
 一騎が話しかけたことに、青年はひどく驚いた様子だった。目を微かに見開き、こちらをまじまじと見つめる。険しく思えた切れ長の目元が和らぎ、少しあどけない印象になるのが不思議だった。やっぱり一騎とそう年が変わらないのかもしれない。
 バイトなのかと尋ねると、短く「ゼミで」と返ってくる。一騎は大学のことはよく知らないが、ゼミというのはこんなに遅くまでやっているものなのだろうか。
 ついでにと食べ物を勧めてみたが、青年は明らかに困惑しているようだった。
 ――やっぱなれなれしかったよな……。
 青年の反応に一騎は後悔した。慣れないことはするものではない。
 ――でも、こいつごはんまだ食ってなさそうだし、食わないとサプリメントとかで済ませそうな感じあるし。
 そう胸の内で言い訳をしながら、さらに口を開く。
「この時間だと、そうだな……これとかいいですよ。重たくなくて、でも満腹感があるから。野菜もとれるし。あ、バジルとか嫌いじゃなければ」
 自分でもなんでこんなに一生懸命になっているのかと混乱しながら、一騎はレジ越しに身体を伸ばして下段のラップサンドを指さす。ここのフードメニューの中でも一騎が気に入っているものだ。
 青年はあいかわらず戸惑っているようだったが、ラップサンドを目にして頷いた。
「……ではそれを。あとカフェアメリカーノに一ショット追加で」
 その言葉にひどく安心した。おすすめを受け入れてもらえたこと、彼がちゃんと食事をできそうなこと、客である彼と会話ができたこと……そのどれでもあるようで、それだけとも違うような気がした。
 思わず笑顔が浮かぶ。
「はい」
 いつもより大きな声で返事をすると、手早く会計を済ませてペーパーカップを手に取った。注文サイズを油性ペンで記入してから、なんとなくそれだけではさびしいような気持ちになる。「あ」と思い立ち、少し躊躇ってから余白に書き込みをする。
 ――こんなんだよな。たぶん。
「なんですか、それ」
 注文を作ろうとして横から覗きこんできた後輩に、猫だよ……と小さく答える。いちいち確認しないでほしい。恥ずかしい。なにせこういうことをするのは初めてなのだ。
「え、猫!? 嘘だろ……」
 後輩が呆然と呟いていたが、それは一騎の耳には入らなかった。猫のつもりで描いた絵に、おつかれさまという文字を添える。慣れないせいでかなり歪になってしまったが、走り書きだしいいだろう。
 カップを後輩に預け、自分はトレイの上にラップサンドを乗せる。
 青年に目を向ければ、ひどく眠たそうな様子で、それでも背はぴんと伸ばしたまま、コーヒーができるのを待っていた。几帳面さが伺える様子に思わず笑みがこぼれる。

「お待たせしました」

 ――おつかれさま。あんまり無理するなよ。

 込めた気持ちが少しでも届けばいいなと、一騎はどきどきしながらトレイを青年に差し出した。



image


2017/09/24
「某カフェ店員のまかべくんと大学生のみなしろくん」の書き下ろし②です。お互い気になっていた二人。

BACK
▲top