続続☆ス〇バ店員のまかべくんと、大学生のみなしろくん


「剣司…どこかいい喫茶店をしらないか…」
「はあ?」

 憔悴しきった総士の様子と、彼が口にした言葉に、剣司はあんぐりと口を開けた。

「いや、お前いつも行きつけのとこが…」
「……」
「……なんかあったのか?」
「いいや。まったく。なにも。ない」

 総士の無言の返答に、剣司がうかがうように尋ねてきたが、総士は地の底を這うような声で答えた。
 何もないのが大問題だった。
 あれから何度店を訪れても、青年の姿はなかった。彼を見なくなって2週間はたつ。こうなると理由は明らかだった。青年はあの店を辞めたのだ。
 どんな理由があったのかはしらない。体調か、家の事情か。
 そうと悟ったとき、こみ上げてきたのは苛立ちとも寂寥感とも脱力感ともつかない、すべてがこちゃまぜになったような感情だった。
 なぜ辞めるならいってくれなかったのかと理不尽なことを考え、そもそも自分と彼はそんな間柄ではなかったと思い至って、その事実に自分でもどうかと思うくらい凹んだ。
 そういえばと思いだす。一度だけ彼が何かを言いかけたことがあった。店員側から、特に彼からああいう形でアプローチしてくることなど今までなかった。もしかすると…本当にもしかすると、自分に何か伝えようとしてくれていたのかもしれない。そうだとしたら嬉しいが、いずれにせよ今となっては彼が何を言おうとしたのかすべては推測でしかなく、自分には彼の行方を知る術がない。
 ショップの店員なら、彼が辞めた理由も次の職場も聞かされているだろうが、たかが客に個人のプライバシーを教えてくれるはずがない。
 一店員と、大勢訪れる客の一人。それが青年と自分の立ち位置だ。そもそも彼の名前も、総士は正確には知らないのだった。わかるのはネームプレートのアルファベットだけだ。Makabeという、おそらく苗字だろう綴りだけ。
 店舗で顔を合わせるだけの相手に、ここまで感情を揺さぶられることになろうとは。いや、意識しないようにしていただけで、実はずっと乱されまくっていたのだと、今さら思い知るはめになるとは計算外もいいところだ。
 今も定期的に店には通っている。あの店の空間は今でも好きだ。
しかし、行けば今日こそ彼に会えるのではないか、またあの声が聞こえるのではないかと心のどこかで期待している自分がいる。そしてそのたびに打ち砕かれた。
 正直なところ、もはや限界だった。あの店に行っても青年にはもう会えない。その事実をいい加減理解すべきだというのに、しょうこりもなく青年に会えない現実を突きつけられては勝手に失望している。もはやいったい自分がなんのためにあそこに行くのかもわからない状態になっている。
 手にしたカップには、オーダー内容をあらわすアルファベットしか書かれていない。メッセージも、あのよくわからない動物のイラストもどこにもなかった。そもそも彼がいないという時点で、カップの側面を確認するようなこともなくなった。
 それでも惰性のままに、通い続けているのだが、通うほどに結論がはっきりとした。
 もはや認めざるを得ないだろう。
 自分はあの青年に会いたくて店に通っていたのだ。
 いつから。多分、最初からだ。あの笑顔と声に接客されてから、あのカップのメッセージを見てから、自分はあのとき差し出された優しさに参っていたらしい。
 こうなっては、春先に剣司に言われた言葉がまったく笑えない。しかし今なら全力で同意する。店員が目当てで何が悪い。こんなことが自分に起こるなんて思ってもいなかった。だが、それだけ彼との出会いは自分にとって衝撃だったのだ。
 こんなことなら、体裁だのなんだのに拘らず、とっとと連絡先と名前を聞いておけば良かった。思えばそんな機会、いくらでもあったはずなのだ。
 剣司が聞いたら仰天しそうだが、それくらいに総士は後悔していた。
 自分は絶対にそんなことはしないと考えていたことが馬鹿馬鹿しい。いつでも会えると思い込み、今の距離感に甘んじていた、完全な自分の慢心だった。
 かけていたメガネを外し、溜め息とともに頬にかかる髪の毛をやや乱暴にかきあげる。
 そのまま虚空を睨むように黙りこくってしまった総士に、これは相当に参っているらしいと見て取った剣司が困ったように眉を下げた。お前がそんなになるなんて珍しいなどとボヤく。基本的に自分の感情を律しがちで、淡々とした態度を崩さない友人が、どうにもただ事でない状態であると察したらしい。
 剣司としては、このところのショップ通いの様子や、一時期からカップに書かれていたはずのメッセージを最近見なくなったことからして、なにが起きたのか想像できなくもなかったが、あえて触れることはしなかった。
 しかしなあ、と剣司も改めてため息をついた。

「この辺りに喫茶店なんかないっての、お前もよく知ってるだろ」
「そうだな…」

 確かにそうだった。そもそも少し前にそれを指摘したのは総士自身だ。そして、それはどうしようもない事実だった。となると大学構内のカフェテラスの世話になるか、面倒ではあるが隣駅のコーヒーショップを使うしかない。
 組んだ両手に額を押し当て、再び大きな溜め息をついた友人を、可哀想なものを見つめる眼差しで見つめていた剣司だったが、そういえばと口を開いた。

「そういや、あそこ改装終わったっていってたな」
「改装?」

 総士は顔を上げて眉根を寄せた。

「あの図書館に行く途中にある喫茶店だよ。最近ビニルシートかかってただろ」
「ああ…」

 言われて思い出した。疎水が流れる道沿いに立つ、どうみてもさびれた古い喫茶店。最近は大学図書館の方にこもりがちで市立図書館の方へ足を向けることはなかったため、気づかなかった。そうか、あれは改装だったのか。

「…潰れたんじゃなかったのか」
「おい、勝手に潰すなよ」

 剣司がやや憮然として鼻を鳴らした。

「あそこは、たとえ閑古鳥になったってオーナーがつぶさねえよ。昔っからあそこにあってさ、俺も小さい頃はかあちゃんと何度か行ったことあるけど、未だに常連が多いんだぜ」
「そうだったのか」

 そういえば、剣司はここが地元だったかと思い出す。まったく人が出入りしている風には見えなかったのだが、常連に愛された店というのはそんなものかもしれない。そもそも、総士があそこを通るのは夕方以降であることが多かった。きっと昼間を中心に地元客で賑わっているのだろう。

「衛いるだろ。小楯衛。あいつの親父、普段銭湯経営してるけど、副業で漫画も書いててさ。ネーム切るときは、あそこの喫茶店でやってるらしいぜ」

 衛は、理工学部に通う剣司の幼なじみだ。とりわけロボット工学に興味を持っているとかで、何度か話したことがある。

「オーナーがオリジナルでコーヒーブレンドしてんだ。かなりこだわってるらしいぞ。お前の口にあうかはしらないけど、どうせなら行ってみればいいんじゃないか」
「そうだな…」
「気分転換くらいにはなるだろ」
「ああ、そうしてみる。ありがとう」

 コーヒーがうまいかどうかはもはや関係がなかった。
 あの青年を引きずり、いちいち思い出して失望をしなくてもいいのならそれで。
 とりあえず記憶に留めておくために剣司に尋ねる。

「店の名前は?」

 剣司は、どこか茶目っ気のある笑みを浮かべて答えた。

「喫茶《楽園》」





     ***



 翌週水曜日の昼下がり、《楽園》という名前の喫茶店の前に、総士は立っていた。
 休講になって空いた午後をどう過ごそうかと考えていたとき、剣司に教えられた店のことを思い出したのだ。課題もひと段落したことだし、少し足を延ばして喫茶店に出かけてみようかと考えた。
 春が終わり、いつの間にか梅雨も過ぎて外は初夏の気配を漂わせはじめている。図書館への道はいくらか傾斜がある。新緑が目立つ木々が立ち並ぶ通りを、疏水に沿って緩やかに上っていった、その左手に喫茶店はあった。
 足を向けてみて、なるほど確かに改装だったのだと今更知る。寂れて薄暗い印象だった喫茶店は、壁を塗り直して明るさを増していた。通りに面した大きな窓ガラスには、デザインされた《RAKUEN》の文字が躍っている。扉の上にある、車の前頭部が飛び出した独特なオブジェが元からあったものなのか新しく設置されたものなのかはわからなかったが、レトロさを残しつつも全体的に小洒落た店に変貌していた。
 入り口にかけられた黒板には、《CAFE TIME》と書かれている。閉店ではないようだと判断し、総士は扉に手をかけた。
カランコロンと、ドアベルが賑やかな音色を鳴らす。一歩足を踏み入れ、鼻が真新しい木と、芳醇なコーヒーの匂いをかぎ取ったときだった。

「いらっしゃい」

 かけられた声に、総士は固まった。
 それはこの一か月、ずっと聞きたくてたまらなかった声だった。穏やかで柔らかい、どこまでも優しい声。
声の主を見つめたまま、入り口で立ち止まってしまった総士の顔を見て、相手も客が誰であるのか気づいたようだった。
 あ、と声を上げて鳶色の目を溢れんばかりに大きく開いている。ぱくぱくと口を開けては閉じ、閉じては開けたあと、今は黒いエプロンを身につけた黒髪の青年は、はにかむように笑った。

「ええと、お好きなお席にどうぞ」


    




 久しぶりとか、どうしていたんだとか、そういった言葉はまったく出てこなかった。
 まるでキツネにでも化かされたような、どこか夢見心地な気持ちでカウンターを望む二人席に腰かけると、すぐにおしぼりと水が入ったグラスが出てきた。注文はと聞かれ、少し考えてからブレンドを一つ頼む。エスプレッソでなくていいのかと面白そうに確認を取られて、思わず頬に熱が上る。
 相変わらず彼が自分の好みを覚えてくれていることが嬉しかった。

「この店ではブレンドがおすすめだと聞いた」

 そう伝えると、了解と青年が微笑んでキッチンに戻っていく。
 改めて店内を見てみれば、スタッフは青年だけでコーヒーも彼が今から準備をするようだった。客は、総士のほかは、カウンター席に腰かけた一人しか見当たらない。
 カチャカチャと器具を用意する音が、小さく店内に響く。かけられた音楽はジャズのようだったが音量は控えめで、あとは青年が動く音しかしなかった。
 総士が、この手の個人経営の喫茶店に積極的に立ち寄ることをしてこなかったのは、店員との距離が近すぎることへの躊躇いも大きい。だが、この店には、そんなことを気にしなくていいほどの自由で穏やかな雰囲気があった。自己主張するようなものも、気を散らすようなものも存在しない。壁際に飾られているオブジェが喫茶店とは思えないようなアウトドアなものだったりするが、不思議とと店の雰囲気に馴染んでいるのが面白かった。ひどく心地よい空気が店内に満ちている。
 コーヒーはサイフォンでいれるらしい。総士はサイフォン式のコーヒーについて知ってはいたが、実際に抽出しているところを目にしたことはなかった。この店の主人は、自らコーヒーをブレンドしているのだと言っていた。きっと、これも主人のこだわりなのだろう。
 青年は手馴れた仕草でフィルターをセットし、フラスコにお湯をいれるとアルコールランプにかけて沸かしはじめた。まるで理科の実験を見ているようだ。
 物珍しさも手伝い、総士はコーヒーの準備をする青年の姿をずっと視線で追っていた。
 あの店でバイトをしていたときと、髪形も基本的な服装もまったく変わらない。肩までの黒髪を一本に括り、白いシャツとチノパンの上に、黒いエプロンを身に着けている。だが、あの時以上にのんびりとした気楽な雰囲気をまとっていた。
 コーヒーの粉を入れたロートがセットされ、コーヒーの抽出が始まるとともに、香ばしいかおりがぶわりと立ち上り、店内に充満していく。コーヒーはこんな香りがするものだったかと総士はひそかに驚いた。普段、チェーン店で嗅ぎ馴れているのとはまた違う、全身を包みこむような深いかおりだ。そういえば、抽出の際にコーヒーのかおりが強くでるのがサイフォン式の特徴だと聞いたことがある。
 竹べらで撹拌する合間に、不意に青年が顔を上げ、カウンター越しに総士と視線が交わった。青年は驚いたように一つ二つ瞬きをしてから、ふわりと笑んだ。

「もう少し、待っててくれな」

 それがまるで幼い子供を宥めるような物言いであったため、総士は思わず赤面し、頷くとともにグラスの水を飲みほした。



     ***



「もともと、三ヶ月だけのバイトだったんだ」

 総士がコーヒーを飲み終え、他に客もいなくなってから、もういっぱいサービスでと、お代わりを入れてくれながら、青年はそういった。
 青年は真壁一騎と名乗った。今更彼の名前をフルネームで知ることが不思議だった。ずっと前から知っていたはずなのに、やっと耳にすることを許された。そんな風にさえ感じる。
 当たり前のように砕けた口調であるのも、むしろ今まで敬語を使われていたことこそがおかしかったのではないかという自然さだ。
 一騎は高校の頃からここでバイトをしていて、去年卒業してからは正式に店員として働いていた。あのコーヒーチェーン店で働いていたのは、ここが改装工事に入ったための短期バイトだったのだという。
 ちょうど人手が足りなかったことと、チェーン店のオーナーと溝口が知り合いだったのがきっかけだった。
 とはいえ、人が入れ替わり立ち替わり出入りする店舗ではどうも落ち着かず、しばらく慣れるまではほとんど直接の注文を受けていなかったらしい。

「俺、あんまり、人が多いの得意じゃないから」

 総士の前にコーヒーを置き、道具を片づけた後、一騎は自分の分のコーヒーを手にして総士の向かいに座った。一口コーヒーに口をつけてから総士を見つめ、眉を下げて困ったように笑う。癖なのだろう。どこか犬の仕草を思わせる。

「まあ、だから溝口さんも、一度チェーン店とかでバイトして修行してこいっていうつもりだったんだろうな」

 溝口というのが、ここのオーナーであるらしい。一騎の父親の友人で、小さな頃から世話になっているという。

「とりあえず働かないわけにもいかないし、頑張らないとって思って働きはじめたんだけど、なんか気疲れすることが多くて。そしたら俺なんかよりよっぽど疲れた顔で、いつもコーヒー飲みながら作業してるやつがいるなと思って」

 心配っていうか気になってたんだよなと、一騎は笑った。

「他のアルバイトのやつにも聞いたら近くの大学の学生だっていうから、毎日課題とかで忙しいんだろうなって」
「は?」
「お前、けっこう店員のあいだで有名だったぞ」

 一騎がおかしそうに笑う。

「俺も、お前に声かけた日にはじめて知ったんだけどな。いつも大変そうだし、邪魔しちゃ悪いだろうからって、店ではあまり声かけないようにしてたらしい。MacBookの人とか言われてた」

 ――なんだそれは。

 確かに自分はあそこでMacBookを広げるのが習慣だったが、いくらなんでも安直すぎるだろう。そして思った以上に、店員に気を遣わせていたことを知って、なんだか情けない気持ちにもなる。自分が気づいていないだけで、それなりに常連として大切に扱われていたらしい。

「だから、俺の方がすごいびっくりされたよ。あの人に声かけたんですかって」

 思い出して再び笑いが込み上げてきたのか、口元に拳をあてて笑みをもらす。
 その仕草に思わず見入っていると、笑いをおさめた一騎が目線を上げて、正面から総士を見た。
 俺さ、と彼は続けた。

「ずっとお前にお礼を言いたくて」
「は?」

 予想を斜めに突き抜けた言葉に、今度こそぽかんと口を開く。
 彼は店員だ。客にサービスを与える立場だった。自分がお礼を言う必要こそありはすれ、その逆など考えたこともない。いったいどういうことなのかと声を失っていると、一騎はふっとその鳶色の目を細めた。

「あの店って、けっこうサービスを意識するだろ? 店員から客に声をかけるとか、カップにメッセージ書くのとか。でも、俺どうしてもやれなくてさ。タイミングがわかんないっていうか。だから、お前がはじめてだったんだ。こういうの本当に喜んでもらえるのか自信なかったのに、覚えてくれてお礼まで言ってくれた。だから、ありがとな」

 勧めたフードが美味しかったって言ってもらえて、すごく嬉しかったと一騎は笑った。
 総士はコーヒーに目を落とし、ソーサーの表をそっと撫でた。すべらかな磁器を通じて、じんわりとしたぬくもりが指先を伝う。

「僕も…はじめてだった。あのメッセージも、あとイヌのイラストも」

 途端、一騎がへにょりと眉を下げた。そのしょげたような顔に総士は慌てた。自分は何かまずいことを言ったのだろうか。
 なんとも情けない声で一騎がぼそりと呟いた。

「ネコぉ…」

 ――ネコかあれ。

「いや、その…次のキツネのイラストも」
「…ウサギ…」
「……」

 ――ウサギらしいぞ、剣司。

 さすがに総士も視線が遠くなった。自分も大して絵心があるわけではないが、ウサギなら、例えばもう少し耳が長くても良かったんじゃないだろうか。

「まあ、店のみんなにもさんざん微妙だって言われてたんだけどな…」
「微妙…」
「後輩なんかボロクソだったぞ…あんたそれなんなんですかって」
「それは容赦ないな…」
「次の日動物図鑑持ってきてくれたけど」
「いいやつだな…」
「でもダメだった…俺多分才能ないんだな…」

 いや、それは逆にもはや才能ではないのだろうか。それに何よりコーヒーを淹れるのが上手い。それ以上の特技はないだろう。今まで集中力を高めるアイテム程度にしか利用していなかったことが申し訳なくなるくらいに、コーヒーは本来味わって楽しむものなのだと知った。香りと味覚で、これほど心を落ち着かせてくれるものなのだと。
 しかし、まあ彼からしてみればイラストがうまく描けないというのはそれなりにコンプレックスとなっていたのだろう。どう慰めるべきなのかわからず、とりあえず感じたことを告げる。

「僕は、味があっていいと…思うが」
「お前、いいやつだな…やっぱお前のにだけ描いたの正解だったんだな…」

 実験台みたいにしてごめんなと言われて、総士は思わず息が止まりそうになった。

 ――なんだと。

「…いや、構わない」

 なんとかそれだけを口にする。

「僕は、嬉しかった」

 ――僕だけ、か。

 こんなことが嬉しくて仕方ないなんて、やっぱりどうかしている。
 何を続けたものか迷ってから、総士はずっと気がかりだったことを口にした。

「お前を見かけなくなって…最初は病気かなにかになったのかと思った」

 だから元気で良かったと口にした総士に、一騎は申し訳なさそうに笑った。

「俺も本当は言いたかったんだよ。俺がもうすぐ辞めるってこと。でも、結局店員と客だろ。バイト終わるからもう会えなくなるけど元気でなとか、今までありがとうとか、せめてそれくらい言いたかったけど、そんなの変だしさ」

 コーヒーショップを辞めて戻るのが、喫茶店だということも余計に言いづらい要因だったのだろう。結局何も言えないまま、バイトを辞めてこちらの仕事に戻ったのが一か月前だった。

「もしかしたらこっちの店に来ることもあるかななんて、ちょっと期待したりもしたんだけど。便利さとかでいえば向こうの方が上だろうし、望み薄だろうなって思ってた。だから…来てくれて、ありがとな。ええと、その…」
「総士だ」
「へ?」
「僕の名前だ。皆城総士」

 自分が名乗り忘れていたことに気づいて、総士は口を挟んだ。
 漢字をどう説明しようか考えて、そういえばと懐から名刺を取り出す。大学の所属とメールアドレスだけを印字した簡易なそれを手渡すと、一騎の目が大きく開かれる。

「すごいな。俺、名刺とかはじめてもらった」

 ひどく嬉しそうにするからどうにも困る。印字された名前にそっと触れると、ふにゃりとあの顔で一騎が笑った。

「総士」

 名前を呼ばれて心臓が跳ねる。
 耳に馴染むその声が聞きたくて、目をあわせた時の笑顔が見たくて店に通っていたのだと気づいてから一か月。彼の声で自分の名前を呼ばれる日が来るなど、想像したこともなかった。一騎と、相手の名前を呼ぶことも。でも、ずっとそれこそを望んでいたのだと、すとんと心に落ちた。
 息を吸い込み、彼に伝えたかったことを言葉に乗せる。

「僕も、会いたかった。…一騎」
「なんだ、一緒だな」

 一騎が目を細め、はにかむように笑った。

「そのさ、良かったら…またこいよ」
「ああ」

 必ずと答えて、総士もまた微笑んだ。



     ***



「お前、いつから水筒にしたんだ」

 休憩中に総士が鞄から取り出したものに、剣司が驚いた声を上げる。それをしり目に、総士は水筒の蓋を開けて、蓋に中身を注ぎいれた。深いこげ茶の液体が注ぎだされるとともに、香ばしいかおりが立ち上る。

「うわ、コーヒーか。またえらくいい匂いだな」
「まあな」

 しれっと答えて総士は中身を一口含んだ。鼻から豊かな香りが抜け、舌に複雑かつまろやかな苦みが広がっていく。淹れたてのものに比べるとやはり劣るが、それを差し引いても今日も美味しい。
 深い青色の水筒は、一騎が総士にもたせてくれたものだ。あれから総士は、朝食と、ときどき昼食を食べに喫茶楽園を訪れている。
 飲むのはすっかり、オーナーがブレンドしたという《楽園ブレンド》だ。深みのあるコクとまろやかな味わいが癖になってしまった。
 大学でもここのコーヒーを飲めたらと零した総士に、それならと一騎が渡してくれたのが水筒だった。総士のためだけに抽出してくれたコーヒーを、総士は大学にいる間にきっちりと飲みほし、洗い終わった水筒を持ってまた楽園に行く。
 そのときの状況に合わせて、濃いめに入れてくれることもあるコーヒーは、飲むたびに総士の好みにぴたりとはまる。本人はまだまだ修業が必要だと謙遜するが、総士からすれば、一騎が入れてくれるコーヒー以上のものはない。
 それに、一騎が入れてくれるのはコーヒーだけではない。懐にいれてあるメモ用紙を想って、総士は小さく笑った。ショップでカップに書いていたようなことはできないからと、一騎は水筒の蓋の中にメッセージを入れてくれるようになった。最初にそれに気づいたときは驚いたものだった。
 喫茶店に備えつけのものを使ったのだろう小さなメモ用紙には、無理するなよという一言と、あいかわずよくわからない動物の絵が添えられている。
 今日の絵はなんだろうか。ヒヨコのようなゴジラのような絵だ。未だに彼が何を描いたのか当てられたためしはないが、その度に一騎が浮かべる拗ねた顔が気に入っていると知られたら、さすがに怒られるかもしれない。
 総士は、その紙切れを一つずつ丁寧にとってある。読んだら捨てろよと一騎は言うが、未だに守られたためしはない。水筒を返すときに、総士が入れているありがとうと書いたメモを、一騎が大切にとっていてくれているのを知っているから、お互い様ということだろう。
 ふと目を上げると、大きく目を見開いた剣司がこちらを凝視していた。

「お前…本当に春がきたのか」
「だから、今はもう7月になるところなんだが」

 何を言っているんだと剣司に返しながら、総士はもう一度香りを吸い込むようにしてコーヒーに口をつけた。



- end -


*******************


一騎先輩がやめてからすこしして、常連だったMacBookのイケメンまでがうちの店に来なくなった件について(店員A談)

※ショップでの皆城くんのあだ名:紫の(アイテムが多めの)MacBook(使ってるイケメン)の人。


*******************



※その後のこぼれ話いくつか※



 このあと真壁くんの電話番号をあれやこれやで教えてもらえる皆城くんだけど、
 早速かけたら「はい、西尾です。おや、一騎くんの友達かい」って返ってきて度肝を抜く。

「あ、俺んち電話なくて。携帯もなくて。大家の西尾のおばあちゃんに連絡くれたら俺に伝わるから」
「!!??」


 思わずカレンダーで西暦を確認した皆城くん。
 どう見ても平成だったし、世はネット社会だった皆城くん。
 しかし真壁くんは昭和を生きていた。

「基本家かバイト先にしかいないしな」
「ご家族は心配しないのか…」
「父さんが、行美さんなら安心だって」
「…そうか」


また連絡つかないのが怖すぎるので(若干トラウマ)、
一緒にガラケー(最大譲歩)を買いに行く。
(→そして帰りにス◯バに寄る。)
(ス〇バの店員たちはちょっとざわついた。)

 その後もよく真壁携帯は不携帯なため、待ち合わせには大体手こずる。
 手書きのメモだので伝言を伝えることも多い。
 ある日家に戻ったら「お前いなかったから、差し入れ置いとく。がんばれよ」と書いたメモと一緒に、
タッパーの入ったビニル袋がドアノブに掛けてあった。
 電話をいれろ!とか、防犯!!とか叫びつつ、廊下にくずおれたい気持ちになった。
 しかし最近では、もはやこれはこれでいいかもしれないと思いはじめた皆城くんである。

「思えば、僕があいつの居場所を把握していれば問題ないんじゃないかと」
「総士、ちょっと待て」

 ※剣司は、友人の《春》の行方が少しだけ心配である。
 ※剣司は、友人に《春》を呼んだのが自分の別の幼馴染だとはまだ知らない。
 ※だが、彼の直観力は何かを告げている。



 動物図鑑を貸してくれたのは、心優しき後輩Aである。
 ちなみに大家の孫息子なので、真壁くんと同じアパートに住んでいる。

「あれ、一騎先輩、どうしたんですか」
「あのさ、暉。お前の動物図鑑まだ借りてていいか」
「いいですけど、え! 先輩まだ描いてんですか」
「いやまあ、その…うん」
「こりな…いや役立ってるならいいですけど…」
「うん…」
「なんでそんなに顔が険しいんですか」
「連敗なんだよ」
「はあ?」

 ※連敗しているのは皆城くんもである。


「今日描いてあった絵だが」
「あ、わかったか?」
「…ゴリラか?」
「」
「どうした」
「いや、その…」
「なんだ」
「…お前描いたつもりだった…」
「」
「ごめん」
「いや、腹を立てているんじゃない。その、なんというかもはや感動している」

 ※まさかの。
 ※というか、なんで伝わると思ったのか。
 ※いっそ、ゴリラを描けば自分に似るのではと思いはじめた皆城くん。
 ※動物図鑑は逆にハードルが高いんじゃないのかと実はこっそり思っている皆城くん。(別に止めない)
 ※皆城くんのIphoneの待ち受けが、日替わりで謎の生き物になっているのは、家族と大学の一部の人だけが気づいている。



「俺も次喫茶店でバイトしよっかな…」
「えーなにそれ困るーー」
「なんで里奈が困るんだよ…」
「あたしス〇バ好きだし」
「そーかよ。料理の勉強したいんだよなあ。溝口さん俺も雇ってくんないかなあ」

 ※店員AとMacBookのイケメンとの再会は近い。


2016/03/09 pixiv up
幻蒼#6にて「某カフェ店員のまかべくんと大学生のみなしろくん」というタイトルで、書下ろしとともに再録しました。(※完売)

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