うめぼしおむすび

無印前~幼少時

一騎と紅音


「ほうら、一騎。見ててごらん」
 ほかほかと湯気を立てる炊き立ての真っ白な米を前に、母が笑っている。
 ちゃぶ台の上に置かれたおひつを、ようやく自分の足で歩けるようになったばかりの一騎は、母にしがみつくようにして覗き込んだ。母の濡れた手が、まだ熱々のごはんをそっと手に乗せて一騎に見せてくれる。
「よーく手を洗って、お塩を少し手につけて、お米をこれくらい乗せたら、あとは左手と右手で握るの。ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅ」
 母が米を握るのに合わせて、幼い一騎も口真似をする。
「ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ」
「そうそう。そのタイミング」
 母は明るい笑い声を上げた。
 今日は父も休みで、家族三人でお弁当を持って海へ遊びに行くのだ。この日を一騎はうんと楽しみにしていた。
「力は入れすぎないの。きれいに作ろうとしなくてもいいの」
 歌うように母は言う。母の手のひらの中で、ふわふわとした白い粒の集合体が、明確な形に変化していくのを、一騎は不思議な気持ちで見つめていた。あっというまにころりと丸みを帯びた三角形が母の手の上に出来上がっていた。うわあと一騎は声を上げる。
 母はどこか得意げだった。ふっくらとした白い三角形の真ん中に、家で漬けた小さな赤い梅干しをきゅっと押し込む。白い米に、赤い梅干しはよく映えた。まるで口紅をつけた母の顔のようだと思った。
「おいしそうでしょう?」
「うん、おいしそ」
 お椀にそのまま盛ったお米だってもちろん美味しいけれど、こうして母の手で握られたおむすびは、一騎にとってちょっとした特別だった。まだうまく箸を使えない一騎には、直接手にもって食べられるのが良かったし、これを持って出かける楽しさを思えば胸も弾む。両手にずしりと馴染むおむすびは、なんともいえないぬくもりがあった。
「そうね、土を捏ねるのと一緒なんだわ」
 母はいつも何かに触れている。両手いっぱいにすくい上げたそれが何なのかを知ろうとしている。それがどんな形になるのかを見定め、自分でも形作ろうとする。
「でも、これは私たちの中に入って私たちを生かすもの。その、一番シンプルなかたち。あの頃の私たちが、きっと一番欲しかったもの。そして」
 一度口を切り、おむすびを手に取る。
「未来に残したかったもの。生まれてくる子どもたちに、残して与えてあげたかったもの」
 指先についた米粒を、母は一騎の口元に近づけた。一騎は引き寄せられるように指先に吸いつき、米をぱくりと口にする。かすかに塩気のある、あたたかな米の甘さが舌に触れる。歯で噛み潰すと、応じるようにじゅわっと唾液がこみ上げ、米の甘みが口の中いっぱいに広がった。一騎のやわらかな頬をつつきながら、母が茶目っ気たっぷりの表情で首を傾げる。
「一騎、おいしい?」
「うん!」
 こっくりと頷くと、母はそれはそれは嬉しそうに笑った。
「一騎。おむすびはね、二つの手でむすぶのよ」
「なにを?」
「命を」
「いのち?」

 ――未来を。

 ぱっちりと目を覚ませば、もう朝だった。
 懐かしい夢を見たなと思いながら、一騎はぴょんと布団の上に飛び起きた。母がおむすびを握ってくれた夢。思いのほか鮮やかな夢は、同時に起きたばかりの一騎の腹を刺激した。
 寝間着を脱いで着替えると、布団を畳んで顔を洗う。それから居間に飛び込んだが、父の姿はなかった。多分、起きてすぐに土を採りに行ったのだろう。台所に行けば、炊飯器が炊きあがりのサインを出していた。魚を焼いて味噌汁を作る、といった程度の料理が一騎にはもうできる。今日もいつものように魚屋さんで買った切り身の鮭を焼いて、豆腐とワカメの味噌汁を作ってと考えたが、夢のことを思い出して、おむすびを作ることにした。
 炊きあがった米をおひつに移し、ボウルに入れた水と、それから布巾を用意する。塩と、あとそれから西尾のおばあちゃんからもらった梅干し。父の買ってくれたぶかぶかのエプロンの紐を結びなおして、一騎はよしと気合を入れた。
「あっつう!」
 思わず叫ぶ。炊きたての米は熱い。水で手を冷やしながらといっても、じんじんと痺れるような熱が手のひらに広がる。一騎は、こんなもんかなと目安をつけてすくった米を、悲鳴を上げそうになりながら握った。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。母の教えてくれたタイミングだ。とはいえ、出来上がったおむすびは、とてもきれいな三角形とはいえなかった。ぼこぼこしていて、かろうじて三角形に見えなくもないといったところだ。それでもなんとか形にはなっている。一騎は機嫌を良くして、一つ、二つと次々におむすびをこしらえていった。
「おう、一騎。早いな」
 居間にひょっこりと顔を出したのは、溝口だった。父と亡くなった母の古い知り合いで、一騎が物心ついたころから家に出入りしている。母を亡くした一騎をよく気遣ってくれるのもこの人だ。料理が得意で、一騎が覚えた献立の幾つかは、溝口から教わったものだ。
 一騎の前にあるおひつと、皿の上に並んだおむすびを見て、溝口がこりゃあと声を上げる。
「一騎が作ったおむすびか。どれ一個もらっていいか」
 こっくりと頷くと、溝口はさっそく一つを手に取って大口を開けてかぶりつく。見る間におむすびが溝口の口の中に消えていくのを、一騎は目を丸くして見守った。
「お、こりゃあいい炊き加減だ。一騎は米も上手に炊けるんだな」
「だって、父さんのごはん、固くておいしくないから」
 一騎がむうっと口を尖らせると、溝口は大口を開けて笑った。
「確かになあ!」
 父ほど料理ができない人はこの島にはいないんじゃないかと思う。父が炊くごはんでは、おむすびも作れない。一つにまとまらず端からぽろぽろと欠けていく。何とかしようと人に教えてもらい、自分でも美味しく米を炊けたときには、一騎はかなりの感動を覚えたのだ。
「あいつはしょうがないとこもあるんだよ。それにしてもうまいなあ一騎」
 むしゃむしゃと頬張りながら、溝口が一騎をつつく。
「ほら、お前も作ってないでちゃんと食え」
 俺が作ったのになあと思いながら、一騎は自分の分を皿の上に乗せる。残りは父さんの分と、今日の昼の分だ。今日は総士と山の方に遊びに行くから、夕方まで家に帰らないのだ。少し多めに握ったのは、総士の分だ。おむすびを握ってきたと言ったら、びっくりするだろうか。ちょっと大きいしぶかっこうだけど、食べてくれるだろうか。
「一騎、うまいかあ?」
「うん」
 こっくりと頷くと、そうかそうかと言って溝口は一騎の頭をわしゃわしゃと撫でた。その口調と笑顔が、なぜか夢に見た母の記憶と繋がって、一騎は首を傾げた。

こんぶおむすび

無印初期

一騎と総士

こんぶおむすび

 竜宮島は小さな島だ。漁場に恵まれた島では漁業が盛んで、その主な生産物も海産物ということになる。家々の食卓に上るのも、野菜や魚介を使った料理が中心だ。肉ももちろん食べるけど、鶏肉や豚肉が多くて、牛肉はあまりない。そもそも島には、一騎が知る限り牧場はない。畑はところどころにあるけれど、田んぼの数もひどく少ない。
 ――じゃあ俺が食ってるこれはどこからきたんだろう?
 というのは、成長するにつれて一騎が当然抱いた疑問だった。遊びに出かけた先で、お弁当として握ってきたおむすびを食べながら、一騎は総士に尋ねた。島にある馴染みの佃煮屋さんで父が買ってきた昆布の佃煮は、今日も美味しい。まぶしてある胡麻の食感と風味もいい。
「外からだよ」
 隣で一騎が握ったおむすびを口にしながら、総士は海の向こうを指差してそう答えた。
「船で外から運んでくるんだ。島の港には船がいっぱい並んでるでしょ? 魚を捕る船のほかに、外から物を運んでくる船もある。島で手に入らないものは、そうやってここにやってくるんだよ」
「そうなんだ」
 島の外のことなんてあまり考えたことはなかったから、一騎は目をぱちぱちと瞬かせた。海の向こうを見つめてから、もう一度まじまじと手にしたおむすびを眺める一騎を見て、総士はくすりと笑う。
「竜宮島では、北海道のお米を食べてるんだって。日本の米の産地の一つだよ。ほかにも有名なのは新潟とか、秋田だけど」
 北海道のお米なのか、と一騎は地図でしか知らない場所に想いを馳せた。島だけど竜宮島とは比べ物にならないくらい大きな島だということしか分からない。そして総士は詳しいんだなと感心した。いつだって総士は物知りで、一騎に知らないことを教えてくれる存在だった。一騎がすごいと口にするたび、どこかはにかむような得意げな顔をしていた。
 総士がいつまで外の世界のことを本当に信じていたのか……いられたのか一騎には分からない。ただいつからか、一騎の質問に答える声が、まるで教科書そのままを読み上げたような口調になった。それでも一騎は、総士は物知りですごいなあと思っていた。総士が《真実》を言おうとして言えるはずもなく、機械的に《真実》という名の《偽り》を語らざるを得なかっただけということなど、知る由もなかった。一騎はときどき総士が何を言っているのかわからず、聞き返すことがあったけれど、そんなとき、たいてい総士は寂しそうに首を振ってごめんと言うだけだった。
 ――ごめんね、一騎。
 あれは、単に一騎の理解が足りなかっただけでなく、認識コードの制限の問題で、反射的に理解を拒否していたということだったのかもしれない。同じものを共有できない苦しさと寂しさを、あの頃の総士はずっと味わっていたのだった。

     ***

 フェストゥムの攻撃とともに戦争が始まり、ファフナーパイロットが選抜されたことで、パイロット同志の交流が少なからず増えた。午後の授業は搭乗訓練に充てられるため、パイロット同志は必然同じ時間を過ごすことが多い。ひたすらシミュレーションによる戦闘訓練とそれにともなうテスト、メディカルチェックを受ける中で、アルヴィスについてもっとしっかり知りたいという声が出た。その気持ちは一騎も抱くものだったので、その場にいた一騎も控えめながら頷いた。解放された知識だけで納得するのではなく、自分の目で見て理解したい。そんなわけで、子ども達の要望に応えたアルヴィスでの特別課外学習が実施されることになった。
 少し前までは、食べるもの、着るもの、様々なものが島の外から船に乗せられてやってきているのだと信じていた。だが、すでに日本は滅びてどこにもないということは、当然すべてがアルヴィス内で生産されているということになる。その状況を知りたいと思うのは当然のことだった。もはや、今まで受けていた社会や理科の知識など意味がない。いや、意味はあるが、その理屈がまったく異なるものになっている。解放された知識レベルでは、どのように島民の衣食住をアルヴィス内で支えているのか多少の理解はできていたが、実際に自分の目で見たいという欲望には抗えなかった。それは、一騎だけではなく、みなもそうであるのだと知って、一騎は少し安心した。
 この日は、食料プラントの見学だった。アルヴィス内の一区画が食糧生産のプラントになっており、そこで稲もまた水耕栽培されていた。温度や湿度、そして二酸化炭素濃度もすべてセンサーによってデータ管理されている。刈り入れから脱穀までも、なにもかもが機械による全自動だった。それを目にした衛のはしゃぎようはものすごく、咲良に呆れた口調で窘められていた。
「あ、お米屋さんだ」
 剣司の声に目を向ければ、そこでは機械のデータチェックを行っている男性がおり、確かに一騎がいつも米を買っている店舗の主人だった。
「おじさん、第二種任務でも米作ってたのか……」
 しきりに頷く剣司だったが、そこに入ってきたさらに別の男性の顔を見て子供たちはまたも驚きの声を上げた。アルヴィスの作業服に身を包み、携帯端末を抱えて立っているのは、一騎もときどき出入りする店の主人だった。
 ――「御門や」のおじさん。
 食料プラントの統轄を担っているのは、「御門や」の主人なのだと初めて知らされた。
 現在竜宮島に住む約二千人の食べ物を、ここでまかなっている。最大、七千人の必要を補えるのだと説明され、言葉もなく頷くことしかできなかった。
 遺伝子改良された穀物や野菜は、必要に応じて短期で成長させることも可能らしい。必要に応じてってなんだろう……と一騎はそう思ったけれど、アルヴィスがあらゆる状況を想定し、対応すべく設計されていることはわかった。それもこれも、全部自分たちが生き残るため、あとに生まれる者たちに残すため、ここに存在し続けるためのものだった。その悲愴なほどの執念と足掻きと、どれだけ踏みにじられても諦めない、大人たちが抱き続けた希望が形になったものだった。
「がっかりしたか」
「総士?」
 少し離れた場所から腕組みをして立っていた総士の突然の問いに、一騎はとっさに何のことかわからず目を瞬かせた。
「え、何が」
「僕たちが食べるものがどう作られているかについてだ。昔、僕はお前に、竜宮島で食べる米は北海道で作られていると教えただろう。島で育てていないものはすべて外から運ばれてくるのだと」
 そういえばと、一騎は思い出した。まだ一緒に小学校に通っていたころ、総士が教えてくれたことだった。
「僕が嘘を教えたと、もう分かっているんだろう」
 総士は自嘲するような笑みを浮かべる。一騎は少し考えてから、首を横に振った。
「嘘じゃ、ないだろ」
 何もかもが嘘というわけではないと思った。
「作ってたのは本当だろ。今はもうどこにもないんだとしても、昔はそうだった。北海道で……日本のあちこちで米を作ってた。それがあるから、今がある。俺たちは今も米が食える。確かにお前が言ったことは嘘かもしれないけど……でもここにあるのは本物だろ。俺とお前を生かしてるのは、本物なんだろ。だから俺たち、ここにいられるんだろ」
 つっかえながら、一騎は一生懸命に口にした。自分が知ったこと、感じたこと、考えたこと。どうして今自分がここにいられるのかということ。
「島があって、大人たちが守ってくれたからこうして米が食べられるんだって。島のミールが俺たちを生かしてくれてる。そのことが、ちょっとわかった気がする。だから俺は、前よりもっとちゃんと、いただきますって、言えると思う」
「……そうか」
「総士?」
 総士はしばらく黙ったままだったが、不意にその表情が緩んだ。
「ありがとう、一騎」
 総士は目を細めて笑った。もうずっと見ることのなかった、それは確かに笑顔だった。ひどく優しい、けれどとても胸が苦しくなるような顔だった。一騎は、そんな顔を向けられたことに動揺し、総士に礼を言われたことでまたうろたえた。自分が総士に礼を口にされる理由がわからなかった。
 一騎はまだこのとき、総士に妹がいることを知らなかった。その妹が人として生きるすべてを代償に島を管理し、一騎たちを守ってくれていることも。こうして米が育ち、自分たちがそれを食べ、命を繋いでいくことができているのだということも。ただ何も知らず、一騎は総士が見せた笑顔が嬉しく、同時に痛いと感じていた。
「そ、総士」
 このときとっさに声をかけたのは、なぜかそうしなければならないと思ったからだった。
「どうした?」
 アルヴィスの見学で、午後の授業は終了だ。今日はファフナーによるシミュレーション訓練もなしとあって、そのまま解散の流れだった。だが総士は戦闘指揮官としての任務がある。
「あの、さ」
 とにかく何かを口にしなければと思い、続けて口走ったのはたわいもないことだった。
「おむすび、食べるか?」
「は?」
 通路に向かって足を進めようとしていた総士が、訝し気な声を上げて立ち止まった。
「その、米、見てたら、なんか腹減ってきて……俺も食べたいなって思って、だから良かったらお前も」
 自分がひどく滑稽なことを言っているという自覚はあった。そんなことを考える余裕があるなら、よりよいパイロットであることを示すようテストで高い数値を叩きだすべきだった。ファフナーパイロットとしての自覚がただでさえ足りないと思われているのに、こんなつまらないことで足止めされて、総士はさぞ呆れているだろう。
 何を馬鹿なことを、と断られることを覚悟しておそるおそる見返した総士の顔は、ぽかんと狐につままれたような表情をしていて、一騎はひどく懐かしい気持ちになった。ずっと昔も、自分は総士にこんな顔をさせたことがある。
「えっと、その」
「……いいのか?」
「え?」
 総士のそれが、了承の確認であったことに一騎は一瞬遅れて気づいた。
「いい!」
 大きく頷くと、もう一騎の頭の中には朝炊いた米の残りと、おかずのことしか浮かんでいなかった。確か父がもらってきた昆布の佃煮があったから、それを具にしよう。
「俺、今帰って作ってくるから」
「いや、いい。僕もお前と行く」
 ――え、来るのか?
「へ。その、仕事は」
「急ぎのものではないんだ。このままお宅にお邪魔してもいいだろうか」
「あ、いいけど」
 総士が、うちに来るなんていつぶりだろうかと一騎は混乱したが、まあいいかと一騎は考えた。それより、総士におむすびを食べてもらうことの方が重要だった。
 いくつ握ればいいだろうかと考えながら自宅に向かう一騎の様子を、総士が隣でずっと見つめていたことには気づかなかった。

しゃけおむすび

無印23話後~ドラマCDvol.2「GONE/ARRIVE」

一騎と史彦

 ひどい言葉を吐いた。
 一騎は自分の部屋で倒れるようにして横になっていた。布団も敷かず、畳の上で身体を小さく丸める。
 全身が、鉛のように重たかった。それ以上に、心が押しつぶされ、ひしゃげて、黒く冷たい点のように感じられていた。
 ブラックホールとは、寿命を終えた星が自分の重さを支えきれず、中心に落ち込んだ物質が際限なく押しつぶされて光さえも抜け出せなくなった状態のことをいうらしい。心にぽっかりと穴があいた状態というのは、つまり心にブラックホールができたということなのかもしれないと一騎は思った。総士を奪われたときに爆発してしまった自分の心は、そのまま収縮してどこまでも無に引きずられ、光さえも呑みこんで大きな虚(うろ)となるのだろう。
 一騎は左肩を動かし、部屋の壁に立てかけられた松葉杖を無感動に見つめた。
 右腕から始まった麻痺は、もはや半身を浸食している。一騎の意思通りには動かず、身体に何かぐにゃぐにゃとした重たい棒きれがくっついているようだった。力を込めたつもりで、指先一つ、ぴくりともしない。意思の通らない肉体とは、こうもままならず煩わしいものだったのか。
 右目もまた見えない。赤く染まって何も映さない。ファフナーが、パイロットを蝕んでいく。生きながら機体に殺されていく。やがて何も考えられなくなり、一騎は一騎ではなくなってしまう。そうなれば、もうファフナーにも乗れなくなる。ファフナーに乗れなければ、総士の仇を取ることはできない。その焦りが一騎を苛み続け、恐慌状態に陥らせていた。それでも理性を失ったわけではない。父親に投げつけた言葉を、一騎は一言一句覚えていた。
 不器用な父だ。必要なことは何も話してくれない。見て覚えろとか、言わなくてもわかるだろうとか、そんなことばっかりだった。でも、愛されていないと感じたことはなかった。育ててくれたことを感謝していた。でも、一騎の口からは勝手に感情があふれ出し、父を傷つけ、一騎を傷つけた。
 ――あいつらを倒すために俺を育てたんだろ、父さん!
 父をこんな形で詰るつもりはなかった。一騎にとって、それは事実でしかない。でも、決してそのためだけに父が、親たちが自分を育てたわけではないこともわかっていた。大人たちが、子供たちを戦いに投入することで、痛みと罪を背負っていることも。
 でも一騎は戦いたかった。ファフナーに乗りたかった。自分の手で総士の仇を取りたかった。そのための理由が欲しかった。
 ――俺は、俺たちは戦うために、武器となるために生まれた。だから、だから、…だから。
 カタンと部屋の襖が開き、のろのろと視線を送ると、そこには父が立っていた。右手に、何かを持っている。
「一騎、食え」
 鬱屈した気持ちも忘れ、一騎はぽかんと口を開けた。父が手にしているのは皿であるらしかった。父が作った歪な皿の上に、何かが乗せられている。それがどうやらおむすびらしいと確認して、一騎は呆気にとられた。
「何も食べていないだろう。食べなさい」
 一騎、ともう一度名前を呼ばれた。
「北極に行くというのなら、そのための力が必要だ。そんな体たらくでは、とうていファフナーには乗せられん。それに、あの機体は今の弱ったお前をたやすく乗せるほど扱いやすい機体なのか?」
 一騎は言葉を詰まらせ俯いた。そんなはずはない。マークザインはいつだって一騎を食い尽くそうと狙っている。中途半端な覚悟で乗ればまたたくまに一騎の方が同化され、その対象は次に島へと向けられるだろう。一騎が斃れることは、すなわち島に害を為すことだった。
「戦うためには、まずお前が生きなくてはいけない」
 父の言葉は、重く楔のように一騎の胸に突き刺さった。
「まず、自分を生かせ。一騎」
 ――その先にあるのが、たとえ死しかないのだとしても。
 生きろ、と父は告げる。
 その言葉は正しかった。自分さえ生かせない弱い人間が、総士のために戦うことなどできるわけがなかった。ぐっと左拳を握りしめ、一騎は呻きながら左半身だけで身体を起こした。左手と左足を使って、父のいる場所まで這っていく。ずるり、ずるりと芋虫がのたうつように、ただ父の立つ場所を目指す。
 父はその場から動かず、一騎を待っていた。そして足元まで這いずってきた一騎のそばに屈みこむと、それでいいと言うように頷いた。初めて体を支えられ、壁に背を預けるようにして座らされる。
 左手の上に乗せられたのは、力任せに握ったとしか思えない固いおむすびだった。見ただけでもそうと分かる。食(は)んだはしから、ぼろぼろと米が落ちていく。中に入っていたのは鮭だった。朝食に一騎が焼いたものの残りだろう。ぱさぱさの米も、冷めて乾いた鮭も、決して美味しいとはいえないものなのに、一騎は食べることを止められなかった。自分はこんなにも飢えていたのかと自覚した。その餓えは、総士を失って得た虚にも繋がっていた。
 総士を奪われて初めて一騎は泣いた。子供のようにしゃくりあげながら硬いおむすびを齧り、咀嚼し、嗚咽しては飲み込んだ。涙があとからあとから流れては頬を伝い、顎から滴っておむすびに落ちた。味などしなかった。それでも一騎は米を食み続けた。その様子を父が黙って見ていた。父はこうして食らう米の味を知っているのかもしれなかった。
「食べろ。父さんはお前を北極に届けると約束した。俺は必ずそれを果たす。だから一騎、お前もそのために生きろ」
 ――一騎。
 言葉は強く、そして優しく、いたわりに満ちていた。
「ふっ…う…とうさ…」
 必死に米を飲みくだし、粘る口の中を唾液で湿らせて、一騎は父を呼んだ。一騎の声に、父は少しだけ笑ったようだった。不器用に土を捏ね、そして今米を握ったばかりの大きな手が、その重さを伝えるようにうつむく一騎の頭に乗せられる。
 皆城総士生存の情報がもたらされたのは、それからすぐ後のことだった。

たらこおむすび

HAE前

一騎と史彦


 俺に何ができるんだろう、というのが昏睡状態から目覚めて一騎が思ったことだった。
 心には、総士の約束が刻まれている。必ずお前のいるところに帰ると告げた声。それを一騎は確かに「聴いた」。繰り返し、繰り返し。夢の中でも聴いていたように思う。
 ――それはいつなんだ。
 ――どうやって。
 ――なあ、総士。
 お前が、いない。
 自分が、どうして生きているのかわからないというのは、実に心もとないものだった。自分であって自分でない亡霊のようなものが、ただ呼吸だけをしている。身体能力は以前に比べて格段に落ち、視界はおぼろげな上に色を失っている。
 総士が奪われた日、一騎は怒りと憎しみに捉われかけるほどに激情をあらわにした。でも今はどうだろう。無に呑み込まれるような感覚に襲われている。無気力、無感覚。そういったものだ。視界が不自由であることもそれに拍車をかけていた。
 ――なにも、見たくない。
 アルヴィスで治療を受ける以外は家に引きこもりがちな一騎に、だが父はとくに何も言わなかった。食事は、遠見家やほかの家が順繰りに用意してくれていた。そのことがいたたまれず、申し訳なくもあったが、どうせ今の自分には何もできないのだという思いが一騎の心に強く圧し掛かり、身動きも取れずにいた。
 ときどき、米だけは父が炊いてくれた。だが、一度としてまともに炊けていたことはなかった。洗っていないということはさすがになかったが、大抵固すぎるか柔らかすぎた。食べられないわけではなかったから食べた。目を凝らしながら、米粒一つ残さないように。
「なんで、米なんだろう」
 添えてあったたらこを齧りながら、そんなことが不意に口をついて出た。いつだって身近にあるもの。物心ついてから当たり前のように口にしてきたもの。もちろんパンだって食べるけれど、やはり米だと思うのは、自分が「日本人」だからなのだろうか。
 一騎の呟きに、向かいで箸を使っていた史彦がふと手を止めた。ぼそりと口を開く。
「米が食えない時代があった」
「え」
「核で農作物が汚染された。食べるものがあるはずなのに食べられない。それでも空腹に耐えかねて、汚染された米を食った。食っただけ核は体の内側から人間を蝕んだ。それで命を落とした人間もたくさんいた。父さんたちは、何も心配することなく、炊き立ての白い飯を腹いっぱい食いたかった」
 父から、アルヴィス移住に関する話を聞いた記憶はほとんどない。淡々と告げられる言葉の意味も一騎にはよく分からなかった。それでも父の語るその先を聞こうと耳を傾けた。
「俺は米の炊き方を知らん。食うことで必死だった。食えれば良かった。平和になってからも食い方を覚えられなかった。だが一騎、お前は米が炊ける。この皿の上に乗せるものが作れる。皿を、空っぽのただの土の固まりではなく、役目を持つものにしてやれる。お前の手はそれができる。今はできなくても、それをちゃんと知っている手だ。そう育った。そのことを、……お前は誇りにしていい」
 いつになく饒舌に語った父は、そのまま再び黙り込み、自分の皿を持ってさっさと洗い場に行ってしまった。取り残された一騎は、空っぽになった茶碗を見つめた。
 一騎に誇れるものなど、何もない。戦うのは、一騎がそれしか知らなかったから。誰かを傷つけることでしか生きられなかったからで。
 でも、本当に父の言うとおりだというのなら。ほかにもできることがあるというのなら。総士を待つ間、戦う以外で自分にできることがあるというのなら。
 一騎は暫くしてから立ち上がると台所に行き、下の扉にある米櫃を引っ張り出すと、慎重に確認しながら自分で米を計って研ぎ始めた。手に当たる生米も、流れ落ちる水も久しぶりの感触だった。それでも一度触れたものを、一騎が忘れることはない。目から色は消えた。形もおぼろげになり、すべては闇に呑みこまれる。一騎の眼はやがて何も映さなくなる。それでも、手で触れれば感じられた。
 大丈夫。そこにある。感覚は失われてはいない。この感覚だけは、鈍らせてはいけない。
 炊きあがった米のことを想像する。おひつの中に盛られたごはんのこと。どれくらい手に乗せればいいのか、どの程度の強さで握ればいいのか、塩の塩梅を一騎の身体は覚えていた。
 目が見えなくなっても、これなら作れる。
 ――ここからだと思った。

おかかおむすび

EXODUS前

一騎と暉と総士


 本日の喫茶楽園のまかないは、ランチの残りごはんで作ったおむすびだった。
 海苔はなかったので、梅干しとか味噌とか適当に見つけた具を中に入れて握った簡単なものだ。今日はランチタイム終了間際まで忙しかったということもあって、とにかく手早く腹にいれられて満腹感が得られるものが食べたいということで、暉と意見が一致したのだった。
 米だけは十分にあったので、それぞれ二つずつ握り、少し足りなくて更に一つずつ握って、ランチで出していた野菜のコンソメスープの残りをお供にする。誰もいない窓際の客席に向かい合って腰かけ、二人の昼食が始まった。
「一騎先輩、よくおむすび作りますよね」
 まかないのおむすびを頬張りながら暉が言った。
「そうか?」
 もしかしておむすび以外が良かったのか? と首を傾げながら聞き返すと、そういうことじゃないですと慌てたように返ってきた。
「おむすび、俺好きですし」
 なぜか喧嘩を売るような口調だったが、暉はときどきそういう物言いをするので、一騎は特に気にすることはなかった。言葉をどう続ければいいのかわからない、うまく想いを伝えられずぶっきらぼうな口調になってしまうもどかしさもまた、身に覚えのあるものだった。
「家じゃ作らないのか?」
「あんまり。だから考えたら、あまりおむすび食べることないなって気づいて。俺、多分一騎先輩のおむすびを一番食べてるかも」
 へえそうなのか、と一騎は驚いた。
「うちではよく握るからな。なんとなく米が残ったりしたら全部握るのが当たり前っていうか……あと、俺が最初に覚えた料理だし」
 口にしながら、幼い頃のことを思い出す。小さな手にはおさまりきらない白米を、顔や手のあちこちにつけながらつたない手つきで一生懸命握っていたのが遠い昔のようだ。それが今では後輩にも振舞って一緒に食べているのだからおかしなものだった。
「おむすびって、料理の基本らしい。すごく小さいころ、母さんに教えてもらった。おむすびが作れたら、なんだって作れるようになるって」
 多分、と心の中でつけ加える。もはや身体に染みついたそれが、本当に母から教えてもらったものなのか、料理本で読んだものなのか、一騎に料理を教えてくれた遠見家で学んだものなのか、正直記憶にあやしいからだ。その「最初」は、幼いころに死に別れた母からのものなのだと、覚えていたいだけなのかもしれなかった。
「それに茶碗によそって食べるより、こう握ってあると手に取りやすいだろ。うちの父さん、作業の間に食べること多いし、皿に乗せとけば合間に食べやすいしな。どこか行きたいときも、自分で握って持っていけば外で食えるし」
 なるほど、と暉が呟く。
「俺も家で作ってみようかな……あ、総士先輩だ」
 暉の声に顔を上げれば、ドアベルの音と一緒に見慣れた幼馴染が入ってくるところだった。
 なんでだいたい営業時間外に来るんだあの人、と暉がぼやく。
「キリがついたんだろ」
「身内だからって、みんな甘すぎますよ」
「まあ身内だしな。客っていうより」
 なにせ、気分転換なのかお節介心なのかはわからないが、食事をとるだけでなく店の手伝いまでしていく。場合によっては自ら厨房に立つことさえある喫茶楽園の「常連」である。
 店内に誰一人客がおらず、一騎と暉が窓際の客席に腰を落ちつけていることに総士も気づいたらしい。
「休憩時間か」
 暉がまかないを頬張りながら、そうですよと返す。
「どうした、総士。ランチ終わっちゃってるけど、何か食べたかったか?」
「いや、昼は簡単にとってきたからコーヒーをもらおうかと思ったんだが」
 そこで口を切り、総士がじっと目を凝らしたのは暉が手にしているものだった。
「おむすびか」
 そろそろ食べおわろうかというのに、総士は暉の手元を注視したまま視線を外そうとしない。もくもくと食べ進めていた暉がおむすびから口を離し、困惑気味に眉を寄せる。
「え、なんですか総士先輩」
 なんかこわいんですけど、と暉が呟く一方、一騎はおやと首を傾げた。
「総士、お前も食べるか?」
 もしかして、と思った一騎がそう尋ねると、逡巡するような様子を見せたあと、結局総士はこくりと頷いた。思わず、ふはっと笑みがこぼれる。
「なんだ」
「別に」
 正直なのはいいことだ。そして食い意地が張っている総士はいいものだ。食べたいというのなら、食べたいだけ食べさせてやりたくなる。なんだか嬉しくなって尋ねる。
「いくつ食べたい?」
「――一つ……いや二つで」
 真面目な顔で考え込んだ総士は、これまた真面目な声で答えた。それくらいの米余ってたっけな? と考えながら続けて尋ねる。まあなんとかなるだろ。
「具は? いちおうなんでも作れるけど」
「おかかで」
 即答だった。昼軽くとったんじゃないのかよと暉がもらし、 遠慮のない要求にとうとう一騎は堪えきれず笑い声を上げた。

……おむすび

EXODUS島外派遣時~帰還後

一騎と総士


 当たり前にあるものが、そうではないのだと知った。それは十四歳の日、戦争が始まった日のことだった。それでもまだ、たとえ偽りだとしても楽園に守られていたのだと知ったのは、島を出たときだった。
「体重が落ちたな」
 沸かしたばかりの湯を入れたカップを手渡すと、シナジェティックスーツに包んだ身体をじっと見つめて総士が零した。もうずっとこれを着続けている。新天地を目指してシュリーナガルエリアを発ってから、北に進むにつれて状況は悪化するばかりだった。ファフナーの数もパイロットも減り続ける一方だ。パイロットを補うため、まだ守られるべき幼い少年少女までもが駆り出され、機体と戦闘に耐えられずに砕け散った。
「総士もだろ」
「そうだな」
 お互いさまだ。もともと一騎自身、それほど体格や肉付きがいい方でもない。それでも見てすぐ分かるほどに、身体の肉は落ちた。指の根元に赤黒い指輪痕が巻きついた、骨と筋が浮くばかりの自分の手を一騎は見つめた。メディカルチェックは毎日欠かすことなく行われている。だが、それは数値の異常を確認して同化現象を留めるための適切な処置を施すためのものではない。悪化するばかりの現状の確認、いつ訪れるかわからない生存限界を少しでも把握し、いつ誰かが失われてもいいように備えるためのものだった。
 今は渋る暉と真矢を輸送機へ送り、休息をとらせている。ファフナーのコクピットの中で、仮眠とも呼べないような短い眠りでは、疲弊しきって当然だった。暉の、どす黒く窪んだ目元を思い出す。それでいて、その瞳はぎらぎらと冴えていた。指の付け根の指輪痕は、見てわかるほどにくっきりと痕がついて凹んでいた。
 自分のカップを手にし、機体のそばに座り込む。隣に座った総士に毛布を手渡され、寄り添うようにして包まった。もう限界などとっくに越えていた。コクピットの中、意識を失うようにして得る眠りの先に朝日を再び見る希望さえかすかだった。そのまま結晶となって砕け散り、コクピットが文字通りの棺桶になることを、毎日想像した。
「でも、生きてる。俺も、お前も」
 それが、今信じられる一つの真実だった。
「腹が空いてるけど、でも戦える。それがどれだけ恵まれてることなのか、俺はわかっていなかった」
 ほかの……普通の人たちはそうではなかった。戦う術さえ持たない人がほとんどだった。食料も水も限られた劣悪な環境で、感染症が発生した。ただでさえ衰弱していた人々はひとたまりもなかった。
「僕らは、遺伝子操作されて生まれた存在だ。免疫があるから多少の感性症には影響しない」
 それを揶揄する人間がいることも知っていた。島の特別性。強化人間。…化け物。十四歳で島を飛び出したとき人類軍に拘束された先でぶつけられた言葉を、今も聞かされている。ただ、もうあの頃のように傷つきはしなかった。それが事実であることを一騎は知っていた。
「俺たち……島を出ても島に生かされてるんだな……」
「ああ、そのとおりだ」
「なあ、総士。島に戻ったら何食いたい?」
「唐突だな。なんだいきなり」
「暉や遠見とも話したんだ。島に帰ってやりたいこと、食べたいこと。二人とも白い米が食べたいってさ。溝口さんはコーヒーが飲みたいって言ってた」
 いつフェストゥムが来るのか、その戦いで何人が死ぬのか、明日が、未来があるのかもわからない中で、島のことを考えていた。
 飢えるということを、自分たちは知らずに育った。食べたいときに、食べるものがあった。米は当たり前に食卓にあるものだった。いただきますと口にできることが、この世界では奇跡のようなものだったのだと思い知った。白い米が腹いっぱい食いたかったのだと遠くを見るようにして告げた、父の顔と口調が繰り返し思い起こされた。その想いと後悔。欲しいと思っても手が届かず朽ちていく悲しさ。手の上に乗せた、炊いた米の熱さを、その香りを、口に入れた甘さと、腹に詰めた満足感と多幸感。それをくれた島と大人たちのこと。たった一杯の白湯を前に、いただきますと手を合わせながら、一騎は考えていた。
 もはや空っぽになりすぎて無感覚になった薄い腹を撫でながら、総士に続けて尋ねる。
「お前はやっぱりカレーが食いたいのか?」
「それができたら贅沢だが、なにはともあれ炊きたての白い米が食べたいな」
「それ、暉や遠見も同じこと言ってたな。おむすび握って持って行ってやるよ」
 島に帰れたとして、それが穏やかな日々を約束するものなのかはわからなかった。それでも、島のことを思えば希望を持てた。かすかなぬくもりを残すカップに、握った米のあたたかさを思う。両手で包みながら呟いた。
「……総士、島に帰りたい」
「帰るさ……必ず」
 それは、生きることと同義だった。

     ***

 成人式を終えてそこそこにアルヴィスの総士の部屋に顔を出した一騎を見て、総士は少し驚いたようだった。エグゾダス計画実行までの時間はほとんどない。すべてがカウントダウンに向かって進みはじめている。大人たちにとってはやっとたどり着いた仮初の楽園の、一騎たちにとっては生まれ育った故郷との別れが迫っていた。
 総士は少し考えるようにしてから、一騎に尋ねた。
「もう身辺整理はしたのか」
「うん。でもそんなにやることはなかった。母さんの写真くらいかな。俺と父さんが大事なもの」
 でもそれだって置いていっても構わないと父は言った。少し前から、形にこだわることを父はやめたように思う。亡くしたものをただ追いかけるようなことも。母はこの島に帰ってきた。そして今はほかのたくさんの人たちの記憶とともにいる。それを一騎も知っていた。それに「母」にはもう告げてある。「いってきます」という言葉。一騎の受けた島の祝福。その意味とともに、彼女からも言葉をもらった。「いってらっしゃい」と。いつかの未来、一騎もまたこの島に帰るだろう。それはすぐ先のことではないのかもしれないけれど、「ただいま」という日が必ず来ることを、心のどこかで信じている。
「それで、わざわざ何をしにきた。お前も色々とやることがあるだろう」
「これもその一つだよ。島に帰ったら、お前におむすび作ってやるって言っただろ?」
 島の外で約束したことを、一騎はどうしても果たしたかった。きっと、今このタイミングでしか許されないだろうという気がしていた。総士も慌ただしくしていたから、たまたま部屋に戻っていたところに遭遇できたのは幸運だった。
「なら、いただこう。朝から何も腹に入れていなかったから、正直助かる」
「あんまり具になりそうなものが残ってなくて、本当に適当だけど」
 アルヴィス総司令として動きっぱなしの父にも同じものを渡しておいたが、あちらも食べる時間があるのかどうか。
「これが海苔の佃煮で、こっちが梅干し。それとこれがおかか」
 袋から取り出してみせる一騎を総士はしばらく黙って見つめていたが、不意に口を開いた。
「一騎、右手を出せ」
 いきなり言われて面食らうが、一騎はおむすびをテーブルの上に置いて総士に自分の手を差し出した。手を取られ、ひとまわり大きな総士の手に包み込まれて一騎は思わず硬直する。一騎の当惑をよそに、総士は手にした一騎の手を確かめるように触れた。
「本当に戻ったんだな」
 しみじみと口にしたのは、総士が一騎の右腕が砕けたことを知っているからだ。一騎も覚えている。引きちぎれた右腕で、なおもルガーランスを奮い続けたこと。あのとき、これで構わないと思った。右腕を失おうが、もう人ではいられなくなろうが。島に帰る、ただそれだけが一騎の頭を占めていた。島の祝福により、あの時失ったはずの右手で、総士のためにおむすびを握ることができている。
「指輪痕も消えたな……。叶うなら、僕が消してやりたいと思っていた。お前のも、みんなのも。そのための研究と実験だった」
「お前と遠見の選択が、俺の選択の道を開いたってミールが言っていた。だから、俺の指輪痕を消してくれたのは、お前と遠見だよ」
 無いなら無いで、寂しい気持ちもある。あれはずっと一騎を一騎にしてくれていたものだったから。事あるごとに、調理の間にも指輪の痕を見るたび、その凹みをなぞるたびに、一騎は自分の居場所を確かめて安心していた。この手が求めたもの、掴んだもの、傷つけ、壊したもの。かつて総士に傷を負わせたもの。総士は今、その手に触れているのだと今更気づいて、一騎はかすかに身体を震わせる。
「お前がもうその右手にとらわれることはないということだ」
 心を見透かしたような言葉に、思わず顔を跳ね上げた。その先には真っすぐな総士の双眸があり、一騎は息を呑む。その目は優しい光を湛えていた。
「僕はそれが嬉しい。お前が失った腕も、新たに得た腕も、どちらも等しく大切だ。……ずっと、お前の右手は僕のものだと思っていた。僕だけのものだと。お前が初めてその右手でフェストゥムを屠ったとき、僕は正直高揚した。お前と和解してからは、お前の手で作るものが食べられることをずっと嬉しく思っていた。……一騎」
 名前を呼ばれ、同時に手持ち無沙汰になっていた左手も取られた。二つを重ねられ、総士の手に包まれる。触れた先から総士の熱がじんじんと伝わってくる。総士はゆっくりと噛みしめるように告げた。
「お前の両手だ。お前の」
 そのあまりにも深い声音に、一騎はまるで海に包まれたような錯覚を抱く。同時に、そのまま岸辺から遠ざかっていくような心もとなさを覚えた。そうだ。以前とは違う。もうかつてと同じ場所に留まる必要も縛られる必要もない。自分たちは先に進んでいく。先へ、未来へと。それは喜ばしいことなのに、どうしてこんなにも狂おしいほどに寂しいのだろう。
「お前は今もその手で僕を生かしてくれる。命を分けてくれる。繋いでくれる。でも、もうそれは僕だけのものじゃない。お前が手を伸ばすもの、守るもののため。きっとこれからも」
「総士」
「むすんでいくんだろう」
 それが見えると、総士は透き通るような穏やかさで笑った。とても嬉しそうに。

しおむすび

EXODUS後

一騎と里奈/一騎と真矢


「あっ、つ!」
 隣から上がった悲鳴に、黙々と作業に熱中していた一騎は、慌てて握っていたものから手を離して悲鳴のもとに駆け寄った。
「里奈、どうした? やけどか?」
「あ、それほどじゃないんですけど、すごく熱くて」
 里奈は、しまったという顔で手を水に浸して冷やしている。新たに海神島で暮らしていくため、島に移り住んだ人々は総力を挙げてアルヴィスの復旧に取り組んでいる。一騎はというと、炊き出しの方に駆り出され、今日も昼食にするための大量のおむすびを握っているところだった。次から次へと炊き上がる米が湯気を立て、調理場には熱気がこもっている。
「炊きたてだからな。こっちなら少し冷めてるから。……里奈?」
 水に浸した手を見つめたまま動かない里奈に、一騎は首を傾げた。
「……ねえ、一騎先輩」
「どうした?」
「暉がね、島に帰ってきたとき泣いたんです。炊きたてのよそったごはんを素手に乗せて。そんなのやけどするに決まってるのに、離そうとしなかった。熱いごはんを手にしたまま、これがあれば誰も飢えずに済んだって泣いたんです」
 里奈は、じっと自分の手のひらを見つめていた。その上にあるものを探すように。
「あたしは暉が見たものを知らない。暉が守れなかったものを知らない。あいつが島の外で何を掴もうとして掴めなかったのかその苦しさを知らない。でも分かった気がした。あたしたちがずっと手にしてたものは本当に奇跡みたいなものだったんだって。……綺麗ごとだって思ってました。大人たちのいうこと。結局嘘っぱちじゃんって。でもあたし、嘘でもいいから綺麗ごとでいいからもっとしあわせでいたかった。誰にもいなくなってほしくなかった」
 それは、里奈の紛れもない本音だった。
「今でもわかんなくなります。目が覚めて、あたしなんでここにいるんだろうって。知らない顔がいっぱい増えた。名前も顔もぜんぜん覚えらんない。こんなに知らない人がいっぱいいるのにあいつはいないんです。暉も、広登も、芹も。よく縁側でおばあちゃんが作ってくれたおはぎや柏餅を一緒に食べた。最近は暉がおむすび作るようになってそれも食べました。でも、もうあたしとおばあちゃんだけ。うちの縁側だってどこにもない。新しく作ればいいって大人たちは言う。でもあたしそんなことわかんないもん。どうやったらいいのか、どうしてそんなふうに思えるのか、ぜんぜんわかんない。それで気づいたんです。あたし、何も失ったことなんてなかったんだって。お父さんもお母さんもいなくなった。それでもあたしにはおばあちゃんと暉がいた。育った家があった。島があったんだって。あたし、こんなに竜宮島のこと好きだったんだって」
 それは一騎も同じだった。自分の生まれ育った島を、こんなにも懐かしく惜しむ日が来るとは思わなかった。だからこそ、あの島だけで終わらせてはいけないのだとも感じていた。
「総士先輩はあたしに言いました。今を受け入れろって。今の幸福を大事にしろって。……大事にしたつもりです。ちゃんと向き合って、目を逸らさないようにしようって思った。でも、ほんとにこれでいいのかな。わかんないよ。今生きてることがしあわせなことかもわかんないのに」
 里奈はそこまで言って声を詰まらせた。ぐすっと鼻を啜る音が響いたが、すぐに明るい声が続く。
「もーやだぁ。おむすびしょっぱくなっちゃう。今のなしです。なしなし! いっぱい握らなきゃ! みんな待ってるんだから」
 これあたしが食べますから! と、さっきまで握っていたものを脇にどけて、よしっと気合いを入れ直す。その姿は、喫茶店でいつも横にいた懐かしい姿によく似ていた。
「それでいい。里奈は、間違ってない」
 一騎は静かに、けれどはっきりと口にした。
「せいいっぱいやった。諦めなかった。里奈も、暉も。みんな」
 ただ生きて生きて、必死につかみ取った小さな希望のもとに今がある。この今は、必ず未来に繋がっている。それを証するように、目の前には白い米があった。
「だから、大丈夫だ」
「一騎先輩、総士先輩と同じこと言う」
 勘弁してください、と里奈は笑いながら、米粒のこびりついた手で涙を拭った。

     ***

 遠見、と呼びかけると、膝を抱えて海を見ていた背中がかすかに揺れた。ゆっくりと振り返った顔は、一騎を認めると、何かを堪えるように目元を細め、そうして淡く微笑んだ。
「ちょっと海が見たくなって来ちゃった。一騎くん、よくここが分かったね」
「なんとなく、ここにいると思った」
 遠見の隣に自分も座りながら答える。一騎自身、なにかあればここに来るだろうという予感があった。何もない海だけを見ていると、今も自分たちは竜宮島にいるような錯覚を覚える。それにいつだって波の音は雁字搦めの心を解してくれた。
「そうしくんは?」
「咲良が見てくれるって」
「じゃあ安心だね」
「ああ。食べるもの、持ってきた」
 ずっと働いてた真矢は、何も食べていないに違いなかった。炊き出しで握ったおむすびから遠見のために取り分けたものを差し出すと、彼女は目を瞬かせ、小さく口を綻ばせる。
「島の外でも、一騎くんあたしに食べ物を持って来てくれたね。水筒とパン」
「遠見には、ちゃんと食べてほしいから」
 だが、遠見はすぐにはそれを受け取らなかった。おむすびを差し出した一騎の手を、彼女は静かに見つめていた。
「一騎くん……指輪の痕」
 彼女が見ていたのは、一騎の指……そのつけ根だった。十四歳の頃からファフナーに乗り続け、エースパイロットとしての証明でもあった、誰よりもくっきりと赤黒くまきついていたニーベルングの指輪痕は、一騎の指から綺麗に消え去っていた。目に見えるほどに凹みのあった箇所は、触れてももうほとんどわからない。
 ファフナーパイロットであった人間としての真壁一騎は死んだ。アビエイターを同化したときに、一騎の生存限界は尽きていた。今ここにいるのは、島のミールの祝福によって、あるべき人の循環を越えた、真壁一騎ではあるがもはや人ではない別の生き物だ。それを遠見にちゃんと話してはいない。彼女が今の一騎をどう捉えるのか、一騎には分からなかった。
 だが、彼女はそれ以上何も言わずに、一騎からおむすびを受け取った。握ってから少し時間が経っていたけれど、おむすびは、まだ少しだけあたたかかった。
「具は何もないんだ。塩で握っただけ」
 海苔もない。ボートには竜宮島で備蓄していたありったけのものを積んできているが、何もかもが十分に行きわたるまでには、まだしばらくの時間がかかるだろう。米と塩は、満足に供給できるものの一つだった。
「おいしい……」
 包みから取り出したおむすびをそっと齧り、ほうっと息をついて彼女は呟いた。
「一騎くんのごはん、久しぶりに食べたな」
「ちゃんと…おいしいか?」
「うん。おいしいってわかる。一騎くんの味。変わらないね」
 遠見はそう言った。
「そう…か……?」
「うん。おんなじ。あたしの知ってる味。一騎くんが作ってくれるもの。一騎くんは、一騎くんだよ。ずっとそうだった。だから、これからもそうだよ」
 ゆっくり、ゆっくりと噛みしめるように紡ぎ出される声に、言葉を失う。
 きっと、彼女にそう言ってもらいたかったのだと一騎は気づいた。他の誰よりも遠見真矢という人に。
「俺、は」
 総士と一緒に行くつもりだった。それが一騎の当たり前だった。総士が行くところならどんな場所にだってついて行くつもりだった。地平線の彼方だって。それが無であっても。フェストゥムの世界を今度こそ教えてくれるのだろうと、どこかで望んでいた。
 来主の取った右手、甲洋の取った左手。二人は、一騎の両手が地平線に行こうとする総士を掴むことを許してくれなかった。あの優しい拘束が、きっと総士の意思でもあった。戻った先で、一騎はコクピットから新しい命を抱き上げた。自分の両手で。
 一騎は自分の両手を目の前に翳した。指の間から、夕日にきらめく海面が覗いている。逆光を受けて、一騎の両手は黄金色に輝いている。
「遠見」
「うん」
「俺たち、ここにいる」
「そうだね」
「生きてる」
「うん」
 だから、これからも生きなければならない。そのための道がどんなものでも、どれだけの苦痛にまみれたものでも。一騎の想いを見透かすように、遠見が笑う。
「一騎くん、おむすびもう一個もらっていい?」
 ゆっくりと一つを食べ終えてから、遠見ははにかむように言った。その瞳には、先ほどまではなかった茶目っ気のようなものが覗いていた。少女だった彼女が、一騎によく見せていた、遠見真矢という存在を確かに感じさせるものだった。自然と一騎にも笑みが浮かぶ。
「あたし、やっぱりお腹すいてたみたい」
 腹を押さえながらしみじみと言うのに、そういえばと一騎も思い出す。
「俺も、かな。遠見が食べてるのを見たらなんだか腹が減ってきた」
「一騎くんこそ人のことばっかで食べてないんでしょう。じゃあ食べよう、一緒に」
「……ああ」
 残る一つのおむすびを半分に分け、二人並んでかじりつく。それからは互いに何も言わず、ただ無心に食らった。
 腹がすくのは、生きたいからだ。身体が生きようとしているからだ。一騎も生きたいと思う。生きていたいと。未だかつてないほどの強い意志で、そう思っていた。総士の願い。皆が繋いだ未来がどうなるのかを、この目で見たかった。それを知らずに見届けずに、命を諦めることはもはや冒涜のようにさえ感じる。
 生きることは、食らうことだ。食って代謝をすることだ。それがどんなに醜くおぞましい行為の果てに成り立つのだとしても。人は食って行かねばならない。
 一騎もまた人だった。肉体構造こそ人のものでなくなったとしても、「人」であること、それを捨てるつもりはなかった。同時に人としてあるべき境界を越えたことも受け入れている。
 人として、生きる。だから食う。
 かつてなく強い願いが自分の中に根を張って息づき、蒼穹に向って茎を伸ばしていた。

 ――生きろ。
 ――生きろ。
 ――生きたい。
 ――生きる。

 なあ、総士。総士。
 作って、育てて、むすんで、
 食らって、
 俺は生きる。

 ――これからも。

のりおむすび

BEYOND前のどこか

一騎と総士


「かずき!」
 小さな子どもの声が、家の中に響く。
「ねえ早くってばあ」
 急かす声は、期待と興奮に満ちている。
「あともう少しだから待てってば。海は逃げないだろ?」
「でも、でもカニさんがいなくなっちゃうかも」
「カニさんはカニさんの用事があるから、会えるかもしれないし会えないかもしれないな」
「そうかなあ。でも会えたらいいなあ。だから早く行こう?」
 そわそわとしながら、子どもは一騎の足にまとわりついて繰り返し催促する。今日は一騎の仕事が休みの日だ。いつも行くのとは少し離れた海に連れて行ってやると約束したときの子どものはしゃぎようといったらなかった。昨日も興奮してなかなか寝ようとしなかったので、いくらか手こずったほどだ。
「まだだ。ほら、座ってろってば」
「あとどれくらい? どれくらいで海に行くの?」
「おむすびを握ったらな。お腹が減ったら遊べないだろ」
「おむすび! 食べる!」
 途端に食べることに意識が向いた様子に思わず笑いながら、一騎は土鍋で炊き上げた米を、鍋ごと運んでちゃぶ台の鍋敷きの上に置いた。熱いからちょっと離れてろよと注意して、土鍋のふたを外す。途端に真っ白な湯気が、ごはんのふくふくとした香りと一緒に天井に向かって立ち上り、子どもがうわあと歓声を上げた。
「いいにおい!」
「だな」
 米の炊きたての香りが好きだ。何度嗅いでも飽きることがない。胃袋を刺激し、ああ腹が減った、食べたいと思わせる。そしてどこか胸の奥のやわらかい部分をぎゅうと切なくしめあげる。なつかしさと優しさが、変わることなくそこにある。
 白米を、鍋からおひつに移す。水を入れたボウルと塩、布巾に、それから具材や海苔を用意して、さて握るかと袖を捲り上げる。傍らでは、子どもがちゃぶ台に乗り出すようにして座り、目を輝かせながら一騎と白米を交互に眺めている。炊き立ての米は、触れると痺れるほどに熱い。濡らした手に塩をつけ、両手で手早くむすぶ。ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅっ。力は入れすぎない。綺麗に作ろうともしなくていい。最近家で漬けるようになった梅干しを中心に埋めて、もう一度握る。瞬く間に三角形に変わっていく白米に、子どもはすごいすごいとはしゃいだ。まずは一個、と皿の上に乗せて、一騎は子どもに尋ねる。
「そうしはいくつ食べるんだ?」
「ええとね、二個!」
「足りるのか?」
 この前あっという間に二個を食べ終えて足りないと騒いだことを茶化すように確認すると、子どももはっと思い出したのか、うーんともう一度悩みはじめた。
「うーん、やっぱり三個!」
「はいはい」
 いちおうもう一つ多めに握っておくかと、ごはんの分量を計算しながら考える。最近のこの子は驚くほどによく食べる。生まれ落ちたばかりのころは、あまりミルクを飲もうともせず、千鶴先生に何度も様子を尋ねていたのが嘘のようだ。
 ――たくさん食べて、たくさん育てばいい。
 今その身に得たものが、お前を生かし、未来へ進む力を与える。その先に、きっとお前もその手に何かをむすぶ日がくるだろう。
 子どもの成長と、いつか来る選択の時を思うたび、一騎の胸に嬉しいような苦しいような、複雑な思いが嵐のように渦巻く。だがそれ以上に感じるのはいとおしさだった。
 この子が生まれたのは、総士が自分を受け入れたからだ。自分を許したからだ。
 一騎が自分を許せずにいたように、おそらくは総士も自分を許せずにいた。それを互いに口にしたことはないけれど。ニヒトを憎み、衝動のままに他者を同化する存在を憎んだ。ミツヒロを化け物とさえ呼んで。
 あれはきっと総士自身だった。かつて一騎を同化しようとした総士だった。それを初めて受け入れ、許そうとした。その果てに生まれた存在を、一騎がいとおしく思わないはずがないのだ。
 総士が残したものを見るためにも一騎は生き続ける。
 その道の先に総士はいる。

 許しの先に俺たちは未来を描く。
 むすんで、繋いで、託していく。
 それがどんな険しく過酷な道でも。お前は諦めなかった。希望を信じ続けた。
 だから俺もそうする。

 ――この両手で。


 皿の上には、海苔を巻かれた真っ白なおむすびが乗っている。