ひどい話
仕事を終えて部屋に戻ると、一騎が僕のベッドの上で丸まっていた。
壁に向かって身じろぎひとつせず、戻ってきた僕になにか言うでもなく背を向けている。
テーブルの上には弁当が置いてあった。ひろげた布巾の上に弁当箱が箸と一緒に並べられ、スープを入れてあるのだろうポットも揃っている。隣にある水筒はコーヒーか。あとは蓋をあけるだけというまでに調えられたものは、明らかに一騎が僕のために用意した夕食だった。
一騎、と名前を呼ぶ。だが返事はない。こうなるともう僕にはただ一騎の言葉を待つことしかできないから、一騎が口を開くまで僕も何も言わない。僕はつい溢れそうになるため息をなんとか押しとどめて、制服のスカーフを首から引き抜き、上着をハンガーにかけてからソファに腰かける。 いただきますと口にして、弁当のふたを開け、中身を食べはじめた。
一口サイズのおむすびが4つと塩からあげ。ほうれん草の白和えとほのかに甘い卵焼き。それから筑前煮と昆布の佃煮。ポットに入っていたのは、大根と油揚げの味噌汁だった。
すべてをゆっくりと食べ終えて、水筒に入れてあったコーヒーを飲んでいると、ベッドで身じろぐ気配がした。
そうし、と小さな声が聞こえる。なんだと答えると再び黙りこくる。僕が根気強く待っていると、ぽつりと一騎が口を開いた。
「俺、今日…カノンにひどいこと言った」
「…何を言った」
今日のブルクでのことを、僕は耳にしている。一騎がまた封印されたマークザインの格納庫に行ったということ、それをカノンが止めたということ。そこで行われただろうやり取りは聞かぬまでも想像できる。それにしても、一騎がここまで消沈しているのは珍しかった。
「俺、さ。ザインに乗るなって、近づくなって、カノンが俺のこと心配してるのわかってるのに、俺、もうなにをどういえばいいかわかんなくて」
一騎の言葉はめちゃくちゃだった。それだけ思考も感情も乱れているんだろう。
「そんなにいうなら、力づくで止めればいいのにって思ったんだ。カノンは優しいから、そんなことしないって俺知ってるのに」
だからと、震える声が続けた。
「いいよって言ったんだ。カノンがそういうなら、いいよって。その代わり…」
一度口を切り、一騎がいっそう丸くなった。両腕で身体を抱き込んで、全身を震わせる。肩を包む手に力がこもり、ぎりりと服の上から爪が食い込むのが見えた。
「一騎」
あんな力の入れ方では身体を傷つけてしまう。止めさせようと立ち上がったときだった。
「俺の指、全部落としてくれって」
そう言ったんだと続けた言葉に、さすがの僕もその場に立ちつくしたまま言葉を失った。
ああ…さぞ、彼女は愕然としただろう。あの気丈なカノンが、目を見開いて呆然と一騎を見返しただろう。そのあとで泣いたかもしれない。一騎に…誰にも見えないところで。
そんなひどい言葉を、一騎はその場ではなんでもないように微笑んで口にしたのに違いない。目に浮かぶようだった。
カノンが、一騎に想いを寄せていることを誰もが知っている。僕でさえも。どこまでも清冽に一騎を思った翔子のそれに比べて、カノンの思いはどこか淡く、脆く、稚拙でさえある。だが一途さにかけてはよく似ていた。遠見は、カノンと翔子はよく似ているとときどき笑った。切なそうに目を細めて。
僕は一騎が丸まるベッドに腰を下ろし、少しためらってから一騎の頭に手を伸ばした。艶やかな黒髪をすくうようにすると指の間からさらさらと零れて白いシーツの上に散らばった。僕が島に帰還してからさらに伸びたその髪をくり返し梳くように撫でているうちに、こわばった身体からほんの少し力が抜ける。だが、丸まった姿勢は解かれることがなかった。
「こんなこと言うはずじゃなかった。俺、なんて謝ったらいいのかわからなくて、ごめんって言って…気づいたらここにきてた」
「それで、僕の部屋まできて反省していたと」
カノンに背を向けて、アルヴィスを出て、無心に食事の支度をして、僕の夕飯まで作って、ここにやってきた一騎の姿を思うとさすがに溜め息が押さえきれなかった。
ときどき、感情の整理がつかないことがあると、一騎は料理を作って僕のところにくる。料理を作ることで気持ちを発散して心を落ち着け、さらにそれを僕に食べてもらうことで安堵する。そういうことなのだろうと僕は理解している。
おおむね僕が食事しているのを見ているうちに、一騎の心の波は収まる。とくに感情が荒れた理由を口にすることはない。一騎が何も言わない限り、僕も尋ねない。
だが今日はどうしても口にせずにはいられないようだった。僕が食事をするところを見ることもしなかった。
「ごめん」
謝るくらいなら口にするなと思った。
「一騎」
「ごめん、…ごめん」
濡れた声が何度も繰り返す。それはカノンに向けたもので、いくらかは僕に向けられたものだった。
それを聞きながら僕が思う。
――お前は嘘つきだ。
詫びの言葉を口にしながら、その言葉がなんの意味を持たないことを、一騎もよくわかっている。
確かに一騎はひどいことを言っただろう。でもそれは、ザインに近づいたことでも、カノンの優しさを突き放したことでもない。ひどいのは、どうしようもなくひどいのは、一騎が嘘をついたことだ。カノンを傷つけた言葉が、まったくの嘘でしかないことだ。
だってお前は…十指すべて削ぎ落としたところでザインに乗るだろう。お前の指の有無は、何の枷にもならないだろう。そんなこと、僕はよく知っている。視力を失い、満足に動かない身体のときでさえためらわずファフナーに乗った。
たとえ、その四肢を断ったところでお前はザインに乗ろうとするんだ。
そして僕は、その一騎を止められはしないだろう。
四肢を繋ぐ神経がなくても、胴体があれば問題はない。腋窩神経、肋骨神経、さらに坐骨神経をつなげばいい。そして一騎の脊髄を直接ファフナーに接続する。一騎の脳が破壊されない限り、残る神経がいくらかでもあれば、それだけで一騎はファフナーに乗れる。
ないものをあるものとして動かせる。一騎はそこに疑念を持たない。存在こそが一騎の意義なのだから。ここにあると一騎が思えば、それはあるのだ。誰が否定しても、たとえ僕が否定するとしても、一騎の肯定の先に存在は確定する。誰も揺らがせることはできない。ザインを縛る封印は、結局形ばかりのものなのだ。
なによりも、一騎そのものがザインであり、ザインが一騎だった。
そして僕は、日常の上ではガラクタの人形のようになってしまった一騎が、それでもと望むのであれば、一騎がファフナーに乗ることをおそらく止めはしないんだろう。むしろそうなってしまうことで、一騎をザインに乗せるためにいっそう力を尽くすだろう。そうしてまで戦う一騎を、僕は慈しみさえするんだろう。
一騎もひどいが僕もひどい。一騎はカノンを思って罪悪感に苛まれるが、僕はそれさえしないだろう。そんなことを思う資格が僕にはない。
僕はガラクタになってまで戦う一騎を心底美しいと思うからだ。その凄絶な有り様に、興奮さえ覚えるのを自分で分かっているからだ。
それと同時に、どこまでもここにいて欲しいとも願う。ここに、僕の隣に。
僕が一騎の生存限界を伸ばすことに心を砕くのは、結局のところ、一騎が望むままいつまでもザインに乗れるようにするためのものなのかもしれない。
なぜなら、ファフナーに乗る一騎は僕だけのものだと、僕は思っている。一騎がザインに乗る限り、一騎はどこにもいかない。僕から離れたりはしない。僕への絶対の信頼と肯定の先に、一騎がザインに搭乗できることを僕が理解しているために。
そんなことを考える男のところに、逃げ場を求めてやってくる一騎が哀れで、いとおしかった。
僕を逃げ場にして、どこにも行けなくなればいいのにと願う。僕が一騎の終着点であればいいのに。
ああ、本当にひどい話だと思った。
一騎を撫でながら無言で思考の海に落ちていた僕の顔を、いつの間にか一騎が見上げていた。丸まっていたはずの身体は僕の方へと向けられている。
涙が張ったままの琥珀が、部屋の灯りを受けて揺らめくように光る。その双眸を細め、くしゃりと歪ませて一騎は泣き笑いのような顔をした。
さっきまで自分の身体を抱え込んでいた手が僕の頬に伸びる。少しかさついた左の手のひらが触れて、輪郭を優しくなぞった。
「お前、ひどい顔してる」
誰のせいだと思いながら、頬に添えられた一騎の手を取り上げると、10本揃った指に…その付け根の指輪痕に重ねるようにして僕の指を絡めた。
鎖のように。
- end -
一騎くんはくすぶると黙々と大量に料理を作りだしそうだなと思っています。