それは楽園の外
ざあん、ざあんと波の音が遠く響く。
アルヴィスから出た一騎は、家まで送ると口にした総士と連れ立って自宅への道を歩いていた。
戦闘や、シミュレーションが終わったあと、ときどき総士は一騎をこうして送ることがあった。その意図を尋ねたことはないが、総士がそうすると言った以上、一騎に是非はなかった。
会話もなくただ海が見える道沿いを歩いていると、不意に傍らの気配が消えた。
一騎が驚いて後ろを振り向くと、総士は5歩ほど離れた場所で立ち止まっていた。
「総士?」
「お前は…どうしてそこまで守ることにこだわる。すべてを守ることなどできない。何かを守るために切り捨てることは必要だ。それをどうして理解しない」
今日のシミュレーションと、その後のカウンセリングのことを言っているのだと気付いた。あらゆる戦闘シミュレーションで、どんなときに誰を助け、あるいは見捨てる必要があるのか、そんなことをくり返し選択させられた。同化された仲間は、見捨てるばかりでなく殺す必要さえあると言い聞かせられた。だが、一騎はすべての場合において《助ける》を選択したのだった。他の仲間がどう答えたのか一騎は知らない。一騎を担当した女性スタッフが、溜め息を吐いて首を横に振ったのは覚えている。すべての検証データを、総士は戦闘指揮官として目にしたのだろう。
一騎は少し考えてから口を開いた。
「理解してないわけじゃない…ただ納得できない。納得できないことは、俺は…やれない」
「それでお前が消えることになってもか」
「…うん」
守れるのなら、手の届くすべてを守りたかった。そうでない自分に価値はない。翔子の顔がちらつき、甲洋の目が記憶の向こうから一騎を射ぬく。二度と、そうあってはならなかった。
「すべてを守ってどうしたいんだ」
総士が尋ねる。
どうもしないと、一騎は思った。理由を深く考えたことはない。だが、どうしても守らなければならない。それだけは確かだ。だが、総士はそれでは納得しないだろう。答えるべき言葉を考える。守って可能になること。どんな結末を自分は望んでいるのか。
思い浮かんだのは、とても単純なことだった。
「みんなに笑っててほしい」
ぽつりと呟く。一つ声にすると、それはするするとあとから零れ出た。
幸せでいてほしい。大切な人と一緒にいて安心して過ごしてほしい。恐れたり怯えたり泣いて悲しむ姿は見たくない。ただの一人も。ただずっとずっと、笑っていてほしい。
「それが見られたら、それを守れたら、俺は多分安心するんだ」
やっと、心が落ち着ける気がするのだ。そうして初めて許される気がするのだ。
何に?――誰に?
自分の考えにふと首を傾げる。どうしてそんなことを思うのだろうと目を瞬かせて、その先に自分を見つめる総士の目に気づいた。総士はひどく苦しそうな顔をしていた。形の良い眉は顰められ、何かを堪えるように口元が引き結ばれている。
「総士?」
「…一騎」
重く吐き出すように、低く名を呼ばれた。
「そこに…」
「総士、どうしたんだ」
「そこに…お前はいるのか?」
震えるような声は小さく、だがはっきりと一騎の耳に届いた。
そことはどういうことかと一騎は驚きながら考えた。なぜそんなことを問われたのかわからなかったが、今自分が口にしたことを頭の中で反芻する。
島の人の笑顔。穏やかな日常。上がる笑い声。
それらに満たされた場所で、自分はどこにいるのだろうと考える。その輪の中に自分はいないような気がした。皆が誰かと過ごす場所のどこに当てはめてみても不自然に思えた。
遠見の姿が思い浮かんだ。遠見は一騎を見れば、こちらに向かって手を差し伸べてくれるだろう。「おいでよ、一騎くん」そう言って笑いかけてくれるだろう。でも、その手を取って彼女のいる場所に入り込むことは、それはできないと思った。自分が中に入れば、そのことによって均衡が崩れる。正しい形にならない。毀してしまう。壊れてしまう。
遠見がそこにいるのを確認できただけで十分なのだ。彼女は一騎を覚えてくれると言った。嬉しかった。それだけで満たされる。なら自分はどこにいるのだろう。
「ここにいる」
声はするりと零れ出た。そことここの違いをはっきり説明できる気はしなかったが、今自分が口にしたことこそが正しいと思った。もう一度はっきりと口にする。
「俺は、ここにいる」
総士をまっすぐに見つめて告げた。総士は唖然とした様子で立ち尽くしていた。口をわずかに開いたまま、呼吸さえも忘れたかのようにして一騎をその目で見つめていた。見える右目と、見えない左目で。そのどちらもが等しく一騎に向けられている。海側から吹く風が長く顔にかかる総士の前髪を揺らす。その度に左目を縦断する傷痕の存在を一騎に教えた。かつて目を逸らし続けたそれを今は心に刻むようにして確認しながら、不意にもう一つ理解した。
総士も自分と一緒なのだということを。楽園の中に、総士の居場所はない。彼もまた遠く離れた高い場所から楽園を見守るものであり、この幼なじみは一騎が知るよりずっと前からそうしてきたのだということを。
総士が立つ場所に、一騎はいまだに辿りつけない。総士が何を見ているのか、一騎にはまだわからない。
それでも望むことはあった。
――総士は島を守る。俺は総士と島のみんなを守る。だから。
「俺はここにいるよ、お前と」
ああ、それが正しい。それでいいのだ。答えを見つけたとそう思って一騎は笑った。
総士がいるからいいのだ。隣に彼がいるなら。
例え、あの楽園の中に永遠に入れないのだとしても。
総士は足を止めたまま、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
そんな苦しそうな顔をしてほしくなくて、一騎はすたすたと間を詰めると、途方にくれたように立ち尽くす総士の、力なく垂れ下がったままの手にそっと触れた。少し躊躇ったものの指を絡めて握り込む。振りほどかれることを恐れたが総士はそうしなかった。
互いの手を熱が行き交う。違う温度が混ざり合って同じものになる。それはクロッシングよりもずっと穏やかで優しい繋がりだった。もどかしいけれども不思議と安心できた。
「だから行こう」
一緒にと付け加えて、それから手を離そうとした。だが手は離されることなく、むしろきつく握り返された。
「総士?」
驚いて首を傾げると、間近で紫灰の双眸が細められた。総士は微笑んでいた。こんな間近で、総士の顔を見るのはいつぶりだったかと思いながら、一騎はその顔に吸い寄せられるようにして見入った。
総士の薄い唇が開かれ、穏やかな声が低く囁く。
「ああ、行こう」
――最後までと互いに声なく呟いた。それがどこを、何を指すのかも分からないまま、それでも繋いだ手の向こうに同じものを感じていた。
繋いだ手を離すことなく一騎は総士とともに歩き出した。長く伸びた影が同じように揺れるのを眺めながら、一騎は道の向こうに煌めく何かを見つけたように思った。
- end -
一期、島出前。多分。はじめて書いたファフナー二次小説でした。