WhirlWind

亡霊の啼く声

ウィンター・ソルジャー


 ずっと、闇の中にいた。
 いつから太陽を見ていないのか分からない。光はいつも手の届く場所にあったはずなのに、目覚めた時にはまるで縁のない世界にいた。漆黒をまとい、黒く塗りつぶされた任務を引き受け、対象者を闇に沈め、終われば光差さぬ海底を思わせる世界で眠りにつく。
 永遠に明けぬ冬の夜を過ごしている。
 自分に名前などないはずだった。必要もなかった。己は武器だ。道具だ。今は役に立とうとも、用済みになれば廃棄されるモノだ。道具に名前をつける持ち主はいない。ただ通り名はある。ウィンターソルジャー。
 その呼び名すら、己にとっては意味のないものだった。周囲が男を分類するために必要としただけだ。男のために与えられたものではない。そんなものは、目覚めてから何一つなかった。ただの一つも。それなのに。

『バッキー?』

 抹殺対象であるはずの金色の髪を持った男の唇が一つの名前を紡いだとき、その音に、その響きに凍りついていた身体のどこかに亀裂が入った。ひび割れた隙間からじわじわと何かが滲み出し、きらりと光を帯びたように思った。その光は己を動揺させた。目覚めて初めて当惑というものを覚えた。体内にゆっくりと広がる亀裂を感じながら、相手の男を見る。だが視界はぼやけて混濁し、今いる場所すらも曖昧になった。
これは危ういものだと直感した。

――お前は、何だ? …誰、だ?

「俺は、あいつを知ってる」

 口から勝手にそんなことがついて出た。
 知っている。知っている。俺は確かにあいつを知っている。ずっとずっとずっと、昔から、知っていた。
 壊れたスピーカーのように繰り返した。知っているのだという手がかりは、手に入れたと思う間もなく消滅し、己の記憶は再び冬の重たい氷の下に封じ込められた。
 そしてまた、あの男が目の前にいた。その顔を見ると、御しきれぬ激情が胸を渦巻いた。こうも己を乱す相手を、自分は必ず消去しなければならなかった。
 それなのに男は、自分をバッキーと繰り返し呼んだ。そして力強く断言した。

『お前は、僕を知ってる』

 お前には僕が、わかる。だから、思い出せと。

『知らない!』

 叫び返した声は、もはや悲鳴だった。だが、相手は決してたじろがなかった。何度殴りつけても、最後は抵抗さえしなかった。
 振り上げて突き入れるたびに拳が熱を帯びた。男に触れるたび、血の通わぬ左腕が…機械で出来ているばかりの暗殺道具としての腕に、ぬくもりを感じた気がした。かつて自分は、この腕で何を掴んでいたのだろうと首を傾げた。
 どれほど殴りつけても、相手は避けることも返すこともしなかった。ただじっと男を見上げ、切なげに目を細めた。
 淡い金色の髪が眩しいと思った。合わせた眼差しの向こうに空があった。初めて見るはずの色を、どうしようもなく懐かしいと思った。ばらばらに砕けた記憶の中で、金と青が優しく揺らめく。あの色を、見下ろしていたように思うし、眩しく見上げていたようにも思う。
 腫れ上がった頬をぎこちなく動かし、唇がゆっくりと弧を描く。

「最後まで、一緒だ」

 その瞬間、脳裏に焼けつくような痛みが走り、その痛みと胸をかきむしりたくなるような衝動に暴れた。痛くて寒くて悲しかった。
 目覚めるたびに言い聞かせられた声がある。

 ――お前は人類への贈り物だ。お前がこの国と、世界の秩序を守るのだ。

 言われるままにぼんやりと頷きながらも遠く疑問を感じていた。
 俺はそんなものを守りたかったのだろうか。俺はそんな器であっただろうか。
 それには、もっとふさわしい存在がいたはずで、俺は国より何よりも守りたいものがあったはずだった。もう、思い出せないけれど。
 爆発の衝撃とともに、ヘリキャリアから落下していく姿を呆然と見つめた。すぐ目の前にいた身体が小さく遠ざかり、やがて水面に叩きつけられ呑み込まれていくのを見て、身体の奥から震えるような衝動が走った。気づけばヘリキャリアにしがみついていた手を離し、男を追って水中に飛び込んでいた。
 掴まなければ、と本能が叫んでいた。今度こそ手を離すなと、頭の中で声がした。どうやって沈む身体を引き上げたのか覚えていない。
 気づけば、陸地まで引きずりあげた男をぼんやりと見つめていた。スーツに覆われた胸筋は、ほんのわずかゆっくりと上下している。傷を負っていることをのぞけば、ただ眠っているようにも見える。無防備な姿だ。
 瞼を下ろした顔をいつかも見たように思った。呑み込んでいた水が口端から零れて唇を濡らしている。血の気を失ってなお赤いそれがやたらと目についた。
 ふいに何かに胸を掻きむしられるような衝動に駆られ、気づけば男の唇に自分のそれを重ねていた。
 口を開き、声を発しようとして途方に暮れた。自分が何を口にしたかったのか、わからなかった。
 男は目を覚まさない。今ここで殺すのが正しい道だと理解していた。でも、できなかった。何も分からないまま、この男を闇に葬ることはできなかった。結局そのまま男を置いて立ち去った。


     ***


 男は、最後まで自分の名を名乗りはしなかった。この男が言うことが正しいのなら、男をなんと呼べばいいのか自分は知っているはずだった。この男にも名前があるはずだ。通り名ではなく、彼を識別する固有の名が。
 もし己が彼を知っていたとして、どんな声で、どんな響きでその名を呼んだろうか。それがもどかしくて仕方がなかった。ただ唇だけを単語の形にゆっくりと動かす。
 記憶から消されているのだとしても、身体が覚えているはずだった。心に刻まれているはずだった。それなのに思い出せない。どうしても、思い出すことができないのだ。

「あっ…うあ…うっ…」

 気づけば胸もとを握りしめ、しゃくりあげながら泣いていた。冷え切った頬を、目じりから溢れたものが濡らしていく。まるで焼けつくような熱さだった。
 それでも音を紡ごうとした。必死に捉え形にしたいと願った。心を焼く、懐かしいはずのその音を。
 だが、喉を震わせたのは言葉にもならない、獣のような唸り声だけだった。


- end -


2015/07/22
キャプテンアメリカ・バキステ再録。
頒布終了した短編集の中から、2014年のスパコミで無料配布していた部分を再録しました(一部改変)。WS鑑賞直後の熱が煮詰まって生まれた何かです。

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