WhirlWind

TOKYO221B

Sherlock & John


 カーテンを開けると明るい光が部屋に飛び込んでくる。さあっと室内を照らした太陽の輝きに、壁際のカウチに丸まっていた僕の同居人が身動ぎをした。
 鳥の巣のような頭がもぞもぞと動き、むくりと起きあがる。明らかに睡眠が足りていないと言わんばかりの窪んだ目元と青ざめた頬をした男に対し、僕はいつもの習慣で尋ねた。

「おはよう、シャーロック。なにか飲むか?」

 男は大きな欠伸を一つすると片手でぐしゃりと癖毛をかき回す。飛び跳ねた前髪の間から色素の薄い双眸がちかりと瞬いて僕を射る。
 そればかりは寝起きとは思えない低く明朗な声が簡潔に答えた。

「緑茶」
「OK」

 砂糖を二つ入れたグリーンティーが彼の定番。
 男の名前はシャーロック・ホームズ。この東京で活躍する、自称世界唯一の諮問探偵である。



*****



 僕はジョン・ワトソン。パートで働くしがない医者だ。
 僕がシャーロックと出会ったのは、まさに運命のいたずらとしか思えない偶然だった。
 僕はボランティアの医者として中東地域の住人の支援に行っていたが、不幸にもテロ事件に巻き込まれて左肩を銃で撃たれた。
 傷はすぐに回復したものの、心に受けたダメージは深かったらしく、僕の右足はポンコツよろしく自在に動くことを拒否してしまった。
 現地で見た景色が常に視界をちらつき、心は晴れず、身体状況故に仕事も再開できず、僕はただ貯蓄だけに頼って無駄な日々を過ごす毎日を送っていた。東京の物価は高い。いずれ貯金も尽きて、いつか山に囲まれた地元に帰る日が来るんだろうと思っていた。そもそも地元に戻ったところで僕に居場所なんてあるんだろうか。姉とは不仲だ。今さら仲良くやっていけるなんて思えない。そんなことをいちいち考えるのも嫌で、努めて何も意識にいれずぼんやり時間を過ごしていた。
 その日もそんなつまらない繰り返しのはずだった。
 ドトールでテイクアウトしたコーヒーを片手に上野公園をうろうろしていると、旧友のマイク・フタンフォードに遭遇した。彼は僕の現状を一緒に嘆いていてくれたあと、同居人を探している男がいると教えてくれた。僕は訳がわからないながらも、何かに駆り立てられるようにマイクと大学病院へ向かった。
 その後の顛末は、ここで僕が語るまでもないだろう。
 僕はその同居人を探していた男、つまり驚くべき天才にして奇人のシャーロック・ホームズと同居を始めることになったってわけだ。

 僕がシャーロックと住むアパートは、交通の便もよく、少し足を伸ばせば新宿御苑にも代々木公園にも行けるという大変立地の良い場所にある。
 部屋は4LDKロフトつき。広々としたリビングに初めて通されたとき、僕は圧倒されて溜め息を吐いたものだ。大きな窓からは明りが存分に差し込んでいて、昼間っから照明の世話になる必要はなさそうだった。数センチ上がった先には、和室が設けられていて、そこには座椅子が向かい合わせに置かれている。このところ和室を持たない家も増えてきているが、畳が好きな僕としてはとても嬉しい空間だ。本や紙の束があちこに積み上がっているのは気になるが、疲れた身体を座椅子に預けるのはさぞ気持ちがいいだろう。
 と、そのとき僕は床の間に奇妙なものを見つけて声を失った。
 一輪挿しなどが置かれているはずのにそこに、頭蓋骨が鎮座していた。それはどう見たって頭蓋骨だった。

「髑髏…?」

 思わず呟いた僕にシャーロックが頷いた。

「友だち」
「へえ…」

 最初こそ驚いたけれど、髑髏のビリーは大切な家族の一人だ。なんていうか、こう…置き場所のせいで五月人形っぽいけど。うん、今度兜でも被せてみよう。


 それから僕と彼とは様々な事件にかかわった。
 自宅マンションで殺された新宿の証券会社勤務の被害者の手がかりを探しに横浜中華街に出かけたこともあるし、六つの西郷隆盛像の事件を解決した。ときどき拉致されたり殺されかけたり爆弾を巻きつけられたりもしたな。なかなか出来ない人生を味わってる。僕の脚は、シャーロックと出会ってすぐに動くようになった。僕の心は東京の街を走るための刺激を求めていたのかもしれない。
 最初の頃のことをぼんやりと思い出しながらシャーロックのために茶葉を急須に入れ、緑茶の準備をしているとのっそりと起きあがってきたシャーロックが辺りを見回して首を傾げた。

「新聞は?」
「そこに積んであるだろ。見たところ面白そうな事件はなかったぞ」

 シャーロックはありとあらゆる新聞に目を通す。郵便受けにはとうてい入らないので、門前には専用のどでかいプラスチックケースが置いてある。これに加えて週刊誌やらネットニュースまでちくいちチェックしているのだから怖ろしい。
 やたらと無駄に広告がはさまって厚さと重たさを増した大量の紙の束を抱えて持ち帰るのは僕の役目だ。不要な広告は先にひっこぬいてしまうがユニクロとスーパーの両面広告だけは捨てずにチェックする。ユニクロはそんなに便利なのかと首を傾げるシャーロックは、服を買うときは丸の内界隈で決まった店にぶらっと入り、身体にあったものを値段も確認せずに買う男である。いつかヒートテックをあいつに着せて、その威力を思い知らせてやりたい。。
 だがシャーロック覚えておけ。世の中はユニクロだけじゃない。日本には他にも使い勝手のいい安価な服屋がある。シマムラだ。
 …いや、僕にだって服にはそれなりのこだわりがある。財布の許す限り気に入ったものを着たい。原宿や高円寺で古着を見るのが好きだ。いずれにしろ、身に纏うものにおいて、シャーロックと好みが一致する日は来ないだろう。

「おい、シャーロック。緑茶が入ったぞ」

《素志雄派酢》と江戸文字勘亭流フォントで彫り込まれたシャーロック用の大きな湯呑みをでんと置いたのと、シャーロックがふて腐れたように新聞紙を放り投げるのは同時だった。

「気に入らない」
「おい、どうした」
「米花町という地域で、探偵が殺人事件を解決して大手柄だそうだ。ふん、僕が出向いていたら事件現場を見た瞬間に解決していたはずだ」
「あーシャーロック。それはダメだ。世の中には棲み分けっていう言葉がある。君には君にしかできないことがあるはずだ。君が住んでるのは東京。ここ。くさるなよ。レストレードからまた連絡がくるだろ」
「ふん、ほとんどが価値のないつまらない事件だ」
「あのなあ…」

 レストレードとは、警視庁に勤める僕らの知り合いの敏腕刑事だ。シャーロックはネチネチと彼の不手際を責めるが、客観的に見ても優秀ないい刑事だ。
 なぜか最近、シャーロックの兄であるマイクロフトと会うことがあるらしく、その度に愚痴とも泣き言ともつかぬメールが送られてくる。もしくは山手線のガードレール下で二人で飲んでいるときに文句を垂れる。
 マイクロフトは政府の小役人などと口にするが、実際はかなり重要なポストについているらしい。傘持つ永田町、歩く日本政府。ここまでくるとすごいのか滑稽なのかまったくわからないが、国家公務員であるレストレードがとうてい逆らえるはずのない相手であるのは間違いなく、個人的な指示だろうがお誘いだろうが、心で涙を流しながらも二つ返事で引き受けざるを得ないのだった。
 この前は何故かマイクロフトの希望で回転寿司に行ったらしく、回る寿司など初めて見たというマイクロフトがやや興奮気味に寿司を取っては、食べたあとの皿をそのままレーンに戻すので参ったと訴えてきた。アホらしい話だ。シャーロックはことさらに馬鹿にしていたが、僕としてはレストレードをからかうためにマイクロフトがわざとやっている可能性を否定できない。

「それよりも朝食だ。君は今日も大学病院に行くんだろ?とりあえずおにぎりはあるし、焼いた塩鮭とキュウリのぬか漬けもあるぞ。ぬか漬けはモリーがいつもくれるやつ。ハドソンさんのも美味しいけど彼女もすごいよな。毎年梅酒も作ってるんだっけ。梅干しもいい塩加減だった」
「最近乾物にもはまったらしい。良かったな、ジョン」
「おい、君はどうしてそんなにモリーに冷たいんだ。美味しいものを作れる子に悪い子はいないんだぞ」
「君の女性評価は甘すぎる。甘納豆が逃げ出すレベルだ」
「僕ならその甘納豆を追いかけて美味しく頂くね」

 これで卵焼きもあれば完璧なジャパニーズスタイルの朝食だ。卵焼きがあれば。あいにくと僕は卵焼きが作れない。なんども巻いて巻いて巻いて作るというあの複雑な卵料理を一度はマスターしようと動画サイトでひたすら作り方を眺めたがとうとう分からなかった。目玉焼きなら問題ない。だが卵焼きはダメだ。あれはハドソン夫人が作ってくれるものと決まっている。
 だが少なくとも最低限の主食と汁物とおかずはある。とっとと食べてしまおうと同居人を促すと、シャーロックはちらりと食卓の上を一瞥し、眉をしかめた。

「その味噌汁はインスタントだろう?それも君が特売で買ってきた、十人前入りの減塩のもの。君がこのところ塩分摂取を控えようとひそかな努力をしていることはわかっているが、減塩味噌汁はどうしても旨味にかける。おまけにインスタントの具材は君の目指す野菜中心の生活とは程遠いレベルの量だぞ。まあ自覚しているから誤魔化すように野菜ジュースをテーブルの上に乗せているんだろうが」
「うるさいシャーロック。それ以上何か口にするなら君の野菜ジュースが青汁になるぞ」

 言い返すとシャーロックは鼻の穴を膨らませて黙り込んだ。思わず僕はにやりと笑う。

「いいかシャーロック。摂取させるだけなら、いくらでも方法があるんだ」
「それが医者の台詞か!」
「医者だからだ!」

 大声で言い合ったそのとき、ピロリンとスマホの着信音が響く。シャーロックのアイフォンだ。シャーロックは弾かれたような勢いで、床に放り投げていたアイフォンを手にすると怖ろしいスピードで着信内容をチェックした。寝起きは死んだ魚のようだった目が、きらきらと超新星のような輝きを帯び始める。それを見て僕はメールの内容を予感した。

「ジョン!ジョン!レストレードからメールだ。隅田川で死体が上がったらしい。川から引き上げられたはずなのに、溺死した痕跡はまったく見受けられないそうだ。証拠を踏み荒らされないうちに出かけるぞ、ジョン!」

 ほら、きた。僕は椅子から腰を上げて、おむすびを手に取った。白米を食べるとき、ほとんどの場合僕はおむすびを作る。いつどこで、どうやって事件が舞い込んでくるかわからないからだ。食事もそこそこに飛び出すことの何と多いことか。でも、ほら、おむすびなら合間に持って行けるだろう?
 最近やっと適度な固さに握れるようになったそれを、手早くラップで包んでポケットに放り込む。潰れる前に食べられるといい。あと合間に見計らってシャーロックの口の中につっこんでやろう。

「オーケー、シャーロック。すぐに出発だ。でも味噌汁だけでも飲んでいけよ。インスタントだけに温め直して飲むのは厳しい」
「いやだ」
「あのなあ…」

 うんざりした声を上げた僕を、青いマフラーを首に巻いていたシャーロックが正面から見た。窓硝子越しに見上げた冬の空のような眼差しが細められ、ちかりと瞬く。シャーロックは面白そうな笑みを浮かべて言った。

「僕は君が作った味噌汁だったら毎日飲んでもいいと思っている」

 僕は呆気にとられ、何度か瞬きをしてから溜め息を吐いた。

「…うそつけ。作っても飲まないことがあるくせに」

 途端、シャーロックはふて腐れたような声を上げた。

「そもそも君は僕に毎日味噌汁を作ってくれていないだろう!」
「味噌汁じゃないものを飲みたいときだってあるだろ…!」

 ちらりと時計に目を走らせ、時間がさほど残されていないことに気づいて僕らは慌てて部屋を飛び出した。

「場所はどこだ」
「両国」
「うーん、電車もタクシーもあんまり変わらないな…どうするシャーロック」
「今の時間ならタクシーを飛ばした方が早い」
「ああくそ、またタクシーか。高すぎるだろ東京のタクシー!」
「解決さえすれば経費は落としてもらえるさ」
「どうかな!」

 どたばたと階段を駆け下り、玄関口で靴を履きながらなおもぎゃあぎゃあやっていると、奥の座敷から我らが大家夫人が顔を出した。両手に何かこびりついてしっとり濡れているところを見ると、ちょうどぬか床をかき回していたらしい。

「あら、騒がしいこと。事件かしら?」
「ええ、そうです」
「事件がはじまったんですよ、ハドソンさん!」

 割烹着の似合う小柄な身体を僕が抱きしめ、シャーロックが隣で嬉しそうな声をあげる。
 それから、いってきますを同時に叫び、僕らは221Bから東京の街中へと飛び出した。



《みらいのはなし》

 シャーロックが大学病院の屋上から飛び降りて二年を経て帰ってきてから、僕らはさまざまな事件に遭遇した。
 犯罪界のチンギス・ハーンと言われたモリアーティが退場したとはいえ、世の中はいぜん事件で溢れていた。
 このところ、シャーロックは東京から離れることをときどき口にする。
 場所ももう決めているらしい。軽井沢だそうだ。避暑地として有名な高原。
 東京からは新幹線で一時間、バスでも二時間ほどしかかからない。気軽にいけるリゾート地だけど、シャーロックは別荘を用意するのではなくて完全に移住するつもりでいるらしい。まさか早々と隠居でもするのかと尋ねれば、ミツバチの研究をしたいときた。
 駅前のアウトレットにはユニクロも入っている、良かったななどとわざわざ言ってきた様子からして、シャーロックの中ではどうも僕も一緒に行くことが決まっているらしい。
 冬は寒すぎるんじゃないかと言ったけれど、それも楽しいだろうと返ってきた。ああ確かに楽しいだろうな。暖炉のある部屋で割った薪をくべながら、向かい合ったソファに互いに腰かけて揺らぐ炎をぼんやり見つめるなんてこともできるのかもしれない。
 ビリーの居場所は床の間じゃなくてきっと暖炉の上になるんだろう。
 考えたらいろいろとやりたいことが思い浮かんできて、このところは僕もたくさんのカルチャー雑誌を読みふける毎日だ。
 新しい場所で何ができるだろう。事件は起きるだろうか。シャーロックを楽しませるものはたくさんあるだろうか。
 ひとつ確実に言えることは、僕たちはいつどこにいようとも僕たちなんだということだろう。
 今いる場所が東京じゃなくて、例えばモスクワでもニューヨークでも…ロンドンでも。
 そうだな、時間に余裕があれば、自分で味噌をしこむのもいいかもしれない。シャーロックは甘口で僕は辛口だったから、間をとって合わせ味噌の手頃なものを買ってつかっていたけれど、自分でしこむようになれば、より僕ら好みのちょうどいい塩梅の味噌をつくれるかもしれない。まさに手前味噌というやつだ。
 上手にできたらシャーロックに高原野菜で味噌汁を作ってやろう。僕はスープだって飲みたいからさすがに毎日とはいかないけど。気むずかしくて面倒で、だけど大切なあいつのために。


- end -


2014/09/17
S3早く日本でやんねっぺかなーと思っているときに、じゃあ東京に来てもらったらいいじゃないとなりました。結果ものすごく夢のない話になりました。S3の要素も全て消えました。舞台は大事だと思いました。
東京にもたくさん探偵と刑事さんがいるから大変だよ。あと京都にもな!この前軽井沢に行ったときに、ボーイズの老後に良さそうなおうちを見つけました。

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