WhirlWind

シャーロックの白い石

Sherlock & John


 ジョンはそれをゆるゆると手の中で遊ばせていた。掌に転がし、そして指先で撫でた。
 角一つ無いそれは、かすかにざらりと皮膚を抉る。
 目を刺すような白は、光を帯びればわずかだけくすんで黄色みを帯びる。
 親指の爪先よりも、ほんの二回りほど大きいだけの、小さな石だった。
 それを、ジョンはいつまでも包みこむように握っていた。

 ――いつまでも。



***

 それは一つの箱だった。
 ジョンが見慣れない箱を見つけたのは、無造作に積み上げられた本を、せめて整えるくらいはしようと、窓際の本棚に近づいた時のことだった。


 221Bが整頓されていると考える人間は、ほぼいないと言って良いだろう。
 ビクトリアン朝時代を彷彿とさせる内装、質の良い重厚な調度品、良く言って遊び心に溢れた装飾品の数々。それらの隙間を埋め尽くすのは、シャーロックの本や雑誌、書類に新聞、実験道具やバイオリン、彼が今までにかき集めたらしい雑多な品々だ。
 依頼人を通すリビングはさておき、キッチンはとりわけ酷いもので、中央にある板張りのテーブルの上はバーツの実験室の派出所かと思うほどの様相を呈している。とうてい個人の持ち物とは思えない明らかに高額な顕微鏡を初めとしてビーカーや試験管が所狭しと乱立し、モノが良いのだろう頑丈なテーブルの表面は、酸やその他の薬品であちこちが痛んでしまっていた。
 ジョンは、自分はけっこうズボラな人間だと自覚している。身綺麗であることは心がけているし自分の周りは整頓されていて欲しいが、潔癖である必要はないと思っている。とりわけ数年の間アフガンで生活しているうちに、最低限何とかなっていればそれで良いと掃除は適当に放り投げるようになってしまった。するにはするが、普段は気になるところだけでいい。過酷な男所帯で暮らしていれば自然とそうなるものなのだ。
だが、そのジョンをしてもシャーロックの無頓着さは頭を抱えるものだった。とにかく片づけない。捨てない。投げっぱなし。
シャーロックがメモに使ったペンをそのまま床に放り投げるのを眺めながら、こいつはもしかして自分の周りに妖精が住んでいると信じていて、散らかしたものを勝手に拾って片づけてくれると思いこんでいるのはないだろうかと、ジョンは真面目に考えたことがある。家に住み着いて家事をやってくれるとされる妖精ブラウニーは、この221Bではさぞ働きがいがあることだろう。その数分後にシャーロックが「ジョン、ペンを!」と叫び、ジョンは「ブラウニーは僕か、僕なのか」と脱力する羽目になった。ジョンよりも明らかにシャーロックが手を伸ばした方が早い位置にあるペンを拾ってそのまま投げつけてやったのはせめてもの意趣返しだ。シャーロックは何故そんなことをされなければいけないのかと目をぱちくりさせていた。
 もっとも、シャーロックはものを散らかすばかりではない。ときおり持ち帰った品をしまっている時はあるが、ただ彼はとんでもない場所にとんでもないものを「収納」する。冷蔵庫に遺体の一部が入っているのはもはや当たり前の光景だ。腕や足首などでは、もはや驚きもしない。
 ある時などジョンがブレックファーストのパンにバターを塗ろうとバター入れのふたを開けたとき、解決済みの事件に関連した遺留品が突っ込まれていた。ジョンは思わず叫び声を上げ、自室でシーツにくるまって眠りこけていたシャーロックを叩き起こして理由の説明とヤードへの返却を要求したが、やっぱりシャーロックは目をぱちくりとさせていた。
 怖ろしいことに、これは彼の所行の中でまだマシなものに分類される。
 そんな男ではあるが、自身はまるで猫のように清潔で、シャワーは欠かさず、出かける際の身だしなみには一部の隙もなく、控えめにつけられた香水は爽やかで上品な香り。リビングを散らかしても自分の寝室だけは丁寧に片づいているのが面白いところだった。両極端でアンバランス。シャーロックという男そのものだ。
 問題はとにかく共有スペースだった。シャーロックはものを不用意に動かされるのを嫌がる。全て位置は覚えているから、勝手に移動されてはわからなくなってしまうとふて腐れるのだ。とはいえ、彼の「ルール」を把握してしまえば、確かに221Bは「整頓」されていた。
 シャーロックは大切なものとそうでないもの、必要なものとそれほど必要ではないものの扱いがはっきりしている。
 一見無秩序に思える共同空間は、共同という名目を掲げつつも、実質の王者たるシャーロックの法則によって回転している。シャーロックが太陽なら、自分はその周りを回る衛星というところだろうなとジョンは考えている。
シャーロックからすればどうでもいい話だろうが、彼は公転せずに自転だけを繰り返しているのだから、自分が世界の中心にいることすら分かっていないのだ。知らずして前提にあるのかもしれないが、自分勝手であることに違いはない。
 そんなわけで、ジョンは部屋の汚さに耐えかねるたびに、221Bの法則に従ってシャーロックが不要としてほったらかしたものを判別し、そこから片づけを始めるのだった。


 さてシャーロックはというと、せっせと本や紙を仕分けしているジョンにまるで注意を払うことなくカウチに横たわっていた。スウェットに青いシルクのドレッシングガウンをだらしなく羽織っただけのいつもの自宅スタイルだ。
 仰向けに寝そべった胸の上にはバイオリンを乗せている。ときおり指で弦を弾いていたが、ぽろぽろと零れる音が何らかの特定のメロディを紡ぐことはなく、彼は薄い色の瞳で虚空を見つめながら、ぼんやりと思索に耽っているらしかった。
 事件の後は大体こうだ。とりわけフルに思考を働かせたあとのシャーロックは、それまで活動的に動いていたのが嘘のように自分の殻の中へ閉じこもる。能動的に行うのはバイオリンを奏でるか本を読むかだけ。カウチからほとんど動かないので、本や書類はすっかり周囲に積み上がってしまっている。
 おそらく揺り返しが来るのだろうと、ジョンは解釈している。彼の飛び抜けた頭脳を収めるには、その身体は脆弱すぎた。どれほど突飛で強靱に思えても、彼はやはり人間だとこんな時に思うのだ。もう少し経てば、また退屈だ、事件が欲しいと騒ぎ出すことだろう。
 シャーロックの様子を横目で見やってやれやれと小さな苦笑を零しながら、ジョンは床に落ちていた新聞の切り抜きを拾い上げた。それが自分でコピーを取った古い新聞記事であることに気づき、ジョンはつい先週に終わった一つの依頼のことをぼんやりと思い出した。
 それは失踪した友人を探して欲しいという内容で、シャーロックははじめ依頼を受けることを極端に嫌がった。このところ文句を言いつつもある程度のレベルのものなら引き受けるようになっていたシャーロックには珍しいことだった。
 たしなめようとするジョンの声にも耳を貸さず、ヤードを頼れ、必要なら刑事を紹介してやると言ってそれ以上取り合おうとしなかったが、やってきた二十代半ばと見える青年は、どうしてもあなたにお願いしたいのだと引き下がらなかった。それどころかこう続けた。
「僕が何者なのか、あなたならおわかりでしょう? 僕がここに来た理由も」
 対応をジョンに押し付けたまま、それでも無言でそっぽを向いていたシャーロックだったが、まったく引く様子を見せない青年に溜め息を吐くと、向き直って青年の顔をじっと正面から見据えた。
「マーク・キャンベル」
 それが未だ名乗っていなかった青年の名前だということに、ジョンは今さらながら気づいた。青年――マークはシャーロックの指摘に小さく微笑んだ。シャーロックは座っていたチェアから立ち上がり、腕を組んで青年を見下ろすとわずかに目を細めた。
「ああそうだ。僕はきみについてはよく知っている。そう、昔からね。…わかった。依頼を引き受けよう。謎などもはやないも同然だし、僕の興味はとっくに尽きている。このことを解決したところで今さら何が変わるわけでもない。だが、きみが「解決」と「決着」を望むというのなら、その手助けを放棄するほど僕は冷たい人間でもないさ。…ジョン、きみが顰め面で僕を見つめる必要がない程度にはな」
「シャーロック、きみ何をいっているんだ? マーク…きみもいったい…」
 いきなり矛先を自分に向けられて眉を顰めたジョンに、シャーロックは鼻を鳴らしただけで、一方のマークはただお願いしますと頭を下げた。
シャーロックの言った「解決」と「決着」はあっという間だった。いくらか手間取ったのは、ヤードを動かすのに少々の時間がかかったからだ。
 シャーロックとマークのやり取りの意味がまったく理解できていなかったジョンは、依頼人の友人の失踪という話が十五年前にロンドン郊外で起きた十歳の少年の失踪事件であることを知って驚いた。ジョンはそんな事件があったことをすっかり忘れていた。図書館で古い新聞記事を閲覧し、事件の内容を確認してやっと断片を思い出したくらいだ。そしてシャーロックが明らかにした事件の顛末に更に仰天した。
 少年は失踪などしておらず、すでに殺されていたのだった。それも依頼人である青年、当時被害者の少年と同じ年齢であったマーク少年自身の手によって。
事件が迷宮入りになったのは、青年の父親が問題が明るみになるのを恐れて遺体を隠したからだった。マークの家は貴族の血を引く名家であり、郊外に広大な土地を所持する地主でもあった。彼の父は、被害者の少年がさも失踪したかのようなアリバイを作り上げ、息子にはすべてを黙っているようにと告げた。いくつかの不審な点や証言は、父親の手で握りつぶされた。
 それから十五年、加害者の少年は青年へと成長し、自分の犯した罪を抱えて生活し続けることになった。
事件のあらましについてシャーロックから指摘を受けた青年は、本当にたまたま起きてしまった惨劇だったのだと遠い眼差しで微笑んだ。彼は動揺を見せることはなく、涙一つ流すこともなかった。十五年の歳月は、彼に命を断つ以上の苦しみを与え続け、気が遠くなるほどの後悔と懺悔を繰り返してきたのだろう。
 マークが今になって事件を明らかにすることを決意したのは、彼の父が一か月前に亡くなったからだった。改めて自分の罪を告白し、自分が殺してしまった友人の遺体をちゃんと埋葬したいと考えたものの、マークは父が遺体をどこへやってしまったのかを知らなかった。キャンベル家が所有する土地のどこかであろうという推測はあったものの、一体どこを探せばいいのかまったく見当がつかなかった。
 つまりシャーロックへの正しい依頼内容は、かつて自分が殺し、父親が隠した友人の遺体を探してほしいというものだった。
 それにしても、十五年も前の事件を何故今さら、それもあえてシャーロックに依頼したのか。ジョンは首を傾げたが、マークは事件のあらましが明らかになった後にシャーロックにこう言った。
「あなたは十五年前、事件が新聞に載せられた直後、殺人事件として捜査するようヤードに手紙を送ったそうですね」
 シャーロックは肩を竦めただけだった。だが、それだけでジョンにも事情を察することができた。かつてのシャーロックは事件が発覚した際、目にした新聞記事や警察の発表内容に不明瞭な点や矛盾を見つけたのだろう。独自に調査し、気づいた点をまとめてヤードに送りつけたのに違いなかった。二十歳にもならぬ若者の意見は当然のように無視され、事件はマークの父親のもくろみ通り迷宮入りとなった。
 レストレードを巻き込み、地元の警察の助けを借りてようやっと行われた遺体捜査の末、依頼人の供述と一致する子供の遺体が見つかった。長年土の中に埋められていた身体は、とうに腐敗して骨だけとなっていた。土の合間に見えた骨は、白さが際立って目に焼きついた。心もとなくなるほど小さな…小さな骨だった。
捜査に同行した依頼人は、これでやっと本当に罪を償う機会が与えられたと微笑んだ。骨に手を伸ばし、そっと触れて、父が死ぬまで待たざるを得なかったことを静かに詫びた。マークは連行される時間になるまで、ただ声もなくいつまでも骨のそばに蹲っていた。
 事件は大きく取り上げられることはなかった。ジョンもブログに載せることはせず、個人的に集めた古い新聞記事をスクラップブックに貼りつけるだけに留めた。
 あれからシャーロックは他の事件や依頼に忙殺され、それもひと段落して今はカウチに転がっている。事件はすでに過去のものであり、十五年を経てようやっと発見された少年の遺体もシャーロックからすれば数多くの事象・事例の一つに過ぎないのに違いなかった。
 シャーロックは人の死、遺体に対して恐ろしくドライだ。そこに感傷を見出すことはない。彼が動揺を見せたのはジョンの知る限り一度きりアイリーン・アドラーの「遺体」を確認したときだけだ。何も食べず飲まず、ただ冬の寒さが滲む窓際に立ってバイオリンを奏で続けていたシャーロックの心に渦巻いていたものは確かに痛みと哀しみだったとジョンは理解しているが、シャーロックが認めることはないだろう。だが、あの時部屋に響いていたバイオリンの音色を、ジョンが忘れることもないだろう。
 ぽろんと弦がつま弾かれる音に、自分の手が止まっていたのを自覚する。ジョンは小さく苦笑すると、よしと気合を入れ直し、再び片付けに取りかかった。今日を逃せばいつ部屋を片付ける気になれるか分からない。また、いつ次の依頼が来てもいいように、最低限部屋を整えておく必要もあった。最近はメールやブログからの依頼が多いとはいえ、事情を聴くために更に221Bに招くこともないわけではない。もちろん、依頼のために直接221Bのドアを叩く人間だっている。
 いらなくなった関連資料を、自分が使う分以外をゴミにより分け、積み上がっていた本がまとめられてようやっと棚がはっきり見えたときだった。
 棚の、ぎっしりと詰め込まれた本の間に、蓋つきの正方形の木箱が押し込まれているのが目に入った。
 ――こんなもの、ここにあったか?
 腕を伸ばして箱を手に取る。小さくはない。だがさほど大きいわけでもない。ジョンの手には少しあまる、シャーロックの片手に収まるかどうかといったサイズのそれは、221Bに置かれているものが概してそうであるように、シンプルな造りながら随分とものがいい品だった。
ニスで飴色に磨かれた箱は艶やかで、蓋にはタイルが張られていた。手前には黄金でメッキされた小さな金具がついている。
華奢な留め具を指先でつまみ、そっと留め金を外そうとする。だが金具は固く閉じてびくともしない。錆びついているようにも見えないのに、何度ひっぱっても留め金は外れなかった。
 しばし奮闘したあげく、ジョンは箱を開けるのを諦めた。いったい何の箱なのだろう。壁の方を振り返れば、シャーロックはあいかわらずカウチでぼんやりとしている。マインド・パレスのどれだけ奥深くに潜っているのか分からないが、しばらくは声をかけたところで何の反応もないだろう。あとでこれが何なのかをシャーロックに聞こうと考え、箱を懐にしまい込むと、ジョンは書棚の整理を再開した。




     ***

 バイオリンの音色が流れている。
 シャーロックだなとジョンは微笑んだ。うとうとと微睡んでいた目をうっすらと開けば、暗い部屋の中で、窓から差し込む明りだけを頼りにシャーロックがバイオリンを奏でているのが目に映った。
 このところ、シャーロックは新しいバイオリンに夢中だ。ジョンのブログのせいもあってか、シャーロックの探偵としての知名度は上がり、応じて依頼は格段に増えた。依頼は依頼を呼ぶ。町の人達の相談事から「高貴な方」の公に出来ない依頼まで、内容は質・量ともに多岐にわたった。それに伴って収入も格段に増え、この機会にとシャーロックはバイオリンを新調することを決めた。
 彼にとって、バイオリンは散らばった思考をまとめるのに必要なアイテムだ。それまで使っていたバイオリンも今後何十年でも使える楽器であったし、十分素晴らしい音色を奏でるものではあったけれど、どんな気分の変化によるものか、より自分にあったバイオリンを手に入れることにしたらしい。
 カーディフ・バイオリンズという店を訪れたシャーロックにジョンも興味津々でついていった。
 自身も並みでない演奏家であり、作曲も手がけるシャーロックはここでも異常なこだわりを見せ、ついでに求められていない推理まで披露した。いったいどれだけの時間この店に居座ったのか、店側は最終的にシャーロックが選んだバイオリンの値段以上の迷惑を被ったのは違いない。
 当惑を見せつつも、格段に快い対応をしてくれた店に、後日ジョンはこっそりとメールで礼状を送ったのだが、シャーロックにはあっさりばれていた。だが、シャーロックはメールの件については特に何も言わなかった。ただ「僕がきみに弾いたのはバッハのパルティータ一番だけじゃなかった」と文句をつけてきたので、「じゃあ他にももっと弾いてくれよ」とジョンは注文をつけてやった。シャーロックは、「きみはメンデルスゾーンばかりだな」とぶつぶつ言いつつも、ジョンのために何曲かを弾いてくれた。
 だが、今シャーロックが弾いているのは、今まで彼が弾いてくれたどの曲とも異なっていた。聞き覚えがあるように思うのだが、どうしても曲名に辿りつけない。
 そうだ、シャーロックに聞きたいことがあったのだと、ジョンは思い出してふところを探る。
取り出したのは例の箱だった。本棚の隙間に押し込まれていた小さな木箱。手のひらに乗せて留め金を引っ張ってみる。するとあれだけ固かった金具があっさりと外れ、ジョンは首を傾げた。そっと蓋を開いてみる。中を覗いてジョンは驚いた。
 真っ白な石が、ぎっしりと詰まっていた。
 白が目に眩しい。石の大きさは大小様々だが、いずれも小さい。親指の先ほどかウズラの卵ほどの大きさのものだ。形は楕円だったり歪だったりと、これまた様々だった。
 またガラクタか何かだろうかと思ったが、同居人たるシャーロックが言うところによれば、この221Bにはガラクタなど一つもないということになるわけで、つまりこの白い石が詰まった箱もまた、何かしらの意味があるはずだった。
 ジョンには分からない、シャーロックだけの。
 ――綺麗な木箱に、石。
 ジョンは首を傾げた。子どもを思わせる所業にしては、全て真っ白というのが奇妙だった。
 地質学に関しては、素人裸足の知識を蓄えているシャーロックのことだから、もしかしたら捜査に関連することなのだろうか。けれど実験に関するものであれば、キッチン(あくまであそこはキッチンなのだとジョンは主張したい。現状がどうであれ)に置かれていても良さそうなものだ。
「なぁ、シャーロック」
 曲が止まった。バイオリンを肩から下ろし、部屋の隅に立てかけられた楽譜を捲っているシャーロックにジョンは尋ねる。
「石がつまった箱があるんだけど、これ一体…」
 何なのかと続けようとしたのだが、こちらに視線だけを寄越したシャーロックは一瞬だけ目を見開いたあと、どこか面白そうな笑みをちらりと浮かべた。
「あぁ、それか」
 うっそりと目を細める。碧にも蒼にも色を変える眸が、外からの光を受けて、ちかりと金色に瞬いた。きゅっと口端を吊り上げて答えを告げる。
「人の骨だ、ジョン」
「何だって…?」
 予想をはるかななめ上に飛び越えた返答に、ジョンは間抜けな声を洩らした。
 ――骨? これが?
 人をからかっているにしては、いささか悪趣味な答えだ。骨だと言われて見下ろしてみれば、目を刺す乾いた白は確かに人のそれに酷く似ていて、思わずジョンの背筋を泡立たせた。十歳にして友人に殺され、十五年もの間発見されることなく土の下で静かに眠っていたあの少年の骨の白さを思い出す。
 だが石は石だ。人の骨とは成分が全く異なるし、そもそも骨が小さく削れて丸くなったところで、こんな形にはならない。
「シャーロック。僕にはこれはただの白い石にしか見えないんだけど」
 呆れたように言い返したジョンの台詞を、シャーロックは拍子抜けするほどあっさりと肯定した。
「その通り。ただの白い石だ」
「おい…意味が分かるように話せよ、シャーロック」
「そのままの意味だよ、ジョン」
 人の骨に似ているだろう? と、口端を歪めるようにして笑ったきり、シャーロックはそれ以上語ることはしなかった。
 バイオリンを肩に乗せゆっくりと弦の上に弓を置く。やがて再び部屋に流れ出した曲は、優しくだがどこか物悲しく、ジョンはやはり聞き覚えがあるような気がしたのだが、どうしても曲名を思い出せなかった。 震えるような音色に、思わず更なる意味を問う気力と機会を奪われて、箱を手に抱えたまま、ジョンはシャーロックの奏でる曲をただ聞いていた。いつまでも。…いつまでも。


 ――はっと気づくと、そこは自分の寝室だった。
「…夢?」
 呆然としながら、まだ覚醒しきっていない重たい体を起こし、ジョンは手を伸ばしてサイドテーブルのランプをつける。
 時計を確認すればまだ午前の三時だった。一日221Bの片づけに精を出し、やがてカウチから起き上がってきたシャーロックをむりやり引っ張って夕食を食べに外に出たことは覚えている。帰宅してから、これから実験をするというシャーロックを放ってシャワーを浴び、そのまま寝てしまったのだ。
 それにしても奇妙な夢だった。夢にしてはリアルで、どこからが現実で非現実の世界なのか区別がつかないほどだ。ついさきほどまで本当にシャーロックと会話をしていたような錯覚を覚える。
 だが、思い出してみればあれはやはり夢だった。明りがないはずの部屋の中で、シャーロックの姿はやたらくっきりと浮かび上がって見えた。そして開かないはずの箱の中身。眩しく目を刺した白い色――。
 髪の中に指を差し込み、軽く頭を振る。一呼吸してから枕元に置いてあるはずのモバイルを探れば、固いものに触れた。――あの箱だ。そうだ、掃除を終えたあのまま自分の部屋に持ち帰ってきたのだ。
 もしかしてと考え、箱を手にとって留め金をひっぱる。だが、見つけたときと同じように留め金はびくともしなかった。夢の中ではあれほど簡単に開いたのに。
 持ち上げて耳の横で振ってみる。だが何の音もしない。何が入っているのかさっぱり想像がつかない。
 箱は重たいとも軽いとも言えなかった。手に響く重さではあるけれど、それが箱の材質のせいなのか中身のせいなのか判断がつかなかった。
 夢の中、箱につまっていた白い石を思い出す。
『人の骨だ、ジョン』
 シャーロックが笑って告げた言葉がよみがえる。人の骨だと彼は言った。

 ――骨、だって?
 ――なぜ、あれが骨なんだ。
 ――どうして骨だと言ったんだ。

 だってあれは、本当に石にしか見えなかったのに。
『そう、ただの白い石だ。ジョン』
考えてみたもののさっぱり分からず、ジョンはとうとう諦めて箱をサイドテーブルに置き、明かりを消して横たわると上掛けをひっぱりあげた。


- end -


2013/08/18
>大阪インテにて発行の新刊サンプルです。

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