息苦しさを覚えて目が覚めた。
うっすらと瞼を開いた向こうで、微かな光がちらちらと揺れている。
あぁ、星かと。シャーロックはぼんやりと思った。
その星がこぼれ落ちてきたと思えば、すぐ近くにジョンの顔があって、星は彼のまなじりから降り落ちたのだと気づく。
ぽたりと、シャーロックの頬に零れたそれは生暖かい温度を持っていた。肌の上をつぅと滑る感触を、ただそれだけをリアルに感じる。
ジョン、と名を呼んだけれど声は出なかった。緩やかに呼吸を押さえられていたからだ。――ジョンの両手で。
***
星がちかりと瞬いた。
目が覚めたということは、自分は先ほどまで意識を手放していたわけで、シャーロックが身体を横たえて眠る場所は基本的に221B以外ではありえない。手を滑らせればざらりとしたシーツの感触。淡く灯されたままのなじみ深い照明の明り。何よりも鼻をつくのは馴染んだ香り。
つまりここは自室だ。リビングではない。その中で星がちかちかと瞬いている。
部屋で星がまたたくなど、常識では考えられないことだった。だから自分が目にしているものは星のようで、星ではない。ただ、天井に投影されたきらめきが限りなく夜空に浮かぶ光に似ている。それだけのことだ。
先ほど降り落ちてきたものは、ジョンの涙だった。
けれどその後ろ、ジョンの肩越しに見える天井にも光がゆらゆらと揺れている。まるで意味のない輝きの連なり。
シャーロックは天文分野にまるで興味はなかったが、星を美しいと思うことはあった。
美しいものは美しい。それがどんなものであれ。
例えば、死体の傷口から覗く肉の赤は美しかったし、取り出した眼球の虹彩と白のコントラストも美しいと思う。切り取られた指先に浮かぶ指紋の流線や、腎臓や肝臓にまるで葉脈のように絡みつく血管の筋も綺麗だった。プレパラートに乗せられた生物の一欠片を顕微鏡で覗けば、規則正しい細胞の列がシャーロックの目を奪ったし、細胞を構築する理論は楽譜に踊る音符のように見事な証明を描いていた。
そして、銃を握るジョンの手と、同時にまっすぐ伸びた背中もまた、シャーロックは美しいと思う。
シャーロックの中で、それらの美は反発し合うことなく同じカテゴリーに収納されている。
実用、実験といった側面とは関係無しに引きずり出される感覚や感情というものはシャーロックの中にも確かに存在していて、それを不思議だと思うことはなかった。
天井に揺れる星に似た光を、だから純粋に綺麗だと感じた。
その光とは対称的に、こちらを見下ろすジョンの双眸には光がない。
日溜まりのなかでまろぶ笑みが見る者をも微笑ませるような、一見してそんな風情が似合う男なのに、ジョンの眼差しは時折ひどく暗かった。不意に見せるジョンの闇が、今はシャーロックをじっと見つめている。
ジョン。ジョン。名前を呼びたいのに、やはり声は出ない。
ジョンの押さえかたでは、力では、人を殺すには全く足らない。
何故かなんてよくわかっている。ジョンにシャーロックを殺す気はこれっぽちもない。酷く優しく柔らかに、星がちらつく部屋の中、息苦しさを覚える程度の強さで、ただ皮と肉と骨を厚い手の下に押さえ込んでいるのだ。
力を込めればきっと簡単に振り払える。だが、シャーロックはそうはしなかった。仰向けに転がったまま、上にのし掛かっている男をただ静かに見上げた。相棒でありフラットメイトである彼をただ見つめたまま、ジョンの背後に揺れる星と、彼の目尻に煌めく星をどこまでも綺麗だと考えていた。
廻る思考の速度が幾らか落ちているのは、取り入れる酸素が制限されているからか。
どくりどくりと、ジョンの手の下で血潮が流れていくのを感じる。耳の奥で、轟々と水が流れるような音が聞こえる。きっとジョンも脈打つシャーロックの鼓動をまざまざと味わっているだろう。ジョンの掌は熱く、シャーロックの首に絡みついている。じっとりと汗ばんだ熱が全身にまで伝ってのぼせそうだと、そんなことをぼんやりと考える。
――命を。ジョンが、シャーロックの命を両手の中に収めている。
もどかしい息苦しさに思考がゆるゆると白濁するのを感じて、シャーロックは小さく喘いだ。
ジョン、と。無理矢理声を振り絞る。声帯を震わせるその振動がシャーロックの首を押さえるジョンの手にも伝わったのか、ジョンはびくりと身体を揺らし、ようやっとシャーロックの首から手を離した。ひゅっと喉を鳴らす音が洩れた途端、ジョンの暗い眼差しに微かに光が宿る。それは今にも陰る星のような心許ない光だった。
あ…と吐息のような声を洩らし、ジョンはまるで叱られた子犬のような眼差しで自分の両手を見下ろした。
くしゃりと顔を歪めると、ジョンは先ほどまで押さえつけていたシャーロックの首を、今度は撫でるように触れる。その仕草はあまりにもつたなく、ただもどかしくて、いっそ先ほどのように押さえつけていてくれた方がまだジョンを感じられるのにと、シャーロックは浅く息を吐きながら少しばかり残念に思った。
「ときどき、君をこの手で殺してやりたくなる」
一瞬がまるで永遠のようにも感じられた後に、ジョンは初めて声を洩らした。同時に酒気が香って、シャーロックの鼻腔を刺激する。
「このまま息の根を止めてしまいたいって」
今にも泣き出しそうなひび割れた声音に、思わずシャーロックは口端を小さく吊り上げた。ずっとシーツの上に投げ出していた両腕を初めて持ち上げ、そっとジョンの首筋に沿えてやる。
ジョンの小さな丸い頭を支える首は、シャーロックの両手の中にすっぽり綺麗に収まった。じんわり温いそれに、とくとくと命が流れていくのを手の平に感じ取りながら、シャーロックは砕くような緩やかさで囁いた。
「安心しろ。僕もだ。おかしいことじゃない。僕だって君を殺してやりたいって思う。だから君は正しい」
――そう思う僕も、きっと正しい。
はっきりと告げたけれど、ジョンは静かに首を振った。
そうじゃない、そういうことじゃない。同じじゃない。
とぎれとぎれに繰り返す。
ジョンの身体の底に溜った酒は、彼をしっかりと支配していて、だからこそ普段彼が押し込めている本音を薄暗い夜の明りの下に暴き出していた。ジョンの恐怖を、嘆きを、後悔を。
「君は今生きていて僕の傍にいるけれど、そのうちきっといなくなる。いつか君だって死ぬだろう。僕を置いていくくせに。どんなに危険な場所にだって、一人で勝手に行ってしまえるくせに。そうしていつか、今度こそそのまま消えてしまうんだろう」
朝になればそこにいるかどうかだって定かじゃないと言うジョンに、シャーロックは返す言葉を持たない。
ジョンは未だに自分がジョンを置いていくと思っている。普段口に出すことはしないけれど、その恐怖と後悔が、ジョンの心の奥底には根のように張っていて、彼の身体を内側から蝕み絡め取っている。
シャーロックがジョンを置いていったのは拭い去ることの出来ない事実で、取り返しのつかない埋めようのない傷は、未だにお互いの心臓に傷として刻まれている。
その傷を、勲章のように見なせるほど過去は遠くなく、自分たちも達観するには未熟すぎた。
そして、ジョンが抱く焦燥をシャーロックもまた抱いている。
ジョンこそ、いつかシャーロックを置いていくことだろう。それがどんな形でもたらされるのかは、シャーロックの頭脳をしても予測することはできなかった。シャーロックを置いていく可能性を持つのもまたジョン一人だけだというのに、ジョンは怖いと繰り返す。
「君が生きていることが僕は怖い。生きて、動いて、呼吸していることが僕は怖いんだ」
ジョンの肩越しにちらちらと星が揺れている。ジョンが身体を震わせるたびに、たわむようにして光が震え、暗い部屋に淡く浮かぶジョンの顔を朧気に照らし出す。
「それなら僕の目の前で、僕の手の中で死んでくれ。お願いだから」
…プリーズと囁かれた声は、酒のせいだけでなく嗄れていた。
この身が生を手放せばそれはそれで嘆くのだろうに(そう思える程度には彼が自分を必要としていると自惚れていた)、シャーロックが生きているから怖いのだと、彼は泣く。
今、生きているから怖ろしくて堪らないのだと泣く。
きっとジョンは闇の中にいるのだ。彼が本当に求めて生きるのはアフガンのような眩い星空の下なのだろうに、ロンドンの空の下にいる今、彼の頭上に星はない。かつて満点の星空の下で呼吸していたはずなのに、彼の星は漆黒に一つ一つ塗りつぶされてしまって、いつしか全部食われて無になってしまったのだ。
輝く星はロンドンの闇に呑み込まれ、ようやっと得た光もまた一度は大きく損なわれた。
だからきっと、星を探している。失った一つ一つを探して、手のなかに命を収めて空に返そうとしている。今度こそ失わないように。
その一方で、再び失うことを怖れて闇に縋る。
きっとジョンがいたアフガンのあの地で、人は命を星のように燃やして生きていた。冴え冴えとした光を放つあの星々は本当は燃えているのだと、ジョンは言っていたから、そういうことなのだろう。シャーロックは、天文知識を自分の脳内に取り入れるつもりは、今後もこれっぽちもなかったけれど、ジョンの言葉だけは、ハードディスクに記憶していた。
『シャーロック、知っているか。星は超高温度で燃えている。生まれたばかりの星は、青く白々と燃えさかりながら生を刻んでいるんだ』
ロンドンはどうだ。人は生きながらにして死んでいる。限りある生を存分に燃やさずとも、惰性のままに地を這っていけばそれが人生となる。
いつしか空を見上げてジョンは言った。ロンドンに星はない。星が見えない。
少し離れた路地裏に行けば、都会の明りや重く立ちこめた靄に掻き消されることなく星を見ることは出来たけれど、それでもこんなのは星じゃないよとジョンは笑っていた。四角く切り取られた夜空に浮かぶ数えるほどの小さな明り。 こんな穏やかに瞬くものは、きっと作り物の偽物だ。
そして今、221Bの部屋の天井で、ゆらゆらと星が揺らめいている。
「じゃあ、殺せばいい」
ジョンの目を覗き込んでシャーロックは言った。
「…シャーロック?」
「今すぐにというのは困るが、いつか必要だと思える時がきたら」
僕はまだ死ぬわけにはいかないけれど、もしその時が来たら、ちゃんと目の前で死んでやる。曖昧に消えたりしない。君の手の中で息絶えたって構わない。
シャーロックこそ、ジョンを失うことが怖ろしい。そんなものは耐えられないと思ったから、そうなる前に飛んだのだ。
いつか本当にジョンを失う日がくるのなら、そうなる前にジョンの手でこの命を先につみ取ってもらえる方がよほどいい。
ジョンの首に添えた手を離し、自分の首に掛かったままのジョンの手を上からそっと押さえるように包む。
「だから、その時は君の手で殺してくれ」
ジョンの意識は既に朦朧として、途切れかけていた。酒と睡魔と疲労に支配された身体は、シャーロックと触れあった部分の熱でようやっと現実に繋がれている。
「シャーロック…」
ぐらりと傾ぎそうになる身体を何とか保ちながら、ジョンの指先がシャーロックに伸びた。その手は、今度は首ではなくシャーロックの頬に添えられる。
シャーロックを見つめ下ろすそのまなじりから、またもぱらぱらと星が降ってくる。
その欠片を顔に受け止めながら、シャーロックはジョンの中に煌めく光を見つけだそうとジョンの双眸を探るように見つめた。
「君って本当に時々馬鹿だよなぁ…」
ジョンは泣きながら静かに笑った。シャーロックの顔を覗き込んだその目が、微かに細められる。
瞳の奥に、ほんのわずかぼんやりとした光が灯っていた。それは今にも朝陽に打ち消されてしまいそうな小さな星の光だったけれど、確かにジョンの持つ輝きだった。
ジョン、と小さく呼ぶと頬がゆっくりと撫でられた。愛おしむような手つきはわずかに震えている。
「僕に、君を殺せるわけがない。知っているくせに。困るんだ。君がいなくなるのは困る。君はここで、この場所にいなくちゃいけない。僕の前にずっと。そうだろう? くそったれ、シャーロック」
できることなら、ずっと。できるだけずっと。
本当は終わりなんて考えたくないのに、光の翳りを見る度に、いつか本当にくるだろう終焉の予感がジョンの心を蝕んでいった。
一度失ってまた取り戻した。もう一度の喪失なんてきっと耐えられないだろう。強くありたいと思うけれど、実際にそこまでは強くない。弱くて脆くて嫌になる。惨めに一人、朽ちていくかと思うとそれだけで狂いそうになる。
だからいっそその前にと。そう、思うのに。
目の前のシャーロックの身体は温かくて、手を沿えた首筋の下で脈は静かに動いていて、あぁ一瞬でも長く、手の中にとどめていたいと馬鹿げたことを願ってしまう。
――辛い。嫌だ。幸せ。死にたい。殺したい。お願いだ、生きていろ。
相反する感情は、渦のようにジョンの心を翻弄し引き裂き、バラバラにして闇の中へと飲み込んでいく。
それでも手放せない思いがある。
願いは一つだけ。見失わぬように、ただ心の中で繰り返す。
――シャーロック、死ぬな。生きていろ。
――君はずっとずっと、生きていろ。
くそったれと、ジョンが笑うたびに、またもぽろぽろと星が降ってくる。熱くもない冷たくもない温度が顔を伝うのをいい加減に止めたくて、シャーロックはジョンの頬に手の平を押し当てた。親指で目元を拭い囁きかける。
「ジョン、僕はここにいる」
心の奥底にまで染みこむように、何度も何度も繰り返す。
死んだりしない。二度と置いていったりしない。君が望むならずっと立ち続ける。
「僕は、ここにいる」
すぐ傍に。夜を待たなくても、首を反らして頭上を見上げなくても、隣に確かに輝く小さな星のように。
***
眠るジョンを自分のベッドの上に残して、シャーロックは寝台からそっと足を下ろした。裸足の足の裏にじゃりと、はりつくものがある。
皮膚に食い込んだそれを見下ろして、シャーロックはあぁと声を洩らした。
床に、ガラスの破片が散らばっていた。
傍らに置いていたガラスの水差しとグラスが、そういえば見あたらなくなっていた。ふらつきながら部屋にやってきたジョンが落としたのだろう。落としたのか振り払ったのか。破片の散らばり方を見れば推理することも可能だったが、シャーロックにはどうでもよいことだった。
ただ、星の正体を悟り、目を細める。
叩きつけられ、微塵に散ったガラスの破片が、うっすらと点けられていたサイドライトによって天井に投影され、まるで天上の星々の名残のような、心許ない光を映し出していたのだった。――まるでプラネタリウムのように。
床に散らばる破片。またゆっくりと一歩踏み出せば、足の裏でそれは、ぱきりぱきりと微かな音を立て、更に細かく砕けていく。皮膚を傷つけるかもしれないという怖れよりも、足下で星くずを踏みつぶしているような小気味よさに、シャーロックはそっと口端を吊り上げる。天井と、シャーロックの足下に星があって、まるで221Bのこの部屋そのものが宇宙のようだ。
気づけば、夜明けが近かった。
僅かの間に顔を出したのであろう朝日がカーテンの隙間から突き刺さるように差し込んで、粉々になった破片の反射が天井に一層煌めいた。星のようなそれは、星以上に無意味な光の連なりで、だからこそ心を惹きつけたのかも知れない。偽物の星は、光を受けて虹色に瞬いている。
綺麗だと、やはりそう思う。
意味なんてわからないくせにと、ジョンが笑う声がする。それは勿論幻聴で、今彼はシャーロックのベッドの上で丸まるようにして眠りに落ちている。
意味なんてなくてもいいと思っていた。美しさに理由はいらない。けれど今なら少しだけわかる。
それは綺麗で、…哀しい。どうしてか。それがやがては失われるものだからだ。
いつか抗えぬ力に消されてしまう光なら、この手でつみ取って握りつぶしてしまえればどんなにか心が満たされるだろう。手を伸ばすこと叶わず消えていく様をただ見つめるより、どんなにか。
だからジョンは抗う。いつか消えてしまうかもしれないものをただ眺めていることを恐れて、何とかして手中に収めようとする。
本能的に抱く恐怖が不意に露出するたびに、その両手はシャーロックの首筋に伸ばされる。手の平に感じる命の証に喜び、同時に絶望する。
死んでくれと呟き、生きてくれと囁く声はもはや同義であり、シャーロックを絡め上げる呪いのようだ。
ジョンの嘆きと慟哭が耳の奥で木霊する。それはシャーロックの奥底に眠る願いと共鳴した。
シャーロックは光降り落ちる部屋の中で立ちつくし、ジョンが抑えていた自分の首筋に手を触れて小さく笑った。
ジョン。ジョン。僕は星のことは何も分からないけれど。君と見るものが美しいことは知っている。それが永遠でないことも知っている。
だから、ジョン。
もう一度目が覚めたそのときは、一緒に町に出て装置を買ってこよう。今度こそ、家の中にたくさんの星を集めよう。
こんな朧気なものではなくて、もっと確かな光を。
221Bのこの天井にアフガンの空のような星空を映し出せば、君もきっと安心するだろう。
二人で見上げれば、きっと。
――ほしふる、朝。
- end -