WhirlWind

折れない背中

ファルコン


 ずいぶんと綺麗に伸びた背中だと思った。
 最初に見たのは、丁寧な断わり文句とともに、風のように隣を追い抜かれたとき。
 灰色のランニング用シャツが眩しく視界に飛び込んできた。規則正しい軽やかな足音と共に、その背中があっという間に遠のいていくのを、サム・ウィルソンは呆けたように見送った。
 奇跡の復帰を果たした噂のスーパーソルジャーであるとはっきり知ったのは、その名前を聞いてからだ。
 男は、スティーブ・ロジャースと名乗った。
 結局走り終わるまでに三度も追い抜かれ、最後休憩を取っているときに向こうから話しかけてきた。こちらが荒く息を吐きながら流れる汗を拭き、水分補給をしているというのに、超人様と言えば、ほとんど息が上がっておらず、逞しい肉体をぴっちりと包むシャツも、自分と違ってその色を変えてはいなかった。顔は涼やかで、彼にとってはこのマラソンが準備運動ほどのものでしかないのだと思い知らされた。
 自分の名前もありふれているが、伝説の超人の名前も至って平凡だった。その身体つきや、氷の海で七十年も眠っていたというおとぎ話のような経験を除いては、スティーブという人間はどこまでも普通の男に見えた。少なくともサムにはそう思えた。
 スティーブが、サムの仕事場である[[rb:退役軍人省 > VA]]に顔を出してくれたときにも、その印象は変わらなかった。むしろ強くなったかもしれない。
 いささか野暮ったい普段着に身を包んだ姿は、顔立ちが整っているとはいえ、取り立てて目立つ風貌ではない。たくましい肉体も、手首まで覆って身体の線を曖昧にしてしまえば、意外と着やせするタイプなのか、ほとんどその特徴を隠してしまう。すぐに街中に溶け込んでしまえるような地味さだった。
 これがヒーローなのかと思った。
 この国の人間なら、キャプテン・アメリカの物語は子供の頃から親しんでいる。教科書や本、マンガやアニメで知るキャプテンは、手本にすべき偉大な憧れの存在で、普通の人間では及ばない力と道徳観に満ちているものだと思っていた。国旗をモチーフにしたスーツをまとい、国民を守るために身を挺して戦う完全無欠のヒーロー。
 だが、サムの前に現れたのは、今も軍人として働き、軍人として生きた分だけ悩みを抱え、やりたいことが見つからないのだと困惑しながら微笑むありきたりの青年だった。受け答えはその一つ一つが生真面目すぎるほど真摯で、時折はにかむようにして笑う男だった。ともすれば、こちらが手を差し出して助けてやらなければと思うような頼りなささえまとっていた。
 それでも、スティーブの背中だけはいつ見てもすっきりと伸びていた。縮こまることも歪むこともまるでなかった。どんな状況に放り込まれても、それだけは変わらなかった。むしろ窮地に追い込まれたときこそ、その存在感はいや増した。
 この背中を見ていれば間違いがないと思った。
 その感覚は、彼に協力するため、戦いに身を投じた時に確信に変わった。
 星が刻まれた大きな盾を構えて立つ姿には、控えめな笑顔を見せる穏やかな青年の面影はどこにも見当たらなかった。
 先陣を切って弾丸のように飛んでいく。真っ直ぐに、一切の躊躇いを見せることなく。青い風が、戦場に吹く。手元から放たれる盾が綺麗な曲線を描き、鮮やかに、そして容赦なく敵を打ち倒していく。憧れと称賛をもって語られる伝説のヒーローの戦いぶりを、はじめて本当に目にしていると感じた。
 キャプテン・アメリカの動きには溜めがない。ランニングを最後まで減速せず駆け抜けたように、加速し、更に加速する。障害は飛び越え、叩き潰し、吹き飛ばし、蹴り落とし、ひたすら前へ進む。立ち止まることを知らないのか、それとも停滞を怖れているのか、その戦いぶりからは分からなかった。だが彼の戦い方には、人を鼓舞する何かがあった。
 スティーブは観察力もずば抜けていた。ただ我武者羅に駆けているわけではない。常に戦況の把握につとめ、自分がどこで何をなすべきかを考えている。走りながらもっとも的確なルートを見つけ出し、最小限の努力で最大の結果を導こうとした。聡明さと冷静な判断力、決断力と行動力。これらを兼ね備えたリーダーはそうはいない。
 キャプテンの名を冠する称号を持つのには、それだけの意味があったのだと、サムは感嘆したのだ。
 スティーブが、キャプテン・アメリカとしてのコスチュームをまとうのを初めてみたとき、サムは間抜けにもうっかりこう洩らした。

「スティーブ、あんた本当にキャプテン・アメリカなんだな」

 その時、スティーブはまだマスクを被ってはいなかった。額の部分に〈A〉の文字が白く抜かれたマスクを両手に抱えたまま、スティーブは一瞬きょとんとした顔でサムを見たあと、ふっと笑った。

「そうだ。僕が、キャプテン・アメリカだ」

 その瞬間、鳥肌が立ったのを覚えている。見慣れたと思ったはずの顔立ちは、戦場を前にして見れば場違いなほど周囲から浮き上がって見えた。
 鍛え上げられた肉体を、国を象徴するスーツで覆った身体の上には、白い頬を蒸気させてほんのわずか赤く染めた青年の顔がある。
 白い頬と金色の髪。柔らかな青の眼差し。木漏れ日の下で音楽を聞きながら本を読むか、絵でも描いているのが似合いそうな優しい面立ちだ。だがその身体は極限まで鍛え上げられ、身にまとうのは国の象徴そのもの。手にした盾は身を守るだけでなく、敵を散らす強力な武器でもある。
 そのアンバランスさに、ぞくりとこみ上げるものがあった。もし何も知らない敵が彼の素顔を見れば、目を疑うだろう。マスクの下にあるのが、あどけなさすら残る青年の顔であることに。
 手にしたマスクを見下ろし、スティーブは何を思ってか目を細めた。
 どこか憂いを帯びた眼差しは、戦場に置いて行かれた幼子ほどにも頼りない。それでいて力強い。決して引くことをしない強さ。彼がうちに抱くのだろう悲壮感と決意とを滲ませていた。
 サムは、この青年が軍服の下に何を隠して戦うのかを垣間見たように思った。
 甘く優しい顔立ちの青年は、それ以上に優しい心を持つ男だった。
 その優しさは、敵と認めたものを容赦なく断つことのできる厳しさも持っていた。
 国のためであれば、必要であれば、誰よりも残酷になれる。その責任を負うことができる。迷いながらも走り続けることができる。例え何を失ったとしても。

 ――俺にはできなかった。

 彼はいつから、どうやってその割り切りを見出したのだろう。


     ***


 そのときも、彼の背中はまっすぐ伸びていた。
 失ったはずの親友が、記憶を無くした状態で敵として立ちはだかっていると知ったとき。これからその友と対峙せねばならないのだと理解したとき。
 あれは倒すべき存在だと、サムは告げた。記憶を失い、しかも恐るべき力を持っている。〈敵〉を排除するために、全力で立ち向かってくるだろう。躊躇えばこちらが殺される。だが、スティーブは、彼は友だちなのだと笑った。背筋を伸ばして遠くを見つめながら、断言した。
 ああ、そうだったとサムは思い出した。この男は諦めが悪い。きっと、サムが知る他の誰よりも。どれだけ傷ついても立ち上がることを止めたりしない。必ず、自分の友だちを取り戻そうとするだろう。

「なあ、あんたの横に立っていたのはどんなやつだったんだ?」

 物語で美しく語られる以上のことは何もしらない、彼の友人についてふと興味を惹かれた。問いかけたサムの声に、初めてスティーブが顔だけを振り向かせた。僅かに見開かれた目が一瞬だけ過去を懐かしむかのように揺らぎ、そして細められる。

「うん、頼れるクソ野郎だった」

 短い返答は、スティーブが抱く感情の全てを表していた。フランクな言い様は、下町の少年が使う言葉そのままで、彼と親友の間にあった親密さを窺わせた。はにかむような笑顔は、柔らかく眩しい。なんだ、あんたそんな顔すんのかよと、思わず呆れたくなるような。
 サムは、一瞬その顔に見惚れ、ついで無性に泣きたくなった。

 ――ああ、あんたは、本当に。

「さあ、行こう」

 スティーブは、国の名前を戴く祖国のヒーローは、再び前を向くと歩き出した。その背中は、やはりすっきりと伸びていた。


- end -


2015/07/22
キャプテンアメリカ・バキステ再録。
頒布終了した短編集の中から、2014年のスパコミで無料配布していた部分を再録しました(一部改変)。WS鑑賞直後の熱が煮詰まって生まれた何かです。

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