WhirlWind

イングリッシュ・スコーンの挑戦

Sherlock & John


 夢を見ているのではないかと思った。
 病院の早番のバイトから帰ってきたジョンは、ただいまと言いかけて声を失った。どたんぱたんという物音がキッチンから聞こえてきたので、また同居人が何かよく分からない実験を繰り返しているのか、それにしてはやたらと音が大きいと不思議に思って覗いてみれば、その先にはまるで夢のような景色が展開していたのである。
 もっとも、目の前のこれは夢は夢でも悪夢に相当する。
 ぱかりと口を丸く開け暫し立ちつくしたものの、ジョンは手にしていた買い物袋をのろのろとマントルピース前のソファの上に置き、そっと頬を抓ってみた。
 …痛い。時刻は昼下がり、午後2時を回ったところ。夢を見るには早すぎる。
 白い粉がふわふわと…いや、もうもうと立ちこめている。なんてファンタスティック。まるでドラマのワンシーンのよう。そこに叩きつけられる、どすんという音。
 小麦で作ったと思われる生地を仁王立ちで見つめ下ろすフラットメイトの姿を、ジョンはほとんど失神しそうな気持ちで見つめた。


***


 シャーロックが、キッチンで小麦粉とバターを混ぜている。
 状況を説明すると以上の通りだが、それがどれほどの異常事態がお分かり頂けるだろうか。
 好きなものは難解な謎と遺体と奇怪で複雑な事件。この全てが掛け合わさり、遺体の数が増えれば増えるほど大喜び。連続事件ともなれば拳を握ってぴょんと跳ね上がる自称高機能社会不適合者。221Bのキッチンスペースに持ち込まれるのは、バーツから持ち帰った遺体の一部やら謎の液体やら怪しげな粉と言ったもので、つまり人が食べる物を自身の手で扱うといったこととは、ジョンの知る限り、あり得なかった。
 シャーロックとクッキング。それは水と油ほどには相容れない関係のはずだ。相容れないどころか、お互いに全速力で逃げていきそうだ。
 それなのに今、シャーロックが身につけているワインレッドのドルチェ&ガッパーナのシャツは、跳ね返る小麦粉で白く薄汚れ、更には彼のダークブラウンの癖毛にまで飛び跳ねている。エプロンをつけるなどという発想はないだろうと思われるので(ジョンだって身に着けないが、それはあえてのことだ。そもそもエプロンが必要になるほどの料理なんてほとんどしない)、このまま行くとクリーニング行きになるのは必至かと思われた。
 それよりも、ジョンはこれほどまでに険しい顔つきで生地を扱う人間の顔を見たことがなかった。そりゃあ確かに厨房というのは戦場だ。料理は戦いだ。刃物を持つ戦士達が血を抜き肉を捌き野菜を切り、油が飛び、炎が跳ねる。鍋で食材が大きな音を立てて炒められる音は、戦場の爆音…ほど大きくはないが、そこに存在する熱はさほど変わらない気もする。それは菓子作りの世界も変わらないだろう。テレビ番組でご婦人方が楽しそうにトークしながら、料理をしている光景が、作り物の世界ということくらいはジョンもよく知っている。概ね、残念な姉、ハリエットのせいで。
 だが、そもそもシャーロックの顔は、人が口に入れるものを扱っているとはとても思えぬ…正直にいうなら思いたくないものだった。
 一体どこの誰が食材を射殺しそうな目で扱うというのか。死体に接していると思った方がよほどましである。
 しばらくこのあり得ない光景を呆然と見つめていたジョンだったが、やがて何とか体中の気力を振り絞ってシャーロックに尋ねた。

「あー…と、君…何の料理してるの?」

 問いかけにシャーロックは手元からばっと顔を上げ、怒鳴るように捲し立てた。

「え? なに? 料理だって? 違う! これは調理じゃない。実験だ!」
「うん、まあそうだろうな」

 これをクッキングと言い張ろうものなら、即刻ハドソン夫人に謝ってこいと言うところである。

「僕が料理なんかするわけないだろう!」
「そこは嘘でも、たまにはするくらい言えよ」
さすがに言い返した。

 料理が出来る出来ない以前に、この男は育ちからして、料理は自分の手で作るものではなく作ってもらうものという図式が定着しているのだろう。メイドがいるような家の生まれなのか、よほど甘い母親がいるのか判断はつかないが、テーブルに座れば当たり前のように出てくるものなのだ。それはきっと、兄であるマイクロフトも同じだろう。歩く英国政府という、すごすぎて寧ろ逆に得体が知れない異名を持つあの兄ならば、指先一つである程度のことは出てきて消えるのだろうから(それが物でも人でもだ)、シャーロック以上に常識が一般から逸脱している可能性がある。自分はさも常識的な英国紳士であるかのように振る舞っているから余計に質が悪い。腹立つよな…と結構本気で思っている中堅庶民派代表のジョンである。
 シャーロックの方がかわいげがあってまだよろしいと考えている辺り、ジョンも相当に感覚がイカれているが、生憎それを正面きって指摘してくれる人間は彼らの周りに存在しない。

「で、何の実験をしてるわけ」

 これがシャーロックの言うとおり実験なのだとして、恐らく事件に関係することなんだろうと、そこまではジョンにも推測できる。

「後で話す。ジョン。とりあえず牛乳を取ってくれ」

 唐突な要望に、ジョンはへっ? と間抜けな声を上げた。ペンを取れ、モバイルを取れ、散々あれこれと要求されてきたが、食事の時以外で食材に関わるものを取ってくれと頼まれたことなどなく、つい動揺してしまう。言われたとおりに置いてあった牛乳を手渡してやると、シャーロックはきっちりとビーカー(どう見ても実験用のだ)で牛乳の量を量り、それを先ほどかき混ぜていたボールの中に注ぎ込んだ。そしておよそ水仕事とは無縁の白い手で、中身をまとめるように混ぜ始めた。

 ――駄目だ。違和感しかない。

 ジョンはこめかみを押さえて俯いた。一体見慣れた日常はどこにあるのかと恐怖を覚え、ひとまず周りを見渡せば、ベーキングパウダーの容れ物が転がっている。あぁ、これも非日常だ。そもそもこんなものが、221Bにあっただろうか。シャーロックの実験道具意外に。 

「ベーキングパウダー? これ買ってきたの?」
「まさか。ハドソンさんに借りてきた。僕が所持しているのは、炭酸水素ナトリウムだけだからな。他にも足りないものを色々」

――炭酸水素ナトリウム。ああ…それって重曹のことか…。

 というか、食べ物を作るのに、自分の実験道具から取り出すつもりだったのか。そんなことだろうとは思ったが。
 一方のシャーロックはまとまったらしい生地をボールから取り出し、盛大にまき散らした打ち粉の上で生地を広げはじめた。多すぎる小麦が周りに飛び散り、再びもうもうと白い粉が舞い上がる。
 思わず口元を覆いながらも、シャーロックが何を作っているのか、段々ジョンにも見えてきた。2cm程の厚さに伸ばした生地を、丸い型で抜き取っている。
 アフタヌーンティーの定番、スコーンだ。

 ――シャーロックの手作りスコーン。

 アルマゲドンよりも怖ろしい単語だ。それこそ本当に夢なんじゃなかろうかと、ジョンが頬を抓るべく、更に顔に手を伸ばしたその時。
 チン…という、耳慣れない音が響き、ジョンはぎょっとして辺りを見回した。モバイルの音ではない。玄関ベルの音とも違う。一体何かと思っていると、天板に丸く型を抜いた生地を並べ終わったシャーロックが、手袋を嵌め出した。それは明らかにクッキング用のものではなく、普段彼が使っている化学実験や薬品取り扱い用のアルミ蒸着を施した耐熱手袋だったが、そこはもう突っ込まない。いちいち違和感を取り上げているようでは身が保たない。そして驚くべき事にシャーロックは手袋を嵌めた状態で、オーブンの扉を開けたのだった。

 ――オーブンの音だったのか。聞いたことなかったからわかんなかったよ…。

 滅多に使わない、というよりも実験道具の保管場所の一つと化しているオーブンが、本来の機能を取り戻しているところを、ジョンは初めて目にした。ジョンだってオーブン料理なんて作らない。
 それより何より、まさか既に焼いているものがあったとは。取り出された天板の上に並んでいるのは、適度な焦げ目がついた、間違うことなきスコーンだった。
 黄味がかかった柔らかな色合いが実に美味しそうだ。ふんわりと膨れあがり、「オオカミの口」と呼ばれるものが、綺麗にぱっかりと開いている。外はさっくりと、中はふんわりと。口が開いた中身からは、柔らかな湯気がゆらゆらと立ちのぼっている。

 ――本当にスコーンだ。

 もう一度頬を抓るどころか、一度マントルピースに頭を打ち付けたいくらいには、外で見かけるものや、ハドソン夫人の作るそれを寸分違わぬスコーンの見た目をしていた。そう、少なくとも外見は。
 シャーロックがスコーンの乗った天板を抱えている。
 その怖ろしい光景にひたすら凍り付いているジョンをよそに、シャーロックは取り出したものを置く場所を思案していた。結局、コンロの上にそのまま乗せる。
 それから、新しく作った生地の乗った天板をオーブンにセットし、時間と温度を調整してからスイッチを押した。

「よし、これで後はこちらも焼き上がるのを待つだけだ」

 そう呟き、腰に手を当ててオーブンを見下ろす姿は、やはりお菓子を作っているとは到底思えない。怖ろしい。基本的に死んだものばかり手にする男が、同じ場所で食べ物を生み出しているなんて。
 明日地球が亡ぶんじゃないだろうかと、ちょっと本気で思ったジョンである。
 ともかく、これで作業は完了したらしい。シンクで手を洗い、タオルで拭きながらリビングに戻ってきた
 シャーロックは、改めてみても…粉まみれだった。乱れたブルネットと、やはり粉の飛んだワインレッドのシャツ、頬にも生地がこびりついている。そのままの姿勢で、マントルピース前の自分の定位置にどっかりと腰掛けた。立ちっぱなしで作業をしていたせいか、彼はさすがに疲れたらしい。一体いつからスコーンを作っていたのやら。後でシャワーを浴びるよう言おうと思いつつ、ようやっとジョンは質問をした。

「で、何でスコーンなんだ」
「今朝の殺人事件の被害者が作っていたから」
「――どういうこと? いや、っていうか、それで何で君までスコーンを作るわけ?」
「被害者は、フィンズベリーに住む24歳の独身女性。今朝方自宅で絞殺されているのを、同じフラットに住む住人が発見した。直ちに犯人の捜査が始まったが、交友関係が広く、犯人を特定できない。モバイルの着信にも複数の友人とのやりとりが残っていた。彼女は菓子作りが趣味で、色々な友人に作ったものを上げていたようだ。殺された時にも、キッチンで何か作っていた。それがスコーンだ」
「…なるほど」

 分かったような、分からないような話だ。

「それで?」
「確かに彼女が作っていたのはスコーンだった。出来上がったものが皿に乗っていたからな。普段目にする定番のプレーンスコーンだ。僕が気になったのは、冷蔵庫の中に生地が更に二種類あることだった。一体何を作るつもりだったのか、持って帰って成分を確認した。そうしたらやはりそれもスコーンの生地だった。ただし、既に焼いたものとは別の種類の」
「チョコチップが入っているとか、チーズが混ざっているとかか?」

 そう尋ねたジョンに、シャーロックは首を振った。
 座っていたソファから再び立ち上がり、コンロの上に置いていた天板から、出来上がったばかりのスコーンを一つ取り上げるとジョンに向かってぐいっと突き出す。食べてみろと、そういうことらしい。

「え…」

 つい怯んだ態度が表に出てしまったのか、シャーロックは明らかに眉根を寄せたが、文句を言うことはなく、とにかく食べろと更にスコーンを突き出してきた。

「一応作り方は被害者の彼女が参考にしただろうレシピを使っている。安心しろ」

 一体何に安心すればいいのか分からない。そもそも材料に問題が無くても、制作環境が問題大ありだ。
 躊躇ったジョンだったが、シャーロックはジョンがスコーンを口に入れるまではどうも許してくれそうにはなかった。頼むから地獄の門番のような顔で立ちはだかるのはやめてくれ。ジョンに残された道は一つしかなかった。もうどうにでもなれとばかりに見た目は美味しそうなそれを割って、口に放り込む。

「―――美味い」

 美味しかった。納得が行かないくらいに美味しい。後で胃がどうにかなるのかもしれないが、味は完璧だ。だが、シャーロックはその感想には満足していないようだった。

「それで。他には? 他に何か気づいたことはあるか」
「ええと…他に?」

 まじまじと手元のスコーンを眺め、そしてもう一度味わう。そしてはたと気づく。

「あぁ、もしかして全粒粉使ってる?」
「その通り。更に言えば、バターの代わりにサンフラワーオイル、ミルクの代わりに水を使用して作ってる」
「それって…」
「ヴィーガンスコーンだよ、ジョン。動物性の食物を一切取らない彼らのために工夫されたスコーンだ。もっとも、ヴィーガンに限らず、普通に食されてはいるけどね。ただ少なくとも、彼女身はヴィーガンじゃない。それは冷蔵庫の中身から明らかだ。では誰のために作ったのか。――友人にヴィーガンがいるんだ。彼女は、その友人のためにヴィーガンスコーンを作るつもりだった。焼いたそれを彼女に持っていくつもりで用意していたんだ。犯人は恐らく女性。そして彼女に会ったばかり、もしくはこれから会うであろう人物だというところまでは分かっている。彼女の交友関係の中からヴィーガンの女性を捜せば、それで犯人に辿り着く。動機はまだ分からないが、恐らく痴情のもつれだろうな。隠しているようだが、どうも被害者はレズビアンだ。ヴィーガンの女性がどうかまでは分からないが」
「でも、それで何で君がわざわざ焼くんだよ」
「実際に作ってみなければ、どういう形状のものになるのか分からなかったからだ。本当はハドソンさんに協力してもらうつもりだったんだが…」

 シャーロックはふて腐れたように鼻に皺を寄せた。話を切り出したシャーロックに、彼女は微笑んでこう言ったという。

 ――自分でおやりなさいな。実験なんでしょう?
 ――必要な道具と材料は貸せるわよ。

 さすがです、ハドソンさん。

 ジョンは心の底で喝采した。そう言い切られては、シャーロックも反論の余地はなかっただろう。そうこうするうちにもう一つの生地も焼き上がったらしい。オーブンが出来上がりを合図し、シャーロックは再び例の手袋を嵌めて中身を取り出した。そしてコンロの上に置きながらジョンに言った。

「じゃあ、僕はこれからこれをヤードに持っていく」
「え、何だって!?」

 ジョンは再び仰天した。

――持っていくのか、それを!?

 事件の根拠ということなのか。プラスチックのタッパーに、焼き上がったばかりのスコーンを、シャーロックが冷ましもせずに適当に詰めている。レストレードが見たら度肝を抜かれるんじゃないだろうかそれは。ドノヴァンやアンダーソンの顔はさぞ見物だろう。しかし、ジョンは別のことが気になった。

 あぁ、それって。確か君がバーツから検体の一部を持って帰ってくるのに使ってるやつだろ。それを使うのか。というか洗ってあるのかそれ。洗ってあると信じるぞ、僕は。

 こうと決めたシャーロックの行動はとにかく素早い。スコーンを詰め終えると、リビングに飛び込みさっさとコートを取り上げて羽織っている。

 ――君、その格好で行くのか。シャツが小麦粉まみれだけど。

 さっきから気になっているが、シャーロックのシャツも髪も白い粉がこびりついているのだ。

「おい、シャーロック…!」

 見かねて呼び止めたが、当然シャーロックは聞いてはいなかった。

「じゃあ、ジョン。後はよろしく」

 ――よろしくって何だ。

 見れば、シャーロックが持っていくという分を差し引いても、天板にはまだかなりのスコーンが残っている。役目の終わったスコーンをシャーロックが顧みるとは思えない。まさか残りはジョンが処分しろということなのだろうか。

 ――あ、マイクロフトにも送ってやるか。

 弟の手作りというなら、彼はダイエットもさておき、おそらく泣きながら食べるんじゃないだろうか。それよりも食べるのがもったいないとか言って厳重に保管しかねない。それこそもったいない。やはり送るのは止めておこう。
 ぐるぐるとジョンが考えていると、フッフーと声がして、ハドソン夫人の顔が覗く。

「どう、スコーンは上手く焼けた? シャーロック」
「あぁ、ハドソンさん! 確かにスコーンは2種類でした。おっしゃるとおり、焼いてみれば違いは明らかだ!それではちょっとこれからヤードに出かけてくるので失礼!!」

 ハドソン夫人の細い肩を押さえ込むようにがっしりと掴み、美しく年齢を刻んだ、それでいて少女を思わせる朗らかな頬に押しつけるようなキスをして、シャーロックはタッパーを引っ掴むと、扉を開け放したままバタバタと階段を駆け下りていった。

「ちょっとシャーロック、あなたそんなに揺らしたら、スコーンが崩れてしまうわよ」

 追いかけるように下に降りていったハドソンさんの、ややずれた気遣いの声が聞こえてくる。

「お気遣い無く…!」

 シャーロックが怒鳴り返す声が遠くから届く。遅れて響く、入り口のドアがバタンと閉じる音。その全ての後には、やや茫然と立ちつくしたジョンと、荒れに荒れまくったキッチンスペースだけが取り残された。

「……」

 これ、僕が片づけるのか。きっとそうだよな。…ウソだろ。

 リビングに突っ立ち、途方に暮れて凄惨な光景を見つめる。血痕飛び散った殺人現場もかくやと思われた。
 様々な粉やミルク、汚れたボール、粉まみれのダイニングテーブル。実験道具にまで粉が飛んでいるのだが、果たしてあれはどうすれはいいのだろう。

「あらあら、本当に随分と汚したものねぇ」
「あぁ、ハドソンさん」

 はっと振り返れば、ハドソン夫人が再び二階に上がってきていた。キッチンを見て、彼女もまぁと呆れた声を上げる。そのハドソン夫人を、ジョンはわらにも縋る思いで見つめた。

 ちょっと僕どうしたらいいか。上手な片づけ方を教えてくれませんか。どうか主婦の知恵を。キッチンが本来の機能を発揮したというのに、その結果をどう処理したらいいのか僕にはさっぱりわからないんです。

 が、逞しき夫人はあっけらかんとしたものだった。

「いいわよ、後片付けなんてあとあと。さ、ジョン。シャーロックのスコーンでお茶をしましょう!」

 見れば、彼女の手には、完璧なまでに用意されたティーセットがある。立ち上る香りはアールグレイ。トレイの上には、手作りジャムやクロテッドクリームまで乗っている。ジャムは2種類。色からしてブルーベリーとイチゴ。あまりにも準備が良すぎる。まさか、シャーロックのスコーンの出来上がりを待っていたのだろうか。…まさか。

「―――」

 ジョンは、キッチンの後片付けを今は放棄した。げにおそろしきは、我が大家夫人であるとジョンはしみじみと実感し、偉大なる家主をもてなすべく、ここはイギリス紳士としての最大限の礼を尽くそうと、恭しく茶器を受け取ったのだった。
 やや混乱を来した状態のレストレードから着信を告げるコール音が鳴り響くのは、その15分程あとのことである。


***


「なんだ。あれは。というか何であいつがスコーンをわざわざ焼くんだ。事件と関係があるのは分かるが、だからって何でだ。というかこれは食えるのか、君は食ったかジョン…!?」
「やあ、グレッグ。あ、そう。シャーロックがついたそうで。そう。スコーン。食べれるよ。なかなか美味しいんだ。毒見したから確実だ。僕もこれからちゃんと頂くところ。事件の早い解決を願うよ。僕は大事な用事があって行けないけど。それじゃあシャーロックによろしく。グッドラック」


***


 その後、料理と言わずに実験と称すれば、シャーロックはキッチンに立つかもしれないと考えたジョンだったが、勿論そんなに上手く事が行くはずもなく。

「なあ、シャーロック。アメリカンスコーンとイングリッシュスコーンの違いを実際に証明してみない。あ、マフィンとスコーンの検証でもいい」
「君は僕がそんな安直な誘いに応じるとでも思っているのか」
「…だよな」

 片づけはさておき、調理自体は(調合や実験と同義であるものの)やればできるのだから、もっと作ればいいのにと思いつつ、世にも貴重なシャーロック・ホームズお手製スコーンがその後生産されることはなく、221Bの思い出の一つとして、主にジョン・ワトソンと、そして大家夫人の記憶と舌に刻まれたのであった。


- end -


2014/11/23
短編集より再録。221B食べ物シリーズ。

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