WhirlWind

永遠のピノッキオ

Sherlock & John


「相変わらずで、何よりだ」

 そう男が微笑むと、ひょろ長い影とやや丸みを帯びた小柄な影が小さく揺れた。

 並ぶ二人は、そのどちらもが非友好的な表情を浮かべている。
 小柄な方はまだ苦笑を滲ませるに留めているが、長身の彼に至ってはあからさまに顔を顰めてみせた。
無視することなく、一応の反応を返したのは、無視も逃走も全く無意味なことであるのを身に染みてよく知っているからだ。
 無駄な労力は払わない。不遜なまでに合理的な彼らは、敬意を些かならず欠いた姿勢でとりあえずそこに留まっていた。

「こんにちは、マイクロフト」

 そう返したのは小柄に見える方の男、ジョン・ワトソンだった。平均をやや下回るばかりの体躯がやたら小粒に見えるのは、隣に立つ同居人が縦長に過ぎるせいだと彼は主張する。

「やあ、ジョン。元気そうで何よりだ」
「ええ。あなたがご存じの通り」

 しれっと返した一言は、何気ないながらに男が持つ不遜さと剛胆さをささやかに示す。それを証明するかのように、ジョンはささやかながらもぬけぬけと尋ねた。

「それで、今回はどんな要件です?」
「なに、今日は君の手は患わせないよ。シャーロックは必ず私の依頼を引き受けるからね。君に飛び火することはないだろう。そうだね、シャーロック」

 返事はない。ただ、空気だけがキリリと冷えて無音の悲鳴を響かせた。静かに散った火花にジョンがやれやれと肩を竦ませる。

「…穏便に済むって保証、あります?」
「無論だとも」

 そうだろうと弟に微笑みかけてやれば、シャーロックはそっぽを向いたまま鼻を鳴らした。
 口に出して肯定しないのは、彼の精一杯の反抗だ。ふて腐れた時点で、マイクロフトの依頼を受け入れたことを示していた。

 大人げない仕草を呆れたようにみつつ、ならいいんですけどとジョンは肩を竦める。視線を彷徨わせてマイクロフトの後ろを見つめてからもう一度マイクロフトに目線を戻し、、「そういえば」とジョンは呟いた。

「最近見ませんけど、アンシア…そのいつもあなたが連れてる秘書はどうしたんです?」

 その問いに、マイクロフトは思わずと言ったように笑んだ。途端、シャーロックが不機嫌を隠そうともせずこちらを睨みつけたのを感じたが、マイクロフトにとってそんな視線は小鳥につつかれたほどの傷みも与えない。
 マイクロフトが止めさせた車の隣に立つのは一人の美女。だが、それはジョンは見知ったアンシアではない。

「彼女が気になるのかね、ジョン」
「いや…気になるというか…その」
「勿論健在だ。このところ別の要件に回していてね。近々復帰する予定だよ」
「そうですか。いえ、見かけないなと思っただけですよ」
「ジョン、先に帰ってろ。あとは僕とマイクロフトの問題だ」
「シャーロック?」

 割り込むように声をかけた同居人を、ジョンは僅かばかり目を開いて見返したが、シャーロックは有無を言わさず、再度この場を去るよう促した。

「そんなに時間はかからない」
「そうか。うん、分かった。ええと、もし何かあったら連絡して」
「あぁ」
「じゃあ、失礼。マイクロフト」

 軽く会釈をして踵を返す。二本の足でしっかり歩を進めながらこの場を立ち去るジョンの後ろ姿を見つめながら、マイクロフトが静かに口を切った。

「彼は、もう随分歩行に慣れたようだね」

 危なげない足取りは、医者が本職であるとはいえ、紛れもない軍人のものだった。すっきりと伸びた背中に目線を投げかけたままのシャーロックもまた、淡々と答える。

「接続面に不備があった。精神的なものだが。義肢を受け入れられなかった。生ぬるい平和を謳歌するロンドンを、二本の足でわざわざ駆け回る意味がジョンには見つけられなかった。それだけの話だ。あんたのことだ。報告はもう手にしているだろう?」
 シャーロックの言葉にマイクロフトはうっそりと微笑んだ。

「あぁ。もちろん、聞いているよ」



 時代は流れて21世紀。
 多くの人が思っているよりも機械やロボットは生活のあらゆるところに入り込んでいて、思いも寄らぬ場所でその現実に出くわす。
 身体の一部を機械に組み替えるという発想は、身体障害を持つ退役軍人を中心として、一部の人々に実験的に施されている。
 まだ実験段階の状態だが、あと数年も経てば一般人も身体の一部を義肢化できるようになるだろう。

 ジョン・ワトソンもまた、そんな被験者の一人だった。地元住人の治療にトラックで向かう途中で肩を撃たれ、右足を手榴弾で吹き飛ばされた男は、即座に国に送り返され、足の義肢化手術を提案された。
 強化もできるという提案を退け、普通に歩けるようになれればそれでいいと手術を受け入れたジョンだが、その後の経過は芳しくなく、精神的状況もあってカウンセラーに通い続けているという報告は受けていた。

 その彼がまさか弟と同居を始め、不備を抱えていたままだった右足まで完治させたのは、マイクロフトにも驚きだった。身体の義肢化には精神面のケアも必要であることについては男自身も常々考えていたが、それがシャーロックによって実証された。この例を参考として、プロジェクトは今後更に進展することだろう。

「マイクロフト」

 いらいらとしたシャーロックの声が、マイクロフトの思考を断ち切った。

「そんなことより仕事だ。早く寄こせ。僕はこのろくでもない用事を終わらせてとっととこの場を離れたい」

 相変わらず兄を敬う術を覚えない弟はそう言い放ち、手の平を突き出してくる。実にぞんざいな仕草であったが、なんとまあと、マイクロフトは感嘆した。状況的に仕方ないとはいえ、まさか自分から仕事に手を伸ばすとは。 躾のなっていない犬がお手を覚えたのを見るのにも似た感動だ。渡すべきものを取り出そうと懐に手を入れつつ、いらいらとマイクロフトを待つシャーロックの姿に目を細める。

「今日は随分素直じゃないか。約束を果たすつもりだとは珍しい。そんなに早くジョンの元に戻りたいのかね」
「そんなことより、どうしてジョンに本当のことを言ってやらない」

 兄の問いには答えず、シャーロックはぎろりと視線を強くした。マイクロフトはおやと首を傾げてみせた。

「さて。私は何も嘘はついていないが?実際アンシアは人前に姿を晒せる状態ではないのだからね」
「そんなはずないだろう。今だってそこにいるくせに。いや、入れていると言った方がいいか。あんたの、その懐の中に。ついでに言えば、向こうに待機してるあの女も【アンシア】だろう」

 マイクロフトは特に何も答えず、ただうっそりとした笑みを浮かべてみせた。

 ――そう。もう一つ、政府が水面下で取り組み続けているプロジェクトがある。それが政府構築要員のアンドロイド化である。
 秘書型携帯アンドロイド、プロトタイプ「ANTHEA00」
 彼女はマイクロフトが自身のスケジュール管理のために実験的に作らせ、成功したアンドロイドだ。
 携帯電話をベースとして開発したそれは、アンシアという成功例を母胎に更に複数体を増やし、機能の一層の充実を図っている段階だ。意志と手足を持つ、高機能携帯電話というところか。

「何がアンシアだ。固有名詞ですらないくせに。名前を付けて、挙句に本人に名乗らせるなんてイカれている」
「多少説明が面倒というだけだ。なら、私の代わりにお前が説明してやってもいいのだぞ」
「どうして僕が」
「もっとも、彼は薄々感づいているとは思うがね」

 お前の相棒なんぞをかってでているのだからと微笑みかければ、弟は忌々しげに鼻に皺を寄せた。全く表情豊かなものだと、半ば呆れつつもマイクロフトは口元に変わらぬ笑みを刻んだ。

「アンシアは素晴らしいアンドロイドだよ。だから言っただろう?お前にも一体作らせようかと。アンシアのマスターを譲ることはできないが、複製品のその中でも最良のものをお前にやることができる。女性型が煩わしいなら男性型でも、ロボットらしいものが好ましければそちらでも。外見はいくらでも好みに作らせよう」
「僕はいらない」
「ジョンがいるからか?」
「その通りだ。僕はジョンの方がいい」

 きっぱりと言い切ったのに苦笑する。やれやれと大仰に溜め息を吐き、首を左右に振る。

「さて、彼のどこがそれほど気に入ったのやら。射撃の腕は相当なもののようだ。機械的な強化もなしにただの医者があそこまでの技量を持つのは確かに素晴らしい。とはいえ、護衛が必要なら、それこそ、より高性能なものを作らせるというのに」
「その高性能な護衛携帯とやらは、僕が豆を買ってこないからといって文句は言ったりしないんだろう?」

 つまらんと言い捨てて、ひらりと手を振る。
 その目の前に、マイクロフトは一枚のマイクロメモリを差し出した。

「さて、依頼だ」
「ふん。帰り道を先回りまでして頼むのが、こんなちゃちなシロモノか」
「無論丁重に訪問しても良かったが、それで困るのはお前だろう。この情報の中身をスキャンして解読しろ。プロテクトがかかっていて、誰もデータを引き出すことができない。パスワードは確認した限りで四重。どの順番がずれても、また一度でも失敗すれば中のデータは消去される」
「あんたが自分でやればいい」
「私は情報を組み立てて分析する方に特化していないのでね。そこまでカバーできる容量があればやるが、今それをするには回路を一つ切らねばならない。そして今そうするわけにはいかないのだよ。お前はよくわかっているだろうが」
「ああ、知っている。ロンドン中の監視カメラがあんたに繋がってる。その一つを切ればいいと僕は言っている。例えば僕とジョンに繋がっているものを。マイクロフト。あんたの『目線』が邪魔だ。鬱陶しい。あんたが『見て』いなくたって、あんたには僕が分かるんだから無意味な話だ」

 ふて腐れたように言い放たれたその言葉に、マイクロフトはやれやれと肩を竦める。

「そうしたいのもやまやまだがね。出来ないのだよ、シャーロック。これは国の意思だ。言っただろう。私は英国政府に…女王陛下にお仕えする身なのだよ」
「いわば、国があんただ」

 特殊な存在であるが故に、むしろそれを利用して国家の抱えるその深部まで踏み込んだ情報を操るようになった兄を、シャーロックは静かに指摘する。だがマイクロフトは穏やかに、けれど冷酷に切り返した。

「お前も国の一部だシャーロック。逃れられない」

 歯をぎりりと噛みしめ、複雑な虹彩を持つ瞳が苛立ちを含んで透明度を増す。しかしやがて吐息を洩し、シャーロックは立てた襟に包まれた長い首の後ろに手をやると、微かに頭を傾げるようにして一本のコードを抜き出した。そしてその先端を手渡されたマイクロチップに繋ぐ。

 接続が完了した途端、シャーロックの目から一切の光が消え失せた。青みを帯びた灰色は、今や虚ろとなって宙の一点を見つめている。
 その様を、マイクロフトはただ目を細めて見守った。


     ***


 20年前、とある研究者の一家が凄惨な事故に巻き込まれた。遺された息子二人が、当時両親が関係していた国家プロジェクトに利用されることになった。
 もとより二人とも驚くべき知能指数を有しており、順調に成長すれば、両親と同じように研究者もしくは技術者としてその能力を国に捧げることになると期待されていた。
 それが皮肉にも、人体をベースにした当のプロジェクト――人間型アンドロイド開発の研究材料に用いられることになろうとは、本人達はもちろん、命を落とした両親も考えはしなかっただろう。

 かろうじて一命を取り留めた兄は、3年後には諜報員としてのプログラムを組み込むために半アンドロイドとしてMI6に送られたが、頭部以外、ほとんどを損傷した弟は、幾らかの細胞と脳を取り出して一からボディと記憶を再構築されることになった。

 マイクロフトは、与えられた仕事場ですぐさま本領を発揮した。英国中の監視システム全てに加え、国外の情報を脳内プログラムによって収集管理し、少しでも異変が見つかればそのデータは直ちに政府に共有され、大事に対応する。
順調に己の立場を固めてからのちは、半アンドロイドたる己の特色を生かして、【弟】の開発にも携わった。

【彼】が「目覚めた」のは、今からまだ5年ほど前のことだ。長らく「眠って」いたために、その情緒は12歳の子供程度のものしかない。幼い頃の記憶は、夢にも似た朧気なものとしてしか残されず、ほぼまっさらの状態でこの世界に生まれ落ちた。

――『SHERLOCK』

 アンシアの更に前に作られた情報演算専用の人間型生体アンドロイド。
 彼にはコピーやバックアップも存在しない。完全なるオンリーワンのアンドロイドだった。ただしく言うならば巨大なデータベースの動く端末だった。
 莫大な知識を、同じく莫大な情報量を管理する記憶ソフトと共に組み込み、脳に当たる部分にインストールした。大量の情報をインストールし、それ単体として維持機能させるには小型化も軽量化もならず、しかも共有や複製も不可能という一体限りのオンリーワン。

 しかしそんな特異な存在でありながら彼は壊れていた。どんなに調整をしても、導き出される数値は決して間違っていないというのに、彼の思考と行動はアンドロイドとして壊れていた。
 絶妙なバランスで整った容姿は誰しもに受け入れられるような微笑みを浮かべられるはずだったし、正しい理論によってインストールされた知識は、正しく用いられるべきだった。しかしそこには根本的な歪みが生じており、どう調整しても正すことはできなかった。

 シャーロックは自分に組み込まれた情報管理ソフトに、自ら「マインドパレス」と名前をつけ、そこから得た情報を自らが興味を持つ分野にしか用いようとはしなかった。
 莫大な資金を投じて生み出されながらも持て余された彼は、あわやマインドパレスから切り離してボディはフォール(廃棄処分)になるところをプロジェクトの管轄者の一人であるマイクロフトの尽力により救出された。
 マイクロフトは、シャーロックのボディを構築するベースとなった肉体の持ち主の、まさに血の通った兄であったから、その立場と自身の能力を全面的に利用した。そして『弟』の責任を全て負うことを承諾し、幾つかの条件を与えてシャーロックを研究所から解きはなった。

 それが二年前のこと。

 もっとも、当のシャーロックは兄に救われた事実を厄介な借りと思いこそすれ、恩義だとは微塵も感じていないらしい。
 身体に埋め込まれた細胞とそこに搭載されたデータのみが、マイクロフトにシャーロックを弟だと認識させる。 このアンドロイドを、憎めばいいのか愛すればいいのか分からない時もあったが、真に弟ではないのだと理解した時から、寧ろ奇妙な愛着を抱いている。


 虚空を見つめ続けたままだったシャーロックの目に光が戻り、彼は首を振って手にしていたメモリからコードを引き抜いた。

「解読が終わった。パスワードは解除したし、中のデータは保護してある。このまま持って帰ってあんたたちで解析すればいい」
「実に見事だ、シャーロック。いつもこう素直なら助かるのだがね」
「基本的に僕はしっかりと約束を守っている。定期的にバーツでモリーの検査を受けているし、兄さんの協力にも応じている。メインプログラムのチェックにウイルス除去だって」

 これ以上一体何をしろと?と目線だけで問うてきた、その眼差しは緑とも青とも金ともつかぬ複雑な色に燦めいている。独特な虹彩は、彼を人間離れした存在に見せると同時に、ひどく生々しい存在にも感じさせる。

「それに、僕はつまらない仕事はしたくない」
「さて、お前の言うつまらなくない仕事とはどういうものだ。ヤードに首を突っ込んで人間どもの不条理な犯罪に首を突っ込むのが面白いとでも。昔からお前はそうだ。歪で不完全なものを好むのは相変わらずだな」

 その言葉に、シャーロックは乾いた笑いを飛ばした。

「兄さんは、相変わらず人間がお嫌いだ」
「嫌いではない。そうでなければ、こんな仕事を選びはしないよ。人間は管理され、保護される必要がある。そうでなければ道を容易く誤るのだから。愚かで哀れでいじましいじゃないか。私は人類に普遍的な愛を抱いている。ただ、側に置くのならより完璧なものをと思うだけだよ」

 お前と違ってね、とそう微笑んでやるとシャーロックは忌々しげに鼻に皺を寄せ、ふんと鳴らした。

「実にありがたい話だな」
「折角完璧に作ってやったというのに、何故失敗したんだか」

 マイクロフトは嘆かわしいとばかりに大きく溜め息を吐く。
 目覚めて以降、自らをコントロールする術を教えられるやあっという間に能力を把握し、恐るべき勢いで社会情報を吸収はしたが、シャーロックが口に出すことはひどく我儘で子供じみていて、さほどの成長が見られない。そう、今も。

「あんたもまた不完全な存在だからじゃないのか?だから、僕を嫌うんだ」

 もっとも僕もあんたが大嫌いだがと付け加えるのに肩を竦める。どこまでもかわいげがない。

「完璧であれるのに、そうならないからある意味興味がわくがね。嫌いであるわけがない。愛すべき欠陥品だよ、お前はね」


 それを聞いて、シャーロックが吐き捨てるような笑いを洩らした。何が愛だとでも言いたげだった。

 ならばお前には「愛」が理解できるのかとマイクロフトは思う。
 マイクロフトには朧気ながらも両親の記憶がある。共に過ごした時間は短かったが、確かに愛されていた。
 弟と二人、ロンドン市内のパーク内、両親の見守る前で手を繋いで走り回った過去は、決して作られたものではない。
 半ば機械と化してなお、国家のために脳の容量のほとんどを差し出してなお、男から消し去ることの出来ない記憶だ。いっそ全て消去してしまえば、楽になれるのかもしれないと思ったが、断片のようなそれは未だにハードディスクに残されたままだ。

「僕に愛が理解できるのかと、そう言いたいんだろう、マイクロフト」

 聡すぎる「弟」は、「兄」の胸の内を読み取ったようだった。

「僕はそんなものは知らないし興味などない。愛は人を堕落させる。昇華させるという者もあるかもしれないが、愛のために人間は馬鹿げたことをやるものだ」
「なら、何故ジョン・ワトソンを傍に置く。あれがお前に正しい「愛」を教えてくれるとでも?」

 つとめて穏やかにそう尋ねれば、シャーロックの眉が不快げに寄せられた。打てば響くように返されるはずの言葉は、だが、その口から零れることはなかった。
 ただ、その表情がまるで幼い子供のように変化していくのを、マイクロフトはかすかな驚きを込めて見守った。それはまるで、彼が初めて「シャーロック」として目覚めた時、途方に暮れたように薄い色の双眸を開き、まっさきに「兄」の姿を捉えて動かずにいたあの時のようだった。
 ぽつりと、低い声が洩れる。

「Its all fine」
「シャーロック?」
「ジョンが僕に言った。僕が何でも構わないと」

――君が何でも、僕は構わない。構わないんだよ、シャーロック。

 マイクロフトは絶句した。
 ジョン・ワトソンは、シャーロックが真に何者であるかを知らないはずだ。知ることを許されていない。変わっているとは認識しているだろう。並はずれた記憶力と洞察力も、三日でも四日でも食事を取らずに動ける身体も、思索に耽って何時間でも反応を示さないことも、どれも尋常とは言い難い。だがそれでも、一見普通の人間としかうつらない自分の同居人が、ほぼ一から人の手によって作り出された異端であるなどとは思いも寄らないはずだ。

「…その言葉を鵜呑みにするとでも。ピノッキオが人間にでもなったか、シャーロック」

 諭すように声をかけたマイクロフトに返ってきたのは、鼻で笑う声だった。シャーロックは吐き捨てるように言った。

「馬鹿か。僕は木偶の坊のままだ。あんたにとってそれでいいだろう。ただ、」

 そこまで言ってシャーロックは言葉を途切れさせた。優れた演算機能を備え、躊躇することなく流れるように声を紡ぐアンドロイドにしては極めて珍しい反応だった。
 小さな声がぽつりと零れる。

「…ただ、僕が何者であろうと、その事実はジョンに影響を与えない。僕とジョンの間に、そんなことは重要じゃない。ジョンは僕に左右されない。彼は彼のままだ」
「…だから?」

 尋ねた男を、青灰の双眸が真っ直ぐ捉えた。

「僕も、僕のままでいられる」

 静かに、どこまでも沈み込むように告げられた声に、マイクロフトは吐息を洩らした。この弟を、今初めて哀れだと思い、そしてなおも愛しいと思った。ならば、だからこそ言わねばならない。それこそが己の役目だ。

「それは無意味なことだよシャーロック。部品は部品だけでは動かないのだから。抜け出て、個を主張して、そして何になる。お前は何者でありたいんだね、シャーロック」
「さあ。あんた以外のものであれれば、今はそれでいい。秩序や調和なんて、僕には無意味なものだ」
「お前こそが秩序と調和で組み上げられたものだというのに不思議なことをいう。実に愚かしいね、シャーロック」

 所詮はアンドロイドだ。政府の中枢に関与しているとはいえ、マイクロフト自身もまた国の部品でしかない。
 人を越えた能力は、それでも人によってコントロールされている。
 脳内にチップが埋め込まれていること、チップを自在に破壊できるスイッチをもっとも敬愛する主君が持っていることを、マイクロフトはよく知っている。
 その現状に不満を唱えようと思ったことはない。何故ならそれが自分という「モノ」だからだ。

「なるほど、あんたは確かに完璧なアンドロイドだ。僕とは違う」

 シャーロックはもはやマイクロフトに反論を加えなかった。どこか諦めたような微笑みが厚めの唇に閃き、皮肉っぽく片端を押し上げる。彼はすでに、揺らぐような心許ない少年の眼差しをすっかりとぬぐい去っていた。
 硬質で侵しがたい空気で全身を覆い、挑発的で鋭い目線が青みを帯びた灰色の剣となって正面からマイクロフトを射抜く。

「ならば僕は愚かで結構。僕とあんたは違う。不完全な『弟』は嫌いだろう?どうかあんたの人生が完璧であらんことを。もし用がこれだけだというのなら、僕は失礼する。…『兄さん』」

 そう言い捨てて身を返す。長身を包む漆黒が羽根のように揺らめき、ばさりと音を立てた。通りに向かって歩き出したその背中にマイクロフトが声をかける。

「また近いうちに会うだろうよ、『シャーロック』。そもそも、一人でいることを…ジョンと共にいることを許可としたといっても、監視の目から逃れられるとは思うな。それが研究所からお前を出す条件だったはずだ」

 本来なら、ジョン・ワトソンにも監視プログラムを埋め込むはずだった。だが、あの男の意志がマイクロフトを正面からはねつけた。確かに何とも興味深い男だ。
 兄の呼びかけに足を止めて、シャーロックは顔だけをこちらに向けて目を細めた。夜道を照らす灯の光を受けて、男の虹彩がちかりと瞬く。

「覚えているさ、兄さん」

 ここに完璧にインストールされていると、細く長い人差し指で自分のこめかみをとんとんと突き、皮肉っぽく笑う。
 その笑みは、とてもアンドロイドとは思えぬほどすれていて、そして人間くさいものだった。



     ***




 それきり一度も振り返ることなく黒いコートを翻して去った弟を見送ってから、マイクロフトは懐から携帯電話を取り出した。
 さて、次の仕事に取りかからなければならない。
 起動した画面にアンシアと呼びかければ、それが声紋照合となる。
 液晶画面に「ANTHEA」の文字が浮かび上がり、「イエス、サー」の文字が刻まれた。

「私はどこに行けばいいかね?」

 そう問いかければ即座に次の単語が羅列されていく。

――今から30分後に大臣との面談です。ここへ車を寄越します。お待ちを、サー。

 20秒も経たぬうちに滑り込んできた車が停止すると共に、後ろ座席のドアが自動で開く。
 ゆったりとした座席に背中を預ければ、ドアが閉じ、車が音もなく発進した。
 運転席に当たる場所には、本来いるべき運転手の姿はない。全てが自動制御されたこの車もまた、演算機能を持つアンドロイドの一つの形だった。

 完璧なもの。完璧な秘書。完璧な車。完璧な世界。

 ただ一つ、完璧な家族を男は持たない。だがそれで良いのかもしれなかった。
 歪みをこそ求め、欠陥を抱えた男に惹かれていったアンドロイドを思う。欠陥を抱えた人間と、完璧であるはずの頭脳とボディに欠陥を抱えたアンドロイド。

 望む望まざるに関わらず生み出されたアンドロイドの中で、自らの意志で研究所を抜け出た存在は、おそらくシャーロック限りだろう。彼以前に唯一、ある反社会組織に所属していた男の脳をベースに試験的に作られたアンドロイドがいたが、思想上の根本的問題を解決できず、作られてわずかも経たずにフォールされている。完全廃棄されたはずのそれが何者かによって拾い上げられ、監視の手を逃れてロンドンのどこかで潜んでいるという情報を得ているが、未だ保留だ。いずれ手を打たねばならぬ日がくるだろう。

 まずは全てを監視し、見届けなければ。それこそがマイクロフトに与えられた使命だ。
 ロンドンの闇は深い。人が行き交う街の影に機械が蠢いて、国を支え、あるいは脅かし揺らがせる。
 さてはて、人の中へと解き放たれたアンドロイドが一体どんな結末を迎えるのやらと、マイクロフトは口元に笑みを浮かべて目を閉じた。


- end -


2013/11/27
S2でアンシアちゃんが出てこないのはなんでだろうという妄想から始まったパラレル。多分アンドロイドなんやでアンシアちゃんって思ってました。
アンドロイドなシャーロックとジョンの日常生活、そしてライヘンバッハがみたいです。

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