「何?診察の日じゃない?」
ジョンは、ぽかんとしたまま、もう一度聞き返した。
「本当に?」
いつものように朝一番に診療所に行き、準備をするべく割り当てられた診察室向かおうとしたところ、慌てた様子のサラに呼び止められた。
「ごめんなさいジョン。シフトが間違っていたの」
「僕が見たときは確かに」
渡されたシフト表を思い返しながら再度確認すると、サラは申し訳なさそうに首を振った。
「こちらのミスよ。あなたは悪くない」
サラも出勤して、先ほど気づいたばかりということで、連絡する間もなかったのだという。
「シフトを打ち直す時に、入力を書き換えてしまったのね。確認し直せば良かったんだけど」
「あー…」
「どうする?もし良ければ、午後から入ってもらってもいいんだけど」
そう提案され、ジョンはわずかほど思案した。そして一つ頷くと心配そうにこちらを伺っているサラに笑いかける。
「…いや、今日は帰るよ」
「せっかく来てもらったのに」
「明日はシフト通りでいいんだよね」
「ええ、それは間違いないわ。本当になんて言ったらいいか」
「気にしないで。降ってわいた休日だ。プレゼントだと思っておくよ」
今度お詫びさせてねというサラの申し出をありがたく受け取り、ジョンは病院を後にした。
***
――さてどうするか。
結果的に仕事場から放り出されてしまったジョンは、突然ぽっかりと出来た時間に、どうしたものかと考えてしまった。
まだ朝も早い時間だ。だがこれから全く何の予定もない。あえて気になるのは、腹が空き始めているということくらいだ。
昨晩は、シャーロックに付き合わされて散々調べ物をした。寝たのは明け方も近い時間だ。先に寝てもと言われたのだが、なら自分もやると売られてもいない喧嘩を買うようについつい協力してしまったのがいけなかった。
この辺りの性格を、どうも上手い具合に利用されている気がするが、結局は自分で選択した結果なので、シャーロックを恨む気にはなれない。
当然のように寝坊し、ハドソン夫人が用意してくれた朝食もほとんど食べられないまま飛び出してきたのだ。
ジョンにとって朝食は大切なエネルギー源だ。もともと食べることが好きでもある。泣く泣く皿にのこしてきたベーコンとエッグがはさまった焼きたてのマフィンを思い出して、ジョンは少し切なくなった。元凶の同居人はまだ寝ていたはずだ。
――戻ってもう一度朝食を食べる。それから寝直す。
一番妥当な案だ。しかし、そうしてしまうのもまた悔しかった。今日は珍しくすっきりと晴れている。薄い青が雲の向うに見えていた。つまり外出日和だ。
ひとまず駅の方まで散歩してみようと考え、メリルボーン駅の方角を目指すことにした。途中でどこか店に入って朝食を摂ってもいい。帰って寝るのはいつでも出来る。通勤時間ということもあってか、人通りは多い。そんな中を、ジョンは人の波に乗るようにしてぶらぶらと歩き始める。そうして駅に近づいた時だった。
――シャーロックか?
見慣れた人影を見つけて、ジョンは目を丸くした。
まだ寝ていると思っていた同居人が、通りの向うに立っている。何かを探しているのか、きょろきょろと辺りを見回している。人混みの中でもふと目を引くというか、良くも悪くも浮いているシャーロックを、たまたま偶然見つけたという事実は、何となくジョンを愉快な気持ちにさせた。
声をかけるにはやや距離が離れていた。追いかけるには、人の流れをかき分けていくしかない。どうしたものかと考えていると、シャーロックは歩き出した。思わず見失わないようにと追いかける。
シャーロックは歩きながら電話をかけはじめたようだった。どうもこれから用事でもあるのか。スコットランドヤードか、それともバーツで実験か。依頼の件で、個人的な調査でもあるのかもしれない。駅に向かっているということは、地下鉄に乗るのだろうか。普段タクシーで移動することは多いシャーロックには珍しい。となると、やはりこの近辺に仕事でもあるのか。
シャーロックとの間にある距離は、頑張って追いつけないほどのものではない。だが、何となしにジョンはシャーロックを尾行するのが面白くなってきていた。折角ならこのままどこまで行くのか確認するのもいい。そう考えて後をつけていたのだが。
ふと気を抜いた瞬間に、あっさりシャーロックの姿は人混みに紛れて見えなくなってしまった。
やや茫然とし、同時にがっかりする。
――全く何をやってるんだ、僕は。
やがて、自分がやっていることの馬鹿馬鹿しさに気づき、ジョンは苦笑した。同居人の尾行を続けるというのもおかしな話だ。とっとと連絡を取ればいい。彼に予定があるならそれでいいし、もし可能なら自分も同行すればいいのだ。
そう決めて道の脇に立ち止まり、携帯電話に手を伸ばそうとした時。
「何をしてるんだ、ジョン」
やや高いところから降ってきた声にジョンは仰天し、危うく腰を抜かして転倒しそうになった。振り向けば、すぐ背後に先ほどまで前にいたはずのシャーロックが立っていた。
唐突に現れた同居人を見上げ、ジョンは数度口をぱくぱくと開閉させると、やっとのことで叫んだ。
「…なん…何で君が僕の後ろにいるんだ!」
ジョンの大声に、シャーロックはうるさそうに顔を顰めた。全く腹立たしいことこの上ない。だが、彼が眉を寄せたのは、どうもそれだけではないようだった。
「それは僕の台詞だ。どうして僕の後ろをついてくるんだ。歩幅を緩めても近づいてくる様子もないし」
とりあえず合流するために先回りをさせてもらったと、そう説明したシャーロックに、ジョンは思わず呻き声を上げた。
「だからって背後から回るなよ…驚くだろ!」
「この人の多い時間に逆行するのは面倒だ。路地を使えばスムーズに君に近づける。もしかして僕を尾行していたつもりか? あんな分かりやすい追跡じゃ、すぐに対象者に気づかれるぞ」
「尾行なんて大それたもんじゃない。たまたま君をみかけたんだ。…なんだって、分かりやすい?」
シャーロックの台詞に、ジョンは目を剥いた。
「もしかして気づいてた? どうやって?」
「道のあちこちにあるガラスや窓に君の姿が映ってたよ。それと足音。君の歩き方には癖がある。いや、君に限らずだ。人には誰であれ癖というものが存在する。歩き方もそうだ。かかとから踏みだす人、つま先から歩く人。叩きつけるように足を踏み鳴らして歩く人間もいれば、まるで猫のように静かに歩く人間もいる。君は軍人上がりのせいもあってかきびきびと歩く。それは角を曲がるときに顕著だ。特に小走りになると」
「シャーロック、ちょっと待ってくれ」
「何故遮るんだ、ジョン。僕は」
「シャーロック!!」
再度声を張り上げて、それ以上語るのを強引に止めさせる。一度息を吐き、頭を振ってからもう一度吸い込んで、ジョンは両手を広げて叫んだ。
「ここは、雑踏だぞ…!?」
その横を、パァンとクラクションを鳴らしながら二階建てバスが走り抜けていった。
ジョンの声に、シャーロックは首を傾げたようだった。薄い色素を湛えたブルーアイが不思議そうに二度、瞬く。太陽の光を受けた瞳は、まるでビー玉のように澄み切っていて、シャーロックの持つ幼子のような一面をくっきりと浮かび上がらせていた。
その印象そのままに、シャーロックは続けた。
「…だから?」
相棒の返答に眩暈を覚え、こめかみを押さえて一呼吸をすると、ジョンはもう一度叫んだ。耳元でよく聞こえるように。
「だから! ここは雑踏の中だと言ってるんだ!」
だが、シャーロックは呆れたような色を浮かべただけだった。一体何を馬鹿げたことをと言わんばかりだった。いや、続けた一言はそう言ったも同じだった。彼は極めて冷静な声で告げた。
「すまない、ジョン。そんなことは見なくてもわかる」
「……」
駄目だ、話が通じない。この男が見ているものと己が見ているものとは、どうも大変に次元が違いすぎる。
「わかってないよ、君は!」
「何がわかってないって言うんだ」
不貞腐れたシャーロックに、まるで子供に言い聞かせるような口調で語りかける。
「いいか、シャーロック。君も認識しているように、ここは朝の混雑だ。ただでさえ人通りが多いストリートだけど、通勤ラッシュのこの時間帯は人混みのピークだ。音も色も匂いも頭が痛くなるくらいに溢れてる」
「その通りだ、ジョン」
シャーロックは素直に頷いた。
「普段使っていない頭からひねり出したとは思えないほど、今日の君の観察力は冴え渡っている。実に正確だ」
二言も三言も多い、賛辞とは到底思えぬ真面目な罵倒を、ひとまずジョンは受け流した。腹立たしいことこの上ないが、今ここで突っかかっていては話が進まない。
――落ち着けジョン・ワトソン。今は落ち着く時だ。
とはいえ。深く呼吸を繰り返し、吐き出した声は、どうも疲労を隠せないものだった。脱力と共にジョンは尋ねた。
「じゃあ、どうしてその中で、僕の顔を見つけられた上に、足音まで聞き取れるっていうんだ…」
「…君を認識できた理由?」
ジョンの訴えは、やっとシャーロックに届いたようだった。あぁと得心したように頷き、シャーロックは呟いた。
「そんなことか」
「そんなことじゃないだろ。わかった、君の兄さんだな。僕が君の後ろにいるのを見つけて君に教えた」
「それこそ馬鹿な話だ。マイクロフトはわかっている答えをわざわざ僕に教えるような人間じゃない。わかりにくいヒントで僕を振り回して楽しむだろうさ」
「……それは…うん。確かに」
全く真意の読み取れない微笑みを絶やさない件の人物を思い返して、ジョンは返答につまり、シャーロックの指摘に素直に同意した。
「うん。それはないな。ごめん」
正直に詫びる。シャーロックはジョンを見つめ、幾度か目を瞬かせたが、それ以上を述べることはせず、ごくシンプルな返答だけを寄越してきた。
「いや別に」
構わないけど、と続けたシャーロックにジョンは疑問をぶつけた。
「じゃあ、どうして僕だってわかったんだ。距離は十分に取っていたし、僕が診療に出かけるのを君は見ていた。そのあとの君に、僕の事情がわかってたはずはないだろ。僕がこの駅まで来るなんて、君には推理できない…」
「君だと思ったんだ」
「……は?」
遮るようにして呟かれた予想外の答えに、ジョンは間抜けな声を洩らしてぽかんとシャーロックの顔を見上げた。
――思ったって。誰が。…何を。
「君がいると思ったんだ、ジョン」
「シャーロック、なんだって?」
シャーロックは眉根に皺を寄せ、難しい顔をしている。大変珍しいことに、どうやらこの事実はシャーロックにも納得がいかないようだった。
「最初は気のせいだろうと思った。君が言う通り、今は朝の混雑時だ。念のため患者の振りをして君の診療所に予約の電話を入れてみた。ワトソンという医者の診療日はいつかってね。そしたら今日、君は休みということになっていた。シフト調整の上で、何が手違いがあったんだろう。君はその事実を出勤してから知らされた。つまり完全に空振り。足りない睡眠時間を補うために帰宅を考えたかもしれないが、今日はこの季節には珍しく天気もいいし外出日よりだ。朝食をゆっくり取る時間もなかったようだし、どこかで店に入ろうと思うかもしれない。急きょ休みになった君が、このあたりにいる可能性は十分ある。僕の直感が正しいとすれば、君は確かに周りにいるはずだと考えた。…結果、僕は間違っていなかった」
最後だけは殊更に断言するような口調だった。そして何か問題はあるかとジョンに尋ねる。
「いつ、僕がいるかもって気づいたんだ」
「メインストリートに入ったとき」
「…あぁ、そう…」
それでは、ほとんど最初からバレていたということになる。いや、もしかしてジョンがシャーロックに気づくよりも早かったのではないか。…まさか。
「ひょっとして、僕がいるかもって周りを見回した?」
「そうだな」
雑踏の中の同居人を発見して、すこしだけ楽しい気分になっていたジョンは、何ともいえない気分になった。
「非科学的だ。君らしくない」
「科学的だろう。僕は様々な証拠から君がここにいるという憶測を立てた。その証拠を裏付け確信し、君を見つけた。何も間違ってない」
「僕がいるって、思ったじゃないか」
揚げ足を取るつもりではないが、理屈を超えたところで、シャーロックが自分に気づいたのだと証明してやりたくて、ジョンは食い下がった。
「理屈じゃないんだろ」
「そういう結論は不愉快だ」
「割り切れないこともあるって、いい加減認めろよ」
「……」
「……」
人混みから外れた路地で、互いににらみ合ったまま暫し対峙し、やがて諦めたように視線を逸らしたのはシャーロックの方だった。
「一応、一意見として覚えておく」
「是非」
ジョンの返答に口端を歪めるようにして笑い、ところでとシャーロックは切り出した。
「朝の様子だと満足に朝食を食べられなかったんだろう?せっかくだから、Breakfastを一緒にどうだ」
その提案にジョンも心から賛同する。
「いいね、正直ペコペコだ。君は食べなかったのか?」
「…寝坊したせいで、片づけられた」
「なるほどね。で、この辺りだとどんな店がある?」
「そうだな。パンは不味いがコーヒーが美味い店。パンは美味いがコーヒーが不味い店」
「…美味いコーヒーが飲みたいね」
「僕も同意見だ」
空っぽになった予定と今更主張し始めた胃袋を適当に埋めるべく、背の高い探偵と小柄な助手は朝の雑踏の中を並んで歩き出した。
***
ふと、目が覚めた。
瞬きを繰り返し、ゆっくりとクリアになっていく視界の中で、自分の居場所をぼんやり確認する。
診療から戻って、ソファでくつろいでいるうちに眠り込んでいたらしかった。転た寝のせいで、身体がひどく強ばっている。
外はとっくに暗くなっていた。窓から、道路を行きかう車のヘッドライトの光が繰り返し差し込んでいる。
目を向けた先に、同居人の姿はない。いつもなら細長い身体を伸ばしてだらしなく寝そべっているはずのシャーロックは見あたらず、空っぽのカウチが主の不在を訴えていた。
――まだ、戻ってないのか。
時計を見れば、夜の11時を回ったところだった。
今日は随分帰りが遅い。このまま日付が変わるかもしれないなとそう思いながら、ひとまずコーヒーでも飲もうかと立ち上がる。そこで、ジョンは動きを止めた。一旦考え込んだ後、部屋を出る。
ハドソン夫人もとっくに寝入っているようだった。静けさに満ちたフラットの中を、大きな音を立てないように注意しながら階段を下りていく。出口に辿り着いて、ジョンは躊躇うことなく鍵を外して扉を開けた。
その先には、中に入ろうと鍵を取り出したままの姿勢で立つ、同居人の姿があった。
唐突に開いた扉に、シャーロックは呆気に取られたような顔でいた。そんなに驚いた顔を見るのは珍しいなと、ジョンは素直に思った。
「…どうしたんだ、ジョン」
「君だと、思ったんだ」
「ジョン?」
「君が帰ってきたんだと思ったんだよ、シャーロック」
自分が一体どんな顔でそう告げたのか、ジョンには分からなかった。だが、酷く高揚した気分だった。訳が分からず、飛び上がりたい気持ちだった。
恐らく笑いながらそう言ったのだろうジョンを、暫しシャーロックは目を見開いたまま見下ろしていたが、やがて首を傾げて問い返した。
「それは推理?」
「直観かな」
「非科学的だ」
「僕もそう思うよ」
――あぁ、けれど。
理屈ではないのだ、きっと。理屈ではないところで、自分はこの男を感じ取っている。それだけ、近くに来てしまったのだ。今更離れることなどできない。そういうことなのだ。
シャーロックは口を閉ざし、僅かに考えたような様子を見せたあと、不意に目元を細めた。
「…確かに、直感というのは侮れないかもな」
「だろ?」
「新しい発見だ」
「そうだろうな」
顔を見合わせ、そうして互いに笑う。
「おかえり、シャーロック」
「ただいま、ジョン」
- end -