WhirlWind

廃図書館のゴースト

Finch & Reese


「随分と立派なベッドだね、リース君」
降りてきた声に小さく笑い、微かに目を細めて上を見上げる。
「おはよう、フィンチ」
首を僅か動かせば、散らばる本に囲まれて壁に預けていたままの背がみしりと軋んだ。上掛けは肩にかけただけ。息を吸えば冷えた空気に臟腑が震える。
物音がした時点でとっくに目は覚めていた。そもそも、深い眠りと呼べるものを久しく身体に許してはいない。
薄暗い図書館に柔らかく差し込む朝の光は、館内を照らすにはまだあまりにも弱々しかった。相棒の立つ場所は逆光になっており、本棚が作り出す影もあって、その表情は全く伺えない。だが、声がかすかに強ばっているのははっきりと感じられた。
あぁ、さぞ不安だろう。己の理性に寄らぬところで、何かを晒してしまったかもしれないというのは。その恐怖と苛立ちを己は知っている。だからこそ、触れない。普段と同じように挨拶をする。それでも、相手の強ばりは解けなかった。
昨晩、鎧のように覆われた男の心の壁が、ほんのわずかに綻びた。外部の力によってこじあけられた、その微かな隙間から覗いた柔らかな一片。
話をしようと呼び止めてきた相棒に、それ以上語るなと制したのは、己のためでもあったのだと、今ならわかる。あんなものに触れてしまったとき、どんな対応をすればいいのか、自分にも未だ判断がつきかねた。また、そこに達することをまだ許されてはいないことも知っていた。
時折手元に落ちてくるささやかな「秘密」は、こちらが探る体をとってはいるが、実のところ男の許しによって与えられるものだ。彼が望まなければ、好みの飲物一つ、自分が知ることはない。
だが、昨日のあれは違う。勝手に手を伸ばせば奪ったことにすらなりかねない。一見御しやすそうでいて、その実は頑な。悲壮なほど鋭く尖った矜持を胸に抱いているらしき男の、自尊心を踏みにじりたくはなかった。容易く踏み込まれてはならぬ領域を抱えているのは己もまた同じだ。それでいて彼と己が「違う」ことも本能で察していた。
床から舞い上がる無数の埃が光をまとって煌めくのが見える。朝日に透けるそれを目に映しながら、なかなか寝心地はよかったと返してやると、相棒の纏う空気が更に固さを帯びた。あぁ嫌みを言ったつもりはないのだけれど。ここで冷戦状態になるのはさすがにごめんだ。
「フィンチ、あんたは眠れたか。体調に問題は」
出来るだけ穏やかに尋ねてみると、僅かの沈黙の後に返事が寄越される。
「…ない。多少疲れが残るが、それ以外は良好だよ」
「それは良かった」
昨晩、完全に寝入るのを把握するまで、何かあれば駆けつけられる、それでいて向うからは死角になるこの場所で、ずっと相棒の様子に意識を傾けていた。時折何かを話す声が聞こえたが、それ以上の…例えば呻き声や嘔吐するような気配はなかった。今も視認できる限りで副作用の様子が見当たらないことに密かに安堵する。とりあえず水を飲むようにと口を開きかけたが、相手の言葉が先だった。
「それで君はここで何を?」
彼は昨晩のことを全く覚えていないようだった。あぁ、それでいい。そうであるべきだ。
だが、何と答えたものか。帰り損ねたと適当に言おうか。しばし逡巡していると、重ねて問われる。
「夜の図書館でゴースト退治でも?」
「ゴースト?」
予想外の単語に我ながら間抜けな声が洩れた。
「…ゴーストが出るのか、ここは」
「噂を聞いたことがないのか? 図書館にはつきものだろう。古い文化の集合体は、時に様々なものを呼び込む」
目に見えるものさえ容易く信じようとしない人間が何をいう。やたら神妙に告げられた内容に、それが本気か冗談なのかを図りかね、一瞬黙りこんでから微かに口許を緩める。
「ゴーストか。…あぁ、ゴーストならみた」
「リース君?」
まさか、正面から肯定されるとは思っていなかったのか。ややたじろぐ気配がしたが、そうだ、ゴーストだと胸の内で静かに頷く。
あれは、きっと過去から飛んできた。本来ここにあるはずがないもの。遠く去って、きっともう二度と戻ることのないものなのだ。
「無邪気で、よく笑うゴーストだった」
相棒を見上げて笑う。
いつしか高く昇り、輝きと明るさを増した朝日は、相棒の顔を先程よりもはっきりと照らし出す。
林立する本棚の間に立ち、大きく目を見開いたその表情は、多少の憔悴を刻みつつも幾らか昨夜の名残を残していて、まるで迷子の子供のように映った。だが、それも一瞬のことで、全ては漣のようにかき消える。
昨夜見た、今からすれば幻にすら思えるあの屈託のない笑顔とは無縁の、気難しげな表情を浮かべて首をかしげる男に、ほんのかすかによぎった胸の痛みを、今は記憶の奥底に閉じ込めた。
彼が呼んでいた一つの名前と共に。


- end -


2013/11
>(S1/ep18より)

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