WhirlWind

パンケーキの逆襲

Sherlock & John


 全くどうしてこうなったんだろうかと、シャーロックは考えた。

 考えながら飛びかかってきた拳を顔を逸らして受け流し、がらあきになった相手の胸元に自分の拳を真っ直ぐ突き入れる。響く、骨と肉がぶつかる鈍い音。
げぇっと呻いた声の、その耳障りな雑音に思わず顔が歪む。

「うるさい」

 大きな溜め息と共に吐き捨て、胸元を押さえて転がった相手の鳩尾を更に蹴りつけると、相手はとうとう泡を噴いて失神した。
 全く容赦のない行為にさすがに恐れをなしたか、シャーロックを取り巻いていた残りの男たちが、蹈鞴を踏んで一歩下がった。それでも逃げることはしない。
間合いをはかり、次に飛びかかるタイミングを計算している。

 ――残りは五人。

 冷静に計算をしながら、シャーロックはくそっと舌打ちをした。


***


 下手を打った自覚はある。

 どうしてこうなったんだと恨み言を呟きつつも、何故自分がこんな状況に陥る羽目になったかについて、その過程をシャーロックは大変よく理解していた。

 事件解決までの糸口を見つけ、最後にまとめて片づける。ただ今回、そこまでの流れがどうもうまく行きすぎてしまったのである。つまりタイミングが悪かった。あまりにも事がスムーズに運んだことを、もっと考慮しておくべきだったと、奥歯を噛みしめる。

 事の起こりは、路地裏で発見された一体の死体。刺殺されたと思われるそれは、二十代半ばの男性のもので、遺体状況から判断するに、仲間内の諍いが原因で殺されたものだろうと推測された。問題はそこからで、死んだ男が麻薬の売人であることが発覚したのである。となれば、仲間内の諍いとは、売人同士で揉め事が起こったということ。当然背後には、麻薬の流通組織が存在していることになる。俄然、ヤードは色めき立ち、組織の解明と、彼らの活動拠点を突き止めることに全力を傾けた。

 シャーロックは、男の遺体からあっさりと幾つかのアジトを割り出し、ヤードはその全てを張り込んだ。数日間動きを見張り続け、動きがあったのが昨日のこと。拠点となるアジトは更に絞られ、警察は一斉検挙を断行することにした。
検挙の方はヤードに任せ、シャーロックは検挙候補から外れたアジトに潜入することにした。郊外にほど近いバラック の一つだ。まずは外から様子をと周囲を見て回り、ついで薄暗い中に踏み込んだところ、そこでまさかの手下との鉢合わせ。無人だと思いこんでいたアジトには、捜査を逃れた数人が潜んでいたのであった。


 ――君たちがのろのろとしているからだ!!


 この間抜け! とシャーロックは咆えた。挑発とはいえ、紛れもない本心でもある。
 警察が動くのを察知した時点でとっとと逃げ出していてくれれば、ここで鉢合わせすることもなかった。シャーロックの予測では、このアジトには確かに下っ端の連中が出入りしており、警察の陽動作戦で、この一帯からは引き上げているはずだった。彼らが逃げ出した後、巨魁を引きずり出すための証拠を拾い上げるつもりで一人潜入したのだ。
それがどうして未だにこんなところでうろうろとしているのか。

 麻薬組織の常で、どんなに手がかりを見つけようとも、それが巣穴のボスに辿り着く可能性は少ない。時にネズミの尻尾を掴まされ、或いはイタチごっことなり、そうこうするうちに別の流通ルートが生まれてしまう。ヤードは、今度こそ組織の一つを根源から叩き潰せる機会と息巻いており、シャーロックはシャーロックで、暇つぶしには大変良さそうだと勝手に判断して首を突っ込んだ。残る痕跡がどんな小さなものでも突き止めてやろうと踏み込んだ先のこのハプニング。

 計算が確実に狂ってしまったことを、シャーロックは歯噛みしながらも認めざるを得なかった。

 ちなみにジョンは、検挙現場の方にいて、状況を知らせてくれる予定になっていた。そんなわけで近くにはいない。空のアジトを確認しにいくと言ったシャーロックに、ジョンは僕も行くと主張したのだが、一人で十分だと言い切ったのはシャーロックだ。潜入する前には一応連絡しろと言われていたのが、それを怠ったのもシャーロックだった。つまりは全て自業自得。チョモランマほどには高いと自覚しているプライドがきりきりと悲鳴を上げている。

 そして、その苛立ちは、目の前のチンピラ達にいかんなく向けられた。光が差しこまぬ家屋は、相手の顔を判別し辛いレベルで薄暗い。とはいえ、シャーロックの目は薄闇に慣れ始めており、屋内の様子を正確に捉えていた。

 相手は先ほど蹴り倒した男を入れて合わせて六人。うち四人は素手で、残る二人は鈍器を手にしている。年齢は二十代から四十代ほどとまちまちだ。何れも身なりは崩れていて、その眼差しは昏かった。

 シャーロックはやれやれと溜め息を吐いた。自らの失態が招いたこととはいえ、こうなった以上、このままあっさりと逃げられても困る。こちらが情報を把握しきるまではただの一人もだ。
殊更に挑発するように、吐き捨てるような笑いを飛ばす。

「どうした。この程度で怖じ気づいたのか」

 一人きりの相手からあからさまに喧嘩を売られ、あっさり沈められた仲間の姿に一時的に茫然としていた男たちは、怒りの声を上げた。再び立ち向かってこようとするのを、冷静に観察する。

 一見して場慣れした感じを受けるが、実際に対峙してみると男たちはどうも戦闘能力に長けた存在とも言えなかった。有象無象、寄せ集め、烏合の衆。そういった単語が当てはまる集団。
 悪事に手を染める覚悟があるなら、それ相応の技術も身につけておくべきだ。そんな発想もないのか。そもそも自分たちのやり方について常に成功しか頭になかったのか。
 そのくせ傷つけられたプライドに反発を覚えるだけの余計な思考力はしっかり持ちあわせており、中途半端に組織されている。その数も少ないわけではなく、結果的に極めて面倒くさい状況を作り出していた。一人一人の戦闘能力がさほどではなくとも、まとめてかかってこられれば相手はしづらい。

 悪党が拠点にする場所の定番、倉庫を思わせる雑多な空間の隙間を利用して、一対一の状況を作り出し、個撃破を図ることにする。多勢に無勢の常套手段だ。
シャーロックは首元のマフラーを抜き取り、懐にしまい込むと、呼吸を整えながら静かに戦闘に備えた。


「っの野郎…!!」


 素手の一人が唸り声を上げ、シャーロックに向かってきたのがゴングとなった。

 動体視力と桁外れの情報把握能力を駆使して、かかってくる男の足下を見る。重心がやや左に寄っている。握る拳は左。髪の整え方、顔ひげのそり跡からしても左利きだ。となればがら空きになるのは右。
 繰り出される拳と蹴りを、受けつつも流しながら、相手が隙を見せるのを待つ。
 男が左足に重心をかけた所を見計らって、右足を思い切り蹴りつけた。あっさりと相手はバランスを崩して地面に倒れ込む。人体の急所は知り尽くしている。鳩尾につま先をめり込ませれば男は悶絶して胃液を吐き散らしながら転げ回った。暫くは立ち上がれないだろう。これで一人。

 次の一人は、上段からシャーロックに得物を振りかぶってきた。鉄パイプだ。それをシャーロックは身を屈めることでかわした。鉄パイプが壁にぶつかり、鈍い音が響く。パイプの切っ先ががりがりと壁をひっかいた。懐ががら空きになったところに飛び込んで体当たりをかます。

「うっわ……」

 ふらついた男をふんと鼻を鳴らして見下ろす。

「鉄パイプを振り回すなんて実に愚かだ。周りをよく見ろ。屋内で使うには間合いが長すぎる。せっかく人間として生まれてきたのならもう少し頭を使ったらどうだ。棒を振り回すだけなら猿だって出来る」

 馬鹿がと言い捨てた言葉は、当然相手を激昂させた。

 男はパイプを投げ捨て、素手でシャーロックに振りかぶる。が、相手の顔にシャーロックの蹴りが決まる方が早かった。ホームズ家の長身と手足の長さを、こんなときだけ感謝してやる。男は自分の腕の短さを恨めばいい。顔面でシャーロックの靴底を受け止めた男は、ぶっと呻いて二三歩蹌踉めいた。倒れ込まなかったのは誉められるべきだろう。鼻から血が滲んでいる。前歯も折れているに違いない。男の無様に薄汚れた顔に、シャーロックがまるで道ばたのゴミを見るかのような目つきを寄越したのが気に障ったのか、男は切った口内から溢れた血液混じりの唾液を地面に吐き捨てると、言葉にならない雄叫びを上げてもう一度シャーロックに飛びかかろう…とするところを、再度脚を振り上げ、今度は側頭部から回し蹴りを決める。相手は綺麗に吹き飛んで地に沈んだ。これで二人。

「…は…っ」

 軽く息を吐いたところで、耳を空気が唸る音が掠める。振り返った先に、拳が顔面に迫っていた。

「なめやがってこのやろう…!!」

 実に貧困なボキャブラリと共に繰り出された攻撃を避ける余裕はないと判断し、その一撃をシャーロックは甘んじて受けた。

「くっ…」

 頬に衝撃が走り、息が詰まった。ちかちかと目の裏で星が点滅する。勢いを殺すことで多少の威力は受け流したが、それでも数歩蹌踉めくには十分だった。

「どうだ! 少しは堪えたかよ…!」

 拳が決まったことで、相手が興奮して喚く。

 血の混じった唾液を地面に吐き捨て、はっとシャーロックは笑った。凄絶な笑みを浮かべて相手を正面から見据える。色素の薄い瞳は、闇の中でも僅かな光を反射して夜道を行く獣のように煌めいている。その爛々とした瞳の強さに男は思わず怯んだ。その間がいけなかった。

「ジョンの拳の方が重い」

 そう言い切ると、シャーロックは拳を思い切り振りかぶった。恨みは倍以上に返せとばかりに男の頬を殴り飛ばす。
相手は余程「誰だよ、ジョンって…!」と叫びたかったに違いないが、大変残念なことにそれを許されることなく地面にひっくり返った。

「Hum…! こんなものか。犯罪を犯そうっていうのならそれ相応の用意をしておけ、この馬鹿!」

 やや息を切らせつつも、思う存分に相手を罵りながら、急所を見極めて最小限の力で弱みを突く。
結局のところ、シャーロックにとっては肉弾戦も頭脳戦であった。

 資格を取得しているとはいえ、シャーロックにとって戦闘術とは自衛及び多少の荒事に対処するための方法の一つであり、習得技術の最優先事項にはない。棒術・ボクシング・剣術にそれなりに通じているものの、それらは植物学や科学、地質学、解剖学の知識を得ることと同義に近い。修学の延長だ。使える知識は多ければ多いほど良い。自らが用いるだけでなく、いかにして人が殺されたかの課程を推理することにも役立つからだ。

 もっとも、東洋の武術を更に会得したのは、精神論をも兼ねていると聞いたからだ。
 戦場で、己の精神をコントロールし、常の頭脳を引き出して戦闘に生かす。
 その術さえ学べれば、相当の「武術」が得られると踏んだ。実際にその通りで、どんな状況でも何とかやれる程度の技量はあるし、多少の場数を踏んでいるおかげで経験値もある。

 だが、それでもシャーロックはプロではない。荒事の専門家ではないのだ。頭で戦っているようでは、ボードゲーム以上の域を出ない。所詮本当の戦場では通じないだろう。そんなことは自分でよく分かっている。だからそれを補うためにも必死に頭脳をフル回転させ、無駄なく相手を追いつめるようにそれなりの努力を払っているというのに、その相手にここまで蹴散らされる相手を見るのは大変に不愉快だった。

 いらいらする。まったくもっていらいらする。どうしてどいつもこいつも馬鹿なのか。1には1を返す、ただそれだけ。攻撃にはただ反撃を返すのみなのだ。工夫も何もあったものじゃない。つまらないにも程がある。こちらは肉体よりも頭脳を使いたいというのに。

「どうせ、ここにももうすぐヤードがやってくる。身の処し方をわきまえるんだな!」

 そう叫ぶと、傍にあった木箱をおもむろに蹴りつける。腐りかけの木箱は、辺りを響かせながら大きな音と共に崩壊した。はったりというよりは癇癪を爆発させた行為であったが、威嚇には十分であったらしい。一人は得物から手を離し、じりじりと後ろに下がったと思う間もなく、脱兎の如く逃げ出した。
逃げるかどうすべきか迷っている男が一人残ったが、つかつかと歩み寄り間を詰めると襟元を掴んで頭突きを喰らわせてやった。頭の固さには自信がある。
 男の目がゆらゆらと彷徨い、やがて白目を剥いてひっくり返った。

「っ…はっ……はぁっ……」

 肩で息を吐きながら、口元を袖で覆い呼吸を整える。
 立て続けに数人を相手にしたせいで、シャーロックの息は上がっていた。満身創痍というわけではないが、それなりに相手の拳や蹴りを食らっているせいで、身体のあちこちがずきずきと痛む。コートは埃と泥で薄汚れていて、髪の毛も当然ぼさついていた。汗ばんだ髪を左手でがしがしとかき回す。全くスマートさの欠片もない。とりわけ左頬が痛んだ。出来るだけ勢いを受け流したつもりだったが、口を僅かに動かすだけでずきりと筋肉が悲鳴を上げる。明日になれば変色して腫れ上がっているだろう。出来るだけ早く冷やせればいいのだけれど。

 男たちの特徴は全て頭に叩き込んである。ヤードの包囲網を逃れたとしても、シャーロックの目を逃れることはできない。逃げ出した数人の男たちも、すぐに身元を割り出して逮捕できるだろう。残る問題はあと一つ。
何とか息を整え、踵を返して建物の奥へ進もうとしたその時だった。


「ここまでだ」


 ごりとステンレスの冷たい感触がこめかみに押しつけられる。

「―――っ」

 内心でシャーロックは盛大な舌打ちをした。気配は分かっていた。もう一人いるのも把握していた。下っ端が残っていた時点で予測していたことだ。彼らは確かに警察の動きを読んでいた。だから普段使わないここに潜んでいたのだ。そんなことがチンピラどもだけに出来るはずはない。状況は取りも直さず幹部の一人がここにいることを、シャーロックに教えていた。

 うっかりとはいえ、間違いなくジョーカーを引き当ててしまったというわけだ。ここまで来たら部下より先に逃げることはしないだろう。シャーロック一人になったところで勝負をしかけてくるだろうと踏んでいた。問題はその場所で、部下を蹴散らすことであぶり出すつもりでいたのだ。――が。

 全く残念なことにシャーロックは動くことができなかったのだった。

 頭脳が問題だったのではない。五感の冴えも完璧だ。
 原因は、より単純で明快。


 ――スタミナ切れであった。


 世界唯一のコンサルタント探偵。自称ソシオパスであろうとも、優秀な頭脳を収める肉体は所詮脆弱な人の身体。男の気配を捉え、こちらから先手を打つはずが、指示を出した身体は2テンポほどずれて脳からの命令を受信し、そしてそのずれたテンポが致命的な隙を生んだ。

 銃口の形を皮膚で味わいながら、そういえば三日ほどろくにものを食べていなかったなと思い出す。
今朝、ジョンはしきりに食べろと煩く喚いていたあれは何だったか。消去しかけていた記憶を必死に引っ張り出す。

 あぁ、そうだ。パンケーキだ。

 シャーロックはようやっと思い出した。

 ジョンが朝から珍しく朝食を作っていて、それがパンケーキだった。卵と小麦、ミルクを混ぜてゆるめの生地を作り、バターを熱く熱したフライパンの上で薄く伸ばしたそれをひたすら焼く。何度も繰り返して出来上がったものが、皿の上で山と積み上がっていた。柔らかな黄色にうっすらついた茶色の焦げ。数枚でいいから口にしろと言われたのに、それでもシャーロックは頑なに拒絶し、臍を曲げたジョンが一人、レモンと砂糖をふりかけながら、くるくるとフォークで巻いて口に運んでいた。

 あれを食べてさえいれば、ここまで無様な醜態をさらすことはなかったかもしれない。少なくとも、もう一手二手を打つことは出来たかもしれない。

 実に認めたくない事実ではあったが、シャーロック・ホームズは今この時、始めて食事の重要性を再認識するのにやぶさかではないという結論にいたった。

 もっとも、食事が大事なのは知っている。だが、シャーロックがそれに従わず、自らのやり方を貫くのは、食事が思考力を鈍らせるという点に加えて、習慣通りにそれを胃袋に押し込めるのが嫌だという、子供の我儘にも似た頑固さゆえであった。それ見たことかという同居人の呆れた顔が視界の端にちらつく。


 ――あぁ、それでこそジョン。君はいつだって正しい。ありきたりで平凡な現実という事実を容赦なく僕に突きつける。食事だとか睡眠だとか、食事だとか食事だとか食事だとか!


「どうせ僕が悪いっていうんだろ…!」
「何を言ってるのかしらんが、いいから屈め」


 思わず内心の呟きを声に出して叫んだシャーロックを、幹部と思われる男は容赦なく蹴りつけた。

 こちらはこちらであれこれと考えて必死だというのに、その思考を邪魔されたシャーロックは、与えられた痛み以上にその妨害に対して苛立った。男の顔が、焼くのを失敗したパンケーキのような造形であるのも、シャーロックの苛立ちを増長させた。薄く伸ばすのを怠り、不格好に分厚く膨れあがってしまった形によく似ている。

 ――僕がパンケーキを食べなかったからか? だからそんな面で目の前に出てくるのか!?

 しかも焦げ目のついたパンケーキだ。最悪だ。もう少し身体が動けば、パンケーキにフォークを突き立てる勢いで、間違いなくその顔面の歪みを決定的なものにしてやったというのに。

 シャーロックは地団太を踏む勢いで悔しがったものの、拳銃を突きつけられては安易に抵抗もできなかった。残る一人が拳銃を持っている可能性は五分五分だった。こちらもまたジョーカーだったわけだ。我ながら引きが強いものだと、冷静さを残した頭脳で溜め息を吐く。
 一応言われた通りに両手を頭の後ろで組んで跪きながら、それもシャーロックは鼻で男をせせら笑った。

「Ha…! 君がこいつらのボスか。もうちょっと部下を教育しておくんだな。もっともこの程度の組織じゃお前の器もたかが知れてる」
「黙れ」
「何故僕が君たちをこうもあっさり特定できたか分かるか? 良かったら教えてやろう。今後の活動の参考にしたらどう?」

 時間稼ぎになるかはわからない提案をする。男は暫し思案したが、耳を傾けることにしたようだった。

「…なるほど、拝聴しようか」

「よろしい。上げるべき問題は幾つもある。しかし、何よりも人死にを出したのが、一番の失態だった。このところ、麻薬の流通が活発になっていることを、ヤードは察知していた。密かに手を回して裏から探りを入れていたんだ。そこへ撲殺死体が上がった。お前達は、ゴロツキの諍い程度に見せかけるつもりだったんだろうが、遺体に残る様々な証拠を完全に消すことは出来なかった。遺体には、明らかに薬を使用していたと思われる痕跡があった。彼の交友関係、そして出入りする店やフラットを洗い出し、繋ぎ合わせれば、そこに男の麻薬の売人としての一面が浮かび上がった。後は簡単だ。お前達は売人が薬に手を出していることまでは把握できていなかったんだろう。下っ端連中の動向を確認するのを怠ったな。上手く統制が取れていないからこんなつまらないことで足を引っ張られるんだ。どうせお前も組織の歯車の一つなんだろうが、これしきの集団では…」

「やはりもう黙れ」

 捲し立てられる内容が気に入らなかったのか、男はシャーロックの弁舌を遮り、改めて拳銃を押しつけた。

 ――ジョンなら最後まで聞いてくれるのに…!

 シャーロックは心の底から憤慨した。聞いた上で意見だってくれる。もしかしたら褒めてくれたかもしれない。だからありきたりの人間は嫌なのだ。自分の固定観念に凝り固まっていて、新しい認識を受け入れようとはしない。多少耳を傾けたとしても、自分の理解が及ばないとなると途端に掌を返して自らのテリトリーから排除する。自分とは関わりのないものだと線引きしてしまうのだ。どんな内容であれ人の話は聞いておくものだと、てんで人の話を聞かない自分を棚の上の上に放り上げてシャーロックは男を罵った。

 撃鉄が起きあがるのを、音ではなく振動で悟り、全身の血液が収縮してぶわりと汗が滲むのをシャーロックはどこか遠いもののように感じながら分析していた。

 さてどうしたものかと考える。頭こそ動かさないものの、その目は忙しく上下左右に動き、周りの情報を瞬時に拾い上げ把握していく。取り入れた情報からあらゆる可能性を演算し、この状況を打開するための案を弾き出す。しかし導き出されるアンサーは「DEAD」のみ。ここで死ぬつもりはないが、どうも手がない。

 ここで間抜けを晒して、ジョンを呆れさせるのだけは嫌だなとシャーロックはそんなことを思う。呆れて…そして怒らせたりするのは。いや、怒るだけならまだいい。もし…とその先を考えて胸に突き刺さる感覚を覚え、シャーロックは首を傾げた。だが、状況はそれ以上の思考をシャーロックに許さなかった。

 振り返らずとも、空気だけで男がトリガーに指を掛けるのを悟る。今にも指がトリガーを引こうとする、そのとき。
不意に視界に入った人影を捉えてシャーロックは目を剥く。全身の血がざっと引く。その瞬間、咄嗟に叫んでいた。



「―――殺すな、ジョン!!!!」



 シャーロックが叫び終わらぬうちに銃声が鳴り響き、男の右腕を銃弾が掠めた。

「誰だ…っ」

薄 闇の中の不意の攻撃に男は完全に動揺した。シャーロックに突きつけていた銃口を、戦く腕で闇の中へと向ける。
その隙を見逃さず、シャーロックは床に跪いていた体勢をすばやく起こしたが、男が体勢を整えるのも早かった。

「このっ…」

 自分の腕を押さえながらシャーロックへと再度狙いを定める。だが、男がトリガーに指を掛けるやいなや二発目が男の手元に命中し、彼は悲鳴と共に拳銃を取り落とした。
 シャーロックは、すかさず落ちた拳銃を遠くへ蹴り飛ばし、男に向かって体当たりをかます。

「うわぁっ…」

 もろともに地面に転がったところで、即座に起きあがって背後からのし掛かる。上から押さえつけ、その両手を後ろ手に捻り上げた。荒く息を吐きながら男が着ている上着を半分だけ剥がして縄の代わりに腕を縛る。銃弾が掠めた傷が痛んだのか、男が掠れた悲鳴を上げたが、シャーロックは全く頓着せずに作業を完了させた。

 さて、そこまでの流れで、さすがにシャーロックの息は完全に上がっていた。
 同じくぜぇぜぇと息を洩らす男は、既に逃走を諦めたのか、乾いた地面に顔を押しつけられながらも、それ以上抵抗することはなかった。ただ、拘束されながら吐き捨てるように呟く。

「くそっ…仲間がいるなんて…!」

 薄暗い中で、まさか二発も銃弾を受けるとは思わなかったのだろう。シャーロックには仲間の助けがあるようには思えず、男は自分の勝利を確信していた。死ぬのは確実に目の前の探偵の方だったのだ。

「はっ…命拾いしたな探偵野郎」

 捨て台詞でしかない一言を吐いた男を、シャーロックは暫し無言で見つめ下ろし、やがて静かに断言した。
「違う。…命拾いしたのはお前の方だ」
「……っ」

 相手が息を呑む。

「良かったな、僕が優しい人間で」

 嫌みったらしく告げ、牢獄で罪を償えと最後に言い添えると、立ち上がって先ほど蹴り飛ばした男の拳銃を拾い上げる。銃身で男のこめかみを殴りつければ、ヒキガエルが潰れたような声を上げて、男は地面に昏倒した。



     ***



「…ジョン」

 呼び声に応じ、物陰から姿を現した同居人の顔を見て、シャーロックは大変まずいと思った。
 目が完全に据わっている。深い青に宿る冷え冷えとした光は、先ほどまで相手にしていたチンピラ上がりの犯罪者とは比べものにもならない。百戦錬磨の兵士の目は、それだけで相手を射殺せそうなほどの静かな威力に満ちている。つまりジョンは完全に怒っていた。

 先ほどまで拳銃を突きつけられていたことも忘れ、冷たい汗がシャーロックの背中を流れ落ちる。
 ジョンはあちこちに転がる男たちを避け、あるいは踏みつけながらシャーロックに近づいてくると、手にしていたシグで、軽くシャーロックの頭を小突いた。

「――っ…!」

 軽くとはいえ、強化ステンレスの衝撃はそれなりのもので、シャーロックは低く呻く。友人の頭を拳銃で殴りつけるものだろうか普通は。

 ジョン! と非難するように声を上げれば、ジョンが呆れたようにシャーロックを見上げていた。

「君は自分の力を過信しすぎる」

 そう告げた声は僅かに震えていたか。

「君が止めなければ、僕はあいつを殺してた」
「…わかってる」
「止めるくらいなら、こんな馬鹿なことをするなよ。シャーロック」

 あまりにも静かな声は、それだけにシャーロックの胸を重たく打った。

「その…すまなかった。ジョン」
「どうして僕に止めさせた」
「君が殺すほどの人間じゃない。それに…吐かせたいこともある」

 その返答に、ジョンはふっと息を吐いた。

「…まあ、そうだろうな」
「ジョン」
「僕に銃弾を放たせたくないのなら。そうさせないための努力をしろ」

 静かに告げ、シャーロックにシグを預けると、ジョンは転がっている男たちの様子を確認しに、再びシャーロックから離れる。怪我の様子を確認しているらしいその背中をぼんやりと見つめながら、シャーロックはぽつりと一言洩らした。

「ジョン…その、君はすごいな」
「ご機嫌取りもお世辞も結構だ、シャーロック」
「ご機嫌を取っているわけでもお世辞でもない」

 相変わらずいい腕だと褒める。
 月明かりが差し込むだけの建物の中で、過たず放たれた銃弾。その鮮やかな軌跡。
 シャーロックが止めていなければ、確かにジョンは男を撃ち殺していた。制止の声と共に僅かに先を逸らして男の手元だけを打ち抜いたのは、やはり尋常な腕ではない。
 これが元軍医だというのだから、全く世の中は怖ろしいものだ。その存在がメスも医療パックも放り出してシャーロックの相棒に収まっているというのも。

「助かった、ジョン」

 ありがとうと言うと、そこで初めて振り向いたジョンがふと顔を緩ませた。

「本当にそう思ってる?」

 尋ね返すジョンは、どこか楽しそうだ。この状況が彼を高揚させているのだろうか。いや、それだけではないのか。
先ほどまで荒れ狂っていた感情が一気に凪ぐと、シャーロックの腹の奥からも愉快な気分がわき起こってくる。

「思ってる。心の底から」
「どうだかな」
「僕は君に嘘は吐かない」
「どの口がいう。嘘泣きだって得意なくせに」
「君に感謝しているのは、誓って本当だ」

 そうはっきりと告げると、ジョンは一瞬だけ目を見開いてから、くしゃりと笑った。彼が時折見せる本当に面白がっている時の顔だ。
 その顔を見て、シャーロックはようやっと安堵を覚えた。全く計算違いも良いところだった。己が生き残るための算段に、ジョン・ワトソンという項目はやはり入れておくべきだと、改めて実感したのである。



     ***



 シャーロックが叩きのめした男たちは何れも軽傷だった。それを確認してから改めて縛り上げ、ヤードに報告をする。そこまでをやり終えてから、シャーロックはジョンと並んで、バラックの中見つけた段差に腰掛けていた。ヤード到着まで、まだ幾らかかかるらしく、報告もあるためにトンズラするわけにもいかない。仕方なく二人で待ちぼうけを食らっている。
 シャーロックの失態を知って、ジョンは改めて呆れた声を上げた。

「だからちゃんと食べろって言っただろ。こんなんで息が上がってどうするんだ、情けない」

 伸びたジョンの手が、腫れ上がったシャーロックの頬にそっと触れて離れていった。熱を持った皮膚には、冷えた手が酷く心地よい。腫れ具合を確認したジョンが、全く酷い顔だと苦笑する。

「その件については、先ほど多少の反省はした。少なくとも、今朝君が用意したエッグとビーンズとパンケーキを食べていれば、もう少しまともな反応が出来ていたとは思う」
「朝食を馬鹿にするからだ」
「僕は朝食を食べる必然性を感じていないし、理由も多々述べることがあるけれど、今日のこの事態に関しては君の意見を全面的に認める」
「それはよろしい。で、帰ったら食事する?」

「あぁ、パンケーキがいい」

「は? パンケーキ? 何で。朝のってこと?」

 まさかそうリクエストされるとは思っていなかったらしいジョンが、素っ頓狂な声を上げたが、シャーロックは構わずに重々しく要求を告げた。

「出来るだけ歪な形に焼いてくれ。ぎたぎたに切り刻んで食ってやる」
「君…何かあった?」
「パンケーキに襲われた」
「意味がわからん…」

 っていうか、何それ。僕が焼くって前提なの? 自分で焼けよと言うのに、僕が焼いたら歪じゃなくて、きっと完璧な円になるから、だからジョンの方が適任なのだと主張する。

「まあ…いいけどさ…」

 安堵すれば、疲労感と共に急速な眠気がシャーロックを襲った。さすがにここで寝るわけにもいかないが、どうにも身体を動かす気になれない。

「眠い。疲れた」
「おい寝るな。この状況を説明してもらわないと困る」
「正当防衛でいいだろ」
「適当すぎるだろう。っと、まて、僕に寄り掛かるな。それこそどう説明しろっていうんだ」
「ジョン。君は疲れた友人に肩を貸してやろうという思いやりはないのか。医者が生業だっていうのに酷い奴だ」
「何が酷い奴、だ。言わせてもらうけどな、自業自得って言葉知ってるか、シャーロック。僕、無茶するなって言ったよね」

 むしろ日頃から口酸っぱくして言っているよねと続ける。その口調に、シャーロックはジョンからは見えない角度で口端を吊り上げた。
 難解、危険、そんなシグナルを感じたら、途端に飛び出していくはた迷惑なフラットメイト。それを留めるのはジョンだが、一方で一緒になって付いてくるのもジョンなのだ。ジョンはシャーロックの手綱でありたいのかどうなのか。その辺りが、時折シャーロックにはよく分からない。

「君に連絡するつもりだったんだ」
「どうだか」

 ジョンは鼻で笑った。全く信用がないらしい。

「大体男が肩寄せ合って待ってるとかなんだよ。また勘違いされるだろ」
「君はいろいろ気にしすぎだ、ジョン」
「君が気にしなさすぎなんだよ、シャーロック…っておい、僕の話を聞けってば」

 ジョンがうるさく言うのも構わずに、シャーロックはジョンに寄りかかってそのがっしりとした丸い肩に自分の頭を遠慮無く乗せる。身長差があるとはいえ、座ってみればその差は縮まり、ジョンの肩はちょうどよくシャーロックの頭が収まった。そんなことを今更発見してシャーロックは静かな感動を覚えた。抱いた感想をそのままジョンに伝える。

「君の胴体が長めで良かった…」
「僕を馬鹿にしてるのか、シャーロック」
「感謝してるんだ」
「…感謝の仕方を帰ったらじっくり教えてやる。今日の反省と一緒に」
「わかった。後で全部聞く」
「本当に?」
「あぁ、ほんとう…」

 聞くから。全部ちゃんと、きくから。少しばかり反省しているのは本当なのだ。だから、もう少しこのままで。

「少しだけ肩を貸していてくれ、ジョン」

 返答の代わりに、溜め息とも苦笑ともつかぬ吐息がジョンから零れる。その柔らかさに自らの願いが許されたのを知り、今の状況も身体の痛みも、後でしこたま聞かされるであろうジョンの小言もひとまずは思考の隅に押しのけて、シャーロックはジョンの肩に頭を預けたまま目を閉じる。

 帰ったらパンケーキを食べるとしよう。食べ残した朝食はきっとジョンが残しているだろうから、温め直して一緒に食べる。足りない分はもう一度焼けばいい。
 パンケーキには、レモンと砂糖をたっぷりふりかけて、くるくると巻いたらフォークを突きたててやるのだ。少しばかりの反省と、そして制裁を込めて。


 遠くから、ようやっとヤードのパトカーの到着を告げるサイレンの音が近づいてきていた。

- end -


2012/10/01
Pixivより再録。12/10/7スパーク発行の短編集にも再録済。
無意識下におけるジョンへの依存度と、意識上における食習慣の重要性の不本意な自覚及び反省についての検証。
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