食べ物を抱えているというのは、重たく時に面倒ではあるけれど、幸せな時間でもある。
持っているものが血肉になるのだから、それは命を抱えているに等しい。少なくともジョンはそう思っている。
カートに積み上がった食料品や生活用品の会計を済ませ、二人がかりで全てを袋に詰め終わってみれば、その量は予想以上のものだった。
二人で抱えられるように均等に分けたものの、下げる袋は各2つの計4つ。加えてトイレットペーパーやシリアルなどの嵩張るものを両腕で抱える羽目になった。大きなものは、シャーロックの腕の長さに頼ることにするが、缶詰めやミルクをぶら下げているため、重量自体がかなりのものだ。
「重い」
カートを返却して出口に向かいながら、早速文句をつけたシャーロックを、横目で睨む。
「キャブを拾うまでの辛抱だ。我慢しろよ。少なくともこれでしばらくは大きな買い出しをしなくて済むんだ。君が暇だろうと事件に掛かりきりになろうと、食料の心配はしなくていい」
「僕は基本的に食事の心配はしていない」
「…しろよ」
すかさず突っ込んで、そういえばとジョンは首を傾げた。
「シャーロック、君さっき果物を買ってたよね」
まさしくついてきただけのシャーロックが自発的にカートに入れたのは、珍しくもリンゴだった。
果物を特に喜んで食べる人間でもないくせに、一体どういう風の吹き回しなのかと尋ねたジョンに、シャーロックはしれっとして答えた。
「あぁ、我らが大家夫人に」
「…君も気を遣うんだな」
まさかハドソン夫人に土産を買っているとは思わず、さすがにジョンは驚いた。だが、失礼な発言をされたにも関わらず、シャーロックは平然としている。
「そりゃあな。出かけに会った彼女の様子を見たか?早い時間からだが、夕食の準備をしていた。ドアの向うからグレービーソースの香りがしていた。指先には、芋の皮がこびりついていた。皮を剥いていたところだったんだ。恐らくハドソンさんが今日作るものは、彼女のレパートリーから考えてもコテージ・パイだ。そして昨日買い込んでいた材料の量からして、分量は、少なくみても四人分」
そうしてちらりとこちらを見下ろし、口の片端を引き上げたシャーロックに、ジョンもまたにやりと笑い返した。
「それ、僕らも分け前にあずかれる?」
「ほぼ確実にね」
「そりゃあお礼をしないと」
「その通り」
まるで悪童のような笑いを二人で零すと、ずり落ちてきた荷物を抱え直す。
グレービーソースは、肉汁を煮詰めて作ったソースだ。今はソースの素がどこにでも売っていて、お湯さえ入れれば簡単に作ることができる。だが、ハドソン夫人は手が空いてさえいれば、自分で手作りする人だった。当然味は絶品だ。そしてコテージ・パイは、そのグレービーソースで、牛肉や玉ねぎをじっくりと煮込み、パイ皿に流し込んで焼いたものだった。パイと言っても上にかぶせるのは、ハッシュドポテトだ。チーズを軽くふりかけオーブンで焼き上げたそれは、定番の家庭料理。肉の旨味とポテトの相性は抜群だ。
「それならビールをもう少し買うんだった」
至極残念そうに洩らした声に、シャーロックはぎょっとしたようだった。薄い眉を顰めて口を尖らせる。シャーロックは、アルコールで少しでも理性が鈍るのを怖れてか普段から酒自体をあまり飲まない。そのためか、ジョンがビールを好む心理が理解できないらしい。
「さっきも三本買っただろ。それに冷蔵庫にはまだ一本残っていたじゃないか」
「足りないよ。コテージ・パイにはビールが合うんだから、折角なら残りを気にせず飲みたいね」
「これ以上は冷蔵庫のキャパシティを超える」
「君の占拠率が高すぎるんだ。僕のビールを入れる余地は空けておけ。大体何、頭部なんて幅取りすぎるだろ。あと、卵を入れるところに目玉を並べるな」
ついでに言えば、調味料を立てる場所には、血液やその他謎の薬品がつまった色とりどりの試験管が並んでいる。
「形がちょうどいいんだ」
「冷蔵庫の設計者が泣いてるぞ。冷凍庫で細菌保管するのもやめろ。間違って繁殖したらどうする」
「問題ない。僕が管理してるんだから」
一体何が問題ないというのか。
「君は、コテージ・パイが好きだものな。いや、概ね煮込み料理やスープが好きだ」
「何で分かる」
まさかの指摘にそう尋ねれば、シャーロックの薄い色の瞳が一瞬凝らすようにジョンを見つめる。
「鍋をかき回しているときに、鼻歌を歌っているから」
微かな笑みと共に告げられた内容に思わず立ち止まり、ジョンは目を瞬かせた。そうだっけと首を傾げる。同じく立ち止まったシャーロックが、眉根を寄せた。
「違うのか? 随分楽しそうだから、それほど好みなのかと」
「いや、好きなのは好きなんだけど。…僕歌ってる?」
「ああ」
彼が言うからにはそうなのだろう。ジョンは純粋に驚き、そして考える。思い当たることがなくもない。食事となると、今も時折思い出すのが、軍で食べていたものだ。日常の中で遠くへと追いやられてはいるけれど、決して消えることなくジョンの五感の中に潜んでいるそれは、ふとしたことで懐かしい戦場の記憶を連れてくる。そこで食べていた軍用食。
別に、美味いだとか不味いだとか、そんなことは考えなかった。
どんなに見飽きたメニューでも、何を食わされるのか知ってはいても、それでも朝を食べ、昼が近くなれば食事の時間が待ち遠しかった。メニューは慣れ親しんだ英国定番のものが揃えられていたし、例えばベイクドビーンズは戦場でもうんざりするほど食えた。血と膿と、泥と砂と埃にまみれ、饐えた臭いに鼻が麻痺して、怒号と爆音で耳鳴りが止まず、叫び続けて声が枯れて、自分が一体何を口にしているのか分からなくなりそうな時でも、むしろそんな時こそ、出されるものを美味いと感じたのだ。
ただ、寂しいと思ったのは。
――音が、とジョンは思った。
ロンドンに戻ってきて、久方ぶりに自分でスープを作ってみた。もっとも、到底料理したと言えるものではなく、スーパーで買ってきた缶詰めに適当に味を足して温め直したものだ。だが、広い鍋でコトコトと具材が煮えるあの音が簡易キッチンに聞こえ始めた時、調理の音というものを長らく聞いていなかったなと思い出したのだ。
温めたパックを器にあけて、かきこむようにして食べていた戦場の中で、調理の音は存在しなかった。戦況によっては温めた食事すら叶わず、支給されたビスケットとチョコレートを噛み砕きながら役目を果たすことに没頭した。軍での食事に必要なのは、最低限旨味を感じる舌と、咀嚼するための口と歯と、呑み込んで消化するための器官だった。それさえ残っていれば、どうにか生きていられた。
それが、どうしたことだ。食事は五感でするものだと、久方ぶりにジョンは思い出したのだ。とりわけ、鍋で何かが煮えているのは好きだった。ぐつぐつと音を上げる鍋の中身を、焦げ付かぬようにかき回しながら、確かに自分は鼻歌の一つも歌っていたかも知れない。
再び歩き出せば、シャーロックも歩みを再開した。
「そうだな。君の言うとおり。僕はコテージ・パイが好きだし、煮込み料理全般が大好きだ」
そういうわけだからと、ジョンは先を続ける。
「あぁ、どうか今晩は忌々しい事件が起こりませんように…!」
「君は僕に喧嘩を売っているのか」
ジョンの願いにシャーロックが憮然とする。
「君は事件があれば満足かもしれないけれど、僕には、美味しい食事も必要なんだ」
「それと女性だろう」
「そう、その通り。人生には花と彩がないと」
そう言ったところで、シャーロックのモバイルが着信を告げた。お互いにハッとして立ち止まる。
「ジョン、ちょっとこれを持ってろ」
「っと…おい!」
シャーロックは右手に抱えていたトイレットペーパーをジョンの腕に無理矢理乗せると、ポケットに手を突っ込んでテキストを確認する。
ちかりとその眼差しに走った輝きに、ジョンは思わず天を仰いだ。
――あぁ、噂をすれば何とやら。
シャーロックが物騒な笑みを閃かせ、皮肉っぽく口端を吊り上げる。彼のまとう空気が研ぎ澄まされて、先ほどまでとは桁違いに生き生きとし始める。それは間違いようのない、事件の印。イエロー信号よりも明らかな、シャーロックが謎に満ちた危険へと飛び出していく前兆。
分かってはいるけれど、お決まりのようにジョンは尋ねる。
「事件?」
「事件だろうな」
その声に漲る、まるで遊園地に行く前の子供のようなテンション。あぁ、楽しそうだなぁとジョンはしみじみする。
「それで、どこに行けばいいんだ?」
「スコットランドヤードだ」
了解と続けようとして、いきなり足を速めたシャーロックに、ジョンはさすがに声を上げた。
「おい、ちょっと待て。いきなり走り出そうとするなよ。この荷物はどうすりゃいいんだ!」
今更のことではあるが、自分たちは買い物帰りだ。しかも買い出しと思ってやってきたために、かなりの量の荷物を抱え込んでいる。歩幅が圧倒的に違う彼とジョンとでは、シャーロックが本気で駆け出そうとした場合絶対に追いつくことは出来ない。挙句に、今は一番かさばるトイレットペーパーまで抱えたまま。
既に置いて行かれそうになりながらも、ジョンも必死に足を速める。全く勝手だ。一つのことに夢中になると、途端に周りが見えなくなる。子供そのものだ。だが、シャーロックは知ったことかと言わんばかりに、歩調を緩めることなく通りに向かっている。
「何とかなるだろ。とにかくヤードだ。タクシー!」
さっさと歩道に辿り着くと通りに向かって腕を伸ばす。向うを走っていたキャブがこちらにハンドルを切ったのを確認してから、シャーロックはジョンに放り投げたトイレットペーパーをもう一度預かり、その腕に抱え直した。
「なぁこの格好で行くのか…」
「預ける所なんかないだろ」
221Bに寄って荷物を置いてから、なんぞという悠長な選択肢は端から存在しない。
「まあいいけど」
本当は良くないけれど。あからさまな生活臭漂う状態で、ヤードに向かう羽目になるとは。何が悲しくてトイレットペーパーや缶詰めにシリアルを担いで、仕事上の知り合いに会わなければならないのだろう。休日に済まなかったなと、何とも言えない顔でレストレードが話しかけてくる顔が目に浮かぶ。彼の気遣いは、時に微妙すぎてこちらも上手く対応できない。
いっそ見なかったことにしてくれないかと、淡い期待を抱きつつ、ジョンがずり落ちそうになる荷物をもう一度しっかりと抱え直しているうちに、キャブは到着した。
大量の買い物袋と一緒に乗り込んできた二人組の男に、運転手が目を見開いたのがフロントガラス越しに映る。スコットランドヤードと行き先を告げられて、更に目が点になったものの、人を運ぶプロは余計な詮索をすることなく、了解の一言のみでキャブを発進させた。
「シャーロック、もうちょっと詰めろ」
「君が、置く場所をもう少し考えれば、座る席は確保できるはずだ」
抱え込んだ荷物を何とか座席におさめようと一悶着しているうちに、買い物客で賑わう一帯があっという間に遠ざかっていく。街路樹や街灯、対向車線を走る車、歩道を歩く人々、それら全てもまた、飛ぶように通り過ぎた。事件に向かうときに見る外は、常以上に速度と鮮やかさを増しているようにジョンは感じる。そうだ、後でハドソン夫人に連絡をしなければと思い出す。
――ランチと買い物帰りに事件に寄ってきます。
実に唐突だが、221Bではそれもまた日常の一つだ。しかし今日ばかりは心残りがあって、ジョンはシャーロックに尋ねた。
「コテージ・パイが焼き上がるまでに帰れる?」
シャーロックは幾らか目を見開いたものの、肩を竦めて答えた。
「どうだろうな。向かう先に現場を指定してこなかったとなると、殺人事件の類じゃないのかもしれない。既に上がった案件に不審な点でも見つかったか、このところ起こっている事件に連続性でも窺えるのか。いずれにせよ、個人的には難解な事件じゃないと面白くない」
「そりゃあ僕だってそうだけどさ」
下らない要件で呼び出されたなら、忌々しいどころではない。事件はより難解に。より鮮烈に。謎が深まれば深まるほど、シャーロックの頭脳は冴え渡り、青灰色の瞳は澄んできらきらと輝きを増す。ジョンもまた引きずられるように興奮を覚え、シャーロックの推理に感嘆する。
シャーロックにとっては事件こそが主食なのだ。パンであり、ライスであり、それこそベイクドビーンズやミルク以上に欠かせないもの。その上に偏食家と来ているから、並大抵のものでは、彼の舌…もとい頭脳を満足させることはできない。とはいえ、彼の肉体の維持には、事件ばかりというわけにも行かないので、やっぱり口に入れるものも必要だ。少なくともジョンはそうだし、シャーロックもそのはずだ。事件も食事も、ちょっと偏食気味ではあっても、そこそこに摂取しなければ。
うん、やっぱり食事は大切だと、ジョンは一人深く頷く。
「よし、何れにせよ、君の素晴らしい頭脳に期待する。夕飯までに事件解決だ」
「随分意欲的だな」
呆れたようなシャーロックの意見も何のその、ジョンはにやりと笑って腕を組み、横目でシャーロックを見やりながら重々しく告げた。
「そりゃあ、労働の後の美味しい食事は、特に誰かと一緒じゃないと」
「……それって僕か?」
暫しの無言の後、淡い色の瞳を瞬かせながら首を傾げて神妙に尋ねてきた男に、ジョンは思わず吹き出した。
「わざわざ言う必要が?」
そう言い返すと、また一瞬の間があって。そうしてシャーロックはふっと目元を緩め、口端をきゅっと吊り上げた。それはまるで子供のような笑みだった。
「いいや」
短く返ってきた答えは、それでも彼の楽しげな様子を伝えていて、自然とジョンも笑顔になる。
「だから早く帰るぞ」
「善処しよう」
慌ただしくなるだろう一日の終わりを、コテージ・パイが待っていると思えば、それこそ事件の彩りだ。やはり一番心躍らせるものは、事件の後の美味しい食事だとジョンは思う。
鍋一杯に入った牛肉と玉ねぎを煮込んだグレービーソースが脳裏に浮かぶ。それはまるで静かな音楽を奏でるように、グツグツコトコトと煮え立っている。
思わず鼻歌を歌い出しそうになるのを、ジョンは今だけは堪えることにした。
- end -