WhirlWind

METABO JOHN -僕と君とダイエット-

Sherlock & John


「なんだって」

 朝、ブレックファーストを食べながら、同居人が切り出した一言に、シャーロックはコーヒーカップを手にしたまま凍り付いた。カップを取り落とさなかったのが不思議な程だった。聞いた内容を繰り返し脳内で反復する。しかし繰り返す先から、意味がほどけてただの単語の羅列になって消えていく。聞いたことが理解できない。何を、何を聞いたのだろう。自分は一体、何を。
 目を見開いたまま、絶句してジョンを見つめるシャーロックに、その不穏な空気を察しているのかいないのか、もふもふと頬を上下させていた少しばかり小柄な同居人は、口の中のものをごくりと飲みこむと、にっこり笑ってもう一度言った。


「僕、ダイエットしようと思うんだ」




=METABO JOHN=僕と君とダイエット




 もっきゅもっきゅもっきゅ。

「だからさ、シャーロック」

 もっきゅもっきゅもっきゅもっきゅもっきゅ。

「僕も色々考えたんだよ」

 もっきゅもっきゅ。ごっくん。
 ジョンの台詞の合間に聞こえるのは、彼がマフィンを口いっぱいに頬張って咀嚼する音である。

「やっぱりこのままじゃ駄目なのかなぁってさ」

 もっきゅもっきゅもっきゅ。もきゅ。
 その食事風景を、向かいでコーヒーを飲みながら、シャーロックはうっとりと見つめていた。
 もっとも、傍から見ればその顔はすましきった無表情以外の何ものでもない。だが、手元に一切目線を落とすことなく、コーヒーを飲み、そしてパンを食べ、エッグとビーンズを口にしつつ、視線だけはひたすら熱くジョンに注がれているというシャーロックの様子は、見る者が見れば、間違いなく「気持ち悪い」と表現しただろう。
 何せほぼ瞬きすらしていない。ジョンの食事の様を、その僅か一瞬でも見逃してはたまるかという、そんな気迫に充ち満ちている。
 一体何をそんなにフラットメイトを見つめる必要があるのかと、問いただしたくなるが、シャーロックからすれば、ジョンとの食事は彼との共同生活の中で1、2を争う神聖な時間であった。自分が食べない時でもジョンの食事をしているシーンは目と脳裏に刻みつける、それくらいの大切な一時であった。
 シャーロックはジョンが食事をしている姿を見るのが大変幸せなのである。彼の同居人は、猫の動画を繰り返し見るが、それをつまらんと吐き捨てたシャーロック自身は、同居人の食事シーンを延々と見続けられるのであった。笑顔も余裕もなく、必死で見ているあたり、猫動画よりも余程重症である。
 一方、そんな熱視線をひたすらぶつけられているジョンはというと、気づかないのか気にも留めていないのか、はたまた慣れているのか全く平然とした様子で、もぐもぐと咀嚼を繰り返していた。もっきゅもっきゅ。ごっくん。
 返事のないシャーロックに首を傾げて尋ねる。

「なぁ、聞いてるか?シャーロック」
「……聞いてる」

 半ば上の空でシャーロックは答えた。
 ジョンは向かいの席で、マフィンを両手で抱えてひたすらもぐもぐと食べている。ぱんぱんに膨らんだジョンのほっぺたが、はちきれんばかりの勢いで上下に動いている。
 もきゅもきゅと音がしているのは、彼のふくらんだほっぺたの中で咀嚼されたあれこれがぎちぎちに詰まって身動きが取れなくなっているせいだ。ただでさえほっぺたの肉が厚いジョンなので、口の中は食べ物と彼の頬肉が大渋滞を引き起こしている。
 ジョンは一口が大きい。頬張るようにして食べる。だから咀嚼に時間もかかる。とにかくずっと頬が動いている。もしかして彼には頬袋が存在しているのではないかと密かにシャーロックは疑っているが、まだ実験と調査をしていないので不明である。
 それよりも何よりも、食べているときのジョンは大変に幸せそうだ。
 ごっくんと呑み込むと、はふっと吐息が洩れる。食事で身体の熱量が上がったのか、心なしかジョンの身体から湯気が立ち上っているようにも見える。ぽやぽやとジョンを包むそれは、決してシャーロックの幻覚ではない。決して。
 テーブルの下、床につかないジョンの足がぶらぶらと揺れていることを、シャーロックは見ずとも知っている。
もともと長身ではなく、当然足が長いわけでもないジョンの、とりわけ太ももにはぎっちりと肉と脂肪が詰まっていて、サイズ上限ぎりぎりのジーンズに押し込んだその脚は、肉に押し上げられてしまうために、椅子に座った時どうしても床から遠のいてしまうのだ。お気に入りのジャパン発有名ブランドにも、サイズがないよと嘆いていたのを思い出す。
 そんなわけでジョンは今も宙にパツパツの脚をぶらつかせながら食事をしている。
 そう、つまるところ、ジョンはメタボ体型だった。それもかなりの。
 初めてバーツで出会ったあの日。マイクと2人並んで入ってきた人物のせいで、部屋の密度と温度が一瞬にして上昇した衝撃を忘れられない。
 マイクが分裂したのかと目を疑ったが、該当の人物を改めて見直してみれば、男はマイクとは明らかに異なる空気をまとっていた。
 通常の人間が見れば、単にだらしのないメタボ体型と判断しそうだが、シャーロックの目は、男の身体ががぎっちりと詰め込まれた筋肉によって構成されていることを見抜いていたのだった。
 ジョンは、一見すれば、児童書のキャラクター、ムーミン・トロールを更に丸く膨らませたようなそんな体格だ。あれはフィンランドが生んだ妖精だという。もしかしたらジョンも英国が生んだ奇跡の妖精なのではないかと半ば本気で思っているシャーロックである。もっとも、ジョンの体型は、ムーミンのようにどこかふわふわとしたマシュマロやプティングを思わせるものではない。
 もっとみっちりと詰まった、そう…例えるならパイ生地にリンゴのコンポートをぞんぶんに押し込んだどっしりと重たいアップルパイとか、耐熱皿に羊肉の煮込みを限界まで盛り付けて大量のハッシュドポテトを乗せたシェパーズパイだとか、そんな類のものだ。
 彼のもったりとした体型が呼吸を圧迫するせいで、時折睡眠中に無呼吸症候群に陥っていることもシャーロックは知っている。
 時々心配になって、夜中にジョンの寝室を覗きに行くのだ。長く呼吸が止まっているときは、鼻をつまんで起こしてやる。それをジョンは嫌がらせか何かだと思っているようだが、別段シャーロックはそれでもいいと考えている。ジョンが少しでも安眠できるのであれば、何と思われようとも構わなかった。
 その彼が、今何と言った。聞き間違いでなければ何と。
 ジョンの、まるでソーセージを思わせる色白で丸っこい指がリンゴに伸ばされる。


「だから、ダイエットしようかなって」


 もう一度はっきりと繰り返された一言に、シャーロックは胸を刃で一突きにされたような衝撃を感じて、思わず胸元を押さえた。まずい、運動後のジョンではないが、動悸が上がっている気がする。

「…何故だ。どうしていきなりそんなことを」

 息も絶え絶えに、とにかくそれだけを尋ねる。どこのどいつだ。そんな下らないことをジョンに気づかせるとは。そいつの欠点を全て洗い出して白日の下に晒し、二度と太陽を感じて歩けることのないようにしてやろうかとそこまで真剣に考え始めたが、その思考を留めたのもやはりジョンの言葉だった。

「病院の同僚にだよ。最近太ったってよく言われるんだ。そう言えば身体が重たいような気もするし」

 ――医者か…!

 くそっとシャーロックは毒づいた。医者ならば仕方ない。不健康に目ざとくあるのが彼らの仕事だ。
 しかし、痩せなきゃと口にしつつ、ジョンの手と口は止まらない。
 ダイエットと言うからには今すぐにでもその手を止めて、食事の摂取量を減らすべきであろうに、痩せることを一生懸命考える方向に脳が全てのエネルギーを持って行ってしまったのか、もはや脊髄で果物を手に取って口に放り込んでいる。
 無意識の摂取。
 それこそがジョンのメタボたる所以であり、もし彼がまともにダイエットをスタートするつもりであるのなら、意識改革から始めなければならないであろうことは必至であった。
 リンゴを齧り終わったジョンは、皿に残っていたエッグの、零れた鮮やかな黄身までも綺麗にマフィンですくい取り、最後の一口を大切そうに口の中に押し込む。
 彼の食事が終わってしまうのが寂しくて、シャーロックは、とりあえず自分の手元にあるエッグの皿をジョンの前に押しやった。

「もう食べないのか?」
「十分食べた。君にやる」
「うーん…まあ君にしては食べたほうか。じゃあもらうよ」
「あぁ、助かる。ありがとう」

 シャーロックのこれも怖ろしいことに無意識の行動である。シャーロック自身自覚していないが、食事をするジョンの姿を少しでも長く見たいがあまりに、ついつい物を与えてしまうシャーロックのこの行動こそが、ジョンメタボ化の更なる要因となっているのであった。
 ジョンがエッグに手を伸ばすのを見つつ、自分も少しだけマフィンをちぎって口の中に放り込む。
 自分が食べないとジョンが怒って食べないことがあるので(実のところ怒るなどという生易しいものではない。フォークを突き付けられて「食え」の二文字を静かに宣告…いや命令されるのはかなり恐ろしい)、妥協できるときは必死に僕も食べているよアピールをするシャーロックである。それが健気と呼べるものであるかは、大変意見の分かれるところではある。
 再びもぐもぐとエッグを頬張るジョンをしみじみと見つめながら、シャーロックは問いかけた。

「…ジョン…そんなにダイエットがしたいのか…?」
「あーいや、うん。そうだな。僕ももう若くはないし、好きなものを好きなだけ食べるってのはさすがに控えた方がいいかなってね」
「そうか…」
「シャーロック…?」

 こてんと首を傾げたジョンの、まるでテディベアさながらの迫力満点の魅力に、シャーロックは思わずファンタスティック!と叫びそうになったのだが、いや、それどころではないのだ、ジョンのダイエットについて考えなければと、彼は必死でテーブルの下に置いた拳を、それこそ音がしそうなほどの強さで握りしめていた。



     ***



 執務室の電話のベルが鳴り響く。時計の針は10:00丁度を指している。
 ベルがきっちり2回鳴り終わったところで、マイクロフトは受話器を手に取った。その時点で相手が誰かを推測している。
 基本的に外部からの電話は秘書が取り次ぐものだ。直通の番号を知る者は限られている。この曜日、10時きっかりに、マイクロフトが席に着くことを知っている者はさらに限られる。ついでに言えば、ロンドン中の主要な地区を全て管理下に置き、把握しているマイクロフトには、一体どこで何が起こり、どのような経路で連絡がくるかの予想がある程度ついている。ちなみにベイカー街221Bのフラットから、ガタガタガタンと不自然に机が揺れる音が響いたことを、マイクロフトは知っていた。

「…やあ、兄さん。ちょっと話が」
「お前が私を兄と呼ぶときは何か都合が悪いときが私を利用する思惑があってのことだが、果たして今回はどういうことかね。大体想像はつくが」
「ジョンが…ジョンがダイエットをすると…」
「…ふむ」

 言い出すのが多少遅すぎやしないかとは、せめてもの良心で告げなかった。

「専門分野に関しては、その道のプロに聞くのが僕の信条だ」

 必要な知識とそうでない知識とを明確に分類する弟は、兄と同様、何より合理性を旨とする。一見、謙遜とも受け取れる発言だが、必要度の低い情報は頭から取り入れないと宣言しているようなもので、見方を変えれば恐ろしく尊大な考え方である。とはいえ、知識を蓄えるばかりが必要ではない。情報とネットワークを把握し、利用することもまた、上に立つものの必要な素質だ。
 もっとも彼の弟はそれを私的なことにしか用いない。実に嘆かわしいことである。

「あんたは、ダイエットのプロだろう?」

 失敗もするようだがと実に可愛げのない口調で言われ、マイクロフトはうっそりと微笑んだ。その時、ちょうど部屋に入ってきたばかりの部下が、微笑む上司をうっかり見てしまい、小さく息を呑んで慌てて退室していった。その一連を目端で捉えてため息を吐く。容易く動揺を見せるのは官僚の末端の立場であろうともふさわしくない。あとで釘をさしてやらねば。
 見るものすらクレパスに突き落とすかのような氷の笑みを、知っているのか知ったところでどうでもいいのか(おそらく後者である)、シャーロックは己の要求を叩きつけた。

「ジョンがジョンの体形を維持したままでダイエットを完遂できる方法を教えろ」
「……」

 マイクロフトはもう一度静かに微笑んだ。自分でなければ電話を叩ききっているところだろう。そんな兄の心弟知らず、シャーロックは悲痛な声で訴えた。

「ジョンの身体が急激なダイエットとやらで萎んでしまうのは僕には耐えられない!」

 ――ジョンの中には僕の夢と可能性と未来がつまってるっていうのに!

「落ち着け、弟よ。あの中に詰まっているのは必要以上の肉と脂肪、そして目を背けてはならない現実だ」
「兄さんにはわからない!ジョンがメタボであることがどんな意味を持っているか!」
「いや、私とてわかっている。彼の体型はまさに奇跡だ。だが、シャーロック。お前は、自分のフラットメイトが健康を害してなお、その体型を維持することを望むのか。それが最終的に、彼の寿命を縮めることになっても、本当にそれでいいと思うのか?」

 静かに告げられてシャーロックは声を失った。呆れた話だが、ジョンの体型維持ばかりに目を向けていて、彼の健康状態を深慮するのを怠っていた。
 なんたる不覚。それを兄に指摘されようとは、フラットメイトとして失格だ。
 シャーロックは歯をぎりりと噛みしめた。
 きっと、痩せてもジョンはジョンだ。シャーロックは別にジョンがメタボだから一緒にいるのではない。勿論彼の中に存在する鋼(鋼だとシャーロックは信じている)の心をこそ愛している。けれど、あぁ、けれど。
 湯気の立ち上る、常にじっとりと汗ばんだ身体。ぎゅっと抱きしめれば、心地の良い弾力が返ってくる、まるで低反発性クッションのようなあの感触。走るとボールが跳ねるように見える体型。はふはふと息を荒げながら後ろを付いてくるジョン。見あたらないと周囲を探せば、いつの間にか店先で食べ物を買っている(もしくは眺めている)ジョン。
 ーージョン、ジョン。僕のジョン。
 めくるめくジョンとの日々を走馬燈のように脳裏に思いめぐらし、うぅっとシャーロックは苦悶の声を洩らした。
 あの美しい毎日が、ダイエットなどという拷問のような枷によって制限されてしまうだなんて。考えただけでも涙がこぼれそうだ。実際、ちょっと目端に滲んだかもしれない。

「影響を受けるのは僕だけじゃない!」

 シャーロックは電話越しに叫んだ。

「ハドソン夫人もショックを受けていたんだぞ。もしジョンがダイエットを始めたら、私の作ったクッキーやスコーン、マフィンやパンケーキは一体誰が食べてくれるのかと。彼女は自分がインプットしたり考えた食事を、誰かに食べさせるのが好きなんだ。ジョンは喜んで食べるし、彼女に感想も伝える。そもそも、ジョンほど食事を美味しく食べる人間が他にいるか。僕はあの光景を見ているだけで胃袋が満たされるんだ。更に言うとジョンは女性にモテる。あの見た目でとか口にするなよ、マイクロフト。あの見た目こそがジョンの武器なんだ。まるでテディ・ベアのように人に安心感を与えるあのフォルム。一緒にカフェに行きたいという女性が何人もいる。彼を前にすると、凡そ自らの体型を気にする世間の若い女性は、少しくらいなら美味しいモノを食べたってバチはあたらないんじゃないかと考える。それで一緒に甘いものを注文する。ハドソン夫人がジョンと食べるために、そして食べてもらうために作るお菓子や食事の材料費を考えろ。そして女性達がジョンと出かけて食費に使う値段を考えろ。決して無視できない金銭の動きがある。いいか、ジョンの体型には、もはやイギリス経済すら関係しているんだ。ジョンのダイエットは僕を不幸にし、ベイカー街を不幸にする。ひいてはイギリスをも不幸にする。マイクロフト、英国政府に身を置く立場として、イギリスの幸福値がこれ以上低下することが許されるのかっ…!!」

 立て続けに捲し立てる声とその内容に、思わずマイクロフトは溜め息を吐いて天井を見上げた。
 こういう時だけ英国民としての特権を振りかざすのか、シャーロック。
 シャーロックの反応に、マクロフトは、彼が幼い頃大切にしていたテディ・ベア(思えば、あれもやたらと体格のいいぼってりしたクマだった)が、家政婦によって洗濯され、水に濡れて見た目がずいぶんとスリムになったのを見て、パニックを起こして泣き出したことを思い出した。完全に乾いて、もとの厚みを取り戻すまで機嫌が戻らなかったのは、確かにこの弟だった。

 ――あぁ、あのころからお前は全く進化していないのだな、可愛いシャーリー。

 弟のテディベア離れが遅かったのは、責任を感じないでもない。
 どこか遠い目で過去を思い返し、ふっと笑む。そして言い聞かせるように告げる。

「シャーロック。ダイエットとは、単に制限を加えるだけの厳しいものではない。適切な処置を施せば、無理なく確実に体脂肪を減らすことができるのだよ」

 もともとジョンは平均より小柄とはいえ、骨太で体格のいい男だ。健康を害する程度の脂肪を減らせば、体形を崩すことなくダイエットを実行できるだろう。

「仕方ない。私も協力するとしよう。ただしお前もある程度の我慢が必要だぞ」
「努力する…!!」

 ――ジョンのためなら!

 結局弟の要求を呑むことで、弟の悪い部分をうっかり助長するという点では、マイクロフトも昔から変わらないのであった。


   ***


 朝10:20分。
 スコットランドヤード専門刑事部のレストレード警部が机に向かっていると、モバイルのコールが鳴った。

「はい、レストレー…」
「私だ。シャーロックとジョンの周りにいる人間として、君にも協力してもらいたいことがある」

 電話の相手と、出てきた固有名詞だけで、即刻電話を叩ききりたい衝動にかられたレストレードだったが、ヤードの刑事という職業的立場から執念と忍の一字で、その思いを堪えた。

「はぁ…何用ですかね…」

 そもそも自分は今までにも相当の協力をしていると思うのだが、一体これ以上何を要請しようというのだろうか、このシャーロックの兄は。
 しかし、告げられた内容は、今まで数々の無理難題をそれなりにこなしてきた敏腕刑事にとっても斜め上を突き抜けたものだった。

「ジョンのダイエットへの協力だ。シャーロックが言うには、最近彼はダイエットを考えているらしい。だが、彼の体型があまりに変化してしまうのも、ダイエットによって彼自身とその周囲のメンタルに影響が出るのも我々は避けたいと思っている。少しずつ確実に健康的に体脂肪を落とすには、周りの協力も必要なのだよ。それで、」
「あんた、俺をなんだと思ってるんだ…っ」

 ――んなもん、俺が知るか!

 体裁をかなぐり捨てて、思わずレストレードは叫んだ。
 電話口の向こうで微かな笑い声が起こる。その声が返答の代わりと言っても良かった。何とか、何とか回避できないかこの状況を…!と焦ったレストレードは、思いつく限りの用件を頭の中で巡らせる。

「あー…今立て込んでいる事案があってだな…」
「麻薬取引の案件なら、別の人間に回せ。わざわざ警部が率先して関わることでもないだろう。それほどまで無能な連中ばかりを従えているというのなら、ヤードの構成自体を再検討するしかないが、まあ今はその必要はあるまい。そんなことよりも重要な問題がある。ジョンの体型が1割減ずるだけで、シャーロックの頭脳の処理能力は25%下がると推定される。これがどういうことか分かるかね」
「……」

 確認というよりも、マイクロフトのそれは脅しに近かった。
 分かりたくないとは当然言えなかった。ただ無言で天井を仰ぐ。
 あぁ、ロボットに…俺はなりたい。余計な思考も感情も取り除いて、ただ目先の仕事だけを一心不乱に処理できる有能な刑事ロボットに俺はなりたい。
 がっくり項垂れて、絞り出すような声で返答を告げる。

「すまないが、少し考えて…その部下たちにも聞いてから折り返し連絡する…」
「良い返事を待っているよ」

 その意味は当然、良い返事以外は許可しない、である。だがせめて考えたい。自分で思考してから返事をしたい。それが一つの答えしか用意されていないとしても。
 電話を切ったところで、ノックの音がする。許可を告げると、ドノヴァンが入ってきた。

「やあ、ドノヴァン。書類か?」
「ええ、サインを頂きに…警部、電話ですか」
「ドクターが痩せたいんだそうだ。そのことで」

 全く馬鹿げてるよなというニュアンスで苦笑と共に告げたのだが、そこまでを聞いた途端、ドノヴァンが書類を取り落とした。

「ドクター?ジョン・ワトソン医師?」
「そうだが、おい、どうしたドノヴァン…」

 何て事!と彼女は叫んだ。

「何でですか!嫌だ、ドクターはあの体型だからいいのに!どんな荒んだ現場でも、あのフリークが我が物顔でやってこようと、ドクターがそこに居るってだけでみんなの荒れた気持ちが和むんですよ!エグイ死体や男女の血みどろの修羅場や醜い男どもの無様な殴り合いを見たあとでも、ドクターを見れば癒されるっていうのに!」

 ドノヴァンの叫びを、レストレードは口を半分開けて聞いていた。
 確か彼は探偵の助手で、検死も出来る医療のプロじゃなかったか。ついでに言えば、ジョン・ワトソンがとんでもない射手であることも知っているレストレードである。ぽやぽやとした体形に騙されてはいけない。凍てついた眼で過たず標的を捉え、一発で急所を撃ち抜く男である。あれがただの癒し系メタボであるわけがないのだが、ヤード内で精神安定剤並の影響力を持っているとは。果たしてヤードの間でジョン・ワトソンをどういう位置づけに置くべきなのだろうかと、今更考えるレストレードの前でドノヴァンはひたすら憤慨していた。

「まさか彼、誰かに太ってるのが駄目とか言われたんですか。そんな人間、あたしが逮捕してやりますよ。中傷罪と名誉毀損罪で」

と真顔で返答した部下を、レストレードは夜明け前の水辺に立っているかのような澄み切った穏やかさで見つめ返した。
 そうか。あの体型の需要は意外なところにあったようだ。
 ドノヴァンが退室したのち、レストレードは暫しの沈黙の後に電話をかけた。
 ワンコールで相手が出たことに戦慄しつつ、レストレードはお待たせしましたと見えない相手に向かって頭を下げた。こちらから見えないと言っても相手からは丸見えの可能性が高いので、見えているつもりで行動して間違いはない。

「どうかしたかね、レストレード警部」
「いえ、ジョン・ワトソンのダイエットが、アンダーソン以上に危惧すべき脅威ということだけはわかりました」

 レストレードはほぼ棒読みの大変無機質な言い方で返答した。
 アンダーソンが口を開くと、ベイカー街中のIQが下がると言い放ったのはシャーロックだ。だが、それどころではないものを、あの男は隣に置いて居るではないか。シャーロックの無自覚の依存度が高すぎるだけに、そのめんどくささはアンダーソンの比ではない。寧ろアンダーソンが可哀相だ。彼は仕事をきっちり行っているのだから。
 しかし、ジョン・ワトソンの姿を脳裏に思い浮かべ、レストレードもまた苦笑した。
 あの丸い頬。もう中年にさしかかろうと言うのに、肉と脂肪がみっちり詰まっているおかげで皺もないジョンの顔は、スクールの子供を思わせる朗らかさに満ちている。シャーロックと違い、健康的な色白の頬は、いつも赤く上気していて微笑ましい。ついでに言えば息も常に荒いが、それすらも温かい目で見てしまうくらいには、あの体型には謎の吸引力がある。彼がその心に決して見た目だけではない戦士の魂を抱いているのだとしても。つまり…レストレードもまたアレに癒されている一人なのであった。
 レストレードの沈黙をどう受け取ったのか、マイクロフトは再度重々しく同じ内容を告げた。

「協力を要請できるかね、グレッグ・レストレード警部」
「…勿論。喜んで、サー」

 今ここに、ジョンの体型を維持したまま彼の健康状態も確保するという、「ジョン・ワトソン健康メタボ計画」なる国家プロジェクトが誕生しようとしていた。



   ***



 電話を切り、シャーロックはジョンに向き直った。
 自分よりも低い場所にある丸っこい厚みのある肩に手を置き、ぱんぱんの顔の中に埋もれることなく存在する、意外に彫りの深い目元の奥、きらきらと輝くつぶらな瞳を真正面から見つめて、シャーロックは、愛の告白さながらの熱を込めてジョンに告げた。

「ジョン。君の身体は僕が守る」
「シャーロック?」
「君の体型も健康も、この僕が守ってみせる」
「うん?ええと、どうした。いきなり真剣な顔で…」
「だから君は何も心配することなんかないんだ」

 僕のジョン。大好きなジョン。君が美味しいものを美味しく、ずっとたくさんいつまでも健康に食べられるように。

「はは、僕は何も心配してないよ。ただその、さすがに食べ過ぎは良くないかって思っただけで…」
「だから、そんな心配はいらないんだ!」

 泣き叫ばんばかりの悲痛な声に、ジョンはさすがにシャーロックの様子を心配したようだった。

「どうしたんだ。君、今朝からどうもおかしいぞ。お腹減ってるのか?何か食べる?…なぁ、シャーロック?」

 機嫌が悪いイコール食べ物が足りないというその安易な発想すら、シャーロックには愛おしい。

「君が好きなもので構わない」
「そうだなぁ…今日は、フランス料理なんてどう?」
「そろそろ食べたくなる頃だろうと思って、幾つか店をピックアップしておいた」
「エクセレント!さすが君は名探偵だ!」

 一体名探偵という単語がどの辺りにかかっているか、大変怪しいものではあるが、シャーロックはジョンのふくふくとした姿から浴びせられる柔らかな声の誉め言葉に有頂天だった。
 ジョンとの幸せをただひたすらに噛みしめながら、2人並んでレストランへの道を歩く。
 このためなら、きっと何でもできると心から思ったシャーロックが、無意識にジョンに食べ物を与えてしまうという己の悪癖と戦うべく、阿鼻叫喚の毎日を送るのは次の日からである。

- end -


2013/01
※シャーロックはデ○専ではありません。ジョン専です。ジョン・専・です…!
※真の自分だけのテディベアに彼は巡り会ったというそれだけです。
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