WhirlWind

酔った勢いで好きな子に告白したらトイレに立てこもられた話

Bucky × Steve


 コンコン、と後ろ手にドアをノックする。
 俺は床に座り込み、背中を預けた向こうへ耳を澄ませて声をかける。
「聞こえていますか、間抜けやろう」
 ゴンッという音がドア越しに返り、薄い木板を揺らす。一拍遅れて返事が響いた。
「聞こえているよ、クソやろう」
 声はいくらかこもって、ウァンと反響する。そのむっすりとした声に、俺は思わず吹き出しそうになるも、慌てて声を飲み込んだ。笑っている場合ではない。すでに三十分ほど、俺とスティーブは薄っぺらいドアを挟んで背中合わせに座り込んでいる。
 それもトイレのドアで。


     ***


 いったいどうしてこんなことになっているのか、理由は俺が知りたい。
 多少酔っぱらっていた自覚はある。だが、俺がふにゃふにゃと酔っぱらってスティーブに絡むのは珍しいことでもない。酒に任せて幼馴染みに甘えるのは俺の小さな楽しみで、酔っぱらった時に限っては、スティーブは面倒くさそうな表情を浮かべこそすれ、俺を絶対にはね除けないことをよく知っていた。スティーブが本に夢中になっているのをいいことに、寄りかかるだけでは飽き足らなくなった俺は、本を読んでいるスティーブの背中にのし掛かるようにして絡みつき、俺とはまるで正反対の癖のない金色の髪に顔を埋めた。見た目は細すぎるほど華奢な身体だが、こうして抱きついていると不思議な安心感がある。
 俺はもともとスティーブのことが好きだ。ただ、好きという感情に他人に向けるありとあらゆるものが込められていることを自覚したのは、わりとつい最近のことだ。友情も愛情も欲情も、という意味で。俺は小さく溜め息を洩らして、それと分からぬようにスティーブの頭に自分の唇を押しつけた。
 そのまま、心地よい酩酊感に任せて身体を預けていたのだが、スティーブの方はさすがに鬱陶しくなってきたらしい。線の細い顔に似合わぬ声で低く唸ると俺を振り返り、眉を深く寄せてじっとりとした目つきで俺を睨んだ。
「重い。それと酒臭い」
「いいだろ」
「よくない」
 つれなく突き放されて、俺は不意に寂しくなった。
「いいだろ。だって俺はお前が好きなんだ」
 好きな相手には触れていたいものだ。思わずふて腐れて呟けば、スティーブは目を戻していた本から顔をあげ、もう一度振り返ってまじまじと俺の顔を見た。
「今さら、何を言ってるんだ?」
 聞き返されて俺はいさかかむっとした。口を尖らせて言い返す。
「好きは好きだろ。何がおかしい」
「理由になってないだろ。そんなことでお前は誰かれ構わずべたべたとひっつくのか」
 その言い方に、思わずかっとなった。理由なんてはっきりしている。相手がスティーブでなければいけないことも。
「じゃあお前とキスしてセックスしたいからって言ったら納得するのかよ!」
 やばいなと口走った後で思ったが、一度口にしたことは取り消せない。それに、言うつもりがなかったとしても本音は本音だ。
「お前が好きだからくっついていたいんだろ!!」
 やけくそになって立て続けに叫ぶとスティーブは青い目を丸くし、ゆっくりと二度瞬きをしたあと、俺に負けないくらいの声のでかさで返した。
「――馬鹿だろ!!」
「お前が聞いたんだろ!」
「僕はそういうことを聞いたんじゃない。馬鹿!!」
 あとから考えてみれば、まったくスティーブらしくもない稚拙な言い返しだったが、この時の俺はまるで気づかなかった。馬鹿、馬鹿! と繰り返されれば、さすがに頭にくる。頭にきたが情けないことに涙線にもきた。酒のせいであれこれが緩んでいるのか、じわりと目元に涙が滲むのがわかる。俺って泣き上戸だったんだっけ、とまるで思い当たらない記憶に首を傾げながらもずずっと鼻をすする。スティーブは俺の様をいい加減見かねたのか、「鼻かめよ! 馬鹿!」と更に罵った挙句にポケットから出したハンカチを投げつけてきた。ハンカチは見事に俺の顔にぶつかった。いくら気の置けない親友だからといってあんまりだと思う。
 そして俺がハンカチを受け止めているすきに、本人はばたばたとどこかへ駆け込んでドアを閉めた。つづいて響いたガチャリという音。

 ――マジかよ。

 顔を上げた俺はさすがにひきつった。

 ――あいつトイレにこもりやがった。

「おい、ちょっと待て、スティーブ! なんで、トイレに行くんだよ」
 慌ててトイレの前に立ち、どんどんとノックをした俺に、中からスティーブが声を返す。
「他に鍵がかかる場所がないからだろ。寝室じゃお前入ってくるじゃないか」
 スティーブが言うとおり、トイレはこの家唯一のプライベート空間だ。アパートの部屋の鍵の隠し場所を知っていて、遠慮も何もなく当たり前のようにスティーブの家にやってくるこの俺が知る限り、鍵がかかる場所はトイレだけだ。
「いや、確かにそうだけど、ってお前、それこそ理由になってないだろ!」
 俺は往生際悪くトイレのノブに手をかけ、ガチャガチャと回した。だが鍵はしっかりとかかっている。それでも引っ張ったり押したりしていると、不意にドアノブが固まった。ギギギとトアノブが悲鳴を上げる。どうやら向こうでスティーブがドアノブを押さえたらしい。俺たちはトイレのドアを挟んで、ドアノブを握り合ったまま膠着状態になった。力で言えば絶対俺の方が強いのにどういうことだ。俺はしばらく悪戦苦闘したが、終わりを告げたのはスティーブの一言だった。
「手を離せ、クソやろう」
 俺の幼馴染みは凄味のある口調で告げ、トドメとばかりに低く釘を刺した。
「ドアノブを壊してみろ。お前とは金輪際絶交だ」

 ――マジかよ。

 俺は今度こそ凍りついた。
 そんな理由で絶交されたくはない。俺は仕方なくドアノブから手を離し、呆然とトイレの前に立ちつくした。手にはスティーブに投げつけられたハンカチを握ったままだ。せっかくなのでそれで鼻をふく、つもりで思わず息を吸い込んだ。洗剤の香りがする。胸がすくような清潔感のある香りだ。普段から嗅ぎ馴れたものが、よりはっきりとした形で身体の中に入り込んでくる。スティーブの匂いだとぼんやり思う。そんなことで心がざわりと浮き立ち、自分という男は、自覚していた以上に即物的で阿呆な人間だったのだと感心した。本人を腕の中に抱き込んで、首元に顔を埋めて深呼吸をすれば、きっともっと幸せな気持ちになれるに違いない。もっともスティーブが俺にそんなことを許すかどうかは別の事だし、どうにかそうしたくても、肝心の相手は今やトイレの中だった。
 現状を整理するならば、俺は酔っぱらった勢いでスティーブに告白し、その返答として告白した相手にトイレに立てこもられたということになる。
 ――いや、だからってこんなことにはならないだろ、普通。
 スティーブにはスティーブの決めたラインがある。それは絶対のもので、幼馴染相手であっても揺らぐこともないものだった。俺は、スティーブのいっそ冷徹に思えるほどの厳格さや高潔さを愛しているが、ときどき寂しさを覚えないわけじゃない。例えばこんなとき。
 俺の言葉は多分、スティーブのラインを踏み越えたのだろう。当たり前だ。親友からわざわざ好きだと言われた挙句にセックスがしたいとまでぶちかまされて、はいそうですかと鷹揚に構えられるやつはいない。ましてスティーブの価値観からすれば、俺はその場で殴られなかっただけ感謝すべきかもしれない。確かに俺が悪い。それは認める。
 でもだ。それでも、だ。

 ――トイレはないだろ。

 さすがスティーブ。一筋縄ではいかなさすぎる。俺はスティーブのハンカチをズボンのポケットの中に押し込むと、大きく溜め息を吐いた。こうなったら仕方がない。
「わかった。じゃあ俺はお前が出てくるまでここにいる」
 スティーブは俺の言葉にぎょっとしたようだった。ドアの向こうでカタンと小さな音がして、ドアがドンと鳴らされる。
「何言ってんだよ、帰れよ」
「嫌だ」
 そうきっぱり言い返し、俺はトイレのドアの前に腰を下ろした。トイレは確かに安全だが、逃げ込んだ以上出てこられない。立てこもるというのなら、出てくるまでここに居座ってやるまでだ。
 立ち去る気になれないのは、トイレに立て込む寸前、投げつけられたハンカチの合間に見たスティーブの顔が真っ赤に染まっていたからだ。
 その意味を問い質すまでは絶対にここから動かないと俺は決めたのだった。


     ***


 ノック、ノック。
 トイレのドアにもたれて、手の甲で軽くドアを叩く。
「聞こえてますか、間抜けやろう」
 間抜けは間抜けだ。俺も相当の阿呆だが、この状態はお互い様と言っていいだろう。スティーブがトイレに立てこもってからすでに一時間が経過していた。
「なあ、スティーブ。もしかして本当に体調が悪いのか?」
 返事はない。俺はだんだんと心配になってきた。まさか寝ていたらどうしよう。いや、寝ているならいい。気分が悪くなっていたらまずい。
 俺の不安をよそに、コツリと小さな音が返ってきた。
「聞こえてるよ、クソやろう」
 ぎしりとドアが軋む。スティーブもまた、ドアの向こうで座り込んでいるらしかった。ドアを挟んでぴったりと背中合わせに座っていることになる。ドア越しにスティーブの熱が感じられる気さえしてきて、俺は少しばかり身動ぎをした。顔は見えないのに、スティーブの存在がありありと分かるのが不思議だった。そして聞こえるスティーブの声は完全にふて腐れていた。
「酔っぱらいに心配されたくない」
「とっくに醒めてるよ」
 苦笑しながら答える。その通り、酔いはとっくに醒めていた。スティーブとトイレのドアを挟んでいる現実だけが静かに横たわっている。どう見ても珍妙な状況に置かれながら、原因となった自分の言動が酔いの勢いに任せたものだったのか、俺はもう一度考えてみた。
 どうだろうと俺は首を傾げた。今の関係にも満足している。ほぼ毎日顔が見られて、様子が知れて、同じ時間を過ごせる。俺たちの間にあるものは、あくまでも親友だ。幼馴染だ。ただ俺が、その延長を少し伸ばしたいと思ってしまっただけだ。ほんの少しでもいい、もっと当たり前にその身体に触れられるなら、スティーブの中に自分を刻める方法があるのならそれを選択したいと思っただけだ。
 親友と寝たいっていうのはおかしいんだろうか。俺だってそれなりに悩んだし、眠れなくなったりもした。それでも結論は同じだったから仕方ないのだ。それに、俺がどんな形であいつを好きになろうが、どうせ今までと大した変化など起こらない。スティーブは相変わらず病弱な身体で自分の正義を貫き、誰かに絡まれて怪我をするだろう。俺は不安を抱えながらあいつを探して、大事になる前にスティーブを見つけ、事態を収めて一緒に帰る。俺が俺である以上に、スティーブ・ロジャースは、スティーブ・ロジャースだった。何も、変わらない。スティーブに対する俺という存在はどこまでも無力だと感じる。スティーブには本当は俺など必要ではないんじゃないかと思うことさえある。だが、俺にはスティーブが必要だった。家族ではきっとこんな気持ちにならなかった。かけがえのない他人だったから、血の繋がりに頼ることができない存在だから、手を伸ばして掴んでいたいと思ったのだ。
 と、そこまで考えて俺は自分の生理衝動に気づいて眉を下げた。
 ――まずい、トイレに行きたい。
 溜め息が洩れる。どこまでもシリアスになりきれない自分にがっかりする。まあ、そもそも好きな相手にトイレに逃げ込まれている状況からしてシリアスどころではない。俺が第三者の立場だったら指を指して笑っている。
 コンコンとノックする。
「おーい、聞こえてますか、間抜けやろう」
 ゴン、とノックが返った。ドアが震えて背中に衝撃が伝う。この大きさと重たさは拳じゃない。肘で小突いたんだろう。元気そうでけっこうなことだ。
「聞こえてる。うるさい、クソやろう」
「俺もトイレに行きたい、行かせてくれ」
 俺は誠意を込めて真面目に頼んだ。だが、一拍置いて返ってきたのは清々しいまでの暴力的なお言葉だった。
「自分の家に帰ってクソしろよ。ここは僕の家のトイレだ」
 正しい。まったくもって正しい。だけどトイレに行きたい親友を外に放置するのは、いささか人道に外れるんじゃないのか。そもそもスティーブは誰に対しても優しいし正しいけど、俺にはちょっと厳しすぎないか。
「お前、もう用事は済んでるだろ。俺に譲れよ」
「そんな馬鹿馬鹿しい理屈があるか」
「馬鹿馬鹿しくても俺はけっこう本気だし若干必至だ。おい、スティーブ!」
 俺は必死に訴えたが、スティーブは容赦がなかった。
「いいか、バッキー。この際だから言っておく。常々気になってたけど、トイレの紙はもっと丁寧に節約して使えよ。お前の使い方はいらいらするんだ」
 ――おい、それは今ここで言うことなのか、スティーブ。
 俺は思わず項垂れた。だんだんとトイレのドアそのものがスティーブの心に思えてきて、俺は無性に悲しくなってきた。トイレにも行きたいが、それ以上にスティーブとの間を隔てるものがあることが悲しい。
 もう一度ノックする。
「聞こえていますか、間抜けやろう」
 返事はない。
「なあ、スティーブ」
 思わずぐすっと鼻を鳴らしてしまったのは、我ながら情けないにも程がある。
 薄いドアの向こうには俺の立てる物音なんて筒抜けなんだろう。黙っていたままだったスティーブの困惑した声が響く。
「バッキー…お前泣くほど切羽詰まってるのか…?」
 そういうことじゃない。いや、それも少しはあるけど今はそこじゃないんだ、スティーブ。俺はがっくりついでに本気で泣きたくなってきた。
「なあ、顔、見せてくれよ」
 普段から青白い顔が、朱に染まるのははっと目を奪うものがあったけれど、スティーブを困らせたいわけではなかった。セックスとまで言ったのは露骨すぎたか。でも偽ることはできそうにないし、今でなくても、近い将来正直な気持ちを伝えていたはずだ。それでもスティーブに拒まれるくらいなら、俺は全部の感情に蓋をして、友人関係を続けるくらいの覚悟はあった。スティーブに抱く感情に優先順位をつけるなら、友人であること以上に大切なものはない。
「俺が嫌なら、嫌でもいいから」
 もたれかかったドアにこめかみを押しつけて呼びかける。
「お前と友達でいられなくなるのは嫌だよ」
 ――それが一番嫌だよ。
「お前の顔が見たいよ、スティーブ」
 このままでは、俺はスティーブの顔どころかトイレのドアを最後に目にして絶交などということになりかねない。友情の終わりに思い出すのがトイレのドアというのはあんまりだ。
 口にすれば、また目元がじわりと熱くなる。スティーブのことになると自分はこんなにも弱い。みっともない。最初に出会ってからというもの、チビでガキだった頃の俺は、あいつが病気をしたり怪我をしたりするたびにビービーと泣いたものだ。少しでも早く成長したくて、あいつにかっこいいと、頼れる男だと思ってもらいたくて、地味に努力を重ねてきた。必死過ぎて馬鹿みたいだ。でも馬鹿らしいほど必死にならないと、この頑なな幼馴染を繋ぎ止めておける気もしないのだ。いや、それでも足りるかどうか。
「なあ、スティーブ」
 繰り返し呼んでいると、唐突にガチャリと音が鳴って、俺は支えを失って転がった。
「いっ…!?」
 頭を強かに打ちつけ、一瞬意識が飛びかけたが、目を開けると天井の代わりにスティーブの顔が俺を見下ろしていた。
「…スティーブ」
 約二時間ぶりに見た顔は、いつもの三倍深く眉間にしわを寄せていた。不機嫌は収まっていないらしい。それでも顔は見られた。謝って、それでも正直な想いをちゃんと伝えて、スティーブの返事を待とうと、とりあえず口を開こうとしたのを遮ったのはスティーブだった。
「どうしてお前はそうなんだ」
「は?」
「どうしていつも僕より先なんだよ」
「スティーブ?」
 渋面のスティーブが紡ぐ言葉の意味がまったく分からず、俺は床にみっともなく転がったまま首を傾げた。スティーブはどうやら本当に怒っている。だが、その理由はどうも俺が思っているものとは違うようだった。俺の当惑をよそに、スティープは堂々と言い放った。
「僕の方が絶対に先にお前が好きだったし、僕の方がお前のことを好きに決まってるのに、どうしてお前に先を越されるんだ!」
「そ、んな理由…?」
 ようやっと身体を起こした俺は、あんぐりと口を開けて呟いた。俺の反応はスティーブの苛立ちを余計に刺激したらしい。ぎろりと青い目が吊り上がる。
「そんなってなんだよ。しかも明らかに酔っぱらった勢いだっただろ。ふざけるなよ。バッキーの馬鹿やろう」
「お前、俺が好きなの?」
ぽつりと洩らすと、スティーブの眉間の皺がますます深く寄り、小さな唇から大きな溜め息を零した。
「そうだよ」
 お前が僕を好きになるよりずっと前から、とスティーブは怖ろしく真っ直ぐな目で言いきった。
「いいか、僕だってお前が好きなんだ」
「スティーブ?」
「僕も、ちゃんと、お前が好きだ。そのキスだとかセックスがどうとかも、」
「ま、待て待てスティーブ。お前…意味わかって言ってるよな!?」
 慌てたのは俺の方だった。予想外の単語が思ってもいなかった相手から当たり前のように出てくることについていけず、まずは状況を整理しようと確認をする。スティーブは呆れたような顔で首を傾げた。
「セックスのことか? 馬鹿にするなよ。セックスっていうのは、」
「いや、待て。俺が確認したいのはそこじゃないけど、いや、そこもあるけど、分かってるならいい、説明しなくていい!」
 今ここで、しかもこんな場所で生々しい言葉をスティーブから聞きたくなくて俺は慌てた。
 ――ええと、何だっけ。俺は今何を言われているんだ?
 思考はぐるぐると周り、俺は咄嗟に叫んでいた。

「わりい…! トイレ行かせてくれ!」

 すまん! と叫びながら俺はあたふたと立ち上がってトイレに駆け込んだ。スティーブを外に押しのけ、ばたんと音を立ててドアを閉めると冷や汗をかきながら鍵をかける。正直なところ、尿意など吹っ飛んでいた。
――ええと、なんだ。さっきスティーブは何て言ったんだ。
 俺は混乱していた。一体何がどうしたっていうんだろう。トイレの中で呆然と立ちつくす。二時間にもわたってスティーブがこもりきっていた狭い空間は、やはりスティーブの気配が色濃く残っていて、そのことに気づいた俺は心臓がどくりと脈打つのを感じた。
――あれ、なんだこれ。
「大丈夫か、バッキー。腹痛?」
 自分の状態に首を傾げていると、薬ならたくさんあるよ、と外からスティーブが的はずれな気遣いをかけてくる。
「俺は平気だ! だから放っておいてくれて大丈夫だ!」
 慌てて大声で言い返したが、スティーブはふぅんとだけ呟いた。そして続く小さな物音に俺はぎょっとした。
「おい、お前何してんだ。もう大丈夫だから向こう行ってろよ」
「心配だからここにいてやるよ。そうだな、二時間くらいなら待ってやれる」
 小さく軋んだドアの音。スティーブが寄り掛かったのだとわかる。薄っぺらい木の板一枚の向こうにスティーブがいる。さっきと状況は何も変わらない。ただし、今は俺がトイレの中でスティーブは外にいる。すぐ近く、けれど越えられない壁を挟んで。
 その事実を改めて意識して、俺はやっと気づいた。自分が逃げ場を失ったことに。そして慌てた。だんだんと顔がひきつり、ついでに赤らんでいく。
「ちょっと待て、スティーブ…!」

――なんだこれ、めちゃくちゃ居づらい。それに出づらい!
――というか、恥ずかしい!

 ちょうどタイミングよく、まるで俺の心の声を読んだかのように、スティーブの面白がるような声が響いた。

「どうだ。僕の気持ちが分かったか」


     ***


ノック、ノック、ノック、音がする。
「聞こえてますか、クソやろう」
 スティーブの声が響く。俺もノックを返し、ぼそぼそと小さく返す。
「聞こえてるよ間抜けやろう…」
 結局、俺はあれから三十分経ってもトイレの中にいた。狭いトイレはスティーブのサイズなら身体を丸めれば座り込むことが可能だろうが、俺の身体ではそうも出来ず、かといって便坐に座り込むのも情けなく、身体をドアに預けたまま突っ立っている状態だ。
 あれだけ感じていたはずの尿意はどこかへ吹っ飛んでしまっている。というよりも行けるわけがない。すぐドアの向こうにスティーブがいるかと思うと、用を足すのには気がひけた。立てる物音がすべて筒抜けとか冗談じゃない。普段なら絶対に気にしない些細なことが一つ一つクリアに浮かび上がって、俺の羞恥心を攻撃する。というか何で俺はここまでスティーブを意識しているんだ。いや、意識しないでいられるわけがない。
大変愚かなことに、俺は、俺自身がスティーブを好きであることに必死になりすぎて、スティーブが俺をどう思っているかということをまったく考えていなかったのだった。スティーブのてらいのない真っ直ぐな言葉は、ややセンチメンタルになっていた俺の心には眩しすぎた。想いが通じていたことを喜ぶ前に、俺は今さら襲ってきた照れと恥ずかしさでパニックになっていた。一方のスティーブは暢気なものだった。顔色を変えてトイレに駆け込んだ時と同じ人間だとはとても思えない。
「なんでお前そんなに落ち着いてんだよ…」
「トイレで考えてたからね」
 結論は出たしすっきりしたとスティーブは答えた。俺が外で悶々としている間に、スティーブはさっさと自分の思考にケリをつけていたらしい。そして俺の告白のタイミングに腹を立てていたらしい。だからといって、どうして好きになったのが俺よりも先だなんて言えるんだ。この頑固頭、いじっぱり、負けず嫌い。なんという恐るべきメンタルの強さだろうか。俺がスティーブに敵う日は多分一生来ない。
「お前も言ったことの責任持てよ。僕のことが何だって?」
 酔いも醒めたなら言い直せとばかり、スティーブが駄目押しのように尋ねてくる。俺は左手で髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回して呻いた。
「あのなあ…スティーブ…」
 スティーブなら、思考整理も兼ねて二時間トイレに立てこもることなど朝飯前なのかもしれないが、俺にはとうてい耐えられそうにない。かといって一体どんな顔して出て行けばいいのかもわからない。好きだとぬけぬけと言えたのは、やはり酒の勢いだったからなのか。本当のマヌケやろうはこの俺だ。
「なあバッキー、出てこいよ」
 スティーブが外から俺を呼ぶ。ドアがギィと軋んだのは耳を澄ませているからか。
「…お前、もしかして泣いてる?」
「泣くかよ!」
「あんまり紙は使うなよ」
「うるさい」
「ねえ、バッキー」
 あの骨ばった白い小さな拳が、丁寧に、けれど力強くドアを叩く。スティーブの音。俺はドアに頭を押しつけてそれを聞く。
 スティーブの薄い胸の奥にある気高い魂。俺はいつだってそこに語りかけたかったし、届きたかった。
「バッキー?」
 ノック、ノック。
「聞こえてるよ」
 俺もまたゆっくりとノックを返す。今はまだ音にならない言葉の代わりに一つ一つ、想いを込めて。ドアの向こうに届くように。
「お前の声は、いつもちゃんと聞こえてるんだ」

 ――好きだよ。

 ノック、ノック、ノック。


- end -


2016/07/04
バキステぷち発行のバキステアンソロに寄稿させていただいたものの再録です。(寄稿時タイトル『Knock on you』)
どんだけトイレの話が好きなのか。当時のトイレの構造については目をつぶってください。たぶんシャワーブースと一緒だよ…。
ばきすてちゃんフォーエバー。

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