WhirlWind

記憶に触れる

スティーブ・ロジャース



 水の中にたゆたうようにして、夢を見ていた。
 それは懐かしい記憶だった。まだひ弱で、誰の役にも立てなかった頃の自分がいた。
 思い出すのは、何故かいつも冬の日だ。唯一の肉親だった母親をも亡くし、暖房器具の限られた寒いアパートで一人震えながら過ごす季節は、常にも増して憂鬱で、脂肪の少ない身体を骨から冷やし、冷気は臓器にまで沁みこんで、痛みを伴う咳を吐き出させたけれど、それでも凍えずに済んだのは、傍らにあの男がいたからだ。出会ってからずっと一緒だった幼馴染み。彼が伸ばす腕はいつだって暖かかった。それを実感するから、冬は嫌いではなかった。
 夢の中で、スティーブはカフェオレのカップを両手で抱えている。冷えた指先をカップで温めながら溜め息を吐いている。
 あれは、ひ弱な身体を、ケンカをふっかけてきた相手から女のようだと揶揄された日のことだった。侮辱に立ち向かおうとして、更に殴られようとしたところをバッキーに回収され、渋々家に帰宅した。いつものようにバッキーも一緒だった。本と画材ばかりが存在を主張する殺風景な部屋の中で、入れたばかりのカフェオレを薄っぺらい絨毯の上で二人並んで飲んでいた。
 自分のことは嫌というほど分かっていた。もう18歳になろうとしているのに、14、5ほどの少年にしか見えない。この国の男の平均をはるかに下回る身長は、確かに庇護の対象であり、背中を預けられるようには思えないのかもしれなかった。侮蔑の言葉が繰り返しスティーブの自尊心を殴りつける。それでもスティーブは諦めたくはなかった。いつだって。

「僕は確かに平均より背も低いし、細くて頼りないかもしれなけれど、男なんだ」

 苦々しげに吐き出したのを聞いて、隣のバッキーはきょとんとしたあと、げらげらと笑いだした。思わずむっとする。

「笑うところじゃない、バッキー」
「だって、そんなこと俺が一番よく知ってる。お前は間違いなく男だな」

 脂肪や筋肉のほとんどない骨と皮ばかりの胸を、バッキーが軽く小突く。

「お前は強い男だ。俺はちゃんと知ってる。まあ、諦めが悪いともいうけど」

 からかうような口調は、だが真摯なもので、同じくらい案じる響きに満ちていた。

「お前のその魂にふさわしいのは、背も幅も厚みもある、立派な筋肉をまとった身体なんだろうけどな…」

 そんなもの、奇跡が起きない限りは手に入りそうにもなかった。細いだけではない。内臓も気管も脆弱で、このまま長生きすることさえ望めそうにはなかった。
 つい溜め息を零しそうになるスティーブの頭を、バッキーの手がかき回した。

「まあ、あいつらにはお前のことがわからないんだから仕方ない。それなのにお前が、わざわざ自分の〈男〉を主張しはじめるのはどういうわけなんだ?」

 頭に手を置いたまま真横からのぞき込まれて、思わず俯く。

「…最初はキスの一つもしたことないガキのくせにって、言われたんだ。まるでキスが大人の証みたいに。…キスってさ、そんなにいいものかな」

 カップの中身をのぞき込んだまま、そうぼそぼそ答えると、一瞬呆気に取られていたバッキーが、今度はにんまりと笑った。

「まあ、上手いに越したことはないな」
「そういうものか?」
「世の中はお前が思っているより単純に出来てるのさ。よし、俺がキスの仕方を教えてやるよ。もやしのお前でも相手がどきってするようなやつ」

 スティーブは思わず溜め息を吐いた。女の子とろくに会話を交わすこともできないのに馬鹿げている。

「相変わらず勝手だよな、お前は」
「俺はお前が心配なだけだ、スティーブ」

 そういいながらも、バッキーの目は明らかに面白がってキラキラと輝いている。この幼馴染の悪いところは、調子に乗りやすいところだ。明るい性格はスティーブを救い、時に呆れさせる。

「まず相手を想像しろよ。どんな子がいい?」
「いきなりそんなこと言われてもな…」

 スティーブは途方に暮れた。そもそも、発育不全のこの身体は、女子に比べても頼りないほどなのだ。十代の少女は男子よりも発育が早い。あっという間に柔らかでメリハリのある肉体に変化し、気づけば女の色香をまとわせている。昨日まで見知っていたはずの少女が、ある日別人のような女性に変わっているのを何度も見たことがある。その変化にスティーブはついていくことができない。時代の移り変わりも、人の変化も早すぎて、時に息も出来なくなる。自分だけが何も変わらず足踏みしているように感じられる。それでもまだ取り残されてはいないと思えるのは、バッキーが事あるごとに振り向いて手を差し伸べてくれるからだ。

「そうだなあ…俺の知ってる女の子も、お前より体格がいいもんなあ…」

 俯いたままのスティーブに何を思ったのか、バッキーはずれた同情を示した。

「まあ、でもそれもいいんじゃないか? 女の子の母性っていうのか、そこに訴えかけて庇護欲を掻きたてさせるんだ。ほら、お前ってどうしてもほっとけないし」
「それは、バッキーくらいだと思うよ」

 むしろ鬱陶しいと思われているはずだ。愛想がある方でもない。母親か父親のごとく世話を焼くのは、お前が唯一の例外だと言外に告げてやったが、バッキーはにやにやと笑うばかりで全く聞いてはいなかった。

「お前の小柄さと真面目さを生かすんだ。ほら、そこの壁に立てよ。今から練習だ」

 勝手に指示をしてくる。こうなったらつきやってやるしかないだろう。スティーブは立ち上がると、しぶしぶ壁に背を預けた。それで次はと首を傾げてみせる。バッキーも立ち上がると更に指示を追加した。

「そうそう、そんな感じで。お前、姿勢はいいもんな。同じくらいか少し背の高い相手を意識して、真っ直ぐ見る」
「どこを」
「相手に決まってるだろ。ほらこっち見ろって。あと眉を顰めるのは駄目だ。小難しい表情は禁止」

 顔の位置を修正されたうえ、眉間の皺を指でぐりぐりと伸ばされる。

「相手を見て、少しだけ微笑むんだ。大切なのは雰囲気だ。顔を近づけても相手に逃げられないようだったら、ほぼオッケーだ。」
「それよりお前の顔が近いよ」

 まったく実感がわいてこない練習だ。二人で壁に立って一体何をやっているのかと思うとおかしくて、思わずスティーブは笑みを零した。だが、バッキーの方は何故か固まった。目を見開いてスティーブを見つめている。それからすぐ我に返ったように咳払いをした。

「あっ…と悪いな」
「いや、いいけど」

 歯切れの悪い親友の返事に首を傾げる。次にどうするんだと尋ねると、バッキーは小さく指示した。

「…目を、閉じる」

 ああそうか。キスをするときには目を閉じるものだ。先日観た映画でも主人公とヒロインが確かにそうしていた。

「そして、息を止める」
「うん、それで?」

 言われたとおりに目を閉じる。相手の女の子の顔はどうしても想像がつかなかったが、スティーブはこの練習がだんだん面白くなりはじめていた。ここまで来たらとことんやってやろう。それでやっぱり馬鹿馬鹿しかったと二人で笑えばいい。
 だが、バッキーからの返事はなかった。突然途切れた声に、スティーブは当惑した。

「ねえ、バッキー。次は…」

 目を閉じたまま上を見上げた瞬間、柔らかく唇を掠めたものがあった。
 驚きと共にぱちりと目を開く。

「バッキー?」

 答えを求めて呼びかけた先には、困ったような怒ったような複雑な表情を浮かべてスティーブを見つめる幼馴染の顔があった。
 赤く染まった顔の触れんばかりの近さに驚いて、もう一度名前を呼ぶと、バッキーの眉が一層寄せられる。

「お前が、馬鹿正直に俺の言うことを聞くから」

 声は不貞腐れて、あるいは拗ねていた。スティーブにはその言葉の意味も、バッキーの態度も理解ができなかった。呆気にとられ、目を瞬かせる。

「だって、バッキー」

 お前がそうしろって言ったんじゃないか。いつも手を差し伸べてくれるお前が。どんなときも、僕のところに来てくれるヒーローみたいなお前が。それなのに。

「馬鹿、もやし野郎。信じるな」

 今にも泣き出しそうな顔で、そんなことを言わないでほしい。信じるに決まっている。大切なたった一人の幼馴染を疑ったことなどないのだ。ただ一つ、確かめたかった。

「今の、キスだろ…?」

 見上げたまま尋ねれば、バッキーの顔が一層歪む。

「なあ、スティーブ」

 その右手がスティーブの頬を包むように触れた。自分の頼りない輪郭は、すっぽりと友人の片手におさまってしまう。途端にどこを見たらいいのかわからなくなって目を伏せた。触れた親指が、瞼を辿り、睫毛をなぞっていく。一つ一つ、造形を確かめるような触れ方がくすぐったかった。
 顔がもう一度近づく気配に視線を上げた。間近に覗きこまれた目は揺れている。

「キスが、したい」

 お前に、と小さくつけくわえられた声は、先ほどまで意気揚々とキスの仕方を指導していた様子とはまったく違っていて、少しおかしかった。
 それでも、自分の親友はやはり男前だとスティーブは思った。こうして間近で彼を見るのが嬉しくさえあった。碧を帯びた目の色も、睫毛の長さも、知っているようで知らない発見があった。重苦しい卑屈な思いは、いつの間にかどこかへと消えている。
 つけっぱなしで床に転がしたラジオの声が、遠く聞こえてくる。先ほどまでベースボールの中継をしていたはずなのに、今はフォークソングが響いていた。
 ラジオの隣に、描きかけのスケッチブックが広がったままになっているのが見えた。何か描きたいものがあったはずなのに、今は何も思い出せなかった。

 ――キスをするときはどうするのだっけ。

 とろけた思考が先ほどのやり取りをリピートする。目を閉じて、息を止める。それから、首を傾けて。
 わずかに息を飲む気配がして、さきほど離れた唇がもう一度ゆっくりと押しつけられる。最初よりは確かな感触。けれどどこか躊躇いのある触れ方はもどかしく、だんだんとスティーブは腹が立ってきた。
 バッキーは何も口にしない。嫌なら逃げてもいいのだと言わんばかりだった。自分から仕掛けてきたくせにそんなのは卑怯だ。自分が逃げると思っているのか。この友人から。まったく馬鹿にしている。だから、スティーブはわずかに踵を上げてこちらからぶつけるような勢いで唇を合わせてやった。これでどうだと目を開けてバッキーを見上げる。

「お前が、教えてくれるって言ったんだろ」

 約束は守れよと口にした途端、身体ごと壁に強く押しつけられた。

「んっ、バ…っ」

 名前を呼んだ声ごと呑み込まれるように口づけられる。開いた唇の間から、熱くぬめるものが押し込まれて、背筋がびりびりと震えた。反射的に仰け反ろうとして、だがいつの間にか首の後ろに回された手に頭を固定されていて動けなかった。
 口づけが角度を変え、深さを増していくのに、置いて行かれまいとしてスティーブも必死になった。されるがままでいるのは悔しくて、口内を動き回る舌を追いかけた。舌が触れ、互いに絡み合う。強く吸い上げられてくらくらとした。

「ふっ…んっ、う…」

 上手く呼吸が出来ず、息が上がる。苦しさと浮かされたような熱に涙が滲む。合わせた身体のあちこちも焼けつくようで、重なった先から溶けていくようだった。このまま溺れてしまいそうだと思ったとき、ようやっと唇が離された。

「っ、あ、バッキ…」
「スティーブ」

 囁くような声が吐息と共に吐き出されて唇を掠める。その甘さと熱に息を飲む。離れた互いの唇の間に、唾液が糸を引くのをぼんやりと見つめた。小さく笑う声がする。声は優しく、そして切なさを帯びていた。

「――練習」

 何の、とは、もう聞かなかった。



     ***



 目を開くと、真っ白な天井が目に飛び込んできた。ここが病院だと遅れて悟る。ヘリキャリア壊滅の際に落下したスティーブは、負った怪我の深さのためにあれから三日経っても未だに病院に収容されていた。
 夢を見ていた。空想の世界ではない。過去の記憶の断片だ。
 その内容を思い出して、その気恥ずかしさにスティーブは思わず両手で顔を覆った。なんだって今さらそんな記憶を夢に見たのか。
 ナターシャが余計なことを言ったからだ。

 ――1945年ぶりのキスだった?

 キャンプ・リーハイに向かう途中、からかうように言われて、そんなわけはないと答えるのが精一杯だった。

 ――どうせ、下手だって言いたいんだろう。

 そう言い返したことについて、ナターシャは後日見舞いと称してわざわざ訂正しにやってきた。

「まさか、下手だとまでは言ってないわ」
「じゃあ、どういうことだ?」

 もう放っておいてほしいと思いつつ返事をすれば、ナターシャは意味ありげにぽってりとした特徴的な唇をかすかに吊り上げた。

「しなれているより、されなれているのねって、思っただけよ」

 ふふんと笑われて、スティーブは絶句した。眉を寄せて首を傾げる。

「…そういうのって分かるものかな」
「さあ。私が聡すぎるだけかも。でも女って大体何かに聡いものよ。いいんじゃない。そういうの好きっていう子もいるわよ。まあ、私は物足りないけど」

 言うだけ言って、彼女はさっさと病室から引き上げていった。
 一人残された病室で、スティーブは呻いた。

「僕のせいじゃない…」

 そもそもバッキーという男は恥ずかしいやつだった。
 熱に浮かされたようなあの時間は一瞬だった。そしてその一瞬は、その後も繰り返された。
 小さな頃から共に過ごしてきた時間の中で、混じりけのない友情に欲が加わっていたことを、互いに指摘することはなかった。多分、自分たちにとっては、抱く欲さえ当たり前で、自然のことだった。
 懐かしい記憶と、今の記憶が交差する。
 目覚めてみれば現実だけがスティーブの目の前に横たわっていた。身体の痛みと胸の疼きを自覚する。
 過去はやり直せない。もう変わらないのだとペギーは言った。その通りだ。
 あの時笑った友とまるで同じ顔を持つ男の表情は、氷のように凍てついていた。表情豊かだったバッキーとはまるで別人だった。それでも、あれはバッキーなのだとスティーブには分かった。
 どんな扱いを受けてきたのかは知らない。碌な待遇でなかったことはわかる。荒んだ眼差し。虐げられて人をにくむ獣のそれだった。そのくせ、与えられた〈任務〉には忠実であろうとしていた。
 言葉を重ねるたびに全力で跳ね除けられた。
 それでも、バッキーだった。忘れられるわけがなかった。生きていた。それが全てだった。
 野犬のように思えた双眸は、間近で見れば、帰る道を忘れて途方に暮れた幼子のようだった。

 ――僕はここにいるのに。お前は一人じゃないのに。
 ――お前が、全部僕にくれたのに。

 ずっと一緒だった。一緒にいてくれた。バッキーだけが、熱も想いもすべてわけてくれた。
 その記憶さえ、本当に氷の下に凍結させてしまったのだろうか。
 爆発の衝撃でポトマック川へと落下しながら、凍りついたように目を見開いてこちらを凝視する姿が、なぜかくっきりと見えた。そこだけ切り取ってスローモーションにしたように。ゆっくりと遠ざかっていく姿は、まさに記憶に焼きついた彼との別れの場面と同じだった。この光景を、バッキーも見たのだろうかと思った。
 衝撃と共に水面に叩きつけられて、ヘリキャリアの残骸とともに底へ底へと沈んでいきながら、遠い日の友の姿を重ねあわせていた。上へと昇っていく大量の泡がやがて視界を覆い尽くしていった。どこで腕を掴まれたと思ったのか、スティーブには思い出せない。ただ、自分からつかみ損ねた。気づいたときには病院で、友の姿をした影は、どこにも見当たらなかった。
 まるで最初からいなかったかのように。
 水を飲もうと、呻きながら身体を起こす。身じろぎすれば、撃たれた腹がひきつって痛んだ。通常男性の4倍の代謝を持つこの身体でも、少しは回復に時間がかかりそうだ。痛みを堪えつつサイドテーブルに手を伸ばし、ふと気づいた。ペットボトルの横に、IPodが置かれている。サムが置いていってくれたのだろう。横にはメモが置かれている。そこに書きつけられていたのは、簡単な操作方法と、中に入っている音楽のリストだった。
 目を通してみればまるで知らないものから懐かしいナンバーまでが順番に入っている。サムが自分で調べたのか、自分の好きそうなものをナターシャにでも聞いたのか。
 その中に、聞きなれた一曲を見つけてスティーブは目を見開いた。

《It's been a long,long time》

 メモを見ながら慎重に操作して、再生ボタンを押す。ゆったりとしたメロディが流れはじめた。
 フューリーが怪我を負ってスティーブの部屋に転がり込んできたときに流れていた曲だ。繰り返し聞いていた古いレコード。1945年にヒットしたナンバーだ。スティーブにしてみれば自分が〈死んだ〉後に出された新曲だが、今の人間からすればさぞ時代がかって感じるのだろう。探し当てたレコードは店の隅で埃を被っていた。貴重なものだと店主は言っていたけれど、このレコードに価値を見いだして購入する人間が少ないのは明らかだった。今は、もっと手軽に音楽を選んで聴くことができる。レコードでわざわざ聴くのは好事家だけだ。
 あの時代にとって、これは戦地から戻った家族や恋人との再会を喜ぶ歌だった。そして今は。

 甘やかな声は歌う。間近に見えた相手に対して、思いもよらなかったと。
 
 タイトルに、そして歌詞に惹かれてつい買ってしまった曲だった。
 まさか、本当に思いもよらぬ再会が待っていようとは。もっとも、あの時の自分はまだ彼の正体を知らなかったけれど。

「お前、どこにいるんだよ」

 ぽつりと声が洩れた。
 怪我が治り次第、すぐにでも探しに行きたかった。ただ、会いたかった。顔が見たかった。身体を貫いた銃弾は、全て急所を外れていたと聞かされた。かつて片腕だった親友は、射撃の名手だった。
 バッキーの記憶がやがて戻るのかは分からない。戻ったところで、二度と昔のようには過ごせないのかもしれない。それでも諦めるわけにはいかなかった。いつか、必ず思い出す日が来るはずだ。今は、それだけがスティーブを支える希望だった。
 過去は変わらない。だから、今できることをするのよと、ペギーは目を潤ませて微笑んだ。彼女は老いてもいっそう美しかった。混濁した記憶の中に、自分という存在を今も大事に残してくれていた。大切な人。守れなかった約束。もう二度と後悔しなくていいように、せめて残された手を掴みたい。
 歌が、切々と思いを歌い上げる。キスをしてと訴える。ただもう一度キスをしてほしいのだと。

 ――どうかキスを。

 不意に、脳裏を掠めた記憶にスティーブは動きを止めた。
 さきほど見たばかりの気恥ずかしくなるような懐かしい夢と、流れる音楽に、決して遠くないその記憶を思い起こそうとする。
 歌が静かに繰り返す。

 ――キスをして。もっと。

「あ…」
 陸地の固い石を身体の下に感じながら、行かないでほしいと、混濁する意識の中で縋ったように思う。
 出血と落下のショック、水によって熱を奪われ弛緩した身体は思うようにならず、小指一本も動かせなかった。肺に溜まった水を吐き出しながら、何かを伝えようと思って、できなかった。腕を掴まれた感覚も、命を拾い上げられた事実も、あれは幻覚ではない。そしてもう一つ。
 スティーブは自分の唇を指先でゆっくりとなぞった。唇が震える。心臓がぎゅうと締めつけられて、息が苦しい。
 静かに歌が流れている。切々とした声で、喜びを歌っている。歌声は繰り返しキスをねだる。ずっと待っていたのだから、やっとこうして会えたのだから、だからキスをしてほしいのだと歌う。

「バッキー?」

 あれは、唇の感触だった。
 かさついてひび割れた、それでも柔らかな感触が今も残っていた。確かに、あれは唇だった。
 一瞬だけ押しつけられて、すぐに離れて行った。躊躇いと戸惑いが残る触れ方。微かに震えていた。まるで、初めて口づけられたあの時のように。
 胸から溢れたものが、目もとに滲んで視界がぼやける。


 ――れんしゅう。


 あの日、請うように囁かれた声が耳の奥によみがえった。


- end -


2015/07/22
キャプテンアメリカ・バキステ再録。
頒布終了した短編集の中から、2014年のスパコミで無料配布していた部分を再録しました(一部改変)。WS鑑賞直後の熱が煮詰まって生まれた何かです。

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