――信じられるか。
あの男には悪意というものが存在しない。
己の不平不満を誰彼構わずぶつけ、それを正当化し、しかもその主張を心の底から当然と思っているらしい、その根っこにおいて、実のところ悪意と呼べるものは、一欠片たりとも見つけることができない。
――悪意ばかりが蔓延るこのご時世にだ!
と、ジョン・ワトソンは拳を握って胸の内で喚いた。
せめて悪気があったのなら自覚も出来ただろうにと、立て続けに叫ぶ。同居人の理不尽さに、今日も今日とて、ジョンは振り回されていた。
***
「君が馬鹿だから」
こんなことを真顔で言われて、腹が立たない人間がいたらお目にかかりたい。が、相手がシャーロックともなると、怒りを通り越して脱力してしまうのが、ジョンの日常だった。
シャーロックの頭脳に比較すれば、世界中のほぼ全ての人間が「馬鹿」に分類されるだろう。それは紛れもない真実だ。
人は、己の次元を超えた存在を許容できない。或いは畏怖し、或いは貶め、己とは異なるものとして自らの世界から排除するのだ。
レッテルを貼り、そうしてやっと安堵する。
そしてシャーロックは、天才という部類に属するものだった。愚か者であることより、ある意味それは厄介だった。 人を一瞥しただけで、経歴・職業・人間関係、はては性格に至るまで事細かに言い当てる。桁外れの観察力と推理力は、明らかに異常と呼べるレベルだった。嫉妬すらできない人々は彼の能力に対し、利用する以外では遠ざけることを選択した。あれは尋常な存在ではないのだと分類した。
結果、世間がシャーロックに貼り付けたレッテルは「サイコパス」。そして聡明すぎる男の頭脳は、そのレッテルを半分受け入れ、半分拒絶した。
「ソシオパス」と表現することで、ただの狂人ではないのだとささやかな主張をしたのだ。
僕は僕なのだと。他の何者でもない存在なのだと。
――もし、シャーロックに出会っていなければ。
時折そう考えることがある。
――どうやって、生きていられただろう。
ずっと、のど元を何かで押さえつけられているようだった。本当は思い切り呼吸をしたいのに、それが許されない苦痛。「日常」という社会で生きることが息苦しくてならなかった。この世の中に産声と共に生まれ落ちたときから、知らぬうちに出来ていたはずの呼吸が、その上手な方法が、ジョンには思い出せなかった。
上辺だけの「平和」と皆が呼ぶ生ぬるい水槽の中で、ジョンはおぼれそうになっていた。泳ぐことも、かといって沈みきることもできず。ただゆらゆらと絡め取られて、いつしか思考をも奪われかけていた。考えることすら辛かった。
そんな時にこの男と出会った。シャーロック・ホームズと。
薄い空気の中で、もがくこともできずに生きていたジョンにとって、シャーロックの存在は、不意にあてがわれた酸素ボンベに似ていたかもしれない。
無我夢中で吸い込んだその空気は、確かにジョンを生かしたのだ。「戦場」という名の非現実に。
シャーロックの与えるスリルに、ジョンは酔った。だが、それをただ甘受することは許されないのだとやがて知った。シャーロックという人間が、怖ろしく複雑で、同時に怖ろしく単純な男なのだと知った時に。
***
何も言い返すことなく無言のままのジョンに、シャーロックはジョンを怒らせたものと感じたらしい。いつもそうだ。後から気づく。今だって同じ。
ふと我に返り、小言を覚悟した子どものような眼差しで確認するのだ。
「―――言い過ぎ?」
「…少しね」
――それを僕に確認するな、僕に。
目の前の。あれもこれも何もかも全て。ああ全て。
シャーロックによって引き起こされた様々を思い出し、それが全く悪気のない、それどころかあの男からすれば善意なのかもしれないと、怖ろしい予想をして、ジョンは静かに背筋を震わせた。
ジョンにしてみれば、常人から逸脱して大変厄介なあの兄の方がよほどマシだった。
同じ血が流れているのだという兄の腹の内には、少なくとも純粋な善意がない。あるのかもしれないが、いまいち見えにくい。弟への心配にしてみても、気遣う様子を見せながらもその本音は計り知れない。だからこそ、蛇蝎の如く弟に忌み嫌われているのだ。が、あの兄はそれすら楽しんでいる節がある。
シャーロックからすれば悪意しかないと言えるだろう。好意にしろ何にしろ、全てが策略に充ち満ちているのだ。
が、そうと割り切れば実に清々しい。監視されていようが何だろうが、生活に直接踏み込まれでもしないない限り、ジョンにとってはあまり大したことではなかった。
大体軍隊生活など、あからさまな監視体制の元にある。日常生活にしたところで、周囲の人の視線というものに監視されているも同じだ。監視していると意思表示をしてくれるだけ、余程マイクロフトは親切な男だとも言える。監視レベルが2であろうが3であろうが、はたまたMAXであろうが、ジョンには大きな違いはなかった。
もっとも、人によってはそうは受け取らないだろう。だが、完全に向う側の勝手なのだから、こちらが振り回される必要はないというのがジョン・ワトソンの出した結論だった。あっさりそう割り切ってしまう辺りがジョンのジョンたる所以なのであるが、本人にその自覚はない。
――それに比べて、だ。
ジョンは腹の内で毒づくように呟き、改めてしみじみと同居人を見やった。
光によって色を変える青灰色の眼差しは、いつも空恐ろしいほどの透明感を湛えているくせに、尊大にふて腐れた口元に反して、今は不安で仕方ない幼子のそれで満ちていた。
言い過ぎと指摘されたことと、ジョンの素っ気ない態度が、確かにシャーロックを狼狽えさせていた。
「ジョン…その」
呼びかけて、言いよどむ。ついで目線が彷徨い、ゆらゆらと揺れた挙句に床に落とされた。
ジョンは溜め息を吐いた。それくらいしかできることがなかった。
あの弾丸のように連続で打ち出される話術はどこへ行ったのだ。
シャーロックは自分以外の人間を馬鹿だと本気で思っている。概ねそれは事実であるが、問題なのは自分の考えを読み取れない一般の人間が間違っているという思考だ。自分が間違っているという自覚は一切ない。自らを天才と称する常識を越えたその頭脳は、今一体どの辺りを回転しているのか。
そうだ、回転はしているのだ。早すぎる計算式は、無言で立ちつくす今も、彼の頭の中で答えを求めて延々と弾き出されているのに違いない。
ただ「X」が分からない。単純なその答えが、単純すぎるからなのか、彼には分からないのだ。
――あぁこれが、悪意だったらどんなにいいか。
ジョンはもう一度ため息を吐いた。
もし彼が、全くの悪乗りでこんな態度を示しているのならば、ふざけるなと一発拳を入れてやればいいのだ。いつも振り回してくれてありがとうと、嫌味を言うことも出来た。
――嫌味が通じる相手ならばだ。
しかし全くもって残念なことに、ジョンが同居する人物は「シャーロック・ホームズ」なのだった。
世界で唯一のコンサルタント探偵。ソシオパス(高機能社会不適合者)の天才。
その中身は、誤魔化も言い訳すら知らぬ十二歳児。
「……僕も悪かった。シャーロック」
――確かに。彼がいることで己の生活は成り立つ。ある意味、こんな下らない諍いも起こしようがない。それが果たしていいのか悪いのか。残念なことに、一つ確実なのは、シャーロックがいない「日常」を送る自信が、今のところ自分にはないということだった。
せめて、悪いのは己だけではないのだというニュアンスを含ませて、とうとう詫びの言葉を口にする。
果たして、その小さな反抗の意志は相手に伝わっているだろうか。
目を向ければ、不安定に揺らめいていた目が、輝きを取り戻してこちらを真っ直ぐ見返してくるのにぶつかった。ジョンは項垂れた。
――駄目だ。伝わってない。
「ジョン、ジョン。腹が減った。食事に行こう」
「あー…うん。上着取ってくるよ」
あっさり喧嘩は収束し、戻ってくるのはいつもの日常。自分がさっきまで何を口走っていたか棚に上げて、シャーロックはお腹が空いたと要求する。理不尽なその言動に、やはり悪気は全くない。
それでもすっかりこの男に入れ込んでしまっているのだから、よほど己は重傷だと天井を仰いだ。
- end -