「どうしてわからない! 君も見ていただろう。ならば明白だ。いちいち説明する理由がどこにある」
いらいらと声を上げながら夕方の階段を数段飛ばして駆け上がり、そこで立ち止まったシャーロックを、下からジョンが見上げている。
「シャーロック」
呼んだ声は、呆れと当惑を含んでいて、シャーロックは足を踏みならしたい衝動を必死に堪えた。
「見ているだけで観察しないからだ! 観察すれば君にだって理解できるはずだ」
「僕はわからない。わからないんだよ、シャーロック」
嗜めるような口調が、過敏になったシャーロックの神経を一層逆撫でる。
「そんなはずはない、どうしてあんなわかりきったことを僕に説明させるんだ!」
声を張り上げれば、もう一度シャーロックと名を呼ばれ、その声の静かな力強さに仕方なく口を噤んだ。ジョンは大きく溜め息を吐くと、いいかと前置きをしてからきっぱりと告げた。
「僕は君とは違う。どこにでもいる平凡な人間だ」
「ジョ…」
「純粋に考えてみろよ。君と僕の身長差は、15センチってとこ。悔しいことに大体この階段一段分だ。僕が君と同じ目線になるには」
そう言って足を踏み出すとジョンもまた階段を上ってくる。立ちつくしたままのシャーロックの横をすり抜け、更に上へと身体を引き上げて、手すりに手を掛けてから身体を反転させて振り向くと、ジョンは苦笑混じりの笑みを浮かべてシャーロックを見た。
「君より一段上に上らなきゃ」
「……」
見上げることも見下ろすこともなく、真っ直ぐ前を見つめた先に、ジョンの眼差しがある。日暮れの近い室内でわずかに陰ってはいるが、絡んだ視線の奥、ジョンの瞳がダークブルーに輝いているのを見つけて、シャーロックは静かに目を見開いた。正面から覗いたジョンの目の色が、酷く複雑な色彩を持つことを、己はまだ知らなかったのだと気づき、決して小さくはないその発見に息を呑む。
「僕が自分が小さいとは思ってないけど、君が僕より大きいのは認める。君もそうだろ」
これだけ、僕と君は違うんだからとジョンが穏やかに告げる先を、シャーロックは本当のところは聞きたくはなかったが、それでもジョンは言った。
「僕は君が見ている世界を一緒に見てやることはできないが、理解したいって思ってる。君と僕の差は永遠に埋まることはないだろうけど、でも、僕は君の話を聞きたい」
夕陽が、今にも落ちようとしているのか、階段の窓から差し込む赤褐色の光が一層明るさを増し、階段に落ちる二人の影が色濃く床に落ちる。大小の影は、太陽の角度に合わせ、ゆっくりゆっくりと階段を這うように上っていく。
「なあ、わかれよシャーロック。僕が君の話を聞かなかったことはないだろ」
だから、ちゃんと話せよ。省略するな。結論だけを告げて満足するな。僕に教えてくれ。君の知識を、推理を、その思考の隅々までを。
僕はそれでも君のことを全部は分かってやれないけれど。
ーーせめてこの、階段一つ分の差を、互いに埋める努力をしようじゃないか。
「…つまらないな。君は自分が観察しようとしない理由を僕に押し付けるんだ」
夕陽を反射する眼差しからそっと目線を外し、シャーロックはぽつりと呟いた。目を落とした先には黒々とした影。二人の足下から伸びるそれは決して交わることなく、異なる大きさを保ったまま、ただ長さだけを延ばしている。
もう一度目を上げてジョンを見れば、逸らすことを知らない瞳が、相変わらず真っ直ぐにこちらを見つめていた。赤みを帯びた深い青が柔らかく細められる。
「いいだろ。もし僕が君の言うことを聞く前に分かっちゃったら、僕は君に向かって感嘆の声一つ上げられない」
ーーだから、物わかりの悪い僕をこれからも感動させてくれよ、シャーロック。
そう笑いかけられて、どう返せばいいかわからず、とりあえず口を微かに下唇を突きだす。
そっと引かれた線引きは、決して乗り越えることができないものだ。ジョンはシャーロックの持つ境界を土足で踏みにじることをしない。シャーロックを離れることなく侵すことなく、傍に在り続ける。それを喜ぶと同時に、どこか物足りなく、歯がゆく感じるのはきっと我儘なのだろうけれど。
突き出した唇と引き結び、奥歯をぐっと噛みしめる。
「だが、やはり君は小さい方だと思う」
足下に伸びた影の丸く小さな方を指さして、足掻きのように釘を刺してやれば、ジョンはきょとんと目を開いて、それから拗ねたように顔を歪め、「言ってろよ」と軽く胸元を小突いてきた。
- end -