WhirlWind

If I could fall into the sky

Jim


「僕はここにいる」ジムモリメイン。青い空と赤い風船とジム君のお話。根っこに、ジム→シャーロック。ジム君が好きすぎて辛いあまりに、このジム君への思いが、冬の夜空に輝く一等星になればいいのにと願っています。

 少女は上機嫌だった。
 普段仕事ばかりの父が、やはり仕事ばかりの母と休みをとって、デパートに連れてきてくれたのだ。
 本当は遊園地が良かったけれど、せっかく久しぶりに家族が揃ったのだから、彼女は文句は一つも言わなかった。それにデパートだって十分素晴らしかった。悩んだ末に買ってもらったテディベアは、今は少女の代わりに母親が大切に抱えてくれている。
 今日は珍しく良い天気で、抜けるようなとはいかないまでも、いつものロンドンからすれば格段に澄んだ綺麗な青が、頭上に広がっている。
 いつもより素敵なレストランでご飯を食べて、通りの大道芸人に風船をもらって、少女は満たされてた。
 子供たちに囲まれていた大道芸人は、両親の手を握ったまま近づくのを躊躇っていた少女に、3つも風船をくれた。緑と黄色と赤。
 歩くたびに風に揺れ、ぷかぷかと空に浮かぶ鮮やかな球体が嬉しくて、つい、よそ見をしてしまったのがいけなかった。

「おっと」

 前からやってきた人影にぶつかってしまい、少女は軽くよろめいた。

「ほら、前を向いて歩きなさい!」
「ごめんなさい!」

 ぴしりと飛んだ母親の声に肩を竦め、ぎゅっと目を瞑って慌てて謝ると、優しい声が降ってきた。

「いいよ、気にしないで。僕もぼんやりしていたから。家族でお出かけかな?」

 見上げれば、穏やかそうな青年が、にこにこと笑って少女を見下ろしている。ガムでも噛んでいるのか、頬が上下に動いていた。

 あぁ、良かった。いい人で。

 安堵して、溜め息を吐く。きっとこのお兄さんも、休日でのんびりとショップを散策していたのだろう。

「そうなの。久しぶりに家族みんなでお出かけなの」

少し胸を張ってそう答えれば、父親が微かに苦笑して少女を嗜めるように名前を呼ぶ。だが青年は気にした風もなく、「わぉ。それは素敵」と笑ってくれた。

「お兄さんもどこかに行くところ? おわびに風船を一つあげるわね」
「…いいのかな?」
「いいの!」
「じゃあ、もらっておくよ。ありがとう」
「さようなら、お兄さん」
「Have a nice day!」

 赤い風船を一つ手渡せば、青年はそれをにっこり笑顔で受け取り、君の今日が良い一日であるようにと頭を撫でてくれた。
 風船が減ってしまったのは勿体なかったけれど、まだ二つもあるのだ。それに今日は素敵な日なのだから、風船の数など問題ではない。それに少し良いことをした気もした。風船を手にした青年は、ひどく嬉しそうにしていたので。


 手を振る青年と別れ、二つになった風船を持った手で両親の手を握りながら交差点に辿り着いた時だった。父親の懐から、着信音が鳴り響いた。驚いて見上げれば、父が申し訳なさそうに笑った。

「あぁ、ごめんね。私の電話だ」
「もう、パパ。お仕事なんていやよ?」

 そう口を尖らせたのを、頭を撫でることで宥められ、ちょっぴり悔しくはあったけれど父を許すことにする。

「パパに電話を取らせてあげて。大丈夫、誰も今日の邪魔なんてしないわ」

 見上げた母もそう言って美しく笑ったから、少女は安心した。だが、突然零れた父の声音に思わず息が止まった。

「何で、こんな時に電話を…なんだって…?」
「パパ…?」

 今まで聞いたこともないような、強ばった父の声。不安になって手を伸ばす。袖を掴んでひっぱったけれど、ちっとも気づいてはくれない。
 横断歩道を渡りかけたところで、父は完全に足を止めていた。

「パパ、パパ。信号が変わっちゃうよ。ねぇ、パパったら」
「あなた、どうしたの?」
「ねぇ、パパ――…」

 それは突然のことだった。
 後ろから響いた耳を劈くような急ブレーキ音、叫ぶ声が聞こえたと思う間もなく、何かが割れる小さな音を掻き消すようにして、ものとものがぶつかりひしゃげ割れる、断末魔の音が辺りに響き渡った。
 周囲から沸き起こる悲鳴と叫び。

「交通事故だ!!」
「車が、通行人につっこんだぞ…!?」
「おい、早くヤードと救急車を…!!」

 全てが慌ただしく過ぎていくその中心で、たた一人、原型をとどめぬほどに変形した車の傍に寄り添って、血だまりに沈む両親に縋りながら呼びかける、悲哀に満ちた少女の泣き声がいつまでも響いていた。

「ママ? ママ! パパ…! 起きてパパ…! ねえパパ…! いやよ…ねぇ、お願いよ。目を開けて。ママ…パパ…」



***



 全てを背中越しに耳に綺麗に納め、口の中のガムをくちゃりと一噛みして、ジム・モリアーティは笑った。
 指をゆるりと動かせば、少女が先程寄越した赤い風船ゆらゆらと揺れる。
 幸福の名残のようなそれ。今やこの世にたった一人残された少女そのもののような。

「ごめんね、お嬢ちゃん。君はなぁんにも悪くない」

 空を見上げてくしゃりと目を細める。


 あぁ、今日はとてもいい天気だ。




=I wonder if I could fall into the sky=




 実につまらない平凡な依頼だった。
 だから、少しは面白くしようと考えて、工夫して遊ぶことにした。
 片や、不倫相手の男とその妻を殺してほしい。
 片や、腹の立つ上司を困った状況に陥れて欲しい。手段は問わない。

 ――全く、実にドラマティックだね。

家族の前で…娘の前で、妻と共に死ぬ。タイミングを組み合わせるために、少しだけ頭を使ったけれど、実に上手く事が運んだ。もちろんそうでなくてはならないし、失敗などするはずもないのだけれど。
 合図は電話。目印は風船。これ以上なくパーフェクト。
「事故」を起こした「上司」は、過失致死罪に問われてさぞまずい立場に追い込まれるだろう。車に仕込ませた細工は、点検不足にしか思われぬ些細なものだ。
 少女を遺したのももちろん意図してのこと。夫婦間こそ冷え切っていたものの、それぞれ娘を愛していたあの親達は、まるで示し合わせたかのように愛娘を庇った。そこに車は綺麗に突っ込み、彼らは折り重なるようにして車体の下敷きになった。生前は既にベッドを共にすることすら稀であったのに、死ぬときは共にだなんて。実に美しい親子愛。
 事故現場傍から電話をかける役目を得た依頼人の女は、交差点のどこかのビルから、この景色をそして顛末を目にして、心を砕かれたように感じているに違いない。依頼の代償は大きなものだ。彼女はそれを知るだろう。
 そして、目の前で両親を失った少女は、原因を恨むだろうか。もしかして、知るべきではなかった父の秘密にたどり着くだろうか。
 その時の少女の絶望と怒りは、きっと将来、素敵な花を咲かせることだろう。
 恨みの連鎖を断ち切るのは容易いことではない。種は常に撒いておかなければ。
 いつか芽吹く全ての可能性を手中にして、己は犯罪の糸を繰るのだ。


 ふと空に目をやれば、少女がくれた風船がゆらゆらと風に揺れていた。
 くんと糸を引けば、糸は力を無くして垂れ下がり、先にある赤い風船がゆらゆらと目の前まで降りてくる。けれど、再び風船は舞い上がり、糸はぴんと張られてびりりと震える。
 落ちる。そして上がる。
 それを繰り返しながらぶらぶらと歩き、時折上を目を細めて見上げながら、ジムは思わず鼻を鳴らした。

「邪魔だなあ…」

 低く呟く。1つの仕事を終えた小さな達成感が、あっという間に塗りつぶされて黒く変色していく。

 邪魔だ、邪魔。ものすごく邪魔。

 今日はせっかく青い空が見えているというのに、レトロやモダンを装って醜悪に立ち並ぶ建物やあちこち虫のように蠢く人のせいで、風船はとても窮屈そうだ。
 もっと開けた、高いところに浮かべてあげなければ、きっと息苦しくて萎んでしまう。

 もっと上へ。もっともっと、高いところへ。

 誰も上ってこられないような、遥か高みへ。

 そうだ、そこに行けばいい。そこで赤い色を浮かべるのだ。
 こんな人混みの中で危なっかしく浮かんでいるよりも、何もない青い空にぽっかりと飛ばしてやった方が、この赤にはきっと似合う。さぞや綺麗に映えるだろう。
 とても素敵な思い付きを抱いた気がして、思わず口笛を一つ吹く。ころりと一転明るい気持ちになって、ジムは軽い足取りで歩きだした。



***



 どこに向かおうかと考えて、さきほど事故に巻き込まれた可哀そうな家族が出てきたデパートに行くことにした。あそこはこの付近ではかなり開放的な場所にあたる。
 その中でも一番高いところは、管理システムから入る屋上だ。一般人は誰も入れない。実に好都合だ。鼻歌を歌いながら、人の行きかう賑やかなフロアを通り抜け、奥のエレベーターを利用して管理室へと足を向ける。
 胸元からパスを取り出し、目を細めて掲げれば、入り口の男は会釈してジムを通してくれた。ほらこの通り。なんて簡単。
 手元の風船は、さすがに不思議そうに見つめられたので、先回りして一言添える。

「子供の忘れ物だ。休日はまったく参るねぇ。なかなか可愛いだろう?」

 肩を竦めて笑い、ゆらりと風船を揺らしてみせれば、全くですねなどと返してくる。実に容易い。
 ジムは、望めばどこにだって出入りすることができた。基本的なIDパスは全て持っているし、身分証や社会保障も何通りだって手元にある。
 モリアーティの名を、いくらかでも裏の事情に通じているものなら誰でも知っている。だが、その実態については詳しく知られていない。そして、誰も「ジム」のことは知らない。だから、ジムは「モリアーティ」の影に隠れながら、そのありふれた名前とどこにでも溶け込める容姿で、自在にうろつきまわることができた。

 誰も僕を知らない。誰も僕に辿りつけない。


 ――誰も。


 ――本当は。事件の中に、いつものようにヒントを少しだけちりばめておいた。
 全く偶然に起こった事故を結びつけるささやかなヒント。全ては必然だと気づく人間はいるだろうか。

 僕だよ。僕なんだ。ぜーんぶ僕がやったこと。ほら、気づいてよ。なんで気づかないんだ。馬鹿だなぁ。

 風船には糸がついている。そのことに気づき、手繰り寄せれば必ず手元に落ちてくる。それだけなのに。誰も、糸には気づかない。傍に張られたそれに決して。
 糸は網を作り、張り巡らされて人を覆っている。
 その最たるものが人的ネットワーク。もっとも強靭、もっとも脆いもの。
 ジムはどんな網よりもそれが大好きだった。
 網は普段目につかない。ある日ふとしたきっかけで、初めて存在に気づく。例えば雨が降った朝の蜘蛛の巣の、芸術品とも呼べる網細工のように。細い糸から滴る透明の連なりが、光を反射して煌めくとき、人はそこに巣があったのだと気づく。もしくは、餌として自らが網にひっかかることで、自身が罠に掛けられていたことを知る。その場合は、もう網から逃れることはできない。捕らえられ、食われるだけだ。
 そんなやり取りすら、普通を生きる大勢の人間は知ることはない。まして網を作り上げた蜘蛛の正体など。
 もっとも、こちらの存在を気づいているモノはいる。ただ、存在を認め合っているだけで、同じ土俵で勝負は挑んでこない。だからカウントはしない。不干渉の関係。ないのと同じ。つまらない。
 いけすかない能面のような顔と、氷のような目を持つ男を脳裏に浮かべて、べろっと舌を突きだしてやる。本当は監視カメラの前でやってやりたかったけれど、余計なことをして不可侵の境界に触れても困るので、今はやらない。
 そんなことよりも今は高いところへ向かわなければ。
 屋上に続く階段を、ひょいひょいと一段飛ばしで駆け上がる。最上段に辿り着くと、その先にある重たい扉に手を掛ける。ぐっと力を込めれば、分厚い鉄は軋みながらゆっくりと外に向かって開いた。
 途端、びゅっと、呼吸を奪うような風が吹き付けてジムは息を呑む。開いた隙間から身体を滑り込ませれば、音を立てて背中で扉は閉じた。
 見上げれば、何も邪魔することのない、青い青い空。

「あぁ、気持ちいいね」

 だから、好きだ。高いところは好き。
 煩わしいものは何もない。
 それでもまだちらちらと邪魔なものが映るので、ジムは屋上に寝転がることにした。両手両脚を存分に伸ばして横たわると、これで視界を覆うのは、ほとんど青だけになる。
 右手に持ったままだった風船を、掲げてみる。
 鮮やかな赤は、青空を背景にくっきりと浮かび上がった。とても綺麗。ジムは満足してにっこりと笑む。
 ゆらゆらと揺れるそれはどこかユーモラスだ。たった一人。たった一つ。
 しばらくその様を無心に見つめてから、ジムは腕を目一杯に伸ばし、指を開いて糸を離した。
 風船は、ジムの手から離れてゆっくりと浮かび上がった。
 ゆらゆらと、赤い風船は底のない青に吸い込まれていく。
 青は空であり海であり、そこに果てはない。目を一瞬閉じ、息を吸い込んでから再び開けば天地が逆転した。
 今や、己は身体を大の字に開いて、天に磔られている。見下ろす先を赤い風船が沈んでいく。
 ジムは平衡感覚を手放し、無限の青へと落ちていく錯覚を受け入れた。宙へと放り出される解放感と心もとなさに手足がぞくぞくと震えだす。
 屋上に横たわっていることを忘れ、どこまでも空に落ちていく、落ち続ける。いや、浮かび上がっていく。重たい肉体から解き放たれて、空に全身が溶けて、やがて境界すらなくなっていく。

 高く。もっと高く。蒼天を滑空する鳥よりも、高く。
 深く、もっと深く。深淵を揺蕩うあの魚たちよりも深く。

 先を泳いでいく風船に、思わず手を伸ばした。――――その刹那。

 パンと、音が、弾けた。

 ぐらりと空気が震える。
 同時に天地は正常な均衡を取り戻し、己の背に張り付いているのは重力によって押し付けられた硬いコンクリートなのだと思い知る。
 風船はあっという間に形を亡くし、赤い残骸が、ゆらゆらと宙を舞い落ちてきて、びしりと屋上に叩きつけられた。
 先ほどまで風船と己をつないでいた糸は、後を追うようにのたうちながら降ってきて、やはり地の上にくたりと項垂れた。

「あっは…」

 目を見開き、瞬きすることなく最後までその顛末を目に収めて、ジムは甲高い声を洩らした。

「あは、あははは…!!」

 あの先にはいけない。あの青には届かない。ただ残される、ここに。重力という枷に、人という鎖に繋がれ縛られて、ただ一人。
 縮れたゴムの破片は、まるで血痕のようにも映った。父と共に空を目指して地に落ちた、イカロスの破れた心臓のように。ぐしゃりと醜くひしゃげて、黒ずんだコンクリートにこびり付いている。

 誰もそれを知らない。気づかない。誰も誰も誰も!

「僕はここにいる」

 笑いながら呟く。

「僕は、ここに、いる…!!」

 笑いながら、咆える。見開いていたままの乾いた目が痛み、高い笑い声を繰り返すうちに、目端に何かが溢れ、零れ落ちて行った。それもまた、重力に従って、地に落ちる。
 卑小で脆弱な肉体に縛られて、歩き続ける苦痛。生き続ける苦痛。
 せめて誰か一緒に歩いてくれたら楽しいだろうに、周りに誰もいはしない。そもそも「誰か」との「永遠」なんて望みもしない。
 ジムが歩く高みには誰も登ってこれないのだから。
 一つきりの風船は誰の手に手繰り寄せられることなく、空に舞いあがることも叶わず、割れてただ地に落ちる。
 たった一人、辿りつけるだろう人物を知っているけれど、まだ機は熟しておらず、彼は未だ目の前の謎を解くのに躍起。全てが繋がることに気づく日は必ず来るだろうけれど、その日を迎えるにはまだ間があった。
 そもそも今の彼は、ジムにとっては未熟すぎた。あれでは物足りない。彼の持つ可能性は、輝きはジムを惹きつけて止まなかったけれど、彼はあまりにも何も持たなさすぎる。その世界を壊すには、彼が持つものは小さく狭い。
 つるりと白く、それでいて中身は脆い心は、生まれ落ちたばかりの卵そのもの。
 けれどそれだけでは壊しがいがないのだ。だから、彼に相対するにはまだ時を置かなければ。今はただ、息を潜めて、真っ白な殻を砕くための爪を磨いてそっと待つ。
 届かぬ声で、思いを伝える。

 遊ぼうよ。僕と、遊ぼう。永遠になんて言わない。ただ一度きりでいい。

 脳が沸騰するような、体中の細胞が燃え上がって、神経という神経全てが焼き切れて、目の裏がマグマに放り込まれたみたいに真っ赤になるような、そんな遊びをしよう。
 この頭脳と命をかけて、僕と遊んでほしい。そうしたら、もう何もいらない。
 この先繰り返すかもしれない、つまらなくはない、けれど面白くもない遊びを繰り返すくらいなら、そんな命を長らえるくらいなら、僕はそんなものはいらない。
「Stayin' alive」と口ずさむ。

  And we're stayin' alive, stayin' alive
  Ah, ha, ha, ha, stayin' alive, stayin' alive

「AH…HAHAHA!!! stayin' alive!!!」

 空に向かって叫ぶ。

  Life going nowhere

  Somebody help me
  Somebody help me, yeah…!

 だから、どうか。終わらせようじゃないか。

 遊びが終わるその時。君もいつかの僕と同じように空を舞う。あの風船のように空に飛ばしてあげる。
 もしかして、君は飛べるかな。僕と違って飛んでしまえたりするのかなぁ?
 でもいいや。
 君が落ちても落ちなくても。飛ぶ前のままではいられない。飛んだ後の君に興味はない。「ヴァージン」の君と遊べるゲームはたった一度きり。

 そしてどうか。

 君もどうか絶望してほしい。
 人は飛べないということを知るといい。
 君という存在は損なわれるだろう。君が持つ白い羽は黒ずんで、抜けるような輝きは永遠に失われる。そうして君は僕と同じものになる。それって、なんて素敵。

 うっとりと目を閉じる。

 もう、僕は一人じゃない。
 やっとあの空に飛んで行ける。落ちていける。

「I'm stayin' alive…!」

 本当に、生きられる。



***



 屋上の静寂を破ったのは、先ほど口ずさんだ「stayin' alive」だった。耳奥で鳴る歌声よりも、ずっとひずんだ電子音を鬱陶しげに耳にし、身体を起こしてモバイルを取り出し、受話器ボタンを押す。電話越しの声を聞きながら、ジムの顔はみるみるうちに歪んでいった。

「なに?そんなことを僕がいちいち指示をしなくてもやれるはずだろう…無能め!この役立たず!!あぁ、もういい、大丈夫だ。僕が行く。僕がやるよ」

 立ち上がり、胸元にモバイルを納めると、軽く服の塵を払う。ふぅと息を吐いて、それから口の両端をにたりと吊り上げた。

「…さぁて、お仕事を始めよう」

 右手を上げて緩やかに一礼。
 次の舞台の幕が上がる。指先に張り巡らした糸。僅か小指を動かせばマリオネットは踊る。ステップを踏み、自らの意思であるかのようにして、別のマリオネットを破壊する。操られていることも分からずに。それってなんてセクシー。

「僕にしかやれないんだから。そうだろう?」

 ――お願いジムさん。助けてジムさん。

 おとぎ話の悪役。まるで、人魚姫が頼みごとを抱いてやってくる海底に住まう魔女のように。誰もが勝手な願いを抱いて、成就のための教えを請う。
 ただし、代償は大きなものだ。薬は毒だ。毒は相手を、そして己をも蝕む。
 自らが何と契約をしたのか自覚することなく、依頼主もまた自滅していく負の連鎖。それを操れるのは今をもってジム・モリアーティのみ。

「何たって、僕は人気者だからねぇ」

 くつくつと低く笑って、漆黒の眼差しを細める。
 見上げ、あるいは見下ろした空の青も、割れて散った赤も、まるで最初から脳裏になかったかのように、男は屋上に背を向ける。
 一時の感傷はただの気まぐれ。もしかしたらまた来ることもあるかもしれないけれど、一瞬先の自分の気持ちなんて、自分にだって分からない。
 今は、目の前のお遊戯を楽しもう。少しは退屈しのぎになるだろうから。安物のドラッグだって、僅かの快楽を与えてくれるだろう。
 鼻歌を歌いながら、足元の風船の残骸を靴底で磨り潰し、出口へと向かう。重たい扉に再び手をかけると、ジムは階下に続くぱっくり開いた闇の中へと、ゆっくりと降りて行った。



…end?


2012/12/28
>根っこに、ジム→シャーロック。ジム君が好きすぎて辛いあまりに、このジム君への思いが、冬の夜空に輝く一等星になればいいのにと願っています。

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