WhirlWind

ひま、ときどき、221B

Sherlock & John


 パチン、パチンと音がする。軽やかでリズミカルな音だ。
 ちょうど集中力が途切れかけていたジョンは、ラップトップの画面から顔を上げ、音が聞こえてくる方へと目をやった。
 壁側のカウチの上。シャーロックが爪を切っている。
 そういえば、彼の爪はいつも綺麗に短めに整えられている…気がする。ついでに言えばぴかぴかと光っているようにも思う。ジェントルマンに相応しく、きちんと磨いているということだ。
 確かに、長い爪は捜査の邪魔になるだろうし、衛生的でもない。
 ズボラなのか豆なのか相変わらずよくわからない同居人は、実のところかなり小まめに爪を手入れしているらしいとジョンは今さら知ったのだった。

 ――何というか。

 思いもがけず目にしたこの光景に、ジョンはついしみじみと見入ってしまった。
 外出時のシャーロックは隙がない。彼自身隙を見せたがらないというのが大きいだろう。そもそも人に侮られるのが大嫌いなのだから、そうなるのは当然だ。
 どこまでも高いプライドが良くも悪くも反映された結果、中身が大問題なのはさておき、外見上は腹が立つくらいに整っている。好みもあるのだろうが、身にまとうのは総ブランドのスーツにコート、アイテム一つにも抜かりはない。あれはシャーロックの戦闘服そのものだろうとジョンは思っている。
 そんな人物が、家の中である意味のネタ晴らしというか、隙だらけの一面を見せているというのは、今さらではあるが面白いものだよなと、ジョンは思った。

 ――爪を切っているところなんて、隙まみれじゃないか。

 意識は全て爪先へ。小型で限定された機能とはいえ、いわゆる刃物を持っているからより集中せざるを得ない。
 幾らか気配を消して背後から近づき、急所を一撃すればそれで相手は事切れる。例えば首の付け根。がら空きの背中。突然飛びかかったとして、気配を読むまでが出来たところで対応が遅れることは間違いないだろう。そこまで考えて思わず口元を緩ませる。
 ついつい相手の隙や急所を計算してしまうのは、もう癖のようなものだ。実行する気はないが、想定はしてしまう。更に言えば、どこをどう傷つけられる可能性があり、どうすれば効果的な治療ができるかまでも。

 ――シャーロック、もしここが戦場なら君はもう死んでるぞ。

 声に出さずそっと呟きながら口端を緩めつつ、それにしても前からリビングでこんなことをやっていただろうかと、ジョンは首を傾げた。人間気を張らず安心できるところでなければ、人前で爪なんて切れるはずもない。
 妙にくすぐったい思いがこみ上げてきて、その感覚の不思議さにジョンはもう一度首を傾げた。少し考えて一つのことに思い当たる。

 ――あぁ、アレか。

 プライドの高い猫が、家の中で腹を見せて転がっているのを目にする感覚だ。
 急所を晒すさりげない仕草は、知らず飼い主を和ませ、そして面映ゆく思わせる。
 大の大人に腹を出されて寝転がられても大変困るが、少なくとも気を張ることなく日常の習慣を相手にさらけ出す程度には、自分とこの男は共に住むことに慣れてきたのだなと、ジョンは妙な感慨を抱いたのだった。
 ジョンが勝手な思考をあてもなく廻らせている前で、両手の爪を切り終わったシャーロックは足の爪を切ることにしたようだった。片足を立てて爪の長さを確かめている。
 その仕草をぼんやりと眺めつつ、――それにしても、と、ジョンはもう一度思った。
 シャーロックが足の爪を切っている仕草は、どうにも窮屈そうだった。手足が長いせいなのか。細長い身体をカウチの上にこれでもかと丸め、立てた片足を抱え込むようにしながら腕を伸ばして爪切りを構えている。彼はよく折り曲げた両足を両手で抱えてソファの上で子供のように丸まっていたりするが、その姿勢で更に足先に手を伸ばしている様はやたらと必死に見える。ちょっと吹き出したくなるレベルだ。大変そうだなと思った瞬間、それはふいに口から滑り出た。

「僕が切ってやろうか?」
「……は?」

 パチ、と音が途切れた。
 身体を丸めたまま手元の動きをぴたりと止め、ぽかんと口を開けてこちらを見るシャーロックの顔は滅多にお目にかかれないくらいの間抜けさだった。珍しいという一点において。
 その反応に、ジョンもまた、あれという思いを抱いた。何故こんなことを言い出したのか自分でも分からない。
 慌てて手を振って、自分の言ったことを訂正する。

「いやごめん。何となくそう思っただけだ。そうだよな、自分で切って当たり前だ。おかしなことを言った」

どうぞ続けてくれと、ラップトップに目を戻し、すっかり疎かになっていた手元の作業を再開させようとしたとき、それまで黙ったままこちらを見ていたシャーロックが不意に口を開いた。


「……じゃあ、頼む」
「は?」
「あとはよろしく、ジョン」




     ***



 何でこんなことになったんだっけ、とジョンは自分の思考と行動の唐突さに繋がりを見いだせないまま、壁際のカウチへと移動していた。
 シャーロックが座っている反対側に上がり、先ほどまでシャーロックが握っていた爪切りを受け取って、今まさに相棒の足の爪を切ろうとしている。
 何となく手元の作業に飽きて、目を上げたら同居人が爪を切っていて、大変そうだなと思った。それだけなのだが。
 切ってもらうと決めた途端、丸めていた身体を伸ばしたシャーロックは、今は肘掛に背中を預け、ジョンに向かってぞんざいに足を投げ出している。尊大さ丸出しのその態度。うっかり自分で言い出したこととはいえ、実に忌々しい。
 よっこらしょと裸足の足を持ち上げて触れ、やや嘆息しつつ指先をつまむ。零れたのは、我ながら大変どうでもいい感想だった。

「君って、身長だけじゃなくて足の指も長いんだな」
「君は足の指も短いんだな」
「黙ってろ、シャーロック」

 あぐらをかいたジョンのつま先を見つめて、すかさずそうのたまったシャーロックを、ぴしゃりと封じる。それきりシャーロックは口を噤み、ジョンは作業を開始した。
 ぱちりぱちりと、乾いた音が響く。
 黙ってろと言われたせいなのか、その後のシャーロックは静かなものだった。合間にちらりと顔を上げてシャーロックを見れば、眉を寄せた難しい顔でこちらを見つつ、それでも大人しくしている。当然こちらが刃物を持っているわけだから、慣れない感覚も含めて好き勝手に振る舞えるはずもないだろう。こっちも人の爪切りなんぞ、そうそうやる機会はないので、下手に動かれると切ってはいけないところまで切ってしまいそうだ。

 ――そうだ。おとなしくしてろよ、シャーロック。僕はさっさと済ませたいんだからな。

 だがそれも最初だけのことで、右足に移動する頃にはおしゃべりの虫が疼きだしたようだった。くすぐったいだとかむず痒いだとか文句を言うシャーロックを適当にあしらいながら、一本一本爪切りを続ける。ぱちん、ぱちん。
 実際、シャーロックの足の指は長い。足自体も大きいが(確か11インチだったはずだ)、それにしても長い方だろう。歪むことなくまっすぐ伸びて綺麗な形だ。爪の変形もないというのは見事なものだと感心する。こんなにまじまじと同居人の足を見ることなどないわけで、そこだけは純粋に面白い。それにしても大の男の爪切りとか、いったい自分は何をやっているんだと思うが、我に返ると虚しくなってくる…というよりも自分に腹が立ってくるだけなので、何も考えないことにする。ただただ馬鹿馬鹿しいとは思う。

「ジョン、痛いぞ。それだと深爪すぎる」
「…悪かったよ。君の足が重いんだよ。もっと上げろよ」
「十分協力してる」
「あぁ、そうだろうな。どうもありがとう」

 どうでもいい応酬をしつつ、最後に左足小指の爪先をぱちりと切り落とした。詰めていた息を吐き出す。よし、と呟いてこれで終わりだ。あまり人にやるような作業でもないが、なかなか上手く行ったのではないだろうか。少し歪みがあるが、人の足もなかなか切りにくいものだ。仕方がない。

「こんなもんだろ。ほら、終わりだ、シャーロック。足をのけろよ」

 だが、シャーロックは憮然としたまま、ジョンの膝に乗せた足を下ろそうとはしなかった。

「おい、シャーロック」
「それだけか?」
「……なに?」
「爪を切ってそれで終わりかと聞いてる」
「何、磨いた方が良かった?」

 咄嗟に思いつくことなど何もない。呆気に取られてそう尋ねれば、シャーロックはやれやれと言わんばかりのため息を吐いた。

「だから君は甘いんだ」
「おい、聞き捨てならないぞ。理由を言え、理由を」

 さすがにむっとして言い返したが、シャーロックはそれには答えず、むしろこう言い出した。

「僕もやってやろうか」
「――は?」

 何か妙なことになってきたなとジョンは思った。さっきから十分におかしいが、このまま任せると良くないことが起きるという意味での「妙」だ。防衛本能が働き、ジョンは引きつり笑いを浮かべる。

「いや、僕は」
「最近切ってないだろう。どうせだからお互い様だ。足の爪は定期的に切った方がいい。とりわけ僕も君も外出が多いからな。事件先でつま先が痛んで犯人を追えないなんてことがあったら僕が困る」

 ――このやろう。

 一方的に偉そうなことを言っているが、シャーロックの薄い色の双眸に俄然面白そうな光が宿ったのをジョンは見逃さなかった。

「それでどうするんだ、ジョン。手指の爪を切ってやろうか?」
「手はいい!手は自分で切れる!というか、そもそも僕は切って欲しいなんか一言も言って」
「じゃあ、やっぱり足だな」

 あっさり決定されて思わず呻く。ジョンも一応医者だ。手の指はそれこそ小まめに切っている。だが、足は手よりもさぼりがちなのは事実だった。白い部分が目立ちつつあるジョンの爪先を眺めて、シャーロックはチャシャ猫のように目を細めてにんまりと笑った。
 いそいそと姿勢を変えると、ジョンに足を伸ばすように指示をする。先ほどシャーロックがやっていたように、肘掛に背を預けながら、ジョンは爪切りを片手にした相棒を目にして顔を顰めた。

「…楽しそうだな、シャーロック」
「君もさっきは楽しそうだったぞ。何が面白いのか分からなかったが、なるほどな。やってみると確かに面白い」

 男2人、カウチの両端を陣取って向かい合って爪切りをする。シュールだ。どう考えても珍妙だ。ジョンが激しい違和感を覚えている中、シャーロックはジョンの足を組んだ膝に乗せると、存外丁寧な手つきで確認しながら、的確に余分な爪をカットしはじめる。と同時に彼の口も回りはじめた。

「君の足は小さくはあるが、頑丈で厚みがある。よく歩く足だ。長時間の歩行にも十分耐えうる」
「何でいきなり観察を始めるんだ」
「折角人の足を間近に見たんだ。君はもっと観察しろ。だから僕は言っただろう?それだけかと」
「あのな。僕は爪を切ろうとしたんであって、君の足を観察したかったわけじゃないんだけど」
「医者だろ。僕の足に異常がないか一緒に確認したっていいはずだ。まあいい。代わりと言ってはなんだが、僕が君の足を見てやろう」

 だんだん触れ方が、検死体のそれに接するのと変わらないような気がしてきて、ジョンは思わず背筋を震わせた。そのジョンの反応を知ってか知らずか、シャーロックはさらに話を続ける。しかし爪を切る手は止めない。この男が実に器用な手先を持つことを今さら思い出し、ジョンは逃げ出したくなっていたが時は既に遅かった。足の爪を切られながらシャーロックの解説を聞く羽目になる。

「今日、回ってきた死体は酷いものだった。何、死因は心臓発作で事件性がないのは明白だ。だが、それ以上に足の状態があまりにも酷かった。白癬菌が繁殖して水泡まみれ、角質も固くなって炎症やひび割れを起こしていた。その点、君の足は清潔感がある。皮膚病の様子もなし。ただ足の裏にいくつかタコができているな。それも左右で出来ている数と位置が異なる。見るに左に重心が偏りがちだな。それに一時期足を引きずっていた名残がある。意識して補正しないと背骨と骨盤を痛めるぞ。もともとの姿勢がいいから、大した影響は出ないだろうが。それから親指と、あと小指の爪が僅かだが変形している。靴が合っていないんだ。既製品は手軽でいいが、それだけではやはり足を痛める。底敷を使うか、足の形を確かめて買い直すことをお勧めするね」
「…それはどうも、ご丁寧にありがとう」

 ――パチリ。
 延々と続くかと思われた解説の末、最後に一つ、小指の爪の角が切り落とされたのを見て、ジョンは安堵の息を吐いた。新手の拷問かと思える時間だった。

「あぁ、終わったんだな。ええとその、いちおう助かった、しゃーろ…」

 そこまで言いかけてジョンは絶句した。爪を切りおわったところでシャーロックがやすりを取り出したからだ。慌てて叫ぶ。

「いや、いい!そこまでしてもらわなくていい!」
「やるなら徹底的にだ。黙ってろジョン!」

 逃げ出そうとするジョンを長い脚で器用に押さえつけ、うぐっと低く呻き声を洩らしたジョンに構うことなくシャーロックは鼻歌でも歌い始めかねない勢いで、ジョンの足の爪に今度はやすりを当てた。

 ――しまった…。

 ジョンは思わず天井を仰いだ。多分、相当退屈していたのだ。この男は。本人にも自覚があったかは分からないが、あと小一時間もすれば退屈だと喚きだしていたに違いなかった。
 おとなしく爪切りなんぞ始めたのは、普段の習慣に加えて手持無沙汰な自分を持てあましたからに違いない。
 今更そんなことに気づいたのは、明らかにジョンの失態だった。適当に放ってパブにでも出かけるんだったと悔やんでみても後の祭り。
 いい暇つぶしを見つけた男は、とことんまで楽しもうと言うのか、嬉々としてジョンの爪を磨き始めた。さすがというか手馴れているせいなのか、その作業は腹が立つほど丁寧で無駄がない。リズミカルとも呼べるテンポで、かつジョンの足の指を傷つけない仕方で、その磨きにくそうな小さな角までもやすりを掛けている。
 もうどうにでもなれと、適当に任せることにし、ジョンが天井の染みを15くらいまで数え終わった頃、「できた」とまるで子供のような歓声を小さく上げて、シャーロックは得意げな顔で作業の完了を宣言した。

「…終わった?」
「あぁ、完璧だ」

 照明の柔らかな光を受けてぺかぺかと輝く己の足のつま先に、ジョンは思わずもう一度天井を仰いだ。なんだろうこれは。手指ならともかく足指まで完璧に光っているのは、なんというか実に居心地が悪い。売り物の身体なら必要かもしれないが、あいにく自分はただの医者で、目の前の探偵の助手だ。
 しかし、シャーロックの方はその出来栄えにいたく満足したらしい。ジョンの足を掴んだまま、繁々と見ている。
 いたたまれなくなってきた。なんというか、どっと疲労が押し寄せてきた。もういいだろとぼやきながら、足を引っ込めようとした時、シャーロックに足首を思い切りひっぱられ、ジョンはもたれていた肘掛からずりおちた。

「うわあぁあ!!??」

 完全に油断していたため、勢いに任せて、肘掛に後頭部を打ちつける羽目になり、情けない悲鳴を上げる。

「何だ!?いきなり何するんだよ、シャーロック!!!」

 足だけを上に引っ張り上げられ、仰向けにひきずられた状態でジョンはいささかパニックになった。シャーロックはというと、ジョンに怒った惨劇に詫びるどころか気づいてもいないのか、高く持ち上げたジョンの足を間近で眺めている。

 ――一体なんなんだよ、もう!!!

 このソシオパスが頭の中で何を考えているのか、もはやとっくにジョンの想像の範囲を飛び越えている。そんなおかしな同居人はしばらくして一つ頷くと、重々しく口を開いた。

「ペディキュアを塗ってみないか、ジョン」

 一瞬、この男がほざいた内容が理解できず、逆さに半分吊られたままでジョンはフリーズした。一方のシャーロックは相変わらず神妙な顔で何かを考え込んでいる。

「あぁ、我ながらいい考えだ。足の爪なら塗ったってばれない」

 ――塗る?ペディキュアを? そもそもペディキュアとは何だっただろうか。

「どうした。ペディキュアを知らないのか、ジョン。君の方が詳しいだろう。女性が足の爪に塗料を塗って―」
「わかった!もういい。教科書みたいな説明はいらない!で、何!?それをどうするって!?」
「だから、それを君の足の爪に塗る」
「……保護用に塗る、あの透明の?」
「そんなことわざわざ聞くか。カラーに決まってる」
「――そんな、そんなの、変態か!!バンドリストでもあるまいし!」

 一拍後に言われた内容を理解し、叫び声を上げると同時に反射的に身体を引いたジョンだったが、シャーロックはその間を強引に詰めると、無理な体勢に抗議の声を上げたジョンの顔を覗き込んで目を細めた。


「いいだろう。実に倒錯的だ」


 にやりと笑った顔は、猛禽類を思わせるような危険な光を煌めかせていて、思わず背中にぞわりと震えが走る。
 思うに、シャーロックという人間は相当に最低だ。性格的な意味だけでなく、俗的な意味で。事件や実験に夢中になっているときのシャーロックは確かにセクシーだ。その代わり、デリカシーはマイナス。セクシーとマイナスのデリカシーが組み合わさると、とんでもないモンスターが出現する。
 思い切り逃げ出したかったが、哀しいことに足首を掴まれた状態ではそれも叶わず、ジョンは声にならぬ悲鳴を何とか飲み込んだ。一方のシャーロックはきらきらと星が瞬くように目を輝かせていた。

「爪を飾り立てるという行為の意味については前々から検証してみたかった。カラーのついたマニュキアは通常は女性が行うものだが、例えば、男性が行うことで心理に何かしらの影響を与えるのかどうか。まあ色々あるが、単純に君の爪を見てたら塗ってみるのも面白い気がしてきた」
「そんなことだろうと思ったよ!退屈だから、暇つぶしに遊ぼうって魂胆だろ…!誰がつきあうもんか」
「君がつきあってくれる」
「僕はやらないぞ!」

 ふざけるなと叫んだジョンをシャーロックが不思議そうに見る。

「だって、ジョン」

 ――他にいない。君以外には。

 ひどく真摯な顔で告げられて、ジョンは思わず言い返すタイミングを失った。

「ビリーは頭蓋骨だけだから、手足はもちろんない。あったところで細胞組織が失われている以上、爪も当然残っていない。冷蔵庫には今新鮮な足首から先が入っているが…」
「ちょっと待て。シャーロック。また新しい冷蔵庫の仲間か。僕は聞いてない」
「言ってないからな。まあ、怒るな。言おうと思ってたんだ。そう、名前はダニエル。水道工で大変な働き者だったことは分かってる。ちょうど男性で必要な部位が手元にあるが、ペディキュアをした感想を聞こうにも頭部はバーツに寂しく置いてきぼり。神経も繋がっていないし、反応を見るのは絶望的だ。その点君は五体満足。精神もまあ多少刺激を求めすぎる嫌いはあるが至って健常そのもの。むしろ刺激を好む傾向こそがふさわしいな。そもそも他に頼める人間を君以外に知らない」

 ほら、君だけだろうとどこか得意気な口調でにっこりされて、ジョンは呻くような声で問い返した。

「君さ、友達なら何やっても許されるって思ってないよな…?」
「まさか」

シャーロックは見た目にふさわしくお行儀よく返事した。

「ジョンだからだ」
「おい、こらっ…」

 君ならつきあってくれるだろうと、やたら得意気な宣言に、ジョンは反論をしようとして絶句した。何がジョンなら、だ。シャーロックが友達と胸を張っていえるのはジョンのみである以上(一応大切な相棒ながら嬉しいんだか悲しいんだか、とにかく泣けてくる事実だ)、友達のジョンなら何をしても大丈夫だと言いたいのか。そりゃあそうだ。こんな馬鹿なことにつきあえる人間は、自分以外いないだろう。こんな男と同居もしなければ、コーヒーも毎回砂糖2つ入れて用意もしてやらず、食事を気に掛けてやらず、うっかり足の爪を切ってやろうかと思うこともせず、流れで切らせてやったりもしない。とは言っても上限はある。自分だから何でも許されると思っているなら、それは大間違いだ。ジョンにだって、我慢できることと出来ないことがある。
 その点を思いきり主張してやろうと思ったのだが、どう説明したら理解してもらえるのが分からないまま、シャーロックの計画は次段階へと移行していた。

「ジョンはさすがだな。その通り、僕はものすごく暇だ。いい機会だ。やってみる価値はある。大丈夫だ、ジョン。まだ珍しくはあるが、男性向けペディキュアのサービスも存在する。とはいえ、さすがにマニキュアは持ってないな。仕方ない。ハドソンさんに借りてこよう」

 飛び出してきた馴染みの名前に、ジョンは今度こそ抗議の意を込めて叫んだ。

「待て待て待て、ふざけるな!どういう理由立てて借りてくるっていうんだ!」
「『ジョンの足の爪にマニキュアを塗りたいので、似合いそうな色を貸してください』」
「馬鹿か!君は馬鹿だろ!!」
「ジョン、分かってるだろうが僕は馬鹿じゃない」
「いや、馬鹿だ!」
「いいか、ジョン。ハドソンさんなら、下手な言い訳を並べ立てるより、真実そのままを伝えた方が面白がってあれこれ貸してくれるだろう」
「そうだけど!だからまずいんだろ!!」

 いっそ、本物の馬鹿だったらどんなに良かったか。頭のいい馬鹿ほど手におえないのだ。最悪なことに。

「そうと決まれば下に行って来る!」

 掴んでいたジョンの足を放り出し、シャーロックはカウチから飛び降りる。おかげでジョンは完全にひっくり返った状態で、カウチの上に仰向けに転がる羽目になった。何とか転落することだけは免れたものの、問題はそこではない。必死に手を伸ばして、翻る同居人のガウンの裾を掴もうとしたが、それはするりとすり抜けた。恐るべき俊敏さだ。動きが身軽な長身がどこまでも恨めしい。

「シャーロック!!!」

 今にも部屋を飛び出そうとする同居人を半ば悲鳴交じりの声で呼ぶ。

「僕の話を聞け、シャーロック!!」

 だが、シャーロックは全くジョンの声など耳には入っていなかった。立ち止まることには立ち止まったが、彼がそうしたのは自らの目的を諦めたためではない。

「ジョン何色がいい? ピンク、パープル? 早く好きな色を選べ」

 何が食べたいかを聞くのと同じ調子で、シャーロックが尋ねてくる。その様子は子供が遊びに出かける前にも似たわくわくした雰囲気が全開で、普段であれば、楽しそうだなシャーロックと笑い飛ばしたに違いなかった。
だが、これは違う。どう考えたって違う。
 自分はさっきまでブログを更新していただけで、たまたま同居人の爪切りを手伝っていただけで。それがどうしてこうなった。

「…僕だけっていうのは不公平だ。君も塗れよ、シャーロック」

 せめてもの足掻きと、相手が拒むだろう条件を無理やりひねり出してみたが、返ってきたのは斜め上にテンションを突き抜けた言葉だった。

「君が塗ってくれるなら考える。いいね、ちょうど試してみたいとも思ってたんだ。自分で塗るより人に塗ってもらった方が遙かにはかどるからな。それで何色がいいんだ、ジョン」

 選ばないなら適当に決めてくると、理不尽な脅しをかけられ、ジョンは泣く泣く叫んだ。

「薄ピンク…!」
「Hun…。これは僕の勝手な意見だが、君の爪は小さめだからもっとビビッドな色が似あうと思うな。よし、明るめのピンクにしよう!」

 ぱんと両手を打ち合わせて一人勝手に納得し、満足そうな笑みを浮かべる。せめて目立たない色をと考えての提案はあっさりと却下され、ジョンは嘆きを通り越して憤慨した。

「常々言ってるけど僕の意見に意味はあるのか、シャーロック!」
「あるさ。君のごく一般的で平凡極まりない発想を下敷きにすることで、僕はより的確な結論を導き出せる!」
「シャーロック…」
「怒るな、ジョン。事実を受け入れるのは難しいだろうが、塗ってみれば僕の意見が正しいと君もわかるだろう」

 分かってたまるかとジョンは心の底から思った。こういう男の頭は一度銃弾を打ち込んで風穴を空け、外気の通りを良くしてやるべきではないかと本気で考える。

「じゃあ、君は青だ! 全部の爪に塗ってやるから真っ青な色を借りてこい!」
「OK」

 やけくそになったジョンを振り返り、シャーロックは目を細めて笑った。

「逃げるなよ、ジョン」
「どっちが!」

 付き合うからには、とことんだ。馬鹿げたことはどこまでも馬鹿馬鹿しくやるものだ。

「さすがだ、ジョン。…ハドソン夫人!!」

 一体何事なの、ボーイズ。階下から愛すべき大家夫人の呆れたような声が響いてくる。これから切り出される依頼は、さぞかし彼女を呆れさせるだろう。いや、面白がらせるだろうか。
 ガウンをまとった長身が、扉の向こうに消え、軽快に階段を駆け下りていく音を耳にしながら、ジョンは決意した。
 こうなったら、あの長い足指の先を思う存分にデコレーションしてやろうではないか。爪切りどころか、ペディキュアを塗ってやった経験は一度もないが、女性が足の爪を彩り飾る、多種多様なそのデザインはなかなかの頻度で見慣れている。今こそそれを思い出し、活用すべき時だ。パーツこそ大きく筋張っていて、実に男性的だが、白く長いシャーロックの指先に、鮮やかな青を差せば、きっとそれこそ倒錯的だろう。これがお互い様というものだ。自分だけ振り回されてたまるものか。まずは下準備に、こちらも改めてあの爪先を磨いてやらねば。


「覚悟しろよ、シャーロック」


 まるで明後日の方向に奮起し、ジョンはカウチに転がっていたやすりを拾い上げると渾身の力を込めて握りしめた。


 こんな馬鹿げたこと、シャーロックと同居しているのでなければ出来るはずもないので。

- end -


2013/03 サイト再掲載
再掲載。2人で塗りまくって爆笑してマニュキアを使い切ってちょっと青ざめて除光液をひっくり返して臭いに咽せて、面倒くさくなってそのまま就寝。
落とし忘れたジョンが彼女にドン引きされて振られるまでがワンセット。
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