WhirlWind

ハンプティ・ダンプティの心臓

4.FALL [Sherlock]


 屋上に、シャーロックは今やただ一人で立っていた。

 残されたのは最も最悪な手段、一つだけだった。
 先ほどまで相対し、回避するための手段を一つ残らず叩き壊した男は、望む結果を自身の目にすることなく足下で虚ろを見上げて転がっている。だが、顔には絶望も後悔も全く浮かんではいなかった。満足げにうっすらと笑みを張り付けたまま、ぽっかりと二度と光が差し込むことのない漆黒を見開いている。

 自分の存在が求める結果を妨げると知った瞬間、彼はあっさりと己を排除することにした。自身ですら、コマの一つに仕立てあげた。その、異常さ。通常の犯人であれば、己の立てた計画を最後まで見届けることを願っただろう。もしモリアーティがそんな男であれば、シャーロックにつけいる隙もあったはずだった。だが、そうはならなかった。
 モリアーティという男が、犯罪者として通常とは次元の異なる次元に立ち続けたことを、シャーロックに嫌というほど思い知らせて、彼はさっさと退場を決め込んだ。シャーロックに回避不可能な選択を突きつけて。
 どくどくと、モリアーティの頭部から血が流れ続けている。足下を汚すのにも気づかず、シャーロックは無言で死体を見下ろしていた。

 呼吸が荒い。自分が暑いのか寒いのか分からない。こめかみに背中に、冷たい汗が滲んで伝い降りていく。物言わぬ遺体を前に、一歩足を引いてわずかにシャーロックは蹌踉めいた。
 今のこの現状が何を意味しているのか、彼には分かりすぎるほどに分かっていた。

――僕は死ぬ。
――ここで、死ぬ。

 吐息のような声が、口から吐き出される。それはやがて乾いた笑いへと変わり、バーツの屋上に空虚に響いた。
 ジム・モリアーティの張り巡らした罠はまさに完璧だった。シャーロックの持つありとあらゆるものを突き落とし失墜させた。それは名誉であり、社会的地位であり、信頼であった。イフの可能性を考えたが、何をどう選んでもこの屋上に辿りつく。
 それほどにモリアーティの仕掛けた罠は巧妙だった。
 シャーロックが抱いていたプライドも、他者に求めた名誉も、もはや何も残ってはいない。
 どうすれば、これ以外の選択肢を用意できたのか、今考えても思いつくことができない。何故なら、この全てが己の招き寄せたものであることも、シャーロックには分かっていた。いや、思い知らされた。モリアーティはほんの少しお膳立てをしただけだ。結局シャーロックを追いつめたのは、シャーロック自身が切り捨ててきたものたちだったのだ。シャーロックが自らの過信と他者の排除でもって作り上げた世界。その過程で捨ててきたもの一つ一つが、今シャーロックに牙を剥いている。

 少女の上げた悲鳴が、耳にこびりついている。
 自身に向けられた純粋な恐怖。脅え。少女にとって、シャーロックは救世主ではなく加害者だった。そう知ったとき、シャーロックは狼狽した。
 誰にも信じてもらえなくていいと、そう思っていた。人の情など自分とは無関係だと信じていた。サイコパスと言われて、ソシオパスと言い直しこそすれ完全に否定しなかったのは、社会になじめない自分に、どこかで酔っていたからだ。お前達と自分は違う。次元の違う存在なのだと大声で主張してやりたかった。それを見せつけたかった。
 ジムの指摘は正しい。まったく、自分は壁の上でふんぞり返っている無知なハンプティ・ダンプティそのものだ。
 そんな高機能社会不適合者が、それでも「コンサルト探偵」として築き上げてきた全てのものが、地に墜ちた。そもそも、名探偵という存在すらフェイクであり、幻想であるのだと、ジムは人々に知らしめた。
 シャーロック自身にすら、己の存在意義を揺らがせることに成功した。
 そんなことが出来たのは他でもない。

――僕は君だった。君は…僕だった。

 だからこそ、シャーロックをここまで追いつめることができた。最後、お互いに絡めた手の平は、温かくも冷たくもなかった。それは同じ温度を湛えていた。一瞬だけ共有した互いの熱。

『ありがとう。ありがとう、シャーロック・ホームズ』

 微笑みと共に呟かれた最期の言葉は、シャーロックがついにジムを受け入れ、陥落したことへの歓喜だったのか。
 胸の奥、うるさく鳴り響く心臓の音を聞かぬふりをして押さえつける。彼は自分の全てを落としたと思っているのだろう。自らの計画が崩れることはありえないと、確信していたのだから。
 動かぬ笑顔を前に、シャーロックは言い放つ。

「…残念だったなモリアーティ」

 確かにシャーロック・ホームズはもはや社会的には死んだ。後は実際の心臓の鼓動を止めてみせるだけ。
それを見る前にモリアーティは自らの息の音を止めた。そこに至る過程がどんなものにしろ、退場してしまえばそれまでだ。この一連のゲームでモリアーティは確かに勝ったのだろうが、自ら舞台を降りることで最終的な試合を放棄した。

――世界を本当に欺くのは、僕だ。お前はそれを見ない。


「僕は、君のところにはいかない。君と同じ場所に辿りつくことはしない」


――永遠にさよならだ。もう一人の僕。


 静かに宣言すると、転がるジムから目線を逸らし、足を引いた。踵を返し、屋上の端へと身体を引きずるようにして歩く。浅く呼吸を繰り返しながら、周りを見渡し確認する。
 手は打っていた。どうしても取りたくない手段ではあったが、十中八九こうなることは予想していた。
 あとは彼が望んだように実際に落ちてみせればいい。それだけで済む。三カ所に配置させたという狙撃手はシャーロックの死を知って、手を引くだろう。ジョンの…ハドソン夫人もレストレードも、誰一人死ぬことはない。ジムがいれば、あの気まぐれを起こしたかもしれないが、彼が新しい指示を与えることはない。

「―――っ…」

 呼吸が荒いのは、心臓がどくどくとうるさい音を立てるのは、計画が本当に成功するかどうかパーフェクトではないからだ。それだけだ。ジョンに何も告げられぬまま置いていくことになるのは辛かったが、話すわけにはいかなかった。もしかすれば、いつか全てを告げられる日もくるだろう。
 そうして屋上の端に足をかけたときだった。遠い地上で一台のタクシーが止まったのは。


「――――――」


 開いたドアから飛び出してくる小さな影を認めて、シャーロックは呻き声を洩らした。身体中の血が一瞬にして沸騰し、そして凍結する。
 ジョンと、呟いた声はみっともないくらいひび割れて掠れていた。まるで呼吸を忘れてしまったかのように喘ぎを繰り返す。

「――ジョン」

 洩らした声のみっともなさに、思わず自分で笑う。
 予想の範囲内だった。シャーロックからのメールを受け取った時点で、恐らくモリアーティは、ジョンをシャーロックから遠ざける。一対一で会おうと申し出たのはシャーロックであったから、シャーロック自身でジョンを隔離することもできたが、それ以上にモリアーティは実に彼らしい卑怯な仕方でシャーロックをジョンから引き離した。ジョンの道義心に付け込んで。
 それでも、戻ってくるだろうとは思っていた。ハドソン夫人の様子を見れば、自分が騙されたことをジョンはすぐに悟る。それから彼はバーツに引き返す。でも全ては遅い。舞台は調えられた後だ。シャーロックは、ただそのまま飛びりれば良かった。そうして見せればいいだけだった。ジョンはシャーロックの「死体」に気づく。「死」を知る。それだけ。
―――それだけなのに。

 シャーロックの身体は震え始めていた。戦慄く指先でアイフォンを取り出し、コールする。電話はあっという間に繋がった。

『もしもし』
「――ジョン…?」
『シャーロック?大丈夫か…?』

 ジョンの声は、ただ自分を案じていた。その彼に、タクシーから降りた場所へ戻るようにと告げる。
 電波の繋ぐ先へ、自らの場所を教えながら、シャーロックは胸の奥がどこまでも冷えていくのを感じていた。
 息を呑む音がする。ジョンが己を認めたことを、ついにシャーロックは知った。

『シャーロック…?』

 同居人の声は、いつもたしなめるように、時に叱咤するように、ヒートするシャーロックの意識に届いて、火照った心を鎮めた。
 そして今。遠く茫然と立ちつくしながら、それでも声音だけはいつものまま、ジョンはシャーロックの名前を呼ぶ。

 どうした。一体何をやっている。落ち着け、大丈夫か。

 シャーロックを案じて呼びかけている。
 常であれば、それだけで凪を取り戻すはずなのに、シャーロックの身体は冷たく強ばって震えを帯びたままだ。
全ては計画通りのはずなのに。怖いと、シャーロックは今、初めて思った。―――思ってしまった。バスカヴィルでも恐怖を覚えた。だが、あれは得たいの知れないものに対してだった。理論で説明ができないものへの怖れ。
 だが、今抱いているのは違う。全て筋道立てて説明がつく。ままならないのは己の感情だ。シャーロックが厭い、切り捨てようと足掻いた感情が、シャーロックの頭脳のコントロールを離れ、暴れ狂って身体を支配している。


『なぁ、シャーロック。君がないという、不要だという心が、己の全身すら支配してしまうんだよ』


 かつて、シャーロックの胸に手を置いてジョンが言ったこと。ジョンが触れた手の下で、今もシャーロックの心臓は 脈打っている。自分の胸元を、シャーロックは痛いほどの強さで握りしめた。
 ぱきんと、微かな幻聴がする。
 胸が、苦しい。キリキリと締め上げられて、引きちぎられてしまいそうだ。
 声にならぬ思いが喉を圧迫して、上手く声を出せない。痛くて割れそうだ。このまま吐いてしまえたら楽になるだろうか。
 胸を押さえながら、シャーロックは弱く笑った。

――あぁ、これが心か。彼らが言う心なのか。

 心の存在を知ってはいた。でもそれだけだった。理屈で語ることのできないものをシャーロックは許容できない。そのモヤのように捉え所のなかったはずの答えが、今シャーロックの胸にすとんと落ちてきた。――狂いそうな痛みを伴って。
 だが、こんな痛みを知らない。こんな張り裂けるような痛みを自分は知らない。重く、槌で砕かれているような感覚をまざまざと感じながら、シャーロックは己の「心臓」を確かめていた。

――僕の、心臓。

 そして、己の行為は、シャーロックだけではない、ジョンの心をも壊す。彼がシャーロックに抱いてくれた信頼と優しさを。シャーロック自身が、この手でジョンの心を壊す。
 それもまたモリアーティの狙いだったのか。シャーロックに手を下させるための。こんな形で、あの男は己からかけがえのないものを奪うのか。
 ジョンを救っても救えなくても、壊れるものは変わらない。結末は変わらない。
 この計画が成功するかどうかは不明。成功したとして、もう一度ジョンに会えるかはわからない。
 そう思うだけで、心がバラバラになりそうだった。砕けて消えてしまいそうだった。


 確かに、己は死ぬのだ。ここで。それが仮のものであったとしても、確かに一度、死ぬ。心を粉々に砕かれて。


 このまま、本当に彼のところに飛び降りられたら良いのにと、そんな馬鹿げたことを思う。それで本当に死んでしまってもいい。肉も骨もばらばらに、ずたずたになって、それでも彼の元にたどり着けるのなら。それでいいとすら思う。
 だが、捨てられなかった。心を砕いても、命を捨てられなかった。
 自分はどうしようもなく、ずるくて弱い。

 …ジョン。

 声なき声で、ただ名前を呼ぶ。
 見下ろすジョンとの距離は、絶望的なまでに遠かった。恐らく、これが本来の彼と自分との立ち位置だ。そのことをすっかり忘れていた。まるで当然であるかのように錯覚していた。距離が縮まったように思えたのは、ジョンが見えぬ境界を踏み越えて、シャーロックに手を伸ばしたからだったというのに。
 モリアーティが語ったとおりだ。確かにジョンはこの高さに上ってはこられない。この屋上から、誰もが届かない高い高い場所からシャーロックが望む景色を、ジョンが見ることはない。同じように、ジョンの見る世界をシャーロックも理解することはない。今もそうだ。彼とシャーロックの立つ場所は遠く離れていて交わらない。どんなに横に立っていても絶対に埋まらない距離が存在する。
 でも、それで良かった。構わなかった。シャーロックの語る世界を、ジョンは否定しなかった。シャーロックの目を通してみる世界を、ジョンは確かに見ていた。それだけで良かったのだ。モリアーティがどんなに否定しようとも、彼は掛け替えのない人間だった。シャーロック・ホームズにとって。

 あぁ、どうして頬が温かいのだ。零れるこれはなんだ。
 目尻から溢れたものがシャーロックの頬を伝い落ちていく。拭うこともできず、流れるに任せたままシャーロックは電話をきつく握りしめた。
 自分の選択が間違うことはなかった。かりにあったとしても、それは修正できるレベルだった。
 誰かのために、死ぬ日がくるなんて。そんなことは永遠に起こらないだろうと思っていたのに。もし少し前の自分がこのことを知ったなら、どんなに滑稽かと笑っただろう。

『シャーロック。…シャーロック?』

 電話越しに聞こえる声。耳元ですぐ聞こえるのに、求める姿はあまりにも遠かった。そうだそれでいい。そうでなくてはならない。

「…僕はフェイクだ」

 どうして、こんなに胸が苦しいのだ。笑って見せる声が震えている。偽物だと、もっとはっきり言うつもりだったのに。声はみっともなく割れて上ずってしまった。

「フェイクなんだよ、ジョン」

 ジム・モリアーティは僕が作り出した。新聞が述べたことは全て本当。シャーロック・ホームズは、孤独な男が人に注目されたくて作り出したただの幻。

『違う。そうじゃない』

 ジョンが電話の向うで遮るように声を上げる。
 否定する声は、ひきつっていたがしっかりとしたものだった。

 それ以上言うな。黙れ、シャーロック と。それは違うと。

 初めて出会った出来事すら、落として汚そうとするシャーロックを、ジョンは怒りすら滲む声で断固否定する。ジョンは分かっているのかもしれない。周りが疑ったシャーロックの潔白を、あっさりと肯定し疑念を蹴散らしたジョンのことだ。彼は今もシャーロックを信じている。それが嬉しい。どうしようもなく嬉しい。でも、それではいけない。
 彼がシャーロックに抱く信頼を、それでも自分は砕かなくてはならない。そうでなくては、ジョンを救えない。…友達を救えない。

『シャーロック!違う。いいからもう止めるんだ』
「駄目だ、動くな。戻るんだ、ジョン。そこから動かないで」

 手を、伸ばす。遠く地上にいるジョンに向かって。留めたいのか縋りたいのか、もう分からなかった。ただ、伸ばさずにはいられなかった。届くはずはないと、よく分かっているのに。
 こんな酷い様を、ジョンに見せつけることを決めたのは何故だっただろう。
 ジョンを、シャーロックの死の証人とし、同時に彼もまた被害者であると周りに認めさせることが必要だった。
 だが、それだけではなかった。シャーロック自身のためにも、どうしても必要だった。
 下からジョンが見上げている。どんなに遠くからでもいい。ジョンが、自分を見ていてくれれば。それだけで良かった。心が、満たされた。冷たく凍り付いていた心臓が、温かさを取り戻した。
 そうでなければ、決断できそうになかった。
 それがどんなに彼にとって残酷ことだとわかっていても、あの眼差しを望まずにはいられなかったのだ。


「僕をずっと見ていてくれ」


 どうかと。プリーズと、僕のためにそうして欲しいのだと、繰り返し懇願する。

――どうか。頼む。お願いだから。
――そこに。その場所にいて。僕を見ていて。

 今まで貫き通してきた己のプライドなど、今やちっぽけで些細なものだった。今はそう、思えた。
 自分が、どんなに怖ろしいことをしでかしているのか、どれほど取り返しのつかぬことをやろうとしているのか、今シャーロックははっきりと理解していた。
 二度はない。もう一度は望めないのだ。
 落ちたロンドン橋は戻らない。壁から落ちたハンプティダンプティは粉々になったまま、二度と元には戻らない。

――fall、fall、フォール! そしてbroken

 砕けて終わり。童話は残酷で、そして現実はもっとずっと不条理で哀しい。

――でもジョン。君になら。戻せるんじゃないか。

 彼なら、兄も兵隊も王様も、決してできないことを。木っ端微塵に砕け散った、シャーロック・ホームズという破片をかき集めて組み立ててくれるのではないか。
 その細かなものまでも、拾い集めて抱きしめてくれるのではないか。

 どこまでも浅ましい願いを抱き、その身勝手さに自ら震える。こんな時でもジョンに頼ろうとしている。彼ならわかってくれると思いこもうとしている。フェイクだと告げた自分を『違う』と断言したあの声に縋ろうとしている。自分から突き放す真似をしようとしているくせに。
 今度こそ。ジョンはシャーロックから離れるかもしれない。軽蔑と共に去って、二度と傍には戻らないかもしれない。
 それでも命は残る。命さえあれば、少なくとも先には進める。無ではない。やれることがある。そしてシャーロックにはやらなくてはならないことがある。
 ジョンと、囁くように名を呼ぶ。
 微塵に砕け散るであろう自分とジョンの心を、いつか必ず拾いあげよう。一つ一つ、取り上げて組み立てよう。それが自分に本当にできるのか、自信はなかった。彼の脚を治すことだって、100%の確信があったわけではないのだ。それでも試さずにはいられなかったあの時のように。
 小さな…そのあまりにも頼りない望みをシャーロックは抱く。

――その心を。

 どんな苦労を重ねることになろうとも、それでも一つ一つの欠片を地に這い蹲って探し当て、一つ一つ組み上げるだろう。欠片を求めて彷徨う指先が、地に擦れて削れて、血を流したとしても。
 そうまでして組み上げた形は、それでも元の形を取り戻すことはないだろう。昔と同じ形ではないだろう。あぁきっと、どんなにみっともない姿をしていることか。
 そうだとしても。つぎはぎだらけの歪なそれを、己は必死で愛するに違いないと思った。二度と壊すことがないように慈しむだろうと思った。今度こそ間違えないように。
 そのための代償がどんなものであるとしても、自分は必ず値を支払おう。返すべきものを、借りをジョンに返すのだ。
 もし、二度と間近に見えることがなくても。この先、もしかしたら彼との間に存在したはずの、どれだけの時間を失うことになるとしても。


 僕は、僕の大切な全てを壊すとしても、お前のところには行かない。ジム・モリアーティ。
 例えこの心臓が粉々に砕け散っても、お前の道は行かない。
 世界を欺くのは僕だ。お前じゃない。
 生きるためなら、守るためなら、僕はお前が望んだように、君の前に僕の心臓を差し出してやる。


 いつしか、足の震えはおさまっていた。
 全てを断ち切るように、携帯電話を屋上に叩きつける。投げ捨てた携帯電話から、そして遠く地上からジョンの声が聞こえてきたが、シャーロックはもう躊躇わなかった。
 足を一歩踏みだし、ゆるやかに両手を広げる。
 目を閉じる前に見た空は、今にも泣き出しそうな色を湛えて果てなく頭上に広がっていた。



 ――good-bye John



 詫びの言葉はついぞ口には出されなかった。
 彼の前から落ちることでどんな結果をもたらすとしても、それでも君を失えなかったのだと、いつか彼に告げられたらいいのにと浅ましく望んだ。

 ばらばらに散らばっていく心臓を抱えて、そう、願った。


- end -


2012/08/06
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