WhirlWind

ハンプティ・ダンプティの心臓

3.CRACK [Moriarty/Sherlock]


「―――Virgin(ヴァージン)」


 そう告げられた瞬間に、シャーロックは渾身の力でジムの手を叩き落としていた。
 嫌悪感を剥き出しにしたその仕草に、ジムはわぁおと声を洩らした。何の色もない、平坦な声音だった。払いのけられた手をじっと見つめて、ぱちぱちと瞬かせる。首を傾げたその様は、もとの顔立ちと相まってひどく幼く映った。だが、それも一瞬のことだった。彼は「へぇそう…そうなんだ」とぶつぶつ口の中で呟くと、にぃと口の両端を吊り上げる。そして堪えきれぬというように笑い出した。

「いいなぁ、その反応。まるで本当の生娘みたいだ」

 可愛いねと、大仰に目を見開き、男は払いのけられた手を撫でながら、嬉しそうにもう一度にたりと笑った。

「何て顔してるんだ、シャーロック。せっかくの色男が台無しだよ。言ったろ?あの女から聞かなかった?僕がつけた君のあだ名。ヴァージンって、さ」

 我ながら最高だよ! とジムは両手を広げてケタケタと声を上げる。

「君が本当にヴァージンかどうかなんて、実際のとこそんなに興味ないけどね。いや、でも同じ事かな。君ってまさにヴァージンそのものって感じだもの。無垢で儚く、綺麗で脆い。あっという間に汚れてしまうもの。弱くて惨めで可愛いもの」
――君って、そんなものを胸の奥底に抱えてる。
 
 立ちつくしたままのシャーロックを認めると、ジムは緩やかに目を細めた。

「意味がわからないって顔してるね、シャーロック」

 払いのけられた手を再び伸ばし、人差し指を突きつける。射抜く鋭さで真っ直ぐ、シャーロックの胸に。

「ここ。そう…ここにあるものだよ」

――君の、心臓。

「これが何だっていうんだ…」

 叫びだしたい気持ちを堪え、シャーロックは低く這うような声で問い質した。知らず胸元に手を伸ばし、心臓の真上をきつく握りしめる。

――心臓。こころ。
――シャーロック・ホームズのこころ。

 ジョンがシャーロックの胸に触れて告げた言葉。あの時のぬくもりを忘れることはできずにいても、ジョンの語ったことの意味がシャーロックには理解できないままだ。それなのに、それと同じ単語を、今ジムが目の前で口にする。
 不愉快だった。ただひたすらに。

「それが仮に僕の中にあったとして、それがお前と何の関係がある」
「ある。言ったじゃないか。プールで。君の心があると言ったのはこの僕だ。ないものを見たいなんて思わない。触れたいなんて考えない。ジョンにだけなんて妬けるなぁ。僕だって見たい、見せてよ、シャーロック。ねぇ。…ねぇってば」

 プリーズと、上目遣いに首を傾げてねだる、その仕草にぞっとしながらもシャーロックが首を横に振る。

「もし僕に、お前のいう心があるのだとしても、僕の中にあるものを、お前と共有することは絶対にない。絶対にだ」

 はっきりとした拒絶に、光すら呑み込む漆黒を見開き、口端を吊り上げて男は言った。

「…そう。見せたくないっていうんだ。あくまでも。じゃあ、仕方ないか。ならやっぱり…」


「壊すしかない」


 判決を下す裁判官のような、低く重々しい口調だった。
 思わず息をつめたシャーロックを認めると、眉を大仰に持ち上げ、一転して軽やかな声で語り始める。

「一つお話をしてあげよう。わぁお、僕って寛大だ。おとぎ話はいいものだ。物語ってやつは、時にどんな記事や論文よりも、事実を的確に指摘してみせる。大衆の教訓話としてもよく出来てるよね。さて、これは君も知ってるだろ。『スノーホワイト』。無邪気で可愛いお姫様のお話だ。王妃様は、プリンセスの世界一の美しさと一点の汚れもない可憐さを妬み、その心臓を彼女から取り出して喰らおうとする。まあ心臓じゃなくて腎臓だとも言うけど、僕は心臓の方が好きだね。話がストレートで。どうして心臓だと思う?」
「興味がない」
「まぁ、お聞きよ。綺麗な綺麗なお姫様は、心も真っ白で綺麗だった。名前の由来になった、その雪のような白い肌みたいにね。そんな彼女は、継母に妬まれて憎まれてやっと心を知るんだ。無知ゆえに人を傷つけて他人を妬ませた己の心をね。もっともどこまでも可愛いお姫様のことだから、自分が誰かを傷つけているなんて、本当に自覚したかわからないけど。お后は、殺したいと思われるほど憎まれていること、そして死の恐怖を知ったお姫様の心臓を味わいたかったんだよ」

――ねえ、それなら。君の心臓は一体どんな味がするのかな。

『心臓を炙って、そして抉り出す…!』

 プール際の宣言が、シャーロックの脳裏に甦る。確かに男はそう言った。シャーロックが思い出したことに気づいたのか、ジムは眉をぐっと引き上げて目を細める。「Yes…yes」と呟きながら、けれど即座に「No」と言う。

「あぁ、でも。僕はそんなことがしたいわけじゃないんだ。君の心臓の味なんて、本当はどうでもいい。僕はただ、君が落ちるのを見たい。君の心臓が地面に叩きつけられて、ぐちゃぐちゃになってしまうのが見たいんだ。落ちたそれを僕の足で踏みにじりたいだけだ」
――そう。まるで。

 ゆっくりと区切るように男は告げた。


「ハンプティ・ダンプティみたいにね」


 一瞬の静寂が、屋上を支配する。

「ハンプティ・ダンプティ…」

 やがて、茫然と呟いたシャーロックを、ジムは目を細めて見た。どこか優しさすら窺える眼差しだった。

「愚かで哀れなハンプティ・ダンプティ。――Humpty Dumpty sat on a wall(ハンプティ・ダンプティは壁の上に座ってた。)知ってる? 『マザー・グース』だよ。ママに読んでもらったことないの? ちなみに僕はないけど」

 知らないなら教えてあげるねとジムはにっこりした。

「彼はいつだって壁の上だった。ハンプティ・ダンプティ。上から街を見下ろして笑っていたんだよ。みんななんて馬鹿なんだろうって。やってくる兵隊さんに、ナゾナゾをふっかけては遊んでた。かしこいかしこいハンプティ・ダンプティ。完璧な美しい楕円を描く彼の欠点は、己を知らなさすぎたことだった」

 実に滑稽だ! と喜劇役者を思わせる大仰な動きで、ジムは両手を広げる。

「彼は自分が卵だってことを知らなかった。白くて綺麗な自分の身体が、実はとっても脆くて壊れやすいんだってこと。その中に入っているものが、とても柔らかくて心許ないものなんだってこと。何にも知らずに高い壁に上って、自分の姿をひけらかして、褒めてくれる人を待っていたんだよ。ずうっとね」

 ほら、誰かさんみたいだろう?と告げてげたげたと笑う。

「ところで、結末はご存じ?」
「フォール。…そしてブロークン」

 尋ねられたのに、静かに返すと、「その通り。大変よく出来ました」とジムは拍手した。

「やっぱり知ってるんじゃないか。そして落ちるのは、…君だ」
「誰も手の届かないところにいるというのなら、それはお前も同じ事だ。落ちるのが僕だとは限らない」
「そうかもしれない。でも残念。僕はとっくに落ちている。だから次は君の番なんだよ」

 頑是無い子供に言い聞かせるように、ジムはゆっくりと囁く。

「友達も救ってはくれないよ。ジョンにだって君を救えない。――壁から落ちたハンプティ・ダンプティ。残るのは粉々に砕けた殻と、ぐしゃぐしゃになった黄味と白身。土にまみれて無惨な姿。……最高のフィナーレだ!」

 手を叩いてジムは歓声を上げる。

「僕のシナリオの何が違う? 何がおかしい? 完璧だろう!」

 壊れたスピーカーのような笑い声が屋上に響く。それは確かに意味をもつはずなのに、酷いノイズ混じりの音がシャーロックから理解を奪っていく。統一性のないでたらめな音の洪水が耳をつんざく。

「僕は君の全てを奪ってやる。そうして君の全てを落としてやる」

 耳から流れ込んでくる毒が、全身を犯していく。
 ぎりぎりと突き刺すような痛みを感じるが、一体それがどこからやってくるものなのかを、それでもシャーロックは分からずにいた。いや、わかっていながら理解することを拒んだ。

「一体何が、お前をそうさせる。僕の一体何が、お前をそこまで駆り立てるんだ」

 半ば茫然と呟かれた問いに、男はふっと目を細めた。

「…カール・パワーズ」

 一拍を置いてジムは告げる。まるで何かの宣言のように重々しい声だった。それを受けてシャーロックもまた静かに答えた。

「…僕の始まり。出発点」
「そして、僕の始まりでもある。小さなカール。むかつくカール。命のなんてちっぽけなことだ。僕はそれを証明してやった…!」
「あの事件においてお前は痕跡を一切残さなかった。証拠の靴を持ち去ることで、犯罪をただの事件に作り替えた。だが、物が消える。それは不自然なことだ。あれは証拠の隠滅じゃない。見る者が見ればわかった。それだけのささやかなヒントをお前は故意に残したんだ」
「そして、君は気づいた」

 はしゃぐような声をジムは上げる。嬉しくてたまらないというような、そんな声だった。

「ぞくぞくしたよ。鳥肌がたった。僕の残したトリックの一端を指摘した人間がいたんだってこと。しかもそれが、大人に相手にもされないような子供だったって」
「恐らく僕以外にも気づいたものはいた。指摘しなかっただけだ」
「そう、指摘しなかった。でも、君は指摘した。そして、この一見して何でもない事件を自身の始まりだと認識するほどに記憶に刻んだ。だから覚えていた。この違いは大きい。今や君は世間が認める『名探偵』だ」

――名探偵と名犯罪者の共通点は、全ての要素を見落とさないことだよ。そう思わない?

「ずっと君を知っていたってさっきも言っただろ。僕はずっと待ってたんだ。ここで。誰よりも高い高い場所で。同じ高さで会話するのを。きっと、僕の気持ちをわかってくれると思ったよ。この退屈で無意味な世界に刺激を与えてくれる。君に会うときはどうしようって、考えるだけでわくわくした。とびっきりの謎を用意して、上等な衣装を揃えて。お土産には何がいいかな。そうだ爆弾なんてどうだろう」
「それでゲイのふりまでしたって?」
「あれ、傑作だっただろ!」

 ひときわ大きく口を開けて笑ったものの、すぐに顔つきを改め、ジムはうっとりと目を細めた。

「見たいなぁ。君の心が木っ端微塵になるとこ。プライドの高い君の心を、ぐちゃぐちゃにしてふみ蹴散らして。あの女も、いいところまで行けると思ったんだけどなぁ。手を伸ばして触れて、爪でひっかき傷をつけて、それで満足するなんて馬鹿な女だ」

――せっかく、壊すためのヒントを上げたのにね。

「君の心臓は、徹底的に壊す価値があるよ、シャーロック。見つけて、でも中に入れてもらえないならさ。せめて壊す権利くらい僕におくれよ、シャーロック」
「誰が君に…!」

 心臓をひやりと撫でられた心地に、シャーロックは思わず背筋を震わせた。これが、彼らは心だという。シャーロックの胸の奥に存在するものだという。

「それならお前には心があるっていうのか。僕を踏みにじることで、満足するという心が」

 その問いに、ジムは目を見開いた。そして笑みを浮かべる。

「…あるよ、もちろん。そうでなきゃ、こんなに君のことが気になるもんか…!」

 その声が、まるで悲鳴のように聞こえたのは気のせいだっただろうか、

「…まあいい。結末は決まってる。フリークスで知られる有名人。偏屈で人嫌いで、事件のためなら何だってする男。誰も知らなかった。君も分かってなかった。その君の心が君を殺す。全く愉快な物語だ」
――覚えておけ。シャーロック。君を殺すのは、君なんだ。

 ゆらゆらと、どこか爬虫類を思わせる動きで頭を左右に揺らしながら、ジムは歌うように語る。

「どうやってそれを実現させるか。それはこうご期待。いや、君のことだから僕の打つ手なんて予想してるかなぁ。でも、無理無理。僕を止めることができるのは、この僕ただ一人だけ。僕は、君を落とすためならどんな手段も厭わない。君の友達にもご登場願う予定だ」

 その宣言に、反射的に身体が動いた。脳がじんと痺れ、胸の奥が震えるのを感じると同時に、シャーロックはジムとの距離を詰めていた。

「ジョンに手は出させない…!ほかの誰にもだ!」

 襟元を掴み上げ、吐き捨てるように台詞を叩きつける。シャーロックの剣幕を意に介すことなく、男は陶然としてシャーロックを見返した。

「あぁ、そう…そうでなきゃ。実にいい反応だ。ちゃんと君の心は機能している。おめでとう。でも少し寂しくもあるね。君が怒鳴るだなんて。こんなありきたりなことで感情を揺さぶられるなんて」
――あぁ、そんなに大切なんだね。知ってたけど。
「ねえ、胸の奥が熱いだろう。それとも苦しい? それが心なんだってわかる? 教えたのも見つけたのも僕が先だ。先だったのに!!」

 語る声の調子が乱れ始める。上がったかと思えば下がり、下がったかと思えば上がる。訴えるような響きの次には、地を這うような声がシャーロックの耳を刺激する。目まぐるしい。ジャンルの全く異なる音楽をランダムに再生されているようだった。

「ずるいよ、シャーロック。僕にだって見せてくれていいはずだ。僕は君の唯一の理解者だ。君の兄は君を理解できるだろうけれど、同じ線には並び立てない。折角の頭脳を、国なんてものに捧げちゃって自ら縛られることを望んでしまったアイスマンだ。じゃあ、君のペット? 残念だけど、ペットにはご主人の傍には居られても理解者にはなれない。今はそれでもいいかもしれない。でも絶対に物足りなくなるよ。無理なんだ」
「…ジョンはペットじゃない」
「ペットだよ。所詮ペットだ!!」

 シャーロックが静かに告げた一言に、ジムは歯を剥き出して怒鳴った。

「彼は何もできない。ペットはペットなんだよ」
「そんなことはない。ジョンは…お前が見えないものを僕と見ることができる」
「そんなの錯覚だ。幻想だよ。ここに、この高さに。僕らがいるこの場所に、彼は永遠に上がってこられない」

 そう断言するジムを、シャーロックはどこか憐れむような気持ちを抱いて見つめた。
 確かに、彼は自分と同じものなのかもしれなかった。傍にいるものを単なる付属品、道具としてしか認識できない男。信じられるのは己の頭脳のみ。自らの才能を立証することで、やっとこの世界に留まっていられる。全てを投げ出さずに済んでいる。それは孤独の深さを証明してもいた。

「お前は哀れな男だな」
「あははは! 君に哀れまれるなんてねぇ! 思ってもみなかったよ」
「お前にはわからない。ジム・モリアーティ。高さが違ったとしても、共にいることはできる。それをお前が永遠に理解することはない。絶対に」
「理解なんてもういい。僕は決めたんだ。君を落とすって。僕には見える。君がまっさかさまに落ちる姿がね。…分かるよ。君の白い肌に血の赤はきっとよく似合う。血まみれの君の頭蓋骨はさぞ綺麗だろうね。君が白雪姫だとは言わないけれど」

 掴まれた胸元からシャーロックの手を払いのけ、乱れた服を直しながらジムはシャーロックを見返す。

「もし実際に目にすることができなくても、その想像だけで僕は満足だ。僕の思い描いたことは、全て現実になる。失敗なんてしない」

 はっきりとした声だった。

「もうすぐ全てが始まるよ。それはつまり、終わりを意味する。始まったものは終わらせないと。ほら、僕ら、結末をつけないと我慢ならない性分だろ?」

 選択不可のゲームが、間もなく本格的に動き始めるのを実感し、シャーロックもまた頷く。

「その通りだ。終わらせなければ」

 シャーロック・ホームズか、ジム・モリアーティか。最後立つのはただ一人きりだ。両者が永遠に並び立つことはない。

「フィナーレはもうすぐそこだ。交響曲はコーダが最高じゃないといけない。つまらないメロディはごめんだよ。全ては完璧に美しくあるべきなんだ。僕をがっかりさせないで欲しいな」

――どうか、最高のフィナーレを、シャーロック。

「またね、シャーロック。たまには君から呼んでよ。僕はいつだって待ってるんだ。君が僕を呼ぶのを。一緒に遊ぼうよ。プールの時みたいに、また君から僕を呼んでくれ」


――だから、最期の時まで…バイバイ。



2012/08/06
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