WhirlWind

ハンプティ・ダンプティの心臓

2.CHEST [John/Sherlock]


 たったひとつ。思い出す温度がある。


 小さな笑い声が221Bの部屋に響いた。
 首を廻らせて、それをこぼした元凶に目を向けると、ジョンがこちらを見つめる視線にぶつかった。そこでシャーロックは、笑われたのは自分だと悟った。

 それは冬の寒さが厳しいある晩のことだった。
 夕飯を外で済ませ、221Bのいつもの居間で、ジョンとシャーロックは思い思いに寛いでいた。片や一人用ソファに座って。片やカウチに寝転がって。
 火を入れた暖炉からは時折薪の爆ぜる音が聞こえる。合間には、ジョンの相変わらずたどたどしいキーボードを叩く音。それに被さるようにシャーロックが本のページをめくる音が響く。時折かたりと鳴るのは、コーヒーカップが机にぶつかる音だった。

 いつもの何でもない夜の時間だ。久しぶりに行った中華料理の店は、満足の行く料理を提供してくれたし、大きな事件こそ無かったけれど、依頼による幾らかの調べ物と実験は残っていた。シャーロックの暇つぶしになる程度のものだ。つまりほんの少しの宿題以外は何のスリルもない平凡で穏やかなひと時。満たされた胃袋。温かな部屋。手元には同居人が淹れたコーヒー。事件を除けば、人が普通に求めるであろうものは全て満たされていて、シャーロックからすれば非常に不本意なことではあるが、つい安堵を覚えてしまったのも事実だった。だからつい言葉が口を突いて出た。

「――Bored」

 ジョンが噴き出したのは、シャーロックの呟きに対してだ。
 眉を顰めたシャーロックに気づいて、彼はしまったというように口許を片手で覆ったが、笑いを完全には噛み殺すことができなかったのだろう。目尻を細めたまま咳き込んだ。
 暫くあとに落ち着きはしたものの、やはり顔に笑みを残したまま、ジョンはシャーロックに謝った。

「ごめん、悪い意味じゃないんだ。君らしいなと、そう思ったらなんだかおかしくてさ」
「何が僕らしいんだ」
「それだよ、それ。『退屈だ』ってやつ。思うんだけど、君のそれってもう口癖になってるんだろ」

 今はそんなに退屈ってわけでもないくせに、などと分かったようなことを言うので、シャーロックは少しばかり憮然とした。

「でも退屈なんだ」

 半ば意地になって言い返せば、一体何が面白いのかジョンはもう一度笑い声を上げる。それ以上何を言い返す気を削がれたシャーロックは、腹立ちに加えてやや疲労を覚え、読んでいた本をことさらぞんざいに床に放り出すとジョンに背を向けてカウチに丸まった。同居人の咎める声が聞こえたが無視をする。
 ジョンは些細なことで笑う。以前、面白いからと見せられた猫の動画がいい例だ。長くはない、だが短いわけでもない同じ動画を飽きることなく繰り返し見ては、その度に笑っていた。
 何がそれほど笑えるのかシャーロックには分からず、途中から笑い転げているジョンの観察をしていたのだが、ついにはそれも飽きてカウチに寝転がった。9回目までは付き合ったが(これは誉められても言い事実だ)、動画の面白さについては終ぞ理解できないままだった。分かったのは、ジョンが単調な笑いを大変に好む人間であるということと、笑いすぎると声がひっくり返って咳き込み始めるということくらいだ。そんなわけで、シャーロックは未だにジョンの笑いのツボというものが把握できていない。
 ジョンは、本を放り投げたシャーロックに文句をつけたものの、「ほんとに君って…」とまた笑い出したので、シャーロックはとうとう丸まったままの姿勢で肩越しにジョンを振り向き、「しつこいぞ、ジョン」と怒鳴った。

「君はどうして、そうどうでもいいことで笑えるんだ」
「別にどうでもよくないよ。君こそどうしてそうやって決めつけるかな」
「決めつけてない。僕は、君と違って無意味なことはしない。妥当な根拠があって言っているんだ」
「嘘つけ。当てずっぽうのことだってあるくせに。君って、意外に結構何も知らないからなぁ」
「……」

 言葉だけを取り上げれば大変腹立ちを覚える内容だったが、論駁する気になれなかったのは、ジョンの口調が人を小馬鹿にした風でもなく、単純に嬉しそうだったからだった。まるで子供が小さな発見をしたように、小躍りしそうな雰囲気すら浮かべ、ジョンは笑ってシャーロックに告げた。

「でも、それで良かったな」
「ジョン?」
「僕が知ってて君が知らないことがある。それって何か素敵だろ」
「…素敵?」

 想定外の返答に、シャーロックは腹を立てていたのを忘れて唖然とした。
 この男は、時折自分の予想を飛び越えた表現を使うことがある。忌々しいとか不愉快だとか、そういう表現のほうが適切であろうし、一般であればその語彙を選択するであろうところを、面白いだとかすごいだとか、ここにきて素敵だとか言ってみせる。
 ジョンは微笑みを浮かべたまま呟くような声を洩らした。

「僕は、君のためにやれることがある」

 噛みしめるような響きの声だった。つと胸を突かれ、シャーロックは絶句する。

――ジョン、君は。

 丸まっていた身体を起こし、ジョンに向き直ってその顔をまじまじと見つめる。
 彼が、何かを自分のためにやろうとしている。何かしたいと考えている。それは、言葉に出されるととても不思議なことのように思えた。実のところ、シャーロックにはジョンとの同居を決めた明確な理由がない。いくつも挙げることはできるが、確たるものがない。居てくれるだけでいいのだと、いっそそう言いたかったけれど、どうもそんな言葉は出てこなかった。というよりも、言えなかった。
 彼はその場に存在するだけの自分を許容しないようであったし、シャーロック自身、ジョンに求めているものが、単に傍に居てくれるだけであるのかはよく分からなかった。
 際限なく求めればきりがないように思えたし、何もいらないと思えばそれも正しい気がした。

 はっきりしているのは一つだけだ。シャーロックはジョンが好きだった。好きか嫌いかで言えば間違いなく前者というくらいの認識だったけれど。当初考えていた関係よりも、それはずっとずっと色と深みを増していた。スカルかジョンかを選べと言われたら、スカルに申し訳ないとは思うがきっとジョンを選ぶだろう。
自分がジョンに抱くものが、一体どういう感情に分類されるのかわからず、分類しようとも全く思わなかったが、傍にいなくてはならないし失うことなどありえないと思うほどには、ジョンは掛け替えのない存在だった。
シャーロックは自覚こそしていなかったが、それは傍から見れば、愚直なほどに一途で、恋に焦がれる少女を思わせるほどには、懸命でいじらしいものであったかもしれない。
 無言でジョンを見つめたままでいるシャーロックに、ジョンは口元に微笑みの名残を残したまま言った。

「まあ、そのつまり、なんていうか…君が君で良かったってこと。それだけ。オーケー?」
「ジョン。…君は僕に何を求めているんだ」

「君らしい」とジョンが口にした内容に、シャーロックは苛立ちはじめていた。

「…生憎だが、僕は君にしてやれることは何もない」
「シャーロック?」

 強ばった声で呟いたのに、ジョンが驚いたように名前を呼ぶ。

「あのな…別に、僕だって君に何かして欲しいなんて思っちゃいないよ。どうか君はそのままで。シャーロック。君が君であれたら僕はそれでいいんだ」

 ジョンの返答に、頭がすっと冷えていく。彼がどこまでも穏やかにそんなことを言うのに、シャーロックは逆に焦りと不安を感じ始めていた。

「どうして、そんなことが言える。君に言われるまでもなく、僕は僕だし、それ以外なりようがない。大体君にとっての僕って何だ。僕を君の型にはめようとしないでくれ」
「シャーロック。待て。僕が言いたいのはそういうことじゃ…」
「ならどういうことだ。君が僕に理想だとか期待だとかそんなものをかけているんだとしたら、僕はそれには応えられないし応える気もない!」

 嫌な言い方をあえて選び、ジョンをなじる。自分でも最低だと分かっていたが止められなかった。
 ジョンがシャーロックに向ける、その寛容さが偽善的なものであってほしくなかった。

 幼い頃、カウンセリングを、何度か受けたことがある。正しく言えば受けさせられた。嫌がるシャーロックを促したのは兄だ。彼は周りのためにそうしてやれと笑った。「医者」の「診断」に人は安心するのだと。保証が欲しいのだと。適当なことを言えば彼らは満足するのだと言った。恐ろしく器用な兄と異なり、結局シャーロックが、周囲の望むような結果を見せることはなかった。彼らは端からシャーロックを欠陥のある可哀想な子供と見なした。手を差しのべて、自分達の考える子供の型に当てはめられないと知ると、手に負えないと投げ捨てた。

 人は、許すことで受け入れることで、己の寛容さを示したいだけだ。誰かのためじゃない。差し出される優しさは、いつだってシャーロックのためじゃなかった。シャーロックだけのものにはならなかった。
 母には愛されていたと思う。そう、彼女は息子たちを愛していた。ただ一点、理解することだけは出来なかった。母はあくでも世間一般の普通の女性だった。だからこそ、社会に適合できないシャーロックを案じ己のせいではないかと自身を責めもした。母を悲しませたくはなかったけれど、どうしたらいいのか幼いシャーロックにはわからなかった。自分の何が、周りを当惑させるのか理解できなかった。
 そして今も、分からずにいる。時折胸の奥がちくりと痛むことがあったけれど、それは昔感じていたものに比べれば遥かに鈍いものであったし、退屈極まりない生きる上で当たり前のように付随するものだと、いつしかそう考えるようになっていた。

 シャーロックが押しこめ、あるいは切り離しているものを、時折拾い上げ、暴き、そして繋ぎ止めるのがジョンだった。他の誰かであれば、とうに拒絶していたその行為を結果として許してしまったのは、ジョンが何が何でもシャーロックの傍に在り続けたからだ。他の人が呆れて去っていくところを、ジョンだけはその場に留まってシャーロックを見た。それなのに。
 ジョンの些細な一言が、どうでもいい記憶を引きずり出した。とっくに消去していたと思っていたはずの残骸、シャーロックからすればガラクタでしかないものが、精神を逆なでする。
 何もかも口に出してしまった後で口を噤み、ジョンから視線を逸らす。分かっている。ジョンは、特に含むところがあって言ったわけではないだろう。これは完全な八つ当たりだ。だが、今更言ったことを撤回はできない。あとはどうにでもなれとばかりに再びカウチに丸まってジョンに背を向ける。

 しばしの沈黙の後、落ちてきたのは侮蔑でも腹立ち紛れの声ではなく、彼が部屋を去る音でもなかった。

「…君の考えがどこまでふっとんだか、僕の脳みそでも分かったぞ。全く君の頭は優秀だな、シャーロック」

 思ったより近くから降り注いだ声は、多分に呆れを含んだものだった。驚いてカウチに丸まっていた身体を反転させると、ジョンがすぐ近くに立ってシャーロックを見下ろしていた。一瞬何と言えばいいか分からず、シャーロックは少し考えた後ぽつりと呟いた。

「ジョン、とても誉められている気がしないんだが」

 その台詞にジョンの眦がつり上がるのが分かった。柔らかい声が語気を荒げてシャーロックに飛んでくる。

「誉めてないからだよ!この頭でっかち。鈍感。君って自分のことを知らなさすぎる」
「そんなことはない。僕は僕のことを誰よりも理解してる」
「嘘だね」

 はっきりと断言されて腹が立ったが、それでも言い返す気にはなれなかった。口調の割りに、こちらを見るジョンの眼差しがこちらを気遣う優しいものだったからだ。どうしてそんな目で見られるのかシャーロックにはちっともわからなかった。
 平凡で、己の欲望に対して極めて従順な傾向があるジョンは、だがシャーロックの理解を超えた何かを持っている。今現在、おそらく最も近しいところで呼吸をしているこの男が、時折得体のしれないものに感じられるのはこんな時だ。

(君は何なんだ。僕を、どうしたいんだ)

――あなたはあなたのままでいいわ。好きになさいな。

 かつて言われた台詞は、寛大なようでいて、彼らの世界からの断絶と拒絶を示していた。
 だが、ジョンが語るそれは、同じ言葉でありながら意味が異なっているように思えた。だが、その違いがシャーロックには分からない。ジョンの意図が読み取れない。
 ぼんやりとジョンを見返していると、ジョンがひらひらと手を振った。カウチの端に寄れと言っているのが分かって、渋々身体を起こす。のろのろと身体をずらすと、出来たスペースにジョンが腰を下ろす。カウチが軋むと同時に揺れ、その振動がシャーロックの体にも伝わった。背中を凭れさせ、一拍ほど置いてから、ジョンは静かに口を開いた。

「君は僕の言葉の意味を考えてるんだろうけど、裏なんかない。僕が言ったのは言葉のままの意味だよ、シャーロック。最初に言っただろ。僕は、君が何だって構わない。今も同じだ。君が天才だろうが変人だろうが奇人だろうが、社会不適合者だろうが。…ゲイでもなんでも」
「僕はゲイじゃない」
「…それは知ってる。言葉のあやだよ、いちいち反応するな!」

――確かに。彼はそんなことを言っていた。まだ表面上の情報以外、互いのことをほとんど知らぬ時に口に出されたさりげない一言。あの時、確かにシャーロックは安堵を覚えたのだ。シャーロックに対してそこまで言った人間はいなかった。ただの一人も。
 ジョンから目線を逸らし、シャーロックはぽつりと尋ねる。

「僕が嫌なやつでも?」
「その通り、君は基本的に嫌なやつだ。でも…ときどきすごくいいやつだ」

 だから、僕は好きだなと、ジョンは笑った。

「おいしい料理が食べられる店を知っているし、気が向けばバイオリンだって弾いてくれる」
「何だそれは。そんなものは別に僕じゃなくてもいいだろう。大したことじゃない」
「大したことだ。少なくとも僕にとっては」

 ひどく真摯な眼差しで正面からシャーロックを覗き込み、ジョンは静かにそう言い切った。
 その表情に、胸が締め付けられるような気がした。ジョンから与えられる無限の肯定と許容に戸惑う。

「なら、…僕が犯罪者だったらどうするんだ」

 誰もが言う。シャーロック・ホームズはおかしいと。いつか必ず犯罪を犯す側に回ると。彼らの述べることは間違っていない。少なくともそう思われても仕方ないほどには、犯罪を好み、平和な日常に飽いている。

「僕が日常に飽いて、耐えきれなくなって、自分で誰かを手に掛けたりしたら君はどうする」
 
 やはり目を合わせることなくそう尋ねると、ジョンははっと声を上げて笑った。

「そんなの決まってる」

 右手の親指と人差し指で見慣れた形を作り、まっすぐ腕を伸ばして指の切っ先をシャーロックに突きつける。にやりと口端を吊り上げてジョンは言った。

「僕がこの手で撃ち殺してやる」
「…物騒だ」
「君を犯罪者にしておく方が物騒だろ。…でも、君はそうはならない」

 ごく当たり前のことのように告げられて、シャーロックの内面が波打つ。

「どうしてそんなことを言い切れるんだ。希望的観測だというなら」
「シャーロック」

 苛々と反論しようとしたシャーロックを遮り、ジョンはどこまでも静かに答えた。


「――君に『こころ』があるからだ」


 シャーロックは絶句した。こころ。こころだと。そんな曖昧なもので。そんな、捉え所のない何の保証もないもので、断言するというのか。
 シャーロックが犯罪を起こさないのは、そんな人道的理由からではない。犯罪を犯すデメリットの方が遙かに高いからだ。完全犯罪を作り上げる芸術はスリルがあるだろうが、シャーロックは自らの手で、地獄を生み出したいわけではない。

「…人の心は当てにならない。いつ翻るか分からない。そんな不確定な要素で僕の行動や理念を決めることはできない」

 だが、どんなにシャーロックが論駁しようとしても、ジョンの態度は揺らがなかった。

「決めてない。僕がそう思ってるだけだ。信じてるっていうか。まあ、これも決めつけだって君は嫌がるのかもしれないけど」

 小さく笑って付け加えるのに、溜め息が洩れる。

「…君は変わってる。僕は、それこそ君が言うように嫌なヤツだし、それを人にどう思われようと気にしない。気にならない。冷血漢のひどい人間だ。仮に心が…感情があったとして、それが正しく作用するなんてどうして思える。もし、君が死んでしまったとしても、僕は君のために泣けるか分からない」
「シャーロック」
「君の骸を、僕は平然と解剖して分解できる。部品だけになった君を悼むことはしないだろう…きっと。鼓動を止めた君の心臓に、僕は躊躇うことなく触れられる」
「…シャーロック。そんな顔して言うことじゃない」

 そんな顔とはどういうことだろう。呆れたような口調のジョンが、どこか痛むように己を見るのが苦しくて、シャーロックは眉根を寄せる。

「そんなに知識があるのに、自分のことはわからないのか、シャーロック」
「ジョン?」
「――僕は。僕は…君といると時々心臓が痛くなる。苦しくて仕方がなくなる」

 友達ってこんなに苦しいものだったっけな、とジョンがひどく優しい顔で笑うのを、どうしたらいいのかわからなくて、シャーロックはただ困惑した。ぼんやりと聞き取った単語を反芻する。

「心臓」
「そう。心臓。今言ったじゃないか。誰でも人間が持つもの。君を犯罪者にしないもの」

 ジョンは、言い聞かせるようにはっきりと告げた。


「君の、心だ。シャーロック」


「…心臓と、心は違う」

 振り絞るように吐き出した反論の声は、シャーロックの意志に反して掠れていた。

「シャーロック。わかってるだろ。僕は理屈のことを言ってるんじゃない。そんなことは僕だって知ってる。医者だぞ? どれだけ生の心臓を実際に目にしてきたと思ってるんだ。僕が言いたいのは…」
「心なんか。僕はそんなものを必要としない。感情にひきずられるなんて御免だ。わずらわしいとすら思ってる。僕は感情と縁を切ってきた。これまでもこれからもそうだ。君だってわかっているはずだ、ジョン!」
「…シャーロック」

 声を荒げたのを、もう一度宥めるように名前を呼ばれて、とうとう口を閉じる。

「わかってる。君が言いたいことは嫌ってくらいわかるよ。それでも言わせてくれ。僕は、君のことを考えると時々心臓が痛くなる。だから、…同じなんだ」
「ジョン」

 ジョンは少し考えるようにしてから、シャーロックを覗き込むように顔を近づける。その手が躊躇うように暫し彷徨ったあと、そっとシャーロックの胸の上に置かれた。それは過たず心臓の真上を押さえていて、静かに息を呑む。ジョンの仕草は、シャーロックの言葉を封じるだけの力があった。
 真摯な眼差しでシャーロックを見つめ、かみ砕くような口調で告げる。

「ここが、痛むんだよ。シャーロック」
「…馬鹿げてる」

 吐き出すような声に、ジョンは笑ったようだった。それでも手をどけることはしない。

「そうかもな。けどシャーロック。この小さな鼓動一つが頭をいっぱいにして、全身すら支配してしまうんだ。命すら、思いのままにできるんだ」

 ジョンの顔はどこか泣き出しそうにも見えた。

「なぁ、シャーロック。僕は君には愛がわからないって思っていたけど。もしかしたら君にもそれを言ってしまったかもしれないけど。…ごめん、多分本当は僕にもわからない。ひどい勘違いをしていたんだ」
「ジョン…?」

 わからない。ジョンの言うことが分からない。ただ胸の上の手のひらが重たい。染みこむように重くて、そのまま皮も肉もすり抜けて、直に心臓を包まれているような錯覚さえ覚える。

「僕は…君が…君の心が傷つかなければいいと思ってる。それと同じくらい傷つくことを願っている。傷つくことを知ってほしい。君が切り捨てるものを、本当は全て心の中に留めていてほしい。君はもっと傷ついて知るべきだと思ってる。人を、心を、愛を。あぁ、馬鹿なことを言ってるな…僕は。君はどうか君のままで。例え何が起ころうと、きっと君はシャーロック・ホームズでいられる」

 ジョンが語るたび、声が手を伝って心臓に流れ込んでくる。血液を送り出す器官であるはずのそこが、何か別のもので満たされているように感じて、シャーロックは小さく喘ぐ。そんなシャーロックを、ジョンはただただ真っ直ぐ見据えて笑った。

「君は愛されてるよ、ちゃんと。そして本当はわかってもいる。ぼくはそれが嬉しくて、少し寂しい。君が自分で気づくといいんだけど。愛を知らないシャーロック」


 ――君の《心》に届くといいんだけど。


 ジョンの手のひらから伝うあたたかさに目眩がした。とくとくと、心臓の動きに合わせて血液が循環する音を聴く。いのちの音。こころの音。人が生きている証。

 確かなその鼓動に、あの日二人揃っていつまでも耳を傾けていた。



2012/08/06
BACK← →NEXT
▲top