WhirlWind

ハンプティ・ダンプティの心臓

1.WALL [Moriarty/Sherlock]


 きっと必然だったのだ。
 全てのゴールは思っていたよりもずっと最初から決まっていた。ただ、どうしても認めたくなかっただけなのだ。認めていれば、少しは違った着地点があったのかどうか。それは今も分からない。



 シャーロックがラボを抜け出し、バーツの屋上に出た先に、男が一人、端に腰掛けていた。音楽を聴いているのか、イヤホンをつけた頭をゆらゆらと揺らしている。短く刈った黒い髪。それほど上背があるわけではなく、特に体格に恵まれているわけでもない。街中にいくらでも転がっている風貌だった。
 シャーロックはその姿を一瞬凝視しただけで、躊躇することなく静かに男の名を呼んだ。

「…ジム・モリアーティ」

 男がシャーロックを振り返る。真っ黒な丸い瞳がコートを羽織った長身を認めて口端を吊り上げた。

「やぁ、シャーロック」

 まるで、懐かしい友人に出会ったかのような、明るく高い声。思わず頬を引きつらせたが、あっさりと見抜かれ、男はチェシャ猫のように目を細めた。
 ジム・モリアーティは、今はまるで市井の青年のようなラフな姿でそこにいた。いや、どこにでもいる若者そのものだ。プールで初めて会ったとき、ほんの一ヶ月前221Bをスーツで訪れた時とは全く異なる。音楽好きのロンドンの青年。中流階級の出で、毎晩ライブやパーティに出かける。完璧だった。正確な年齢や素性は、その出で立ちから一切伺うことはできない。IT関連のジムという名でバーツに出入りしていたというが、その彼を知っていたとしても、今のジムと結び付けて考えようとは思わないだろう。
 まして、このどこにでもいそうな目立たない男が、声と指先一つで、手を汚すことなく人を殺せる犯罪のプロフェッショナルであるなどと。

 表情筋、涙腺、汗腺、その全ての機能を知りつくし、自在に操る。その術を知るのはシャーロックも同じであったが、ジムの変装が己を遥かに上回るものであることをシャーロックは認めざるを得なかった。シャーロックの変装と演技が、シャーロック自身の個の上に塗り重ねられた、いわば仮面であるのに対し、ジムは己の凡そ個と呼べるものを完全に塗りつぶすことによって擬態する。
 彼は、必要であれば、自身の存在すら躊躇うことなく抹殺できる。モリアーティという存在自体、彼の作り出す大きな虚構なのかもしれなかった。

「一か月少しぶりっていうところかな。さびしかった?シャーロック」

 楽しげにかけられた台詞に、シャーロックは温度のない声で答えた。

「コンサルタント犯罪者というのは余程暇な仕事らしい」

 切り捨てるかのようなシャーロックの反応に、ジムは肩を竦めただけだった。

「それ、嫌味だとしたらつまらないな。いい組織っていうのはヘッドがその場にいなくても回るもんだ。つまり僕は今も目下お仕事中」
「確かによく出来た組織だな。今ここでお前が死んでも、その仕事とやらは完遂されるんだろう」
「そういうこと」

 にこりとジムは微笑んだ。

「何故僕がここにいるか不思議?」
「いや、まったく」

 ジム・モリアーティは、自身がそう望むなら、願った通りの場所に現れることができる。街中でも、プールの傍でも、牢屋でも法廷でも…ベイカー街221Bのフラットでも。推理するまでもないことだった。

「それは嬉しいな。というか、ようやっと気づいてくれたわけだ」
――僕はずっと君の傍にいたんだから。君が今まで気づかなかっただけで。

 そう薄らと笑みを浮かべ、ジムは再び目線をロンドンの街中へと戻した。

「ここいいね。高くって」

 屋上の端に座り、相変わらず音楽に合わせて身体を揺すりながら、ジムはどこまでも楽しそうに周囲を眺めている。

「僕、大好き。こういう場所」

 そう言いながら立ち上がり、端ぎりぎりの場所で両手を広げ、くるりと回る。吹き上げる風が、男の短い髪を小さく揺らした。
 バーツの屋上は地上から高さ二〇メートルばかり。そのまま真っ逆さまに落ちてしまえと腹の内で罵ったシャーロックの声が届いたか届かなかったのか。ジムはおっとっと、とわざとらしく言いながら端から下を覗き込み、一つ口笛を吹くとシャーロックを振り返って笑った。

「いい高さだ。ぞくぞくするね」
「ふざけるな。ここにいるということは、僕に用があるんだろ。さっさと終わらせて消えろ」
「用がないと会えないって? つれないなぁ」
「僕はいつだってお前に用がある。このまま捕まえて警察に突き出す。それで終わりだ」
「できないよ。君にはできない。わかっただろ? 僕が捕まるのは、僕がそれを望んだ時。捕まえたって意味がないんだ。だって僕は悪くないんだから。何にもね」
「ジム・モリアーティ…」
「それに一度捕まえさせてあげただろ?実際に逮捕したのは君じゃなかったけど。でも君は僕を捕まえるといったから、その機会を決定的にするためのチャンスを君にあげた。僕を有罪にするための。まあ、当然うまくは行かなかったけど」

 嘲笑うような声に、シャーロックは歯をぎりと軋ませる。
 歯噛みするシャーロックを満足そうに認めて、ジムは口角を吊り上げた。

「本当は、準備が終わるまで会うつもりはなかったんだよ。でもさ、ほら。僕って気まぐれだろ? ちょっと君に会っておきたくなったんだ」

そして尋ねる。

「さて。今どんな気分だい、シャーロック」
「何だって」
「もう分かってるよねぇ。ゲームはとっくに始まってる。君の思惑は尽く外れて、全部が僕に都合のいいように動きつつある。今の静寂は嵐の前触れ。頭がいいからこそ分かるはずだ。この先起こりうる事態もまた、君の力ではどうにもならないってことがね」

――僕の仕掛けるゲームに君は挑む。残念ながらエンデングは一つきりだ。

「ねぇシャーロック。辛いかい?少しは胸が痛む?」
「僕の胸が?何故そんな話を持ち出す」

 重ねて問いかけられた、唐突としか思えぬ内容に対して、訝しげに眉を寄せたシャーロックに、ジムはどこか柔らかな笑みを浮かべてみせた。

「そう、胸だ。君の胸の中にしまってあるものさ。僕は言っただろう、君に。抉り出す心臓があるって」

――あるよ、みんな気づかないだけだ。

 初めて、ジム・モリアーティとしてプール際に現れた時、シャーロックに告げた台詞。

「それを、ちゃんと教えてあげようと思ったんだけど」

――みんなに。そして、君自身に。

「君ってやっぱり自分のこととなると鈍感だね。鈍いふりしてるの? それともなかったことにしてるのかな。君はジョンを手に入れて、変化したつもりかもしれないけど、根本的な部分は変わってない。分かっているつもりで何もわかってないんだ。あぁ、ジョンは知っていたのかな。だとしたら、それってホントにむかつくよねぇ」

 ぶつぶつと呟きながら、ジムは踊るような足取りでステップを踏み、屋上をくるくると歩き回る。
 その姿をじっと立って見つめながら、シャーロックは忌々しさを隠そうともせず、吐き捨てるように言った。

「お前との対決と、僕の胸の痛みがどうだとかいうそんな話にどんな関連がある。僕の感情を問題にしたいのなら止めておいた方がいい。無意味なことだからだ。お前の犯罪を僕は止める。お前が何を仕掛けてこようが、その決意は変わらない。それとも君はこのゲームに私情を挟もうというのか。だとすれば実に下らないと言わざるを得ないな。馬鹿げている」

 シャーロックの台詞に、ジムは、はっと声を上げた。実におかしくてたまらない。そんな声だった。

「何?そんな崇高な思想で君に対してるって、そんな風に思ってた?そうさ、私情だよ」

 それ以外に何があるんだと笑いながら言われ、彼の意図が分からずに、シャーロックは再び眉根を寄せる。その様子を見てまたジムは笑った。黒々とした双眸が、丸から楕円へと形を変える。まるで猫のような目まぐるしい変化だった。

「ひどい顰め面だ、シャーロック。僕、何か変なこといった?この世に起こる事件は全て私情から出るものだ。人の感情を食い物にして僕は事件を作り出し、君はそれを解決する。そうやって上手く回ってる。僕たちはある意味で共生関係にある。渦巻く人の業は僕らの餌だ。そうだろう?」
「確かにお前の言うとおりだ。僕は事件を好む。解決して依頼人を助ける体裁を取ってはいるが、そうして舞い込む事件を僕は楽しんでいるし、そこに含まれる人の情は考慮しないことにしている。ジョンは時折うるさいことを言うが、いちいち感傷に引きずられるようでは事件解決の妨げになる。事件に関わる要素として認識はするけれど、それ以上関わるものじゃない。けれど、お前のやり方は気に入らない。単純な理由だ」
「よく、わかっているじゃないか。でも、今言ったことが君の感情にも関係するって、気づいている?」
「僕の…」
「情の話をしようよ、シャーロック。君の嫌いな理性の制御を越えた次元の話だ」
「そんなもの、僕は聞きたくない。僕には必要がない」
「必要さ!」

 突如として声のトーンを上げ、ジムは叫んだ。

「もう一度言うよ。全ては君への情だ。爆弾ゲームのことを思い出しなよ。あの時だって僕は、君への私情であれだけのことをやってのけた。そして、この先もそうする。君一人のために大勢の人を巻き込んでやる。君はその責任を取るべきなんだ。ねぇ…本当にわからないの? 頭が良すぎるからかなぁ。あぁそうだった。君は単純を嫌うんだった。どんなことも複雑であって欲しい。僕はすごく君を気に入ってる。大好きなんだ。それと同じくらいむかつくんだ。それだけ。だから君にも感情で動いて欲しいんだよ」

 シャーロックは少しばかり混乱しはじめていた。人の情ともっとも無縁に思えるこの男が、何故感情を引き合いに出すのかが理解できなかった。単に退屈なのだと思っていた。自分がそうであるように。謎を求めてフル回転する脳を宥め、鎮めるために依頼を受け、事件を作り上げ、その出来映えに満足する男。それ以上もそれ以下もないのだと勝手に思っていた。
 だが、ジムはそうでないという。それだけではないと。

――なんだ。どういうことだ。こいつは何がしたい。

 ジムを凝視し、その表情や口調から余すところなく情報を読み取ろうとする。けれど、こちらを見据える男の目はシャーロックの向ける目線を弾くことも流すこともせず、ずぶずぶと呑み込んでいくかのようだ。

――この男は、一体なんだ。

 ジム・モリアーティという男を認識しているつもりで、全く読み違えていたのではないかという焦りと怖れがシャーロックの脳をちりつかせる。
 シャーロックが今見ているのは、人間の皮を被った、何かもっと別のものではないのか。この世の中にある暗くて澱んだ全てを袋に詰めて、人間の形にこね直したものがこの男ではないのか。その一端が彼の目から滲み出ている。底のない漆黒。この男が内側に隠し持つ闇が、瞳を窓にして外の世界を覗いている。そんな錯覚を覚える。

「会いたかったんだ、ずっと。出会って、そして触れてみたかった。君の胸の中に。僕と同じような頭脳を持って、人の枠からはみ出して生きる人間に、どんなものがつまっているのか知りたかった。…そして見つけた」

 極端に瞬きの少ない黒目が、正面からシャーロックを捉える。ひたりとあてられたそれはまるで強力な磁石のようで、シャーロックに視線を逸らすことを許さない。

「ねぇ、まるで誰も踏んだことのない新雪みたいだね――君の、心は」
「こころ…?」

 思ってもみなかった単語にシャーロックは虚を突かれ、反芻するように呟く。

「そうだよ。その中にあるもの、ジョンには見せたの?あいつだけはその中心に入れてあげたの? だとしたら、それって本当に妬けるなぁ」

――見つけたのも教えてあげたのも絶対僕が先だったのに。

 ジムは一人、ぶつぶつと呟いている。不快なものが背筋をじわじわと這い上がってくるのを感じ、シャーロックはぞっと震えそうになるのを唇を弾き結ぶことで堪えた。静かに息を吸い、そして吐き出す。

「一体…お前は何の話をしているんだ」
「君の話だよ、シャーロック」

 あざ笑うような声が響く。気づけば、ジムがすぐ間近に立っていた。

「わからない?いや、わかりたくないのかな」

 指先が、伸びる。触れようとするそれを、シャーロックは身を引いてかわそうとしたが、一歩下がった更に先に踏み込まれた。懐に入り込んだジムの手が、シャーロックのコートの下、胸の上にひたりと張り付く。薄い布地の上から、まるで感触を確かめるように撫でられて全身が総毛立ち、シャーロックは思わず声を上げそうになるのを歯を食いしばって堪えた。温度のない温度が、触れられた先からじわじわとシャーロックを侵食していく。
 顔を歪め、相手を射殺すほどの強さで睨みつけるシャーロックを、ジムは間近から見上げていた。虚ろな黒が、二つぽっかりと口をあけてシャーロックを深淵に誘う。まるで底のない色だった。そこに狂気はない。寧ろ澄んですら見えるのに、シャーロックの背筋が泡立った。男の双眸に穿たれた一対の闇が、つと細められる。

「僕はずっと、君の話をしていただろう?
 
                 ……シャーロック」

 がらりと声音が変わる。低く名を呼ばれると共に、胸に置かれた掌がまるで心臓ごと握り込もうとするかのように力を加えるのを感じ、シャーロックは息を呑む。押し殺しきれなかった呻きが歯の間から押し出され、唸りとなって空気を震わせた。
 その反応にわずか目を見開き、ジムはにたりと口端を吊り上げる。

「あぁ、君は本当に……」

 うっとりと呟くと、伸び上がるようにして顔を近づける。触れるほどの耳元で、男はシャーロックに囁いた。かつて己が指先一つで手に掛けた老婆が、死ぬ直前評したそれと同じ、彼女が死を招き寄せる要因となった甘やかで…優しい声。
 まるで歌うように、ジム・モリアーティは告げた。


「―――Virgin(ヴァージン)」



2012/08/06
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