WhirlWind

グレーテルのチョコレートファッジ

Sherlock & John


 手を伸ばして、缶詰めを掴む。
 長期保存が利いて、しかも調理はお手軽。最低限必要な栄養は保証されている。頑丈な容れ物のおかげで、何かしらの異物の混入も防げる、まさにパーフェクトな食品。何よりありがたいことに安価。それが缶詰め。

 無精な男の二人暮らしに決して欠かすことのできないそれを、ジョンは、一つ、そして二つとカートの中に放り込んでいた。缶詰めのラベルにはすべて「ベイクドビーンズ」と書かれている。
 朝食にはほぼ必ず食べるものなので、幾ら買っておいても困りはしない。普段買っているメーカーのものを数個突っ込んでいると、隣でカート番をして立っているフラットメイトから声を掛けられた。

「ジョン」

 一方のジョンは、更に手にした缶詰めを見て思案していた。低い声で名前を呼んでくるシャーロックをそのままに、両手の缶詰めを見比べる。

「あぁっと、何、シャーロック。折角だから他の味も試してみるか? オーガニック製品もあるし、カレー味っていうのもたまにはいいよな。この際だから、パスタソースも買っておきたいし、トマト缶も…」
「ジョン…っ」
「なんだよ、シャーロック」

 やや苛立ちが強い、それにしては幾らかせっぱ詰まったフラットメイトの声に、ジョンはようやっと振り返る。
 僅か上を見上げれば、シャーロックの青白い頬が微かに引きつっているのが目に入った。ブルネットの癖毛の下、薄い眉がいつもよりきつめに寄せられている。
 一体どうかしたのかと首を傾げる。ジョンの反応に、シャーロックは静かに首を振った。

「僕じゃない」
「何が」

 いや、君だろう。シャーロック・ホームズ。世界唯一のコンサルタント探偵。死体と謎と事件に興奮するフリーク。サイコパス改め自称ソシオパス。そして僕のフラットメイト。

 意図が把握できずに、首を傾げたままのジョンにシャーロックは溜め息を吐いた。

「下だ、ジョン」
「何? 下?」

 言われるとおりに下を見る。あれ、とジョンはもう一度首を傾げた。
 シャーロックのコートに何かひっついている。一瞬白い固まりとしか見えなかったが、それが何かを視認して、ジョンは思わず口を開けた。

「ええと…誰?」

 5歳ほどの金髪の少女が、目に涙を一杯に浮かべながら、名探偵のコートに縋り付くようにして立っていた。


***


 広いスーパーは、どうしてこうもわくわくするのだろうか。

 天気が悪くなる前にと、事件や研究以外のことでは引きこもりがちなフラットメイトをランチに引っ張り出すことに成功したジョンは、今は大型スーパーにて買い物中であった。

 中華かスペイン料理はどうかと、ジョンが提案したランチは、イタリアンへとあっさり決定され、以前にも一度来たそこで満足のいく―シャーロックによればパスタのゆで加減が好きだという―パスタランチを腹に納め、更にコーヒー―コーヒーの味は微妙だった―を飲んで一息吐いてから、そのまま近くのスーパーの支店まで歩いてきたのである。

 ハイドパークの近く、オックスフォード通りに面した店舗は、普段使う近場のスーパーよりも格段に広く、近くでは売っていないあれこれをチェックできることに、ジョンは素直に喜んだ。
 もとより本来の目的はこの買い出しにあり、どういう風の吹き回しか、買い物についてくることを了承したシャーロックは、現在手持ちぶさた気味にカート番を任されている。
 どこかふて腐れて見えるのは、ジョンの買い物の仕方が非効率的すぎるだの、どこのメーカーが美味しくないだの好きじゃないだのとうるさく指摘するのを、だまれと一喝されたせいだ。
 互いににらみ合い、あわや一触即発になりかけたのを、ここが人前であることを考慮し、まずは目的を済ませることを…つまりそれこそ効率的なやり方をお互いに選択し、とにかく必要なものを早く買って帰るという結論に達したのであった。

 思いついてみれば、買い出しが必要なものはかなりあった。
 何せ必要品のあれこれが尽きかけている。ソープだとか、洗剤だとか、歯磨き粉やトイレットペーパー。
 整髪料などは、それぞれの好みがあるのでさすがに個々で揃えているが、共有しているものが足りていない。
 気づいたときにこまめに買ってこればいいのだろうが、ジョンもそこまで気が回るわけではないし、常に時間があるわけでもない。同居人には頼れない。彼は必要なものはどこかからわいてくると考えている節がある。ジョンとしては最低限豆とミルクを切らさないようにするのが精々だ。

 ――まとめて買い置きするなら今しかない。

 そんなわけで、ジョンは闘志を燃え上がらせた。
 あちこちを回って片っ端からカートに突っ込むジョンに、シャーロックは最初こそ文句をつけていたが、じゃあ君が他の日に買い物に付いてきてくれるのか、もしくは買い物をしてくれる保証はあるのかと睨み上げれば、むっすりとした顔で口を閉じた。
 出来ない約束をするつもりがないのは潔いとも言えるが、ここは嘘でもたまには買い物に行ってやるという一言が欲しいものである。

 カートには、既にかなりの量の食料や生活用品が積み上がっていた。
 食料とは言っても、ほとんどが保存の利くものばかりで、生鮮類があまりないのが何とも独身男性の生活を感じさせる。調理に使うのはせいぜいがハムやベーコン、卵くらいだ。それと少しばかりの野菜。トマトと玉ねぎ。
 あまり料理をしないというのも無論大きいが、買った生ものを、シャーロックの実験途中だとかいう死肉の隣に置くのがさすがに憚られるという理由もある。例えば鶏レバーの隣に人の腎臓が置いてあるというのはぞっとしない。豚肉の横に、切断したての左手首とか。いつか間違って食べてしまう日が来ないことだけを切に願っている。

 ちなみに、嵩張ってカゴに入りきらなかったトイレットペーパーは、シャーロックが片手に抱えていた。
 せっせと動くジョンの後ろで、長身のシャーロックがほとんど突っ立ったまま荷物番をしているという姿は、二人を知る者が見れば呆気に取られるか吹き出したに違いない。どうせ帰りもキャブなのだから、運べるだけ買って帰ろうというジョンの鋼の意志は、シャーロックの不満や文句を全てねじ伏せて強行された。
 そうしてスーパーをほぼ一周し、最後は缶詰め選びに勤しんでいたところだったのだが、そこでまさかの迷子に出くわしたのだった。


***


「迷子かな」
「迷子だろう」

 どう見ても当たり前のその状況を、それも口に出してお互い確認したのは、実のところそれだけ二人とも動揺していたからである。
 シャーロックが傍にいると、つい見上げる姿勢が多くなるためか、下をわざわざ見下ろすことをすっかり忘れていた。
 まさか気づかぬうちに、荷物が一つ、それも生身の幼児が増えていたとは。ジョンは思わずスーパーの高い天井を仰ぎ、なんてこったと溜め息を吐いた。

 ここの店舗はとにかく広い。食料品ばかりではなく、衣料品や雑貨まで揃っている。どんなに親が注意したところで、迷子の一人や二人は出るだろう。案内カウンターに連れて行くのが一番かもしれない。
 ジョンは屈み込んで少女に目の高さを合わせた。病院にやってくる子供達に対するように、にこりと微笑みかける。

 肩までくるくると伸びた淡い金髪の少女は白いコートを着て首には大きめの青いマフラーを巻いている。コートの裾からは赤いスカートが覗いていて、厚手のタイツを履いた足は、小さなムートンブーツに包まれていた。どこかちぐはぐな印象だが、とても温かそうな格好だ。丸みを帯びた白い頬は、普段ならバラ色に染まっているのだろうが、今は不安と緊張からかやや青ざめていた。  

「君、名前は?」

 出来るだけ柔らかな声音でそう尋ねたものの、少女は答えようとはしなかった。泣き出しそうな顔で口を引き結び、目すら合わせようとはしない。
 それでも、掴んだシャーロックのコートから手を離すことはせず、小さな両手でしっかりと布を握りしめている。ひらひらと揺れる黒いコートを、まるで命綱のように。

 もしかしたら、彼女は自分が一体何に縋り付いているのか分かっていないのかも知れない。少女の身長からすれば、シャーロックの顔は賢明に見上げなければ確認できないものだったし、そもそも彼は子供に好かれる容姿でもない。
必要であれば、「子どもに好かれる近所のお兄さん」を演じてみせそうなところが怖ろしいが、少なくとも普段のシャーロックは、子供どころか大人だって容易くは寄せ付けない。 

「ママと来たのかな。どこではぐれたんだろう?」

重ねて問いかけたが、やはり返事はない。大きな緑色の目が潤んだと思うまもなく、みるみるうちに涙が溢れ出し、少女はとうとうシャーロックのコートに顔を埋めてしまった。
 引っ張ったそれに涙で濡れた目元を擦りつけるようにしている。やがてずずずっと音がして、どうやら鼻をかんだらしいことが分かった。

「………」

 OH…とジョンは思った。
 シャーロックは何とも言えない顔で鼻に皺を寄せたものの、少女を払いのけることも叱りつけることもしなかった。憮然とする顔が、それこそ子供のようで、ジョンはまるで大小のサイズの違う子供が二人並んでいるような錯覚すら覚える。年齢的に言えば親子に見えても良さそうだというのに、全くそうは映らない。

「ジョン…何が面白いんだ」
「いや、面白いとかそんな。…いや、面白い。ごめん」

 あっさりと思考を看破され、ジョンはすぐに認めて謝った。ますます顔を顰めるシャーロックにそれこそ吹き出しそうになったが、必死に口元を拳で押さえる。しかし、肩が震えるのまでは堪えられそうになかった。
子供にしがみつかれているシャーロックというのは、かなり珍しい光景で、柄にもなく思わず写真を撮りたいと考えたジョンである。こんな状況でもなければ、本当に実行していたかもしれない。

「それで…ええと、どうしたらいいんだ」

 名前を聞いてもわからない。家を言えるかも分からない。迷子札がないかと見回してみたが、それもどうも見あたらない。そもそも口を引き結んだまま、会話しようともしないのだ。八方塞がりだ。
分かったのは、彼女が右手にグミの袋を持っており、そのお菓子ごとシャーロックのコートを掴んでいるということくらいだった。

 食品の棚が聳える森の中で、お菓子を手にしたまま立ちつくす、まるでヘンゼルのいないグレーテル。掴むコートは、道しるべに落としてきたパンの代わりか。

「そんなに君のコートが気に入ったのかな」
「意味がわからん」
「とにかく、親御さんを見つけないとな…」

 どうしたものかと思案すると、シャーロックが静かに口を開いた。

「この子が、自力でそこまで広い範囲を歩いて回るとは思えない。食料品コーナーから外は出ていないだろう。右手にお菓子を握っているが、恐らくそれは未会計のものだ。お菓子売り場でよそ見をしていたところを置いて行かれたというところだろう。つまり、身内とはぐれたのはその付近だ」
「じゃあ、一番確実なのは、そのお菓子売り場に戻ることかな」
「だろうな。向うも探しているだろうし、そうなれば一度通った場所を中心に探すだろう。こんな場所で子供の手を離すなんて、いったい何を考えている。迷惑だ」

 そう忌々しげに吐き捨てると、シャーロックはお菓子売り場の方角へと足を向ける。
 不思議なことに、ジョンが話しかけても一切反応を見せなかった少女は、シャーロックが歩き始めると、素直にそれに従った。
 ベルスタッフのコートの裾を、ふくふくとした白い小さな手でぎゅっと握りしめたまま、おぼつかない足取りながらも歩き出す。シャーロックもさすがに幼児の歩幅を考慮してか、いつも歩くスピードの数分の一の速度で足を進めていた。
 全身を黒に包んだ長身と、白いコートの小さな身体が並んで歩いているのは、実に奇妙な光景で、それでいて妙な微笑ましさがある。しかも二人とも仏頂面とくれば、ジョンは、そんな二人の横を、今度こそ吹き出すのを必死に堪えながら、カートを押して歩くことになったのだった。


     ***


 缶詰めの場所から、さほど離れていないところに、その売り場はあった。
 お菓子コーナーは、当然のことではあるが、棚の上から下まで全てが種類様々、色とりどりお菓子のパッケージで埋め尽くされている。
 大きな店舗だけに、お菓子コーナーの充実も大したもので、観光客もここに土産を買いにくることを考慮してか、スナック系以外にも、イギリスの伝統的なお菓子のパッケージが揃っている。チョコレートやクッキー、ショートブレットにキャンディ。見たことのあるものから見たことのないメーカーまで、実に何でもござれという状態だ。
 少女が握っているのと同じグミのパッケージも簡単に見つかった。
 カートから離した腕を組んで、ジョンはしみじみと棚を見上げた。

「まるで、ここがお菓子の家みたいだな」

いや、魔女の家だって、これだけの種類のお菓子で埋め尽くされてはいなかっただろう。

「そうしたら僕と君が魔女ということになるが」
「それなら君が魔女だ」
「どうしてそうなる」
「コートが黒いから?」
「どこに魔女のコートにしがみつく物語の主人公がいるんだ」
「それもそうだ」

 馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの口調で告げたシャーロックに、ジョンも笑って応じた。
 そもそもお菓子の家の魔女の終末は決まっている。暖炉を覗き込んだところを、当のグレーテルに突き飛ばされ、炎の中に身を投じる羽目になるのだ。

 一方、迷子のグレーテル少女は、相変わらずシャーロックの裾を掴んで離さない。まるで命綱のように握りしめている姿に、ジョンはふと何かが重なるのを感じて首を傾げた。だが、一体何がそう思わせたのか分からないままだった。

「まあいい。ここにいればすぐに迎えがくるだろう。向うも必死になって探しているはずだ。下手に動くよりじっとしている方がいい」

 シャーロックは、迷子になったときの大原則を面倒な思いを隠そうともせずに述べ、しばらくここに留まることを告げる。実際その通りなのでジョンも頷くと、シャーロックが更に続けた。

「そのうち、ヘンゼルが迎えに来るさ」
「…ヘンゼル?」

 ――母親ではなく?
 思わず首を傾げたジョンに、シャーロックが少女を目線で示した。

「この子が首に巻いているのは、男子用のマフラーだ。サイズも彼女のものにしては大きすぎる。12、3程度の児童のサイズだ。下にも自分のものを巻いているようだが、今日は寒いから、もう一枚巻いてやったんだろう。だが、巻き方が幾らか雑だ。母親が巻いたものじゃない。マフラーのデザインといい、巻き方といい、恐らく年がいくつか上の男兄弟がいるんだろう。母親と一緒に来てはいるが、細かく面倒を見ているのはすぐ上の兄なんだ。もしかしたら家庭に兄弟が多いのかもしれない」

 それに、とシャーロックは付け加えた。

「さっき、一人でうろうろしている少年がいた。棚向うでこちらに気づかなかったようが、人を探している様子だった。多分この子の兄だ。場所を動きさえしなければ、すぐに来るさ」

 そう言い終わらないうちに、通路から一人の少年が飛び込んできた。12歳ほどだろうか。シャーロックが推理したのとほぼ年齢が合致する少年は、シャーロックとジョンの間にいる少女を見つけて、一気に顔色を変えた。

「グレース!」

 そうか、グレーテルの名前は、グレースかと、ジョンは頭の隅で妙な納得をした。
 兄であろう少年は、まるでひったくるような勢いでコートを掴んでいた少女の手を取り、妹を怒鳴りつける。

「何でよそ見するんだよ! 手を離すなって、あれだけ言ったじゃないか。向うでママが待ってる。ほら、行こう!」

 向かい合っている少年の面差しは、確かに少女ものによく似ていて、血の繋がりを実感させる。髪の色も同じ淡い金髪。白い頬にはそばかすが散っている。妹の腕を引っ張り、シャーロックとジョンを明らかに警戒しながらの声に、苦笑せずにはいられない。
 こちらは何も悪いことなどしていないのだが、傍から見れば、お菓子売り場に佇む男性二人が、自分の妹の傍に立っているのだ。幼い頭にも当然「誘拐」の二文字は浮かんだだろう。
 平日の人が少ない時間だったからいいようなものの、もしかしたらスタッフに通報されていたかもしれない。
 一応誤解は解いておかねばと思い、ジョンは少年に笑いかける。

「やあ。君がお兄さんなんだね。良かったよ、見つかって」

 少女に通用しなかったジョンの笑顔が、少年には通じたようだった。缶詰め売り場付近で迷っていたのを保護したのだと、ジョンが告げると、少年はあからさまに安心した表情を浮かべた。本当に慌てていたのだろう。安堵を通り越して今にも泣き出しそうだ。

「その、…ええと…ありがとうござ…」
「手を離すな」

 突然、低い声がぴしりと飛んだ。
 上から見下ろしての厳しい一言に、少年は顔を凍りつかせ、びくりと身体を震わせる。

「どんな理由であれ、君はこの子を見失ったんだ。よそ見をした妹のせいだけじゃない。たまたま大事に至らなかったが、何が起きてもおかしくはなかった。君が住んでるのは、本物の犯罪が起きる危険な街だ。だから、二度と妹から手を離すんじゃない」

 シャーロックの言い様に一瞬驚いたものの、ジョンは微かに微笑んだ。
 彼は子供を嫌っているのでも、殊更に厳しいのでもない。
 彼はとかく人に厳しい…というかシビアな人間であって、しかもそれが人の年齢や性別に左右されないのだった。良くも悪くも公平。シャーロックは、例え相手が幼子であっても、一個の対等な人間として扱う。ただそれだけなのだなと、ジョンはそう思う。
 ある意味それはひどく不器用で、そして誠実なのかもしれなかった。決して、分かりやすいものではないけれど。

 少年はしばらく俯いて唇を噛みしめていた。まだ成長途中の細い首が寒々しく剥き出しになっているのは、自分のマフラーを幼い妹に巻き付けてやったからなのだと今ならよく分かる。やがて、顔を上げた少年の目は少しだけ潤んでいたものの、彼ははっきりとシャーロックの顔を見上げ「はい」と答えた。

「わかったならいい」

 それきり興味を失ったように、シャーロックは少年から背を向けてしまう。少年はジョンに向かって改めて礼を述べると、妹を呼んだ。

「ほら、いくよ。グレース」

 やれやれ、これで一段落かと思いきや、とたとたと軽い足音を響かせてグレースが駆け戻ってくると、再びシャーロックのコートに後ろからしがみついた。体当たりせんばかりの勢いで飛びつかれ、さすがによろめきこそしなかったものの、シャーロックは不可解を絵に描いたような表情を、振り向いた顔いっぱいに浮かべている。
 幼い少女は、世界ただ一人のコンサルタント探偵を心底ぎょっとさせることに成功したわけだ。

「ええと、どうしたんだい。グレース」

 再びシャーロックのコートを掴んで、俯いているのに、ジョンが声を掛けてやると、グレースはしばらくもじもじとしたあと、コートのポケットの中から何かを取りだした。握りしめたそれをジョンに向かってぐっと突き出す。反射的に手を差し出せば、何かがばらばらと落ちてきた。 

「え…?」
「―――」

 同時に小さな声が響く。聞き返そうと思った時には、少女は既に、身をひるがえした後だった。あっという間に兄の元に戻ったグレースは、もう行こうとばかりに兄の腕をぐいぐいひっぱり歩き出している。
 それが最後だった。互いを見つけたヘンゼルとグレーテルは、手をしっかりと握って、母親の待つ場所へと戻っていった。


     ***


「ありがとう、だってさ」

 聞こえた? とジョンはシャーロックに尋ねる。どうやら極度の人見知りだったに違いない少女が、それでも最後にようやっと伝えた、シンプルな感謝の言葉。
 小さな声は、大変たどたどしかったが愛らしかった。一応、と、やたら耳の良い探偵が肩を竦めてみせる。そしてジョンが渡された物を上から覗き込んできた。

「なんだそれは」
「チョコレートファッジだ」

 砂糖と練乳、バターをかき混ぜて作った甘く柔らかいキャンディ。チョコレートを混ぜ込んで作った馴染みの菓子を、個包装したものだった。
 ジョンの掌に乗せられている、少女から手渡されたそれをまじまじと見つめて、シャーロックは目を瞬かせた。

「何故?」

 少女が何故これを渡したのか、まるで分からないと言いたげなシャーロックにジョンはさすがに呆れた。

「だから。お礼だろう?」
「何もしてない」

 ――なるほど。彼はあくまでも目の前の出来事に合理的に対処しただけで、それが誰かの役に立つとか、気持ちを救うとかいう発想には至らないらしい。どこまでもちぐはぐな男である。

「オーケイ。わかった。…じゃあ、依頼料っていうのはどうだ?」
「あれが事件か? 依頼を受けたわけでもないだろう」
「事件だったんだよ。あの子にとってはさ。だからこれは彼女の心からのお礼なんだ」

 食べる? と差し出せば、今はいいと首を振る。そうかと頷いて、ジョンもとりあえずもらったそれをジャケットのポケットに滑り込ませた。

「どうして君のコートを握ってたんだろうなぁ」

 ずっと掴まれていたシャーロックのコートは、そこだけほんの少し皺になっている。
 大変に物がよいものだから皺ぐらいはすぐに取れるだろうが、うっすらと湿っているように見えるのは、グレースが涙と鼻水をこすりつけたせいだろう。その辺りシャーロックは頓着していないようだったが、一応クリーニングには出した方がいいかもしれない。
 これさえ手放さずにいれば、大丈夫なのだと、まるでそう信じているかのように必死にしがみついていた少女の姿が思い出され、思わず笑いが零れてしまう。

「たまたま目に着いたからだろう」
「そうか。うん、そうなんだろうな」

 シャーロックの言うとおりだろう。だが、きっとそればかりでもないのだ。

 ――僕はちょっとわかるかもしれない。

 ひらひらとコートを翻しながら先を行くシャーロックの歩みは揺るぎない。彼はいつも姿勢良く、確固とした足取りで歩く。
 だから少女は手を伸ばしたのではないかと、ジョンは勝手に推測する。そしてその思いは、いつしか自分の想いと重なって、あぁそのせいでデジャヴュを覚えたのだろうかと苦笑した。

 きっと、彼なら先へ連れて行ってくれる。それがどこか向かうかは分からないけれど、きっとその行く先には一つのゴールが待っている。
 そしてゴールは終着点ではなく、通過点で、共に行く限り見たこともない未来へ連れて行ってもらえる。何よりも彼の進む道は、事件とスリルに彩られた戦場だ。

 初めてバーツで出会ったあの時。本当は、どちらが先に手を伸ばしたのか。それは今も分からないけれど、差し出された選択肢に、ジョンは躊躇うことなく飛びついた。
 迷う気持ちが全くなかったとは言わないけれど、それは戦いを前に震える戦士の思いに似ていて、つまり伸ばされた手を拒絶する意志は最初からなかった。その気持ちは今でも本物だ。

「よし、買い物再開だ」

 そう告げて、ジョンはカートを握る。途端にシャーロックが嫌そうな顔を浮かべた。

「まだ買うのか」
「ビールを買ってない」
「あの飲み物の何がそんなにいいんだ。僕にはさっぱり分からないな」

 呆れたように首を振りつつも、シャーロックは左手のトイレットペーパーを抱え直し、コートのポケットに右手を突っ込むとドリンクコーナーへと足を向ける。その足取りはやはり迷いがない。黒い裾をひらひらと揺らめかせながらすたすた歩く背中を、ジョンは追いかけるようにして足を踏み出した。

 シャーロックは迷わない。行動に移されるとき、既に彼の高機能な頭脳の中で躊躇いや悩みといったものは全て綺麗に整理分類されてしまった後だからだ。悩みを相談することもない。推理で行き詰まることはあるけれど、それをジョンと一緒に悩むことはない。

 たまには一緒に迷ったっていいんだぞ、と少しは思わないでもない。
 シャーロックが思いつく以上の名案が自分の中に存在するとは考えないが、一方で彼の知識はひどく偏っているから、この先全く迷わない保証もありはしないのだ。

 その時に備えて、銃と一緒にポケットにキャンディを忍ばせておこうか。もらったようなファッジでもいい。
 甘い砂糖菓子は、少しは頭脳労働の役に立つかもしれないだろう。パーフェクトな頭脳を保つ彼のことだから、帰り道を失うことはないだろうけれど、それでもやっぱり彷徨うことがあってもいいと思うのだ。
 その時は一緒に出口を探すくらいはしてやれるかもしれない。
 迷った先に行き着く場所が、魔女の待つお菓子の家であろうと、優しい女主人の待つベイカー街の愛すべき我が家であろうと。


- end -


2013/12/10
短編集からの再録。

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