ジリリリと玄関ベルが鳴る。
階段を駆け下りる音がしたかと思うと、間を置かずして、深緑色の扉が開けられた。
「やぁ、ようこそ」
どこかはにかむような笑顔を浮かべて、出迎えてくれた旧友に、マイク・スタンフォードはにこりと笑って挨拶をした。
「どうも、お邪魔するよ」
***
何週間かぶりにジョンと喫茶店で再開し、同居人との新しい生活はどうかと尋ねたところ、一度遊びに来る?と誘われたのがつい先日のこと。
自分が紹介したとはいえ、フリークスで通っているシャーロックと、PTSDを患っているジョンが一体どんな同居生活を送っているのか、少なからず興味を覚えていたマイクは、ジョンの申し出を二つ返事で受けた。
心配はしていなかった。というのも、杖をついて足を引きずっていたはずのジョンが、後日再会した折に、マイクを見つけて小走りに駆けてくる姿を目にしたからだ。その顔には笑顔すら浮かんでいて、マイクは驚きつつも安堵したものだ。
一体何がどう作用したのかはわからないが、シャーロックとの生活は、傷を負っていたジョンの心に劇的な変化をもたらしたらしい。
シャーロックが劇薬に等しい存在であるのはよく知っていたものの、それが毒になるか薬になるかまでは、マイクにも読めなかった。マイク自身は、シャーロックという人間と親しく付き合うまではいかずとも、それなりの距離をもって普段から接していたし、好きか嫌いかと言われれば、嫌いになれないと答えるくらいには好意を抱いていた。彼の持つ特定の分野への知識や熱意に関しては密かに尊敬すら抱いている。
だが普通の人間からすれば基本は毒にしかならない。というより毒物そのものだろう。それでも、引き合わせてみようと考えたのは些細な一言だった。
『誰が僕なんかと』
一人は自身をあざ笑うように吐き捨て、一人は遠い空虚な目をして呟いた。
まるで逆の印象を与える人物が、同じ事を口にしたのだ。彼らは二人とも、自らを通常の人の輪からはみ出していると認識し、当然のこととして受け入れ諦めているようだった。
これは面白いぞと、マイクは思ったのだった。
結果、マイクの予想を超える化学反応が起こったようだが、そうなると実際にどういう生活をしているのかが気になるところだった。
「シャーロックは朝から出かけてるんだ。部屋、すごい散らかってるけど、びっくりしないでもらえると助かるよ」
「ははは、そんなの気にならないよ」
きちんと片付いた男所帯の方が落ち着かないよと答えつつ、ジョンの後ろについて階段を上り、部屋に辿りつく。どうぞと通された室内を見まわして、マイクは小さく息を呑んだ。
目に飛び込んできたのは、色の洪水だった。
左、正面、右。全て柄も色も異なる壁紙が圧倒的だ。総じてうるさいとも言える柄だが、色のトーンが同じなせいか、不思議と統一が取れている。床の絨毯も濃い赤を基調に灰色が入り交じったデザインという賑やかさだが、浮いた感じはない。
入って正面の柱には、でかでかと牡牛の骸骨がかけてあり、しかも何故か頭部にはヘッドホンが掛けられている。シュールと言えば良いのか遊び心があると言えば良いのか。一瞬目があったような気がしたが、それは気のせいだと思いたい。右側の壁には、髑髏のタペストリー。どこか海賊のマークを彷彿とさせる。
奇抜な装飾が目に着くものの、置かれている調度品は、驚くほど質も品も良いものだった。右側のカウチも、暖炉側のソファも、棚やテーブルも、重厚感があるが室内にしっくり馴染んでいて、しかもよく使い込んだ感がある。ソファの上に転がったユニオンジャックのクッションが、コミカルなインパクトだ。
「へぇ…住みやすそうだ」
マイクの感想は混じり気のない純粋なものだった。
ジョンの言うとおり、お世辞にも片付いているとは言えない空間なのだが、奇妙な温かみが感じられる。
窓際に立てられた譜面代。散らばった楽譜。床どころか窓のサッシにまで積み上がっている大量の本。転がった異国風の履き物――。
乱雑に置かれたものが、逆に心地よいリズムを産み、居る者を寛がせるような雰囲気を作り出していた。
「そういってもらえるのは嬉しいな」
僕も最初来た時にそう思ったんだよと、ジョンは笑い、暖炉のある側へとマイクを招く。向かい合った一人用ソファの窓側の方に、勧められるままに腰掛けたマイクだったが、マントルピースの上にあるものを見つけて思わず固まった。
それは髑髏だった。牡牛のものに比べればひそやかに、しかし確実な存在感でそこにいた。
「…スカル?」
「友達。あぁ、もちろん、シャーロックのね」
ジョンの答えはさらっとしたものだった。色々と問い質したいことはあったが、マイクには、それが果たして偽物(フェイク)か本物(リアル)なのかが気になった。恐らく触れればわかるだろう。そしてわかりたくなかったのでマイクは手を触れなかった。
「僕からすれば、先輩住居人ってとこ? 見慣れればなかなかかわいいんだよ。たまにハドソンさんに没収されるけどね」
「……」
そう言ってにこにこ笑うジョンに、マイクはちょっとだけうすら寒いものを感じた。慣れがこの男をそうさせるのか、軍人としての経験によるのか、それとも本来持っている鷹揚さがそうさせるのか、判断がつかない。マイクの友人は、どうやら計り知れない器を持っているようだった。
友達だという髑髏の横には、未読らしい郵便物がジャックナイフで突き刺してあった。それもまた、シャーロックの癖か何かなのだろう。
そんな一見妙な習慣でさえも、この部屋の中では調和して映るのが面白かった。
――ただしキッチンらしき部分を除けば。
とマイクは心の中で付け加えた。
ソファに座ることで、視界に飛び込んできた部屋がある。あのごちゃごちゃしたテーブルは一体なんなんだろうか。
位置や空間構造からして、恐らくキッチンなのだろうが、一瞥しただけでも、明らかにそうとは思えないものが乱雑にひしめいている。
控えめにコンロや流し台が設置されているし、奥にはやたらと存在感を放つ立派な冷蔵庫が鎮座しているが、どうひいき目に見ても、バーツの実験室の派出所にしか見えない。
無言でキッチン(?)を見つめるマイクに、ジョンは丁寧に忠告してくれた。
「あ、こっちは近寄らない方がいいよ」
シャーロックがあれこれ実験してるから、と説明する。言われなくたって近寄るものかとマイクは思ったが、微笑を浮かべたまま懸命にも口には出さなかった。
ごった返した中で、どうもお茶を用意してくれているらしい友人に、マイクはひとまず尋ねてみた。
「プライバシーとかは保たれてるのかい?」
「もちろん。だって寝室は別だ」
「……」
そりゃそうだろうと、マイクは心の中でのみ突っ込んだ。
「あぁ…でもこの前は、気配を感じて目を覚ましたら、シャーロックが上から覗き込んでたんだよ。あれはさすがにびっくりしたかな。しかもいきなり、捜査だから行くぞときたもんだ。説明もしないでさ」
「――――」
聞いているこちらがびっくりだとマイクは思ったが、語るジョンは笑っているばかりで、さほど仰天したようには感じられない。彼のことだから、訳が分からないままぶつくさ言いながらもシャーロックに着いていったのだろう。
自分だったらどうだろうか。やや人間離れした雰囲気のあるシャーロックだ。夜の闇の中で、あの白い肌はまるでゴーストのように浮かび上がって見えるだろう。そしてあの眼だ。色素が薄いせいで、光によって様々に色を変えるあの、眼。青、灰、緑…光に透かすと金色に見える時すらある。
多少長い付き合いがあるとはいえ、正直、真夜中に見つめ合いたいようなものではない。大体昼間でも正視したことはないのだ。
――悲鳴を上げて失神するな、絶対。
そう結論を下しつつ、もう一度居間を見渡して、居心地がいい部屋だと改めて感じた。
懐かしい感じすら、する。それがなぜなのかと考えて、あぁとマイクは思い至った。
少年時代の秘密基地を思い出させるのだ。
母親に見つかれば捨てられてしまうようなものが、この部屋にはあちこちに転がっている。用途の分からない箱。箱の中の箱。立てかけられ、あるいは積み重ねられた昆虫の標本――。
親に捨てられ、成長するにつれて自分でも忘れ、置いてきたものが、ここには大切にしまいこまれているのだった。
目立たないながら、合間に置かれているものが、きっとジョンの私物なのだろう。積み上がった本のタワーや、床に散らばっている意味の分からないものはシャーロックのものに違いない。それらが反発することなく溶け合って、一つの空間を作り出していた。
そこに、彼らの日常を見出し、マイクは驚くと同時に少し感動した。お互いを紹介はしたものの、長く続くなんてあまり思ってはいなかったのだ。一時期は一緒に暮らせたとしても、どこかで不和を引き起こすのではないのかとも考えていた。
実際、控えめながらジョンに確認したこともある。
『ジョン、その…彼は変わってるだろ』
『そりゃ変わってるよ。冷蔵庫に生首を入れるし、電子レンジの中には目玉だ』
普通じゃ体験できないと肩を竦め、ジョンは笑った。
『本当にすごいんだよ、シャーロックはさ』
だから楽しいよと、彼は言った。そう述べる顔は呆れつつも、本当に楽しげだった。侮蔑も怖れも当惑も見いだせない。ただただ、どこまでも親しみを感じさせる気安さだけが存在していた。
その言葉が真実だったのだと、今目にしてわかる。室内は、シャーロックとジョンの同居生活が、(恐らく多々あれども)順調に回っていることを語っていた。
「…依頼人?」
何の気配もなく、突然かけられた低い声に、マイクは腰を抜かしかけた。
気づくと、いつの間に入ったのか、このフラットのもう一人の住人が、部屋の入り口に立っていた。黒で全身を包んだ長身にいきなり立たれるのはかなり恐い。
「シャーロック?」
ジョンにとっても予想外の帰宅だったらしい。素っ頓狂な声を上げてフラットメイトを出迎える。
「何だ、マイクか」
マイクを認めた一瞬、男の顔に浮かんだのは、明らかに自分の居場所を侵害されて腹を立てる猫の顔つきだった。それを全く見なかったふりをして、マイクはにこりと微笑みかけた。
「やぁ、久しぶり。シャーロック。お邪魔してるよ」
「…どうぞ、ごゆっくり」
見事なまでの棒読みで、シャーロックは挨拶を寄越した。
「何がごゆっくりだよ。依頼人だって?今日はマイクが来るって、僕、朝に話しておいたよね」
「忘れたな。必要な知識だとは思えなかったので」
首に巻き付けていたマフラーを優雅な手つきで抜き取り(全く無駄なことに、この男は立ち居振る舞いだけは上等なのだった。それがさりげない仕草であっても)、壁に向かって放り投げる。
「君、今日は一日バーツにいるって言わなかったか?」
「予定変更だ。今日入ってくるはずの検体が、他に回されたとかで実験の予定が無くなった。全く無駄足だったよ」
心底面白くなさそうに言い放つ。そのまま自分の寝室に戻るのかと思いきや、シャーロックはコートもとっとと脱ぎ捨てるとどっかりと兼客用(と思われる)長椅子に寝そべった。
全く何の遠慮もない、実に堂々とした態度だった。マイクがいることなど、気にも留めていないのだろう。いや、それはもともと見受けられる傾向なので意外ではない。
マイクが驚いたのは、シャーロックが部屋に閉じこもるわけではなく、居間でくつろいでいることだった。だが、ジョンが動じずにいるところを見ると、当然いつものことなのだろう。
「気にしなくていいよ。いつものことだから」
マイクの推測を肯定し、ジョンは笑った。気にしないで…いられそうにはない。何というか気配をビシビシと感じる。この状態でくつろぐというのはなかなかに骨が折れる気がする。大変に。
傍に転がっていたラップトップを引き寄せ、さっさと開き始めたシャーロックを、それまで放置していたジョンが咎めた。
「おい、だから僕のパソコンいつも勝手に使うなって言ってるだろ!」
――なんだって。
ジョンの台詞に、マイクは無言で目を剥いた。
「本人のいる前で使ってるんだ。隠れてやっているわけじゃないんだからいいじゃないか」
「そういう問題じゃないだろ。この前だって勝手に彼女へのメール読んだくせに」
―――まてまてまて。何の話が始まったんだ。
「テキストの添削してやっただろ」
「――あー…そうだったな、頼んでないけど」
「君はもっと考えて文章を打った方がいい。パスワードの決め方もそうだけど」
「考えてるよ!ホント、僕のパソコンにパスワードかける意味あるのかな。虚しくなってきたよ…」
「かけてもらわないと困る。僕の暇つぶしが減る」
「君って、本当最低だな」
――いや、最悪だ。
マイクはしみじみ思った。さきほど、彼はプライバシーは保たれていると言っていたが、マイクからしてみれば、無いに等しい。というより、これは寧ろマイナスのレベルではないのか。
「あ、それより、保管してた予備の新しい豆の袋、勝手に出しただろ!古いのがまだ残ってるのに、何でそういうことをするんだ」
「どうせもうなくなる」
「出したら新しいの買って来いよ。そんなんだから買い置きがすぐになくなって、後で慌てて買いに行くことになるんじゃないか。あと開けたらちゃんと閉めろよ。湿気るだろ。胃の中に入るものなんだ。君の実験道具くらいには気に掛けたらどうなんだ」
ジョンがまくしたてるのに、知ったことかと言わんばかりの様子で、シャーロックは尊大に言いはなった。
「ジョン、僕にもコーヒー」
「……シャーロック」
うんざりしたような声でジョンが同居人に名前を呼ぶ。
「折角マイクが来てくれたんだ、君こそ自分で客人にコーヒーを入れるくらいしろよ。…まぁ、無理か。コーヒー淹れたことないもんな、君」
「紅茶は入れられる。紅茶は君より上手だ」
「そうかもしれないけど、君が入れると何だか実験みたいなんだよ。大体言うほど淹れたこともないくせに」
訪問客そっちのけで喋り続けている二人を、マイクはただただ呆気に取られて見守っていた。
――何だ、これは。本当に一体何なんだ。
己の予想を遙かに超えた日常がここに存在している。まさかこんなにもありきたりな、いっそどうでもいい会話を、対人スキルが極端に低いシャーロックと、一見すれば彼と接点が全く無さそうに見える一般人代表のようなジョンが繰り広げている(しかも応酬として成り立っている)のは、マイクにとってものすごい衝撃であった。
「君たち、毎日そうなのかい」
「は?」
「え?」
うっかり洩らした疑問に、同じタイミングで振り返った同居人たちは、全く異口同音にこう言った。
「「何が」」
***
「ぼく、もう帰るよ」
コーヒーを飲み終わったところで、マイクはそう言った。結局(シャーロックの分も含めて)ジョンが入れたそれを飲んでいる間、休むことなく同居人たちの漫才じみたやり取りは続き、マイクはしみじみと彼らの日常生活を堪能したのであった。
今にも笑い出しそうなのを、よくぞ堪えたものだと自分を誉めつつ、座っていたソファから立ち上がり、身支度を調える。
「あまり、長居してもらえなくてごめん」
「いやいいよ。十分楽しかった」
「そう?」
「次来るときは、依頼を持ってくるよ」
「出来るだけ、面白くて難解なものを」
こっちに目線だけ投げ、シャーロックがマイクに注文をつける。
「…努力はするよ」
見送りはいらないよとジョンに伝えると、退室する前に振り返り、部屋の中にいる二人を改めて視界に収める。
「じゃあその、…」
お幸せにと、言いかけたのを、マイクは何とか飲み込んだ。それでも、彼らに送るのには、どうもこの言葉が一番適切なように思えた。
――君たちに幸あれ。
もう一度心の中で繰り返して、マイクはじゃあねと手を振って〈221B〉を後にした。
フラットに背を向けながら、マイクはジョンをシャーロックに引き合わせた日のことを思い返していた。
シャーロックの言動に最初こそ驚き、困惑の色を浮かべながら、ちらちらとマイクの顔を確認していたジョンだったが、シャーロックが一方的に自分の主張だけを述べてさっさと去っていった後、彼が出て行った扉の辺りを暫くずっと見つめていた。何も言わず、思案するように…シャーロックの言葉を反芻しているかのように、いつまでも立っていた。
あの後、ジョンはシャーロックと出会った経緯と彼の印象をブログに上げていたが、その内容に驚いたことをマイクは覚えている。
普通じゃない、変わっている。
誰もが抱くであろう感想を述べた上で、それでも「魅力的」だと、ジョンはそう評したのだった。風変わりだけれど、好感が持てると。
一体、あの男の何がジョンにそう思わせたのか、マイクには一生理解することはできないだろう。ジョンも頭では分かっていないのかもしれない。
だが、他の誰もシャーロックに見いだすことのできなかったものを、おそらくジョンは見つけたのに違いない。それがシャーロックにとってどれほど大きなことであったのか、そのこともまた、マイクには知る由のないことだった。
***
――ベイカー街〈221B〉。
初めてシャーロックとジョンが出会ったあの日。シャーロックが去り際に、自身の名と共に鮮やかに言い放ったこの番地は、後にマイクにとっても忘れられないものとなる。
自分でも預かり知らぬうち、ベイカー街で…いや、ロンドンでもっとも有名なコンビ誕生に一役買うことになった男は、己の果たした役割の大きさをさほど自覚することなく、今はただのんびりと通りを歩き去っていった。
- end -