WhirlWind

The beginning

Sherlock & John


 ふと、意識が浮上した。
 同時に香ばしい匂いが鼻を掠めたのを感じ取る。豆を煎った匂い。…コーヒー。誰が。何故。
 カーテンを通して部屋に差し込む光に眩しさを覚えつつ、瞬きを繰り返しながら目をうっすらと開ける。意識の覚醒に身体が追いついてくるのを幾らか待ちながら、周りにある情報を拾い上げる。
 今は朝の10時20分…30秒を今過ぎた。早い時間…とは到底言えない。
 ドア越しに遠く物音が聞こえる。キッチンからだ。食器がぶつかりあう音。大きな音ではない。微かなものだ。ついで水を流す音がした。ざっとシンクに叩きつけられて、すぐに止む。足音が響いた。ぱたぱたと、スリッパで移動する音だ。ぱたんと鳴ったのは冷蔵庫を開ける音。幾らかの間を置いてから、再びぱたんと鳴った。冷蔵庫を閉じた。スリッパが音を再開する。規則正しいそれはすぐに遠のく。リビングへと移動したのだ。
 音は途絶えたが、揺らぐようなコーヒーの香りは未だに周囲を漂っている。

 ――自分以外の誰かの気配。

 記憶と現情報が一致すると共に、ぱちりと目を開いてシャーロックはベッドから起きあがった。

     ***


「おはよう、シャーロック」

 もつれた髪もそのままにベッドから起きあがり、自分の部屋を出てからキッチンを通り過ぎようとしたところで、不意に掛けられた声に、シャーロックは些かならず仰天した。自分以外のもう一人がすぐ目の前に立っていた。リビングからキッチンに戻ろうとしたところだったらしい。シャーロックを認めて、彼は少し安心したように笑った。

「もっと早く起きるつもりだったけど、やっぱり疲れてたんだよな。ほとんど寝ないで事件に関わってたし。一応あるものでコーヒー入れたんだけどさ、良かったかな。ええと、あちこちに置いてあるものには…そう、上に乗っかってる器具だ。そこには触れてないから心配しないでくれ。正直片づけたい気持ちでいっぱいなんだけど、君に聞いた方がいいだろうし。ちなみに朝ご飯はハドソン夫人が持ってきてくれたよ。冷蔵庫の中何もないでしょうって。ホントに何にもないんだもんな。牛乳だけはあって助かったよ。でも賞味期限がぎりぎりだ。買い物に行かないと。ねぇ、君、聞いてる? おい、シャーロック?」
「………」

 立て続けにまくしたてられて、シャーロックは固まっていた。何を言われているのかは分かる。ついでに言えば、目の前にいる、自分より小柄で姿勢のいいくすんだ金髪の男が自分の新しいフラットメイトであることも。
 互いの利害が一致したとはいえ、半ば思いつきで(恐らくは一方的に)シャーロック自身がフラットメイトに決め、昨日からこのベイカー街221Bに引っ越してきたアフガニスタン帰りのPTSDを患っていた軍医。
 ここにやってきて早々に連続殺人事件の解決を手伝わされ、夜には犯人を待ち伏せてキャブを追いかける大立ち回り。杖を捨てて走り出したこの同居人が新しく手に取ったのは驚くことに拳銃で、しかもそのトリガーは自身の命を守るためではなく、シャーロックのために…引かれた。
 唸りながら空気を裂いて撃ち抜かれた、あの発砲音が耳の奥底で木霊する。
 目の前の男の顔をまじまじと見つめ、真新しい脳内の記憶を再生しながら、シャーロックはぼんやりと返事をした。

「…あぁ、聞いてる」
「そりゃ、良かった」
「…ジョン」


 ――ジョン・ワトソン。


 名前を呼ぶ。確認のつもりで口に出したそれに、ジョンは首を傾げて返事をした。

「なんだ、シャーロック」
「いや、何でもない」

 実のところ、シャーロックは少しばかり動揺していた。自分以外の人間が、四六時中同じ空間に存在することの異常さに今更ながら気づいたといえばいいのか。自分で引きずり込み、昨夜は散々一緒に走り回ったことを考えると、全く今更である。この男を同居人に選らんだのは確かに自分であるというのに、それが現実となってみると、随分心持ちが変わってくるものであるらしい。しかも、概ね人を嫌い、排除するタイプの自分が、自分のテリトリーの中で動き回るジョンを見ても、不快に思うことがないのは再発見だった。

「君はもう少し早く起きたみたいだな。少なくとも今から一時間は前」
「あぁ、そうだけど」
「昨日の夜は遅くなってしまったが、それなりに睡眠は取れたようだ。幾らか目元に疲労が残っているが、最初にバーツで見たときより顔色はましだ。君は仰向けで寝るタイプか。後頭部の寝癖が酷い。手で治したようだが一部跳ねているから、外に出るときは気をつけた方がいい。新聞はもう目を通したんだな。指にインクの跡が残っている。ちなみに僕はタイムズ、ガーディアン、ファイナンシャル・タイムズから大衆向けのサンまでほぼ全ての新聞は網羅しているから、君はどれでも好きなのをどうぞ。そのコーヒーは2杯目か。カップに最初に飲んだ時の跡が乾いてこびりついてる。つい早く起きてしまったので、まず部屋の中を確認し、とりあえず目に着いた新聞を手に取ったものの、それも手持ちぶさたになって、コーヒーを淹れることにしたというわけか。僕が聞いたのは君が2杯目のコーヒーを準備する音だ」
「……お見事」
 

 頭の中を整理するため、ジョンを観察したまま得た情報をそのまましゃべり立てたシャーロックを、ジョンは目を見開いて見つめていたが、それでも最後は小さく賛辞の声を洩らした。昨日、キャブや遺体発見現場で推理を披露したときにもそうだったが、ジョンがやたら素直に上げる声に、一体どういう態度をとれば正しいのか、シャーロックにはやはり分からないままだった。ジョンから視線を逸らして小さく呟く。

「観察しただけだ。大したことじゃない」
「それは、大したことだろ」

 あっさりと、何のてらいもなく求める称賛を与えられるというのはやはり不思議なものだ。胸がざわついて落ち着かない。どうしたものかと考えていると、ところで、とジョンが続けた。

「ええと、君って寝るときは何も着ないタイプ…?」

 そういえば素っ裸にシーツをまとったままで出てきたんだなと、今更シャーロックは思い出した。

「いや、その時の気分」
「あ、そう」
「…君が…こういう習慣に否定的なら、改めることを計算に入れないでもないが」
「いや、別に。でもそのままで朝食取るのはどうかと思うけど」
「…着替えてくる」

 踵を返して自室に戻ろうとしたところで、背中に声が掛けられた。

「そうだ、レストレード警部から連絡があったよ。君、寝てたかどうか知らないけど、電話に出なかったんだろ。ハドソン夫人に電話が来たんだぞ。それから一応僕にも」

 そういえばそうだったと思い出す。連続殺人事件の犯人であったタクシー運転手が「何者かに」射殺されて終わった顛末について、説明をしなければならなかった。訳を話せと言うレストレードに、明日にしてくれと言ったのはシャーロック自身だ。一晩経ったらすっかり忘れていた。つまり、どうでも良くなっていた。とはいえ、昨晩のことは片づけなければならないことが多々ある。強制的に迎えを寄越される前に、とっととこちらから出向いてやるべきだろう。
 ヤードに貸しを作るのは大変結構なことだが、借りは作りたくない。レストレードとの付き合いは決して短いわけではないから、それだけに面倒なことも多いのだ。

「というかどうして君に、レストレードが連絡を寄越すんだ」

 しかも、何故レストレードがジョンの連絡先を知っていて、あまつさえ自由に電話を寄越してくるのだと、不満を顔に漲らせて尋ねたシャーロックを、ジョンは呆れたように見た。
 あのなぁとシャーロックに言う。

「昨日連絡先交換したんだよ。君、僕のことを助手だって紹介しただろ。忘れたのか。そうなれば当然必要な情報だ。わりとすぐに役に立って良かったな。あの警部、かなり優秀な人だよ。君はこき下ろしてたけど。まあいいや、さっさと連絡してこいよ。あ、ヤードにはもしかして僕も行った方がいいのかな」
「…君がついてきたいなら」 

 犯人をあっさり撃ち殺したのは(シャーロックを助けるという名目であるとはいえ)ジョン自身だというのに、随分しれっとしたものである。昨晩、悪いヤツだったからとぬけぬけと答えたところを見ても、やはりこの男、底が知れない部分がある。人当たりの良さそうな外見をしているくせに、侮れない。…面白い。
思えば、この男との同居が本当に決定したのは、自分が彼に携帯を借りた時でも、推理を披露した時でも、まして彼から杖を取り上げるための実験をした時でもなかったのかもしれない。彼の放った銃弾が、全てを決定づけたような、そんな錯覚さえ覚えてシャーロックは改めてこの同居人の特異さを思い知る。
一方のジョンはのんびりしたものだった。三杯目のコーヒーを飲むつもりなのか、カップを手にしたままコンロへと向かう。そしてシャーロックを振り返ると尋ねた。

「なぁ、君もコーヒーいる?」

 一瞬虚を突かれたものの、シャーロックは頷く。

「あぁ、そうだな。頼む」
「君ってブラック?」
「いや、砂糖は二つ。ミルクはなしで」
「オーケー。まずはどれが砂糖の容れ物なのか僕に教えてくれ」

 キッチンにあるものが食べ物かそうでないのか僕には全く分からないと肩を竦めるジョンに、わかったと告げる。

「先に、レストレードに昼過ぎにはヤードに出向くと伝えてくる。あとで場所を敎えるよ。お望みならキッチンにあるもの全ての説明も」

 そう言い置いて携帯を取りに部屋に戻ろうとして、まだ何か言い足りていないことがあったような気がしてシャーロックは立ち止まった。
 そうだ、何か言わねばならないことがあった気がする。普段の自分からすれば、どうも言い慣れない言葉だ。何気ない、けれど一つの始まりを告げるそれ。
 あぁ、とやっと思い出し、シャーロックは微かに口端を吊り上げた。ケトルで湯を沸かそうとしているフラットメイトの背中に向かって呼びかける。

「ジョン」
「なに」

「…おはよう」
 

 大変ぎこちなく、しかもぶっきらぼうに告げられた挨拶。出来たてほやほやの新しい同居人は、一瞬呆気に取られたようにシャーロックを見たが、やがて「遅すぎる」と言って笑い出した。

――まずは、ここから。


- end -


2014/06/1008
オフで発行したシャーロック&ジョン短編集再録です。(2012.5コピー&2012.8オフ)

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