WhirlWind

Unaffected

Holmes & Watson


夜も更けた頃だった。
どうも眠れず、診察室の方で書き物に勤しむことにしたワトソンは、やがてノックもなく開いたドアに肩を竦めた。
こんなことをする人間は一人しかおらず、そのたった一人がワトソンの相棒だった。
ワトソンは書き物を続けたまま、振り返ることもせずに言った。

「今日の診察時間はとっくに終了だ、探偵どの」
「…時間外診療をお願いするよ」
「ホーム…」

悪い冗談はやめてくれと言うために、深く息を吸い込むと同時に振り返って、そこに佇む男の姿に、ワトソンは吐き出そうとしたそれを思わず呑み込んだ。

「…どうした。また賭場でゲームをしてきたのか。治療は…必要ないようだが、それよりまたコカインを使ったな。必要なら私がもっと適切な薬を処方してやると何度言えば…」
「7%溶液だ。それ以外はないよ、ワトソン。自分に何が適切か、よく分かっているつもりさ。なに、診療というほどじゃない。少し休ませてもらえたらと思ってね」

 減るもんじゃなし、構わないだろうと悪戯っぽく笑って見せた男の表情は、だが常の生彩を欠いていた。

「…寝るなら、君のベッドがある」
「そうだな」
「ここは私の診察室で君の部屋じゃない。そして私はやることがあって、しばらく寝るつもりもない」
「その通りだ、ワトソン君」
「おい、ホームズ」
「君の邪魔をする予定はないから安心してくれ」

 ワトソンの声に含まれる呆れと苛立ちを全く無視し、さっさと診察台に上がり込むと、そこで丸くなる。
 上掛けも何もない無機質な台の上で、どうやら本当に眠るつもりらしいと見て取り、ワトソンはもう一度制止の声を上げようと口を開いた。
…が、それを遮ってホームズは言った。

「君の周りは音がないな」
「何だって、ホームズ」

 投げかけられた言葉の不可解さに思わず聞き返したが、ホームズはただ笑っただけだった。

「…君の周りはとても静かなんだ、ワトソン」

 その声は、既に眠気を多分に含んでいた。
 半開きの目が、ゆらゆらと揺れたと思う間もなくやがて閉ざされる。
そして訪れる静寂。
 しばらくして聞こえてきた寝息に、ワトソンは知らず詰めていた息を静かに吐き出した。
 診察台に近寄ると、あっという間に寝入ってしまったらしいホームズの口元に手をあて、ついで胸元に耳を寄せる。
 呼吸は穏やかなものだった。全く乱れはなく、安定していた。

「ホームズ」

 そっと呼びかけてみる。だが応えはなく、規則正しい呼吸の音だけが小さく聞こえてくるだけだった。
 安堵を覚え、傍にあった木椅子を引き寄せて腰を下ろす。小作りの小さな古椅子は、少し体重を移動させるだけでもギシギシと悲鳴を上げた。
 本当に制止するつもりはなかった。ホームズは、やりたいと思ったことはその通り実行する男であったし、ワトソンはそれを本当に止められたことはない。渋ってみせたのは、疲労を浮かべたまま、その要因についてはだんまりを決め込むのであろうホームズの意図を、少しでも聞き出したかったからだ。結果、その目的は半分だけ達せられ、ホームズは一方的な内容を幾つか口走っただけで、眠りの世界へと行ってしまった。
 そのまま暫くホームズに視線を投げたままでいたが、男の様子には何の異変も見られなかった。
 夜は冷える。まだ暖炉の火を完全に落としていないとはいえ、このままでは風邪を引くかもしれない。上掛けを取りに行った方がいいだろう。この男は恐らく相当に疲れている。明りをもう少し減らして、ゆっくり寝られる環境を作ってやるべきかもしれない。
 手間のかかる男だ。改めて思う。それが故意に引き起こされるものなのかそうでないのか、ワトソンはもはや考えることはしなくなっていた。
 それが全てこの男の思惑通りなのだとしても、己がシャーロック・ホームズに背を向けることは決してない。彼に必要なものを与えるのは己の役目なのだと、どこかでそう信じていた。それが口に出して要求されるものであれ、そうでないものであれ。
 溜め息と共に立ち上がる。椅子が再び軋む音を立て、ワトソンの動きに合わせてがたりと鳴った。その音がやけに大きく響く。
 勝手に入り込んできたとはいえ、寝ているホームズを起こすのは忍びない。知らず注意深く踏み出した足は、それでも床と擦れて幾らかの音を立てた。扉の取っ手に手を掛ければ、キィと甲高い悲鳴を上げる。
 あぁ、己の鼓動の音までもが煩い。それなのに。

――君の周りには音がない。

 ホームズの声を思い出して、ワトソンは苦笑した。

(何を言っているんだか)

 そんなはずはない。この部屋にだって、外からの音は響く。深夜とは言え、全く人の通りが絶えるわけではない。馬蹄と軋む音を響かせながら行く夜馬車の音。野犬の声が起こったと思えば掻き消える。遠くで上がる怒声は酔っぱらいか、はたまた喧嘩か。
 音は、人が生きている証だ。今もこうして己が立てる些細な音で、この部屋は満ちているというのに。
 だが、基本的にこの上なく気配に敏感なはずの男は、今はただ、相変わらず心地よさそうな寝息を立てるだけだった。
 少し考えて、ワトソンは上掛けを取りに行くのを止めた。手を伸ばし、傍に掛けていた自分の上着を取り上げると、ホームズの上に放り投げてやる。
 ばさりと、音を立てて布が落ちた。
 ぞんざいに投げた上着の下で、ホームズは僅かに身動ぎしたようだった。起こしたかと思いつつ、起きてくれればいいのにと願った、その小さな望みが叶えられることはなかった。
 ホームズは体勢を変えたのみで、目を覚ますことはなかった。ただ、こちらを向いたその寝顔に、ワトソンは思わず胸を突かれ、ついで声を失った。
 ひどく、穏やかな寝顔だった。

――君の周りは、とても静かなんだ。

 先ほどの声がもう一度甦り、潮が引いていくようにすっと流れていった。
 しばらくその顔を見つめたあと、ワトソンはふっと息を吐いて小さく笑った。

「ホームズ」

 もう一度呼びかける。だがやはり返事はない。寝返りでずり落ちた上着を被せ直し、ワトソンは改めて自分の椅子に腰掛けた。ぎしりと軋む音と共に、馴染んだそれがワトソンの体重を心地よく受け止める。
 デスクに向き直り、書き物を再開すべくペンを手に取る。
 部屋に響くのは、かりかりとペンが紙をひっかく音と、暖炉で薪が爆ぜる音、そして互いの呼吸の音だけだった。


- end -


2012/05/03
>2012.5.SCC発行コピー本再録。

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