WhirlWind

Solid Satisfaction

Sherlock & John


 冬の早朝ロンドンは、怖ろしい寒さだった。
 ジョンが、朝起きてすぐにしたのは、暖房を付けることだった。セントラルヒーティングをオンにし、設定気温を上げる。ハドソン夫人はもうとっくに起きているようだ。ボイラーは何の不具合もなく稼働を始めた。だが、そんなもので冷え切った部屋の寒さがすぐに和らぐことはない。部屋がぬくもりを取り戻すまでには、まだ暫くかかるだろう。身震いしそうな寒さが足下から這い上がってくる。部屋の中だというのに息が白い。
 こうも居間が寒いのは、このフラットの壁に天上から床まで穿たれた、大きく開放的な窓のせいもあるだろう。光を存分に取り入れ、冬でも十分な明るさを提供してくれる二つの美しい窓は、それと引き替えに多少の冷気をも取り込んでしまう。窓際に近寄ればガラスには氷が張りついていて、霜で白く霞む薄暗い外には、帽子とコートで防寒した数人が口元までマフラーに埋めながら足早に道を急ぐ姿が見えた。あちこちが白いのは、昨夜も幾らか雪が降ったせいか。今は小雨になっているようだ。
 それをちらりと認めて、ジョンはぶるりと肩を震わせる。あと一時間もすれば、ジョンもまたあの中に出て行かなくてはならない。吸い込んだ窓際の空気は、気管を通り抜けて肺をも冷やした。
 先ほどスイッチを入れた背後のテレビからは、予報を伝える音声が流れてくる。
 ――今年一番の寒波が到来し……今日も冷たい寒さとなるでしょう。
 冬が来るたびに今年一番、例年にない寒さという単語を聞いている気がするが、なるほどそうかもしれないと思わせるほどに寒い。何せここ数年悪化するばかりの異常気象は、冬に入って本格となった。実際、欧州を襲った寒波は一部で少なからぬ路上凍死者を出し、地域によっては空港封鎖や列車の遅延、高速道路の除雪という事態を引き起こしている。ヒースロー空港でも夜間の積雪と着氷性の霧のために当日便の三〇%が欠航し、一時期のニュースになった。
 ロンドン市内では、交通機関が麻痺するほどの積雪はないものの、早く春が来ないかと願うのは、こんな厳しい朝の時間だ。季節は二月に入ったばかり。これからまだ寒くなるだろうという予報にジョンは思わず窓越しに曇天の空を睨みあげた。しかし、天候に文句を言っても始まらない。今日という日がスタートしてしまった以上、いつまでもベッドに閉じこもっているわけにはいかないのだった。
 ジョンは白い息を大きく吐き出しつつ、本日最初の仕事に取り掛かることにする。カーテンを完全に開けて、冬独特の、厚く重たい雲から滲み出るような、か細い光をめいっぱい部屋の中に取り入れると、マントルと真反対の壁側に置かれたカウチの上で転がっている白い塊に向かって怒鳴った。
「起きて服を着ろ、シャーロック…!」


     ***


 テレビ音声の流れたままの部屋で、ここ221Bでは、いつもの光景が繰り広げられている。
「だからどうして居間で寝るんだよ。自分の部屋で寝ろよ。というか寝たのか、君」
 呆れたように小言を並べ立てるジョンを、同居人たるシャーロックが不機嫌丸出しの顔で見上げている。黒い癖毛は、寝癖で更にあちこちに飛びはね酷い有様だった。
 ジョンの声に渋々ながら身体を起こしたシャーロックは、毛布を肩から掛けたままカウチから降りると、ローテーブルの上を裸足で踏み越えて部屋を横切り、暖炉前へのソファへと移動していた。定位置である窓側の一人がけチェアにどっかりと全身を預け、長い脚を暖炉に向かって投げだしながら、シャーロックはジョンに向かって言い返した。
「僕の部屋の方が寒い。居間が暖かい間にここで過ごした方がいいんだ」
「それで朝までここにいたって? ボイラーが切れれば一緒だろ。風邪をひいても知らないからな」
「風邪をひくつもりはないが、ひいたところで君が気にする必要はない」
「気にするよ。僕の手間が増えるんだ」
「放っておけばいい」
「僕が医者だってわかって言ってるんだろうな」
 冬のシャーロックはシーツではなく、毛布にくるまっていることが多い。さすがに寒いのか下が裸ということはさすがになく、部屋着を着た状態だ。とはいえ、だらしがないことには変わりがない。身なりを整えれば実に品のある男なのだが、家の中にいて依頼もない時は、怖ろしく自堕落な生き様を体現している。遠慮や緊張感の欠片もない。外ではブランド品を颯爽と着こなすシャーロックが、くたびれたウェアやガウンで転がる姿を目にするのが、少なくとも自分か大家のハドソン夫人だけということに、喜べばいいのか嘆けばいいのか、未だにジョンはよくわからないでいる。
 寒さが厳しく、暖房が部屋全体を暖めるにも足りない時、シャーロックはいつも寝転がっている壁際のカウチから更に動かなくなる。理由は単純。その付近が一番過ごしやすいからだ。その場所で新聞を広げ、本を開き、時にバイオリンを奏で、あまつさえ寝る。当然付近には、シャーロックの私物が積み上がり、酷い時には足の踏み場もない。長身痩躯の身体を自在に折り曲げて、カウチで寝転がり或いは丸まっている器用さには驚きを通り越して呆れるばかりだ。自分のベッドに移動した方が遙かに過ごしやすいと思うのだが、彼が自室で休むのはその時の気分次第だ。まるで猫のような男である。
 散らかった本をよけながらカウチに近づく面倒を思い出して、ジョンは思わず舌打ちをしたくなった。
 ジョンの文句も素知らぬ顔で、シャーロックは肘掛の上に肘を預け、あごの下で指先を合わせている。彼が思考している時の独特のポーズだ。
 その顔色や目元を改めて認めて、ジョンはシャーロックがやはり寝ていないことを確認する。事件がないというのに、どうも彼は寝ていないらしい。おそらくは。
 そのことを指摘するとシャーロックはしれっとした顔つきで肩を竦めた。
「考えることがあるんだ」
 だから眠れないと言うのにジョンは首を傾げる。
「何を?」
「だから、今考えているところなんだ。出ない答えを教えるのは、君にでも嫌だね」
「あぁ、そうかよ。早く答えが出ることを願うよ、シャーロック」
 屁理屈ばかり捏ねる同居人を今は放っておいて、ジョンは沸かしていた湯でコーヒーを淹れることにする。カップを用意していると居間から声が飛んできた。
「君は今日は仕事?」
「そう」
「このところ、毎日だな」
「冬の病院は忙しいって決まってる。君はいいよな、暇そうで」
「そうだな、僕と違って君は忙しそうだ。余計な依頼まで背負い込んでくれて」
「余計…っと、そうだった」
 ジョンは小さく溜め息を吐いて、右側の窓辺の傍へと近寄った。ただでさえバラエティに富んだ物がごった返している221Bに、先日から更に増えたものがある。鳥かごだ。積みあがった本を横に押しのけて確保したスペースに、置かれた中には、小さな小鳥が蹲るようにして眠っている。
「あぁ、駄目だ。やっぱり食べてない」
 鳥かごの中に置いたエサ入れのエサが全く減っていないのを目にしてジョンは困ったなと零した。その様子に、シャーロックが呆れたように首を振る。
「余計な依頼を背負い込むからだ」
「だからって追い返すわけにもいかないだろう…」
 湯が沸いたようなので、キッチンに移動してコーヒーを淹れる。用意したカップはすっかり習慣になった二つ。挽いた豆をセットして、これだけは焦らずにゆっくりと湯を回すように注ぎながら、ジョンは昨日のことを思い出して溜め息を吐いた。
 昨日、少し早めに帰宅したジョンを待っていたのは、ぐったりとした小鳥を手に乗せた少年と、その妹らしい少女だった。小鳥を助けて欲しいというのがその依頼内容で、シャーロックは動物病院に連れて行くか、さもなければ元いたところに戻すようきっぱり告げた。聞いてみれば、既に母親には「元の場所に戻しなさい」ときつく叱られたらしく、途方に暮れて今にも泣き出しそうな子供たちを宥め、とりあえずここで預かるからとつい言ってしまったのは、確かにジョンだった。
 常識的なことを考えれば、シャーロックの言い分は実に正しく、結果ジョンはまさしく「荷物」を抱え込んでしまった。子供の頼み事なので依頼料を請求するわけにもいかず、そもそも正式な依頼とも言えない。引き受けたことを後悔するつもりもないし、小鳥は可哀相だとは思うが、面倒ごとを引き受けたことには変わりなかった。
「どうして肝心の事件が起こらず。どうでもいい相談ごとばかりが来るんだ」
 いらいらと肘掛けを指でタップしながら文句を垂れるシャーロックに、砂糖二つを投入したコーヒーカップを差し出しながらジョンは首を傾げた。
「何、他にも何かあったの?」
「明らかに子供のものとわかる切手も貼られていない手紙だ。宛先だけ書かれて投函されたのを集配した配達人が、気を利かせて切手を貼り、ここまで転送してくれたらしい。余計な気遣いを…!」
「大人気で結構じゃないか。子供が連れ立って依頼にやってくるとは、天下のコンサルト探偵も、ずいぶん親しみやすい存在になったもんだよ」
「全くだ。小鳥の世話を押しつけられ、後は探しものときた。何でも、入ってたメモによると配達人は君のブログのファンだそうだ。子供から探偵への依頼なら是非届けてやらなければと、美しいボランティア精神を発揮してくれたらしい。全く、君のブログのおかげだな」
 ちっともありがたがっていない口調で皮肉たっぷりな一言が飛んでくる。その声に、ジョンもまた「どういたしまして」と皮肉で応えてやる。ついでに、にやりと笑って見せれば、明らかに探偵はふて腐れた顔をした。
「成程ね。じゃあ君のせいだと言い換えようか? 言わせてもらうが、こんなもの探偵の仕事じゃない。僕がやりたいのは雑用でもお使いでもない。謎解きなんだ。君のブログが僕の仕事に誤解を与えているんじゃないか?」
「僕は僕が体験したこと、思ったことを分かりやすく書いているだけだ。仕方ないだろ。僕こそ言わせてもらうけど、細かい仕事をこなせるようでなきゃ、大きな仕事は回ってこないんだぞ。まあ、小鳥の件は僕もどうかと思うけれど…でも子供の依頼だからって馬鹿にできない…これ、中身見たの?」
 机の上のラップトップの横に、その「手紙」が置いてある。左手に持った自分のカップからコーヒーを一口啜りつつ、紙きれを取り上げて見る。
 確かに、走り書きされている文字は、ジョンから見ても明らかに子供のものだと分かる。手元にある紙に書いたものなのだろう。お世辞にも綺麗な手紙とは言えなかった。プリーズから始まる、わずか3行ほどのメモだ。
「見た。そこに書いてある歌を探して欲しいとあった。誰かに尋ねるか自分で調べればいいだろ。僕は検索をするのが仕事じゃないし、サンタクロースでもないんだ。さっきから言っているが、謎を、事件を求めているんだ!」
「はいはい、知ってるよ」
 適当にあしらいつつ、ジョンは紙切れの中身をまじまじと見つめて、もしかしてと呟いた。
「これ、ビートルズのアルバムじゃないのか?」
「そうらしいな。一応調べてはみたが、有名なのか?」
「――何だって?」
 その返答に、今度こそジョンは手にしていたカップを取り落としそうになった。何とか堪えたものの、震えた手が、カップの中の黒い液体をぐらぐらと揺らす。まさか、この英国に、イギリス人の血を引く人間に、いや、あえて大げさな言い方をすれば世界の人間に、まさかビートルズに反応しない人間がいるとは。しかも、それが己のフラットメイトであるとは。
 子供であれば、ビートルズの全盛期を知らないのは当たり前だし、学校の授業やテレビCMなどで曲を幾らか聞き知っていても、それがビートルズに繋がらない可能性はもしかしたらある。アルバムを探して欲しいという依頼も分からないわけではない。ジョンの年代だって、ビートルズの最盛期を知る世代からは外れるが、でもだからといって、ビートルズの名を知らないということはありえないのだ。
 まさかと思いつつ、恐る恐る尋ねてみる。
「君、もしかしてビートルズ聞いたことないの?」
「さあ。覚えがない」
 ――嘘だろ。あっさりと返ってきた返事に、ジョンは思わず呻いた。
 そういえば、ジェームズ・ポンドを知らないのもこの男だったか。およそ昨今の娯楽音楽や映像というものに、とことん興味がないということか。それにしても酷すぎる。いくらなんでもあんまりだ。
「よし、分かった。僕が帰りに買ってきてやる。そうしたら依頼も…ええと、これどこに返事したらいいのか分からないからブログにでも書けばいいのかな…つまり、この子の依頼も果たしたことになるし、君はビートルズを知ることが出来る」
「興味ない」
「いいから聞けよ! 僕は君が地動説を知らなくたって、百歩譲ってジェームズ・ポンドを知らなくたってもうこの際かまやしないけど、ビートルズを知らないことだけは許せそうにもない」
「勝手だ」
「君よりはましだ。大体な、依頼がないないって言うけど、えり好みしているからだっていうのも分かってるんだろうな、シャーロック。そういえば昨日レストレードから連絡があったんだろ。事件じゃなかったのか」
「損傷の酷い遺体の原因解明についてだ。事件じゃない。宿無したちの何人かが死んだ。毎年のことだ。とりわけ一昨日は、朝方にかけて一気に冷え込んだ。事件性と呼べる一片も見つけられない。遺体の損傷が酷かった理由はネズミだ。傷跡をよく確認しないからだ。その周辺にネズミが大量発生していないか調べろと言った。それで終わり」
 さもつまらなさそうに言うシャーロックにジョンはつい笑い出しそうになった。今更彼の道徳観に口を出すつもりはないが、彼の判断基準はいつだって面白いか面白くないかだ。彼を興奮させるのは、複雑怪奇な謎、凄惨な遺体、血塗られた犯罪、そういったものだ。
「君は、面白い事件さえあればそれで満足するってことか」
「また、それか」
 ジョンが呆れたように洩らした一言に、シャーロックは鼻に皺を寄せてむっすりと呟いた。
「シャーロック?」
「この前も同じ事を言っていた」
「そうだっけ」
「君は自分が言ったことをすぐに忘れるんだな」
「おい、何でそう突っかかるんだ」
 朝から一体何なのかと、思わずジョンが声を張り上げた時、「フッフー」と扉を叩く声がして、221Bの大家夫人が顔を出した。
「おはよう、ボーイズ。なあに、朝から喧嘩かしら。駄目よ、2人とも」
「おはようございます、ハドソンさん。今日もまた一段と冷える」
「本当にねぇ。ジョン、あなた今日も仕事なんでしょう?ちゃんと食べられてる?」
「まあ、何とか」
 苦笑混じりに答えたジョンに、ハドソン夫人は茶目っ気たっぷりにぱちりと右目を閉じてみせた。
「そんなことだろうと思って朝食のお裾分けに来たの。分かっているとは思うけど、朝は大事よ。ちゃんと食べて出かけなさいね」
「ハドソンさん、あなたって人は本当に…!」
 感動のあまり、思わずジョンは声を詰まらせた。
放っておくと、缶詰めのビーンズばかりが食卓に上る無精な独身男性の二人暮らしに、彩りを添えてくれるのがハドソン夫人だ。この偉大なる大家夫人は、ジョンが表現するところによれば、「女神」であり、シャーロックに言わせれば、「ハドソン夫人がロンドンから居なくなれば、大英帝国は終わり」ということになる。シャーロックの兄が「歩く英国政府」であるのならば、221Bの住人にとって、大家夫人は「歩く大英帝国」であるとも言えた。
薄いパンとコーヒーだけが並ぶはずだった食卓に、暖かいマフィンや卵、焼いたトマトとベーコンに果物が並べられていく。卵はスクランブルドエッグだった。牛乳と生クリームをふんだんに使ったハドソン夫人のスクランブルドエッグには、米が入っていて、ふわふわと口当たりが抜群な上に腹持ちも良い。
 およそ食事というものに良くも悪くも非常にうるさいシャーロックも、ハドソン夫人の料理の腕は認めており、「バラエティにはいくらか欠けるが、気が利く人で、朝食のアイディアはスコットランド人女性も顔負け」と評する。昨今、ここまで食事に手をかける人は珍しくなっている。こんな大家をもったことを、まず2人は感謝せねばならないだろう。
「言っておきますけど、私は家政婦じゃありませんからね」
 お決まりのように釘を刺されたが、そんなことはよくよく分かっている。寧ろ家政婦などで済まされるものではないだろう。 
「そういえば、ジョン。小鳥の様子はどう?」
 ハドソン夫人は、食事を手際序良く準備しながら、鳥かごを覗き込んでいるジョンに声をかけた。子供達にぐったりとした小鳥を手渡され、子供達以上に途方に暮れていたジョンに、使っていない鳥かごを探し出してくれたのはハドソン夫人だった。
「ああ、駄目ですね。もう少し様子を見ようと思うんですけど。病院に連れて行った方がいいのかもしれないな…」
 いくら医師とはいえ、動物は専門外だ。時間があれば、もう少し世話もしてやれるのだが、ここ数日の忙しさではそうもいかない。幾らか迷った末、結局ジョンは最後の頼みに出ることにした。
「すみません、僕が出かけている間お預けしても?」
「いいわよ、可哀相にねぇ」
 その口ぶりは、小鳥に対してなのか、それとも荷物を背負い込んでしまったジョンに向けられたものなのか、やや判断がつかなかったが、彼女の心からの同情が窺えて、思わずジョンは涙が出そうになった。
全く可哀相だ。小鳥も自分も。
 朝食を恵んでくれた上に、鳥の世話まで快く引き受けてくれたベイカー街の女神が、一旦階下へ戻るのを心からの感謝を込めて見送っていると、暖炉から身動き一つせずに座ったままだった同居人が声を掛けてきた。
「僕には頼まないのか。僕は今のところ出かける予定はないが。全く。ちっとも」
 嫌みったらしい台詞を、ジョンは鼻で笑い飛ばした。一体どの口がそんなことを言うのか。小鳥に必要なのは、適切かつ親切な世話であって、それをこの男が与えられるとは到底思えない。寧ろその逆だ。
「帰ってきてこの鳥が実験動物になっているのはごめんだね」
「そんなに僕が信用ならないのか、ジョン」
「信用ならない!」
 はっきりと断言してからジョンは時計を確認し、慌てて朝食の席に着く。
「やばい、もうそろそろ急がないと。…ほら、君も早く食べろよな」
 憮然としたままのシャーロックを他所に、今日一日分のエネルギーを摂取するべく、ジョンはまだ温かいマフィンを口いっぱいに頬張った。


     ***


 道路に出て、駅方面に向かって歩いていくジョンを、シャーロックは窓から見下ろしていた。
 吐き出した息が凍り付いた窓にかかり、視界を白く覆い隠す。霜を指先で拭い取り、小さくなっていくジョンを目で追う。ジョンは平均値を幾らか下回る体躯にニットとコートを着込み、首にマフラーを巻き付けて、首を竦めるようにしながら道を急いでいた。路面は凍り付き、誰しもが足を取られそうになっている。ジョンのくすんだ金髪が人混みの中に埋もれていく。
「シャーロック? あら、あなたまだ食べてないのね!」
 再び二階へ上がってきたハドソン夫人が、シャーロックを見て呆れた声を上げる。返事もせず、窓辺で立ちつくしているシャーロックをどう思ったのか、彼女は小さく笑ったようだった。
「シャーロック。ジョンに甘えるのは駄目よ」
「ハドソンさん、僕は別に甘えてるわけじゃ…」
 たしなめるような優しい声に、そういうつもりではないのだと、シャーロックはうんざりしたように言い返したが、百戦錬磨の夫人は、恩義ある厄介な住人のそんな態度をものともしなかった。
「駄々を捏ねるにしても、もっと上手におやりなさいな。そんなんじゃ、ジョンに愛想を尽かされてしまうわよ」
 憮然として黙り込んだのを、否定と取ったのか肯定と取ったのか。大家夫人は、ジョンに預けられた鳥かごを抱えると、あなたが食べ終わるまで片づけませんからねと宣言して部屋を出ていく。
 階段を降りる足音が遠ざかり、ばたりとドアが閉じる音が聞こえると、221Bにはシャーロックだけが取り残された。人が減った居間は、暖房もヒーターも点いているというのに、それだけで気温が下がった。
 静まりかえった部屋には、ジョンが点けっぱなしにしていったテレビの音声だけが流れている。
 ――このところの寒波の影響により…
 同じようなニュースを深刻な顔で繰り返すアナウンサーの声が耳障りだ。手元に放り出されたリモコンがあるのを見つけ、テレビの電源を切る。ぷつりという音と共に映像機器は喋るのを止めた。一瞬にして部屋が静まりかえる。
 だが、望む静寂を取り戻したというのに、シャーロックの苛立ちは収まらなかった。
 物足りない。何が足りない。苛々する。事件がないからだ。身体が脳が、刺激を求めている。
 どうして満たされないのか、どうすれば満たされるのか。こうも分からない焦燥感を抱くのが何故なのか、それがとりわけ厳しい冬の寒さのせいなのか、シャーロックには分からないままだった。
 当てのない思考を巡らせながら窓辺に佇んでいると、机の上に放り出していたモバイルが着信を知らせる音を鳴らした。踵を返して、モバイルを手に取る。液晶に並んだ見慣れた数字にシャーロックは微かに口端を吊り上げた。
「――シャーロック・ホームズ。レストレードか?」
 通話ボタンを押して耳に押し当てる。電話口から聞こえてきたのは、案の定、スコットランドヤードの馴染みの刑事の声だった。
「死体、ね。あぁ、分かった。何? 面倒だとは思うが、行くさ。退屈していたんだ。少しでも気が紛れるなら何だっていい。出来るだけ面白い死体だと嬉しいけど」
 三〇分後にはそちらへ出向くと伝え、通話を切る。再び物言わぬ固まりとなったモバイルを見つめ、一瞬思案した後ボタンに指を掛けようとしたが、シャーロックはそれ以上何をすることもなく、モバイルをそのまま放り出すと、身支度を調えるために自室に向かった。


     ***


「ジョンは一緒じゃないのか?」
 キャブで到着した先のバーツで、待ち受けていたレストレードが寄越した言葉に、シャーロックは凍てつくような目線を投げかけた。
 だが、レストレードは、シャーロックの目つきに怯むことはなく、ただ肩を竦めただけだった。
泣く子も黙るスコットランドヤードの警部補、グレッグ・レストレード。よく見れば繊細で端正な造りの顔立ちは、短くない刑事人生の荒波で削られ、長年の外回りの仕事の疲弊や必然的について回る人間関係のいざこざの苦労を、その年齢分だけ皮膚に刻み込んでいる。シャーロックの言動による負担も、少なからずそこに含まれるだろう。
 一見して頼りなげにも映る男だが、その目に宿る光は炯々として油断がない。口先では侮るものの、レストレードが有能な刑事であることを、シャーロックは密かに認めている。とはいえ、下手に付き合いが長いと良くも悪くも遠慮がなくなるもので、つまりレストレードは、シャーロックに振り回されつつも、ただその立場に甘んじているわけでもないという、稀少かつ貴重な(シャーロックにとっては面倒な)人間の一人であった。
 半ば腐れ縁とも呼べる相手に、シャーロックはむっすりと言い返した。
「別に、いつもジョンと一緒というわけじゃない」
「いや、一緒だろう。どうした、忙しいのか。ジョンは」
「冬だからな」
 全く答えにならない返答を短く寄越し、シャーロックはさっさとモルグへと足を向けた。その後ろを呆れたような溜め息と共にレストレードが付いてくる。
モルグに入ると、白衣を着たモリーが手元の書類を確認していた。髪を一つに束ねた化粧気の少ない顔は真面目そのものだ。口紅は付けていないようだった。
「やあ、モリー」
「こんにちは、シャーロック」
 声を掛けるとぴくりと肩が震え、書類から目を上げてぎこちない微笑みを浮かべる。相変わらずどこか上擦った声だ。シャーロックを見たその瞳が数度瞬かれて、あらと声が洩れた。
「今日も、その…彼はいないの? 同居人の…ジョン」
「―――」
「あ、ごめんなさい。私が聞くことじゃないわよね。悪い意味じゃないの」
 本当にごめんなさいと、引きつった笑みを浮かべたモリーが、脅える小動物のように小さく首を竦めて再び手元に目を落としたところを見ると、己は相当奇妙な顔をしていたのかもしれない。後ろでレストレードが吹き出しそうになっているのを苛々と感じ取りつつ、シャーロックは思わず怒鳴り散らしたくなる思いを堪えて、その代わりの溜め息を吐いた。
「ジョンにも仕事があるというだけだ。別に理由なんかない。…死体は三つか」
目の前に並んだ黒い死体袋を眺めて確認する。先ほど死体冷蔵庫から引き出してきたばかりなのだろう。
「ええ、そう。これで全部」
 小さな声でモリーが告げたのを引き取るように、少し離れた場所で腕を組んでいたレストレードも、また一つ頷いた。
「全て今朝見つかったものよ。とりあえず凍死体ということで処理していたけど、三体の遺体や発見状況に共通点が見られることから、事件が関係しているんじゃないかって」
「共通点ね。またネズミに食われ放題の死体とか?」
「…見ればすぐ分かると思うわ…」
 レストレードは電話口で、遺体の詳細を述べなかった。ただ、奇妙な遺体が見つかったとだけ告げてきたのだ。シャーロックを呼び出すならそれだけで十分だ。興味があるのなら来いというわかりやすい挑発であると同時に、何としてもその目で確かめろという意思表示でもあった。その意向をくみ取り、ならば相当に面白い代物なのだろうとシャーロックはやってきたのだ。
 首からマフラーを抜き取りながら、死体袋に近づく。
「小さいな。女性…違うな。子供か…? 発見場所はどこだ」
「全てハックニー地区だ。ホクストン駅から十五分ほど離れた路地。周辺は廃屋ばかりが並んでいる。ほぼゴミ置き場といっていい」
 東ロンドンかと、シャーロックは脳内でロンドン市内の地図を展開させ、場所の見当をつける。ハックニー地区は南部が金融地区に接しており、昨今再開発が進んでいる地帯だ。高級フラットやショップ・レスラトランが次々にオープンしているトレンディ・エリアであるが、昔からイギリス最貧困層地区の一つとして知られる。住民は移民が多く、一昔ほどでないとはいえ治安はよろしくない。
「場所が場所だからな。細かい事件は日常茶飯事だ。浮浪者の死体もごろごろ出てる。再開発でフラットを追い出された人間も多いからな。捜索願も出されていなかったし、通常なら身元不明遺体として処理されたんだろうが、発見状況と遺体の特徴に不審な点が見受けられた。報告によれば、布にくるまれて安置されていたそうだ」
「――安置されていた?」
ゴム手袋をはめていたシャーロックはその表現の奇妙さに眉を顰めて手を止めた。路上の死体は概ね行き倒れているか遺棄されるものだ。わざわざ安置するものではない。
「ひっかかるだろうが、安置されていたと表現するより他はないんだ。路地裏の積みあがった木箱の間にあったそうだ。そのせいで、野犬や鳥に食い荒らされずに済んだんだろうな。当然発見も遅れたわけだが」
「発見者は、ホームレスだったな」
「そうだ。今朝方未明、ゴミを漁っていたところを発見した。報告を受けて路地を探索したところ、他にも遺体が出てきたってわけだ」
「遺体は全て近いところに置かれていた?」
「いや、別だ。ただ割と近いところには置かれていた。司法解剖はこれからだからまだ死因ははっきりしていないが、死亡時期には明らかにばらつきがある。お前が推測したように子供の遺体だ。――見てみろ」
そういってレストレードが身体を引く。なんともいえない顔だった。ここに来た時から、彼はずっと奇妙な顔つきをしていることにシャーロックは気づいていた。それを、モリーがずっと伺うようにちらちらと見ているのも。苦痛とも嫌悪とも、もしくは不可解とも取れる曖昧な表情に首を傾げつつ、遺体を覆う黒いカバーのチャックを引き上げる。
その中から覗いたものを目にして、シャーロックは思わず声を呑んだ。死体など見慣れている。魂の抜け落ちたそれらは、無機質なガラクタに等しいモノだった。そのはずだった。
だが、目の前にいるのはそうではなかった。そう思わせることをシャーロックに許さなかった。
一つから身体を引き、二体目、三体目と次々に中身を露わにしていく。何れも一〇歳ばかりの子供の遺体だ。いずれも少年だ。一体目と二体目は、かなり腐敗が進行している。この冬の寒さでさほど酷い状況ではないが、それでもそれぞれ三週間から二ヶ月の間に息を引き取ったものだろうと思われた。そして三体目は、ひどく綺麗な状態だった。まだ死後二日と経っていないだろう。血の気が失われているだけで、眠っているようにすら見える少年の遺体だった。
露わにした遺体を全て眺め、シャーロックは小さく呟いた。
「――なんだ、これは」
――どういうことだ。
知らずそんな声が洩れる。そこにあるのはこの事件が尋常なものではないということを静かに示していた。
物言わぬ骸と成り果てた子供たちは、まるで眠っているかのような穏やかさで目を閉じていた。どれもこれも、微笑んでいた。まるで夢の中にいるかのように、幸せそうな顔を浮かべている。
そして、その肢体は、目に見えて激しく損傷していた。腹、もしくは脚、あるいは腕。各々場所は異なるものの、肉体の一部が、何か鋭いもので切り取られていたのだった。


- end -


2012/09/22
>MP17にて発行のサンプルです。頒布終了済。

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