WhirlWind

Fire a gun salute

Holmes & Watson


 部屋の空気は澱んでいた。
 生温かく、まとわりつくような湿度が、まるで羊水のように室内を満たしている。
 静けさを破るように、拳銃が唸り声を上げ、空気を切り裂いて玉を壁に命中させた。

――1発。

 ずん…と鈍い音が響き、壁からぱらぱらと破片がこぼれ落ちた。
 的を見やることなく、見事に壁の一点を打ち抜いた部屋の主は、だらりと寝そべったままの姿勢で更に引き金を引く。

 ――2発、3発、4発…。

 六発打ち切ったところで銃弾を充填し直し、更に撃つ。そうして立て続けに打ち込んだ銃弾の列を眺め、ホームズは満足げに微笑んだ。
 壁に描かれたのは、「V.R」の文字。
 実に良い出来だ。そして我ながら良い腕だ。
 ブラボー、と小さく快哉の声を上げる。それはホームズの心からの賛辞だった。手に収めたアダムズ1872年型マークⅢ式のそれは、ワトソンのものだ。軍用として支給された拳銃は、まさに平和と戦争の証そのものだった。
 全く皮肉なものだ。戦争が無ければワトソンが軍医として従軍することはなく、負傷して送還されることはなかった。当然、ホームズとワトソンが出会う理由はなく、今のような関係は生まれるべくもなかったのだ。スタンフォードの仲介がなくともいつか出会えていたかもしれないなどと、そんな夢想を語るつもりはない。間違うことなく、平和にほど遠い血なまぐさい世界が、己とあの男を…掛け替えのない右腕とを結びつけたのだ。ブラボーの一言も叫ばずにはいられない。
 そして今もなお、平和の名のもとに工業と文化を世界に先駆けて発展させた我が祖国は、薄暗い現実を土台に煌めいている。
 そして、その根幹を支える澱みにこそ、ホームズの求める事件が潜んでいるのだ。
 あぁ、こんな愉悦が他にあるか。
 そうだ。事件がいい。とびっきりの新鮮なもの。謎は多ければ多いほど。そこに屍体がついてこれば上出来だ。屍体は新鮮である必要はない。ばらばらであろうが腐敗していようが問題はない。必要なのは難易度だ。屍体の状態が悪ければ悪いほど、謎解きは難しい。そこから拾い上げる手がかりを思えば、それらを繋げていくスリルと興奮を想像するだけで、鳥肌が立ちそうだ。男はうっとりと目を細め、一度目を閉じるとまた開いた。
 首をゆっくりと一巡りさせて、もう一度壁の芸術品に目をやる。どうも少しバランスが悪いような気がした。何がおかしいのかを把握しようと目を凝らす。「R」の最後払う部分が短すぎるように思えた。「V.P」に見えなくもない。それではナンセンスだ。折角の女王への賛辞が水の泡。
 ホームズはもう一度、拳銃に指をかけると、残っていた弾全てを、壁に向かって撃ち込んだ。

ブラボー、女王陛下。
上辺だけの幸福に、それをもたらしてくれたわれらが愛する女王様に敬意を込めて。
平和を一枚めくったロンドンの街で、人は泥の中をはいずり回って生きている。
事件は起こり、仕事はたくさん。

――あぁ、この平和な世界に祝福を。

 その音が全て止む前に、階段の方で慌ただしい音がする。

 ――さぁ、来たぞ。

 硝煙が立ち上る室内で、ホームズは半ば微睡みながら、拳銃を放り出して口元を微かに吊り上げる。

「ホームズ!!!」

 間を置かずに駆け込んできた騒がしい足音と愛すべき同居人の怒鳴り声に、また楽しい日常が飛び込んでくることを期待し、ホームズはもう一度笑った。


- end -


2012/05/03
>2012.5.SCC発行コピー本再録。

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