WhirlWind

Eudaemonics

John→←Sherlock


 買い物帰りの身体を引きずって221Bの部屋に上がると、ぶつぶつと呟く同居人の声が聞こえてきた。
 居間の壁側には長椅子に全身を預け、頭だけ僅かに起こして顎の下で両手を合わせたいつもの姿がある。
「ただいま、シャーロック」
 声を掛けたものの、これは聞こえていないなと見て取って、ジョンは控えめに、されど先ほどより強めに名前を呼んだ。
「シャーロック」
「…ジョン?」
 滔々と語り続けていた口を噤み、どこを見るともなく向けられていたシャーロックの目がゆらりと焦点を結んでジョンを捉える。色素の薄いブルーグレイが、まるで夢から覚めた子供のようだとジョンは思った。
「また、僕に話しかけてたのか?」
 そう尋ねると、シャーロックは全く意味がわからないという顔でジョンを見つめ、口を尖らせた。
「どうして今更僕の話を遮るんだ、ジョン」
「僕は今の今まで出かけてた。君にそう言ったと思うんだけど」
「気づかなかった」
「だろうな。ごめん、今からで良ければ話を聞くけど」
 そう提案したが、シャーロックの反応は大変に素っ気ないものだった。
「…いや、もう話は終わった」
 さっさと切り上げられて、唖然とする。
 一方的に架空のジョンに向かって語るくせに、今目の前に生身がいるのに、話さないのか。
 ―――何だ、それは。
 今更のことではあったが、ジョンは改めて呆れ果てた。そうだ、いつものことだ。それなのに、今このタイミングにあって、ジョンは何故か苛立ちを感じた。
「あのな。僕に話すのと、君の友人に話しかけるのと何か違いはあるのか、シャーロック」
 思わずそう言い放つ。
 ジョンがやって来る前まで、唯一の友達だったというマントルピース上の住人は、今は静かに置物としての役割を果たしていた。それなりに掃除をしているので埃が溜っているということはない。寧ろジョンとしては、先輩住居人として、かなりの敬意をもって接していると思っている。
 大人しい「友人」は、シャーロックの台詞をひたすら従順に行儀を崩すことなく聞くだろう。ジョンのように、途中で別のことを始めたり、適当な相づちを打つことはない。シャーロックが話しかける「ジョン」が、彼に対してしっかりと相づちを打っているのかは分からないが、居るだけで良いというのなら、「ジョン」も髑髏(スカル)も同じことだ。
 荷物をどさりと机の上に置き、買ってきたものを袋から取り出しながら、ジョンはなおも続けた。
「なにか、別のものに僕の名前をつけて置いておこうか。君は、僕の骸骨でもそうやって話しかけるのかな」
 些かならず棘を含んだジョンの言い方に、シャーロックは宙に向けていた視線を、ジョンに向けてきた。何を馬鹿げたことをと言わんばかりの口調で、短い返答を寄越す。
「まさか。彼は彼。君は君だ」
 シャーロックにとっては単純なことなのだろう。事実、単純だ。だが、今日に限ってジョンはその返答に食ってかかった。
「どう違うっていうんだ。言ってみろよ」
「ジョン?質問の意味がわからない」
 まただ。そうやって、明確な理由も提示できないくせに。
 ―――シャーロック。君には僕が必要か。骸骨よりは役に立っているか。
 つい浮かんだ問いを口に出せるはずもなく、シャーロックを見据えると、驚いたように目を瞬かせて、彼は答えた。さも当たり前のように。
「君は、僕の友達だ」
「…そうだったな。ごめん」
 戸惑いを隠しきれない声音で告げられたそれに、ジョンは素直に詫びた。
 彼が、冷淡なようでいて本当は人の感情に酷く敏感なのを、だからこそ普段シャットアウトして拒絶しなければならないのを、知っていたのにそんな言い方をした己を悔やむ。
 だが、ジョンが何を謝っているのかシャーロックには分からないようだった。
「ジョン?」
「……僕が悪かった、シャーロック。その、ちょっと今イライラしてるんだ。手のかかる患者が多かったし、買い物もその、欲しいものが見つからなくて」
 言い訳を並べてシャーロックから目を逸らすと、コーヒーを入れてくると告げてキッチンに向かう。
 シャーロックはそれで納得をしたのかそうでないのか、それ以上何を言うこともせず、再び口を閉ざしてぼんやりと天井を見上げていた。


     ***


 ケトルで湯を沸かしつつ、買ってきた物を冷蔵庫や棚に放り込む。
 どうして、今更こんなことで苛立つのかわからなかった。
 シャーロックはスイッチが入れば、立て板に水の勢いで弁論を振るうが、そうでなければ黙り込んでいることも多い。今もたまたま黙りモードに突入しただけのことだろう。
 バーツで出会ったときに自分で言っていたはずだ。自分は2、3日話さないこともあると。ジョンはその件に関して一向に構わなかった。普段からべらべらとしゃべり続ける人間であれば逆に疲れてしまう。
 彼と一緒に暮らすことは、ジョンにとって予想以上に面白いことであったが、その生活において彼が何を話そうが黙りを決め込もうが、それはそれで全く問題はないはずだった。
 それなのに、さっきから胸の奥をすぅすぅとすり抜けるものがあって落ち着かない。何が不満でいらいらするのか検討がつかず、理由のつかぬ感情がよけいにジョンの苛立ちを刺激した。
 開いた冷蔵庫には、相変わらず人体の一部が当たり前のように鎮座しており、戸棚の中にはやはり実験途中と思われる液体だか何だかがビーカーに入って並べられている。慣れた手つきで(順序だけは入れ替えぬように注意しながら)それらを横に避けつつ、本来詰め込むべきものを黙々と並べていく。
 同居するようになってから判明した、明らかに異常なシャーロックの習慣は、ジョンにとっては既に日常の一部となっており、呆れこそすれ、今更逐一腹を立てることはない。それなのに、まさかあらかじめ知っていたはずのシャーロックの習慣に、釈然としない思いを抱くことになろうとは。
 不意に、昼間ハドソン夫人と見たドラマのワンシーンが脳裏に甦ってきて、ジョンの手を止めた。
 ヒロインが、主人公に向かって両手を広げて叫ぶ場面。彼女は真摯な眼差しで告げた。

『あなたが傍にいれば、私は他に何もいらないの』
『それが私の幸せなのよ』

 ―――幸せ。しあわせ。シアワセ。
 なるほどそれが幸福の一つの形かと、ジョンはぼんやり思ったのだ。思いはしたが、ピンとは来なかった。
 どうしてそんなことを思い出したのかと自分で首を傾げ、そして苦笑する。
 シャーロックは、ジョンが傍にいればそれでいい。正しくはジョンという存在を自分が認識出来ていればそれでいい。――恐らくは。
 男女間の恋愛のやりとりを自分たちに当てはめるのは滑稽だったが、シャーロックがジョンに向けるそれは、彼が人間関係に不慣れなせいか、時々おかしくなるほど子供の色恋にも似た一途さを見せた。
 怖ろしいほど真っ直ぐなために、それは時々突拍子もない方向へ向かっているように思う。
 ―――じゃなきゃ、架空の僕に向かって話し続けて、ましてそれで満足できるなんてないだろ。
 シャーロックにとっての「ジョン」が傍らに在りさえすればいいというのなら。
 ならばそれは。…それは。

 ―――マントルピースの彼(スカル)と一体何が違うのだろう。



     ***


 沸いた湯で2人分のコーヒーを入れる。これもまたすっかり習慣になってしまった。調味料だけは実験道具に埋もれさせてなるものかと、中身を書いたラベルを張り付けた瓶の中から、角砂糖を選んで取り出し、頭脳労働に勤しんでいるのだろう同居人のために2つを放り込む。ついで自分の方にはミルクを注いでから両方をかき混ぜた。いつもはストレートでまったく構わないジョンだが、今日はなんだかミルクを投入したい気分だった。
 マグカップを両手に居間に戻ると、シャーロックはぴくりとも動かずに、手を合わせた姿勢のままでカウチに転がっていた。緩やかに閉じた目は、寝ているのか瞑想しているのか判断がつかない。
「…コーヒー、ここに置いておくからな」
 一応声だけ掛け、テーブルにカップを乗せてから、溜め息と共に踵を返す。
 そのまま自分のカップを抱えて立ち去ろうとして、ぐっと服の裾に掛かった力に阻まれた。さほど強い力ではない。だがジョンを動けなくするには十分だった。
 誰の仕業か考えるまでもない。寝ていたわけじゃなかったんだなと頭の隅で考えつつ、ジョンは天井を仰いだ。
 
 ―――あぁ、シャーロック。全く君ってやつは。

 シャーロックが無意識に伸ばす手はいつだってぞんざいで、こちらの都合など全く考慮しない。乱暴とすら言える手つきであるくせに、時折彼はひどく遠慮がちにジョンに触れた。まるでこちらが、今にも手を振り払うのではないかと危惧するように、躊躇いがちに、それでいて縋るように。
 触れて良いかとわざわざ口に出すことはない。そう言われて、はいどうぞと返せるほど、ジョンも全てを割り切っているわけではなかった。
 ジョンはシャーロックの手を拒絶したことはない。口で文句を言うことはあるが、振り払ったことは一度もない。
 それを知っているはずなのに、シャーロックは時々怯えるように手を伸ばした。
 一度掴めば、いつまでも離そうとしない。離されるのを怖れているようでもあった。
 ジョンはしばらく突っ立ったままで、裾にかかるシャーロックの手を見下ろしていたが、やがて諦観の念と共にその傍に座り込んだ。
 カウチに凭れるようにして入れたコーヒーを飲んでいると、不意に、肩に重心がかかるのを感じる。クッションに乗せられていたはずのシャーロックの頭が移動してジョンの肩に押しつけられていた。
「重いぞ、シャーロック」
 小さく非難の声をかけたけれど、返事はない。
 だが、不意に感じた気配に、慌ててコーヒーをサイドテーブルに置いたのは賢明な判断だった。
 傍らから伸びたシャーロックの腕が、ジョンを抱え込むように抱き寄せたので。
 ジョンがここにとどまったのを肯定と受け取ったのか、それは至極自然な動作だった。
 あぁ、彼は本当に良いものを着ているのだなと、まるでテディ・ベアのごとく巻き付かれながら、ジョンは見当違いなことをぼんやり思った。
 頬に触れる布の感触は柔らかで、生地が薄く軽いわりに温かい。自分が着ているざっくりした織目のものとか段違いだ。
 同じ洗剤を使って洗っているはずなのに、抱き込まれた腕からは、確かにシャーロックの匂いがする。香辛料を思わせるような独特の香りだ。嫌な香りではない。寧ろすっきりとして好ましい。日々実験道具を扱っているから、薬品の香りも染みついて交じっているのかもしれない。ジョンは薬品の匂いだって嫌いじゃなかった。あぁ、彼は香水をつける人間だったっけ。そんなことが思い出せない。外出時の身だしなみには気を遣っているようだから、きっとつけているのかもしれない。いつもあっという間に出かける準備を終えているので、つけているところは想像がつかないけれど。もっとも、それはジョンの知らない銘柄だろう。彼が選ぶものはいつだって質の高いものばかりだ。そういうものに幼い頃から慣れ親しんでいるせいなのか、とりわけシャーロックが上質のものを好む人間なのか。
 知っているようで知らないことがたくさんある。
 そうだ、もっと聞けばいい。話をすればいい。
 シャーロックが口を開くその時、あの薄い青灰の目が、透き通った光を湛えながらこちらを見るだろう。その色に、眼差しにきっと己は安心する。何も映していないのではないかと思えるほど、事件のこと以外には無関心なこの男が、自分に対して無遠慮とも思える眼差しをぶつけてくることがジョンには心地よかった。
 あの美しい目の中に、自分がいることが嬉しかった。この体勢だと、彼の顔も瞳も見えない。それが少し残念だった。
「シャーロック」
 そっと呼びかけてみる。抱き込まれているせいで声はくぐもってしまったが、それでも小さく名前を呼んだ。
 返事はなかった。ただ、腕の力かわずか強まったのを感じ、ジョンは思わず苦笑する。
 あぁ、別に離せとか鬱陶しいとか、そういうつもりではなかったのだけれど。
「なぁ。話を聞くよ、僕は」
 やはり返事は返ってこなかった。心のうちで小さく溜め息を吐く。
 この状態では、それこそクッションやテディ・ベアと変わらない。ジョンである必要がどこにあるのだ。
 あぁ、いっそ。傍にいろと、離れるなと、声にして駄々を捏ねてくれさえしたら。
 自分はそれを聞き入れてしまうのではないかと、そう思うこともある。必要ならばそうしてやりたいと考えてしまう。
 だが、シャーロックはそういう我儘を口に出す男ではなかった。言わずともジョンが傍にいてくれると、頭からそう信じ込んでいるのだとしたら、なんて愚かなのだと思わずにはいられない。

 ―――僕は、君の話がききたいんだよ。シャーロック。
 ―――話してくれなきゃわからないよ。言葉にしてくれなければ分からないんだよ、僕は。

 自分のハードディスクはシャーロックのものほど優秀ではない。忘れてしまうかもしれないのだ。それがどんなにわすれたくないことでも。
 ジョンは形のないものを信じてはいなかった。記憶だとか優しさだとかそういうものを。ぬくもりなんて残らない。どんなにそれが暖かなものでも、次の日の朝には冷たくなっているかもしれない。実際にそうだった。戦場で学んだのは、どこまでもシビアな現実だ。
 自分という存在とて、そうなのだと。果たしてシャーロックは分かっているのだろうか。
 傍にいても、不意に感じる寂しさと物足りなさは、シャーロックがジョンという存在を、本当の意味でリアルな生き物として認識していないのではないかと考えてしまうからだ。

 ―――僕は、骸骨よりは役に立っているか?

 あの問いが、また不意に浮かび上がってくる。
 しょうもない疑念だ。ジョンは確かにシャーロックと共に事件解決のためにロンドン市内を駆け回っているのだから。これ以上のリアルなどない。それでも。
 時折もどかしくなるのだ。彼は、彼の中の「ジョン」という存在を見ていて、それはジョン自身とは違うものなのではないかと。それは骸骨とどう違う。何が、違う。

 ―――僕を見ろ。僕に向かって話せよ、シャーロック。

 語らずして全て伝わっていると思うなら、それはなんて傲慢だ。言葉にせずとも共有できているなんて、思いこんで欲しくなかった。ジョンはシャーロックの声で説明して欲しかった。言葉が欲しかった。

 ―――僕は、君の声が聞きたい。

 彼が恐らく思う以上に、自分はずっとずっと自分勝手でわがままで、欲しがりなのだ。己はそういう人間だ。今更それを気づかせたのはシャーロックだというのに、彼は未だに黙り込んだままだ。
 無言で抱き込まれた状態で、伝わらぬ想いを恨み言のように延々を吐き出しながら、ジョンは身動きも取れぬまま、ただ座っていた。それしか出来ることがない。
 目線の先で、手を付けられないコーヒーは刻々と冷えていく。
 全くもって。この男にとって自分は何なのだろうと思う。人形でも髑髏でも、好きに抱えていろというのだ。
 このままでいるのも辛くなってきて、そろそろ立ち上がろうとした時だった。シャーロックが身動ぎしたのは。

「シャーロック…?」

 相変わらず言葉はなかったが、抱き込まれたままのジョンの頭部に、シャーロックの顔がすりつけられるのを感じた。それは、幼子が母親に向ける仕草にも、動物が仲間に表す行為にも似ていたが、ただ一点が異なっていた。柔らかなものがそっと押しつけられ、静かに離れていく。それをまざまざと感じ、ジョンは背中を震わせた。
 キスとか、そんな上等なものではない。もっとつたなく、もっと無意味で…もっと切実なものだった。
 頭の上で、吐息のような声が洩れるのを聞いた。安堵とも落胆とも吐かぬそれは、けれどどこか切なげな響きを帯びていて。
 音のないそれが、「ジョン」と呟いたものであるのを、ジョンは確かに聞いた。

「――――」

 言葉もなく、そこに含まれる思いを感じ取ってしまって、思わずジョンは泣きたくなった。胸に走った痛みが瞬く間に喉元にまでせり上がり、呼吸経路を狭めて圧迫する。それは頭に伝わって鼻の奥がつきりと痛んだ。じんと熱が広がって、あやうく目元に滲みそうになったので、ジョンは必死に腹に力を入れて、瞬きもせずに部屋の隅を睨みつけた。一度でも瞬きをすれば、大変ぶかっこうなものが零れてしまいそうだった。
 せめて声に出して名前を呼んでくれればと願ったのに、シャーロックはもう一度吐息のようなものをもらして、腕の力を強めただけだった。
 縋り付くようなその仕草に、とうとう怖れていたものが滲んできて、ジョンは内心でくそっと吐き捨てる。
 腕を伝って、今更ともいえる熱がジョンの身体に染み通ってくる。普段から体温の低いシャーロックだが、こうして抱き込まれれば確かに温かく、彼もまた人間なんだなと、当たり前のことを考えた。
 そうだ、確かに温かかった。それだけだ。他に何もない。だが、温度しか感じられない今の状況で、先ほどまですきま風を吹かせていた心の奥が次第に塞がっていくのを感じて、ジョンはぞっと鳥肌を立てた。
 何だこれは。一体、何だというのだ。
 奇妙な充足感と共に、突き刺さすような甘い痛みが胸を締め付ける。
 この感覚に何と名を付ければいいのか、ジョンはとっくに知っていた。だが浮かび上がった単語を跳ねつけるかの勢いで否定する。
 ――幸せだと。こんな、これが幸福だと。
『傍にいられれば、それだけで幸せよ』
 ドラマの台詞が頭の中をぐるぐると廻る。安っぽい台詞がジョンの心をかき乱す。巡り廻ったそれは、やがて馴染んだ声で一つの台詞を再生した。

 ――僕は、君がいればそれでいい。

 ちくしょうと、ジョンは再び叫んだ。
 辛くて痛くて満たされて。もしこれが幸せなのだとしたら、自分は泣き喚きながらありがとうを言わなければいけないのか。――嫌だ嫌だ。そんなのは嫌だ。一緒にいられるだけで幸福なのだとしたら、他の全てを諦めなければいけなくなる。そんな気がする。言葉がなければ、形が、なければ。髑髏(スカル)と一緒なんてごめんなのだ。
 混乱と焦りは、いつしか一言も発することのない同居人へと向いて、ジョンは腹の中でシャーロックを罵った。
 ――君には、こんな気持ちわからないくせに。
 わかるはずがないのに、どうしてこんな感情を寄越すのだ。声もなく、恐らく無自覚に。
 ――君ってやつは、最低だ。
 悔しいのと悲しいのとで、もう何がなんだかわからなくなって、ジョンは相変わらず無言で回されたままのシャーロックの長い腕に手を伸ばし、ほんのわずかに力を込めて掴んだ。そのまま指先で思いきり抓りあげてやると、息を呑む気配に続いて低く悲鳴が上がる。
 何をするんだジョンという非難の声を聞いて、ジョンはようやっと安堵した。そうしたらまた、あの忌々しい気配を目元に感じて、どうしても無様なそれを見られたくはなくて、シャーロックの腕に自分の顔を押し付ける。ジョンと、当惑したような、珍しくもこちらを案ずるようなあの低い声が、もう一度耳に触れて。
 あぁ、もう他に何もいらないと、そう思った己に愕然とする。


 ―――これが幸福なんて、認めるものか。絶対に。



※幸福論(Eudaemonics)



- end -


2012/07/02
Pixivより再録。
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