WhirlWind

Captive

Watson →← Holmes


 軋む音と共に扉が開く。
 既に昼下がりだというのに、部屋の中は薄暗かった。カーテン越しに外の光が洩れているが、部屋を照らす十分さには程遠い。ホームズの部屋の中には、昼も晩もない。ただ、彼だけの時間が流れており、質の良い家具と何が何やら判別のつかぬガラクタが一緒くたに置かれているところが、まるで彼の内面そのものを表しているようであった。

「ホームズ?」

 溜め息と共に一歩踏み込んで、ワトソンは室内に呼びかけた。数秒耳を澄ませたが、返事はない。
 薄闇に慣れた瞳が、部屋の中心にあるものを捉える。暖炉の前、虎の敷物の上に、上掛けのようなものを被ったかたまりが転がっていた。

「寝ているのか?ホームズ」

 確認のためにもう一度声をかけたが、丸まったそれが身動ぎすることはなかった。

「それとも、寝たふりをしているのか」

 私をおどかそうとしても無駄だぞと呆れた声を掛けつつ、乱雑に置かれた床のあれこれを足で避けて中に進む。
 どうしても、彼に言わねばならぬことがあった。そろそろはっきりと切り出さねばならない時だった。ワトソンは大きな決断を下そうとしている。今日もそのための外出だった。
 ホームズは本当に寝入っているのか、相変わらず何の反応もない。更に踏み出そうとした足を止め、ワトソンは部屋の中に立ちつくした。
 面と向かって話せないのなら、今は立ち去るべきだった。だが、ワトソンは数度呼吸を繰り返し、唾を飲み込んだ後にゆっくりと口を開く。
 切り出すタイミングを図れぬまま、今己がひどく卑怯なやり方を選択していることを男は自覚していた。

「君に…会わせたい人がいるんだ。君が気に入ってくれるかはわからない。君は興味がないというかもしれないが」

 部屋の空気は沈黙を湛えたまま、そよとも動かない。

「私が選んだ人だ。ホームズ。突然のことで驚くかもしれないが…いや、君のことだから気づいていたかもしれないな…」

 ここ数日の自分の行動を思い返し、ワトソンは苦笑する。いつも以上に身だしなみに気を遣った自覚はある。待ち合わせがあるのだと、普段ならずれこむ診療時間を出来る限り早く切り上げもした。人を一瞥しただけで、職業や経歴、習慣までを事細かに言い当てられる男が、気づかないはずがない。女性と広く交遊を持つワトソンの行動が、普段のそれと異なっていることに。

 ――なぁ、ホームズ。

 部屋の空気に呑まれたのかもしれない。ほのかに暖かな温度は、誘い込むようにワトソンに絡みつく。
 改めて話そうと、さすがにそれ以上は切り上げるつもりだったワトソンは、まるで返答のない室内に吸い込まれるように一歩踏み出した。ずるりと引きずった片脚が、耳障りな音を立てる。
 己の決断。それを下すまでにずっと胸を支配してきた言葉があった。今、その言葉がのど元までせり上がっている。知らずワトソンは小さく喘いだ。
 言おうか言うまいか何度も何度も悩み、とうとうワトソンは呟いた。

「……私は、君から解放されたい」

 小さな呟きのはずが、音の絶えた部屋にはひどく大きく響き、己の声にワトソンは震えた。一度零れたそれは、押しとどめることが出来ずにワトソンの中からあふれ出した。何も返さぬ室内に繰り返し告げる。

「君の傍から、解放されたい。…ホームズ」

 吐き出した声は、みっともなく掠れ、震えていた。
 何という酷い言葉だ。決して短くない年月を共に暮らし、多くの修羅場を一対のようにくぐり抜けてきた相手にかけるには、あまりも身勝手な台詞だ。
 けれど、それはワトソンが抱く哀しいくらいの本音だった。

「優しい、…温かなものが欲しいんだ。不変で確実なものだ。私は、疲れた」

 ――疲れたんだよ、ホームズ。

 ホームズという男に、本来護衛など必要ない。彼には、物事を把握し読み解くだけの能力と、それに伴う危険から自身を守り抜くだけの技量もある。
 戦地帰りというだけの、多少腕の立つ足の悪い男一人、頼らなくても生きていけるのだ。
 そのくせに、ホームズはワトソンを傍に置こうとする。いや、違う。ホームズは自分から要求したことはない。常にワトソン自身に選択させてきた。
 どんな危機的な状況にあっても、ワトソンがホームズと共に行くかどうかは、最終的にワトソンの決定に委ねたのだ。先に行く場合は手がかりを残し、傍にいる時は「君はどうする?」と尋ねた。
 なんてずるい男かと思う。同時に怖ろしい男かとも。
 そこまで考えて、ワトソンは首を振った。
 いいや、違う。それもまた真実ではない。
 息を吐き、泣き出したいような思いで天井を見上げる。

 ―――君がそうするのは、ホームズ。
 ―――君が、私に選択を委ねるのは。

 私が、君の傍にいられるだけの隙間を…余地を残すためなんだろう、ホームズ。

 本当は、ずっとそれを知っていた。
 一見、ホームズの我儘をワトソンが許容しているようでいて、実際許容されているのは自分だった。ホームズの傍にいることを許されているのは、自分の方だったのだ。最初に出会ったあの時から。
 今もそうだ。目線を投げかける相手は、どこまでも穏やかな眠りを貪っているように見えた。事実眠っているのか寝たふりをしているのか、見破ろうと思えば簡単にできる。ホームズの癖などよく知り尽くしている。けれど、今はそれが出来なかった。
 寝ていて欲しかった。同時に起きていて欲しかった。
 境目を明らかにしないまま、己は今まさにその境遇に甘えている。独白という形をとって、ホームズに自分の身勝手で歪んだ言葉をぶつけている。
 結局、ジョン・ワトソンという男は、シャーロック・ホームズの掌の上で転がされているに過ぎない。己は、彼の傍に在るからこそ、ようやっと一個の人間として成り立つ。それを知ってなお、いや、だからこそこの身体は勝手に動くのだ。
 アヘンに侵された人の身体が、無意識にアヘンを求め動くように。
 己を許し、受け入れてくれるたった一人の人間。シャーロック・ホームズという、唯一無二の存在を守ろうとするために。
 嬉々として危険に飛び込み、そのことで魂もまた歓喜するのだ。
「私は、君のためなら、恐らくなんだってするだろう」
 吐き捨てるように呟いた。予感や推測といったあやふやなものではない。それは事実だ。今までだってそうしてきた。これからもそうするだろう。それがどんな理不尽なことであっても。けれど。

「そのことで、私は、時々どうしようもなく苦しくなる。…辛いんだ」

 吐き出す言葉は、針のようにワトソン自身の心をも突き刺した。

「君の横に立ち続けることは、私には苦しすぎる」

 これからも、この先ずっと。それを繰り返す。この男と共にいることで、疲れていく。身も心も磨耗していく。最も、その疲弊すら心地良いものだ。それを否定できない。だからこそ怖ろしいのだと、ワトソンはとっくに悟っていた。
 嫌なわけじゃない。嫌なわけではないのだ、けれど。
 あぁ、うまく言えない。彼を嫌っているわけではない。寧ろその逆だ。言葉などでは伝えられないほど、重く根深く張ったこの思いをどうやって表せばいいというのだ。どうすればこの男に伝わるだろうか。
 彼が幸せであればいいと思った。ずっとそう思ってきた。人並み優れた洞察力と、不安になるほどの過敏さを併せ持つ、たった一人の諮問探偵。何に対しても図々しいようでいて、驚くほど繊細なこの男が、傷つかなければいいとずっと願ってきた。そのためなら、どんなことでもできると、思ってきた。

 ―――私は、君が幸せであることを願う。シャーロック・ホームズ。これまでも…これからも。心から願っている。

 それだけだ。それだけなのだ。それだけ、なのに。
 どうしても、一緒には居られないのだと、ワトソンは理解してしまったのだった。
 ―――何故なら。

「いつか、君は私を置いていく」

 また一歩、足を踏み出し、ワトソンは呟いた。
 シャーロック・ホームズは、いつかワトソンを置いていくだろう。
 ある日、唐突に、酷い仕方で。
 無慈悲なまでに残酷なやり方で、あっさりとホームズはワトソンの手を振り切って、手の届かぬ所へ去っていくだろう。その時、きっと彼は何も残さない。言葉一つ、心一つ、ワトソンの元には残らない。それは鮮やかに姿を消すだろう。
 その光景が目に浮かぶようだった。いや、既に繰り返し夢に見ている。彼に向かって伸ばした手が、いつか永遠に届かなくなる日がくる。それを敎えるように、何度も夢はホームズを殺した。
 夢の中で、ホームズは危機の前に両手を広げて立っている。今にも危険が彼を食らいつくそうというのに、その姿はどこか楽しそうで、ワトソンは焦燥を覚える。自らの感情に急き立てられるかのように名を呼べば、男は振り返って笑った。ひどく無邪気な顔で。そのホームズに闇が迫る。「ホームズ!!」とワトソンは叫ぶ。彼は笑ったままだ。――止めろ、行くな。掴もうと差し出した腕は闇に断たれ、ぐしゃりと音を立ててホームズの姿は漆黒に塗りつぶされる。
 そこで、いつも夢は覚めた。絶望と共に目を覚まし、動悸を打つ胸を握りしめて蹲る。己の腕の存在を確かめると同時に、自身の無力さを思い知って、ワトソンは声もなく体を震わせた。
 これはいつか。本当にくる未来だ。
 その時、磨耗した己の心は耐えられない。今のまま、忍ぶことなどできはしない。ホームズという麻薬にのみ頼り切って生きる己が、唐突にそれを断たれて生きていられるはずがない。
 だから、そうなる前に。いつか来る未来の前に。

「…私を解放してくれ、ホームズ」

 それは既に、懇願だった。
 気づけば、体を丸めて眠るホームズのすぐ傍に立っていた。
 膝を折って身を屈め、ホームズに覆い被さるようにして男を覗き込む。間近に覗き見たホームズは瞼を静かに閉ざしたままぴくりとも動くことはなかった。
 あまりにも綺麗に、睫毛一つ震わせることなく、…そう、まるで死体のように眠ってみせるホームズを、ワトソンは無様だと笑い飛ばしてやろうと思った。
 ――だが、できなかった。
 近くで見慣れたその顔に接した瞬間、胸にせりあがるもので内臓が圧迫され、ワトソンはその苦しさに微かに喘ぐ。堪えていなければ、口にすべきでないことまで叫び出しそうだった。到底許されるはずのない、無粋な言葉を囁いてしまいそうだった。歯を食いしばり、その全てを呑み込む。
 暫し逡巡したのち、探偵のこめかみに震える唇をおしつけ、吐き出すように囁いた。


「私は…近いうちに、ここを出るよ。…ホームズ」



   ***



 傍に立つ気配が消えた後、ホームズはうっすらと目を開いた。
 数度、瞬きを繰り返すと、ぼんやりと首を廻らせ、さきほど同居人が出て行った扉をじっと見つめる。

「まったく…」

 ホームズは半身を起こしながら溜め息を吐いた。こめかみに手を伸ばし、じわりと残るかすかな温もりをそっと指で辿る。

「君は…本当に馬鹿な男だなぁ…」

 小さく笑い、ぽつりと洩らした声が、まるで今にも泣き出す寸前のような幼子のそれに似ていたなど、ホームズ自身を含め、気づく者はなかった。


- end -


2012/05/27
>Pixivより再録。

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