WhirlWind

221Bの助手

Sherlock × John


 やあ、ただいま。ビリー。長い間ひとりぼっちにしてしまってごめん。
 もっと早く帰ってくるつもりだったんだけれど、少し予定が変わってしまって。
 そのことについては、今晩ゆっくり君に話したいと思う。
 ああ、手紙が大分たまっているね。少し家を離れるだけでこれだ。
 まったく、電子機器の時代になっても、こういう部分は変化しないね。アナログは面倒で嵩張るけれど確実だ、やっぱり。手に残る重みというのは重要なんだ。最近とくにそう思うよ。
 彼らの生活なんて、今も驚くほどアナログだよ。ビリーにも見せてあげたいな。
 そう、この221Bに住んでいたまま、僕が彼らに出会ったときの頃と何も変わらない。
 新しくて古めかしくて、スリルと謎に満ちているんだ。今も。



【221Bの助手】



 僕の名前はビリーという。221Bのマントルピースの上にいる、あのスカルのビリーじゃない。彼は僕の大先輩。ビリーはあらゆる大変なことをくぐり抜けて、皮も肉も血も、あまつさえ首から下も失って、頭部だけという究極の存在になって久しいけれど、僕自身はまだ重たい身体を引きずって日々重力に抗いながら暮らしている。ビリーは僕の苦労をときどき馬鹿にして、ときどき哀れんでいるように思うけれど、何度も言うように重たさってけっこう重要なんだ。少なくとも僕にはまだ必要だ。

 僕はまだ29歳の若造。新米。それも長い間、助手というものをやっている。誰のかって?
 シャーロック・ホームズとジョン・ワトソンのだ。二人の助手だよ。ホームズの助手はワトソン一人。これは永遠に決まった立ち位置。ロンドンで知らない人間はいない。だから僕は、その二人の助手なんだ。もっと言えば221Bの助手かな。説明すると面倒だけれど、そういうことだ。

 シャーロックとジョンは僕のことをビリーJr.と呼ぶ。たまに省略してジュニアだけの時もある。だって、221Bに関わるビリーが二人もいるんじゃややこしい。ただでさえビリーという知り合いが多いんだと笑っていたっけ。そして僕はジュニアという呼び名にとても満足している。それまでは赤い癖毛をからかわれてジンジャーとか、もしくはチビとしか呼ばれていなかったから。今じゃ、僕を知る誰もが、僕のことをビリーJr.もしくはジュニアと呼ぶ。
 今、シャーロックとジョンはベイカー街には住んでいない。2年前に221Bを出て、サセックスに居を構えている。
 養蜂の研究をしたいというシャーロックに、結局ジョンも助手としてついていった。向こうで医者の仕事もしているらしいけれど、ほとんどがシャーロックの身の回りの世話だ。つまりベイカー街に住んでいた頃と何も変わったことはない。ただロンドンにいた頃より少しだけ、ゆっくりと穏やかな時間を二人で刻んでいる。
 今221Bに住んでいるのは僕だ。人間のビリーと、そしてスカルのビリー。
 住んでいるというよりも、守っていると僕は認識している。託されたのだと思っている。
 シャーロックとジョンが暮らしたこの場所を。決して色褪せることのない彼らが共に過ごした時間を守るために、僕はここにいる。



   ***



 僕がこのベイカー街にやってきたのはもう15年も前になる。
 ベイカー街の221Bといえは、ロンドンでは有名な探偵がいることでよく知られている。僕がその存在を知ったのは14歳のときだったけれど。
 僕はロンドンの路地裏をすみかにする、いわゆるストリートチルドレンだった。
 生まれて幾らも経たないうちに孤児院に放り込まれ、両親の顔などまったく覚えていない。その上、入れられた孤児院は最悪なところで、意味のない規律と暴力に耐えかねた僕はとうとう12歳の誕生日に施設を抜け出した。
 子供の甘さゆえの冒険心で、あやうくそのままのたれ死ぬところだったけれど、寒さと空腹で死ぬ一歩手前で、ホームレスのスコット爺さんに拾われて、何とか命を繋ぐことができた。それからは爺さんのいるホームレスの縄張りの中で、使いっ走りのようなことをやって生活していた。
 爺さんは、もともとは銀行の重役だったとかで、どうして今はこんな場所にいるのかは一度も口にしなかったけれど、僕に言葉遣いや礼儀作法などを教えてくれた。覚えておいて損はないからといった言葉は、今思っても確かに真実だった。
 慣れてしまえばホームレス生活はそれなりに快適で、多少の難儀に目を瞑れば何とか生きていくことは十分出来た。色んなものを置いてきてしまった他の連中も僕をずいぶん可愛がってくれた。

 僕がシャーロックとジョンに出会うきっかけになったのは、ホームレスの数人が殺される事件が起きたときだ。
 知り合いのホームレスがナイフで腹を裂かれ下水に放り込まれて死んだと知ったとき、僕は恐怖と悲しさでパニックになった。一日を越せずに野たれ死ぬことも多いホームレスだけれど、殺されるとなれば話は別だ。
 スコット爺さんは僕を呼んで「ホームズのところに行け」と言った。スコットランドヤードではなく、ホームズという探偵を頼れと言った。
 何でも風変わりな探偵で、彼はホームレスたちのことをよく知っているということだった。聞けば、ロンドンに住むホームレスたちでホームズの名を知らないものはほとんどいないという。
 彼の住まいはベイカー街の221B。住所を口頭で伝えられ、僕は路地裏をひたすら走ってベイカー街まで辿り着いた。
 言われたとおり入り口のベルを2回、押す。すぐにドアが開けられて小柄な老婦人が顔を出した。彼女は僕のくたくたに汚れた姿に驚いたようだったけれども、それ以上何を口にすることもなくすぐに部屋の中に入れてくれた。
 そのまま二階へ上がるようにと言われ、僕は胸の動悸を押さえながらゆっくりと階段を上った。思わず数えたそれは全部で17段。登り切った先にある部屋は、ドアが開けっ放しになっていた。おそるおそる足を踏みいれた先にいたのは、広い額に白髪交じりの黒髪の癖毛を持った壮年の男だった。細い長身にスーツをきっちりとまとっている。ぴんと伸びた背筋は、まるで鉄製の物差しでも入っているんじゃないかと思うほどだった。
 大きな窓のそばに立っていたその人が僕を振り向き、僕は思わず息を飲んだ。まるで目がちかりと光ったように思えたからだ。暗がりで猫に遭遇したときのあれ。金色に見えた瞳は、実は色の薄い青灰だったと知ったのは少しあとでのことだ。
 何を言えばいいかわからず立ちつくしていると、響くようなバリトンが僕の耳を打った。

「依頼だな?」

 彼の近くには、もう一人杖をついた男の人が立っていた。彼もまた40代半ばくらいだろうか。顔には確かに皺をたくさん刻んでいるのに、年齢がわかりにくい容貌をしていた。どこもかしこも曲線で描けるようなまろやかな外見だ。元はもう少し深い色味だったのだろうプラチナブロンドは、光に透かせば溶けて消えてしまいそうな淡さだった。彼は足を引きずりながら僕に近づくと、僕に椅子に座るようにと勧めてくれた。
 長身の男が爺さんが言っていた探偵のホームズで、杖をついた彼より小柄な人が助手のワトソンだった。容姿も態度もまるで似通ったところのない対称的な二人だった。

「ホームズさん、あの」
「シャーロックでいい。それで君が来たのは先日上がったホームレスの刺殺体についてのことだな」

 シャーロックは、僕が話す前からすでに事情を知っていた。その時になって、僕はやっとスコット爺さんが僕をいざこざから遠ざけるために、僕をわざわざここへ寄越したのだということに気づいた。
 シャーロックは、すぐに僕から詳しい状況を聞き出し、ついでヤードの人に電話を掛けた。彼は、事の原因がホームレスの縄張りを仕切っているマフィアの存在にあることを探っていた。全ては麻薬の売買で縄張りを荒らしたホームレスへの報復で、僕の知り合いは不幸にもそれに巻き込まれただけということまでがその日中に判明した。
 大丈夫、何もかも全部解決するよとジョンがいい、僕は心の底から安心して自分のねぐらに、じいさんのところに帰れると思った。

 だが、スコットじいさんと僕が笑って再会することは二度となかった。じいさんは、細くて暗い路地の山と積まれたゴミの横で、それこそまるでゴミのように転がっていた。天に向かって見開いた目はもうどこも見てはいなかった。後頭部からどす黒いものが滲んで、じわじわと地面を汚していた。
 銃で一発。人が死ぬのは、実に簡単なことなのだと僕は思い知った。それは最近新しく居着いたホームレスの仕業だった。僕も顔を知っていた。そいつも今回の事件に絡んでいて、気づいたじいさんに口出しされた反発で殺したんだという。そいつはあっという間に逮捕されたけれど、僕の気持ちはおさまらなかった。
 僕はじいさんを殺したヤツをこの手で撃ち殺してやりたいって何度も泣いたけれど、その度にジョンが僕の手を押さえて、それだけはいけないと繰り返した。僕を見るジョンの群青色の瞳は深く、僕を見つめながらもどこか遠い場所を見すえているようで、僕はそのとき耳の奥で砂が吹きつける音を聞いたように思った。


 一番頼れるホームレスの家族を亡くした僕を、シャーロックとジョンは気に掛けてくれた。シャーロックはよくホームレスを情報収集源にしていて、スコットじいさんとも短くない付き合いだったらしい。
 知り合いをなくしたことにシャーロックも少なからず落胆を覚えていたようだった。そう、ジョンが教えてくれた。
 スコットじいさんはいなくなってしまったけれど、代わりに僕もシャーロックからの依頼をときどき受けた。彼は情報を手にするためには金を惜しまない人で、決して少なくない報酬額は僕や仲間達の働きに十分報いるものだった。
 シャーロックはとにかく変わった人だった。おかしな実験もそうだし独特の生活習慣もそうだけれど、とにかく考え方や口にすることがとても同じ人間だとは思えない。事件と死体と謎が大好きで、それが無ければ退屈で死んでしまうと騒ぎ出す、まるで子供のような人だった。
 シャーロックも面白い人間だけれども、その助手のジョンもずいぶん興味深い人だった。
 ジョンはシャーロックの助手をして、随分長いということだった。
 何でもジョンはアフガンに軍医として従軍した際に受けた傷がもとでPTSDを発症し、そのせいで脚が動かなくなった。奇跡的にまた走れるようになったものの、一年前ナイフを受けて負傷したことがきっかけで再び歩けなくなった。事件に巻き込まれた際、シャーロックを庇って怪我したものらしい。ジョンの大腿骨を抉ったナイフは、神経まで深く傷つけていて、ロンドン屈指の名医でも、ジョンの足を元通りにすることはできなかった。杖をつきながらゆっくり歩くことはできるけれど、自由に歩いたりましてや駆け回ることは二度とできない。
 それを聞かされた時、僕は溜め息を吐いてチェアに腰かけたジョンの膝にそっと触れた。

「まるで呪いの右足って感じだね」

 だが、僕の呟きを聞いたジョンはまさかと笑った。

「僕にとっては祝福の右足だよ。だって、肩の傷とこの右足がなければ僕はシャーロックに会うことはなかったんだから」

 ジョンは穏やかに笑っていたけれど、その目に宿る光は鋼の放つ輝きのように力強く、彼の抱く信念を窺わせるものだった。ジョンは不意に顔つきを改め、どこか遠くを見るような懐かしむような眼差しをした。眩しげに目を細め、ジョンは微笑んだ。

「…僕を再び走らせたのはシャーロックだ。この右足は彼にもらったものだ。だから、もし返す相手がいるとすれば、それはやっぱりシャーロックしかいないんだ」

 僕はそのころから、シャーロックとジョンの間にある、他人が決して侵せない何かを感じていたけれど、それがどういう類のものかまるで検討がつかなかった。ただ、彼らがひどく互いを大切にしていることは分かっていた。
 

 そんな二人が住む221Bに、僕はときどき入れてもらうことがあった。スカルのビリーに出会ったのはそんな時だ。
 221Bは、大きな窓から光がよく入る、品があって素敵な部屋だけれど、まるでおもちゃ箱のような雰囲気をもつ家だ。いろんなものが並べられているマントルピースの上に、ひときわ目立つ存在感で置かれているスカルを見て、最初はそりゃあ仰天したものだ。もともとスカルモチーフのアイテムが多い部屋だと思っていたけれど、スカルがそのまま置いてあるのはさすがに珍しいだろう。変わったコレクションだと思って怖々見ていたら、背中から声を掛けられた。

「彼はビリーっていうんだ」
「彼?」

 振り返れば、マグカップを持ったジョンがにこにこと笑っていた。

「そう、君と同じ名前だよ。ビリー。シャーロックの友達だ。僕よりももっと古いね」
「友達?」
「そう、友達だ。彼は素晴らしい聞き手だよ。思慮深く静かで口答えもしない。文句一つ言わずに愚痴を聞いてくれるんだ。例えば、今日もシャーロックが朝食を食べずに実験にかかりきりになって、今も昼ご飯を食べようとしていない、とかね」
「ジョン」

 割り込んだのは、キッチンで顕微鏡を覗いていたシャーロックだ。

「余計なことを口に出すな」
「余計じゃないだろう。自分に非があるからってそういう言い方で逃げようとするのは感心しない」
「逃げていない。それに食べないつもりはない。後で食べる予定だった」
「よく言うよ。それで昼食が夕飯に、ひどいと次の日の朝食になるくせに。言わせてもらうけど、もうそんな無理ができるような年じゃないからな。自覚しろよ、名探偵」

 シャーロックとジョンは、よくこういう些細なやり取りを繰り返していた。日常のことになると、ジョンの語りがシャーロックを圧倒するのが面白い。僕はそれを耳にしながら、さっきジョンが手渡してくれたカフェオレ入りのマグカップを抱え、マントルピースの前に立った。

「はじめまして、こんにちは。ビリー先輩」

 そう話しかけてみると、なるほど、不思議なことに僕の声はスカルの中に吸い込まれていくように感じられた。彼は確かに話を聞いてくれる存在なのだ。がらんどうだから、きっとその分どんなことも受け入れてくれるのに違いない。僕は嬉しくなって、続けてビリーに挨拶をした。

「僕もビリーっていうんだ。よろしく、ビリー」

 そんな僕をジョンは呆気に取られて見ていたが、やがて声を上げて笑い出した。

「すごいな、人間のビリーは。すっかり君の友達に馴染んでしまったよ、シャーロック」
「どっちもビリーじゃややこしい。人間のビリーは今日からジュニアだ。ビリーJr.」

 シャーロックがそう言い返し、この日から僕はビリーJr.と呼ばれることになった。



     ***



 僕を助手にしたらどうかと言い出したのはジョンだった。彼らと出会って、一年近くが経とうとしていた。
 初めてそれを耳にしたシャーロックはぎょっとして、それから凍りついたようにジョンの顔を見つめた。221Bにホームレスたちから集めた情報を伝えにきていた僕も口をあんぐり開けて固まった。

「僕の助手は一人だけだ」

 そう言い返したシャーロックの声には、当惑と怒りが含まれていた。シャーロックがこれほど動揺を見せるのを僕は初めて目にした。そしてシャーロックに負けないくらい僕も動揺していた。

「もちろん、僕はこれまでもこれからもずっと君の助手だ。だけど、」

 そう一端言葉を切ると、ジョンは苦笑して自分の右足を見下ろした。

「僕に出来ないことが増えた。だましだまし使ってたけれど、僕の足は少しずつ悪化してる。杖があればまだ外に出れるし、家のことなら十分できる状態だけれど、しばらくすればそれも困難になるかもしれない。ビリーには僕がやっていることを手伝ってもらいたいんだ。君の助手というよりも、僕の助手かな。もっと言うなれば221Bの助手だ」

 ゆっくりと噛み砕くように語られた言葉は、それがジョン自身も考え抜いた末に出した結論であることを示していた。

「なあシャーロック。僕は、君の足手まといになりたくはない。君が君らしく、自由に探偵としてその能力を発揮するところが見たい。走り出すときに僕を振り返るようじゃいけない。君が気にするべきは僕じゃない。もし手がかりを見落としたらどうするんだ。それに君も分かっているだろう?ビリーは優秀だ。経験から、ロンドンの下町には詳しい。その細かな路地までも。ホームレスたちとも繋がりがある。彼らの使いっ走りをしていたんだ。きっと君の…僕らの役に立ってくれる」

 シャーロックはこのとき、もう40はとっくに越えていた年齢だったはずだ。それなのにまるで途方に暮れた子供のような顔でジョンを見下ろすものだから、僕の方が泣き出しそうになってしまった。

「ねえ、ビリーJr.君がいてくれると助かるんだ。買い物も洗濯も、すごく細かいことを頼んでしまうだろう。引き受けてくれないかな」
「…僕からも頼む」

 少しの時間を置いてから溜め息を一つ吐いて、そうシャーロックが言った。二人並んでそう言われてしまえば、僕に用意された答えは一つだった。いや、助手という話が出た時点で、答えなんか最初から決まっていた。だって、僕はシャーロックとジョンが大好きだった。この二人のために働けるならそれ以上のことはなかった。不安なのは一点だけだった。

「僕でいいの?」

 震える声で二人を見上げて言った。僕は確かに身が軽いし、機転も利く方だけれど、とくに取り柄のないただの子供だ。そんな僕は、彼らの役になんか立てるんだろうか。

 ほとんど泣きそうになっている僕を見てシャーロックは口端を吊り上げ、ジョンは目を細めた。ジョンは足を引きずりながらゆっくりと歩いてくると僕の身体を抱きしめて言った。

「君しかいない」

 ジュニアと優しく呼びかけられたあの響きを、僕は今もはっきりと覚えている。


     ***


 問題になったのは僕の住むところだった。ジョンが自分の部屋を譲ると言い、僕はさすがにそれはあんまりだと考えた。
 ジョンは別に構わないと言っていたし、シャーロックもまったく問題なさそうにしていたのが不思議だったけれど、いくら何でもあの二人の生活にまるごと入り込んでしまうのは気がひけた。
 とはいえ近くにフラットを借りるのはお金が余計にかかる。細々としたことを助けるために助手になったのに、すぐ駆けつけられるようでなければ役にも立てない。
 困り果てていたら、それなら221Cが空いているわよと言い出してくれたのはハドソン夫人だった。221のフラットの大家さん。いつまでも少女のような雰囲気を漂わせた老婦人は、そのときもまるで何気ない口調で解決策を提案してくれた。
 なるほどあそこがあったかとジョンは呟き、シャーロックも頷いた。

「ただ、ここにある部屋の中で一番小さくて光も差さないし、なにより湿気がひどいのよ。平気かしら」

 ハドソン夫人はそれだけを気にしていたけれど、僕はちっとも構わなかった。だってロンドンの路地裏より暗くてじめじめした場所はなかなか見つけられない。
 問題ないと先に答えたのは僕ではなくてシャーロックだった。彼はモバイルを取り出すと電話をかけた。その数時間後には改装業者が入った。
 傷んでいた壁紙を貼り替え、湿度対策をした。確かに光は差さない部屋だったけれど、真っ暗というわけではなかったし、暖房設備はしっかりしていた。
 ベッドや棚、チェアやテーブルを運び入れて出来上がったのは、初めての僕だけのお城だった。壁があって屋根がある。こんなことってあるんだろうか。こじんまりとした、けれどとても暖かな雰囲気の部屋を呆然と見つめている僕の後ろにシャーロックが立って、耳元で囁いた。

「突然、部屋の真ん中に靴が置かれていたら気をつけろ」

 僕はぎょっとして飛び退いた。

「それはなに?ゴーストが出るっていうこと?」

 そう尋ねたけれど、シャーロックはにやにやと笑うばかりでそれ以上何も答えてくれなかった。かつて起きた事件のことを教えてくれたのはジョンで、それはゴースト以上になかなか怖いお話だった。
 ジョンは自分で話してくれたくせに、僕が怯えて221Cで暮らせなくなるんじゃないか随分心配してくれたけれど、不思議なもので、事件の一環だと思えば僕はけろりとしたものだった。謎は解かれるものだ。すでに解決した話というのなら恐れることは一つもない。だってここには世界でたった一人のコンサルタント探偵がいるんだから。
 とはいえ犯罪界のナポレオンたるモリアーティの亡霊が出ると言われたら、さすがに泣いてジョンの胸に飛び込んだかもしれないけれど。

 助手としての生活は、波乱に富んでいた。僕は毎日早起きして、食事の仕度から洗濯や、買い物、あと使いっ走りのようなことをたくさんやった。やることがあるというのはいいものだ。それが誰かのためならなおさら。
 僕は嬉しくていつも跳ねるように動き回っていたから、ジョンはときどき僕をウサギのビリーと呼んでからかった。
 ハドソンさんのお手伝いもたくさんした。彼女はいつまでも若々しい老婦人だったけれど、もともと腰に持病を抱えている人だったし、視力や聴覚にも衰えが出始めていたから、僕は朝食を終えるとハドソンさんの部屋で新聞を読み上げる役目を仰せつかるようになった。
 もっとも、その役目ができるようになるまでも大変だった。

 助手になったとき、僕は15歳になっていたけれど、文字がろくに読めないし書けなかった。看板や新聞の見出し程度読めればそれほど苦労はしなかったし、会話にはけっこう自信があったから、特に問題は感じていなかった。
 けれど、助手を務めるからにはそれではいけないとシャーロックが言った。依頼はメールや手紙で来ることも多く、その辺りの処理はジョンが全てやっているとはいえ、依頼内容を把握できない助手では困る。新聞や雑誌が読めるのも必須事項だった。
 そんなわけで、僕は読み書きの勉強をすることになった。文字の書き方はジョンに教われとシャーロックは言った。確かにジョンの字は綺麗で整っていた。医者としてカルテを多く書いていたこともあるからなのか、誰が見ても読みやすい字だ。彼はパソコンで文字を打つのは遅かったけれど、紙に文字を書き付けるときは素早く、それでいて乱れがなかった。
 それに比べて、シャーロックの字は丸くて可愛らしい字だった。こんなことを言ったら絶対に怒られるけれど、彼の持つ不遜でスタイリッシュなイメージとはまるで印象が異なる字体だ。自分が読めればそれでいいと言わんばかりの、どこか子供っぽい文字。ある意味でシャーロックらしい字だった。
 シャーロックもそれは自覚していたらしい。だから僕は言われたとおり、字を書くときはジョンをお手本にした。ジョンは乱れがちな僕の癖を一つ一つ丁寧に直してくれた。ジョンのような綺麗な字を書けるのが僕の目標で理想だった。今も、読みやすい字だと言ってもらえるのはジョンのおかげだろう。
 シャーロックが主に担当してくれたのは文法だった。これがものすごいスパルタだった。シャーロックは文法オタクのところがある。こだわりがすごいんだ。その語彙力には本当に驚かされる。綴り間違いは一瞥しただけでバレたし、副詞や形容詞の適切な使い方も、嫌というほど指摘された。僕はプライマリースクールに通ったことはなかったけれど、それでもスクールに通った子供よりも丁寧で整った文章を書けるようになった自信がある。


     ***


 シャーロックは安楽椅子探偵ではなく、自分の足を使って捜査をするタイプの探偵だったから、シャーロックの助手として外に一緒に出かけられないことはジョンにとって苦痛で仕方がないらしかった。ジョンの足は、彼が自分で言ったとおり、痛みと痺れを感じる感覚が短くなってきていて、外に出てもときどき立ち止まって休まなければならないほどだった。
 僕は、シャーロックの手伝いで事件現場にも顔を出すようになっていた。そのことをジョンは喜んでくれたけれど、同時に少しだけ寂しそうな目をしていたことを僕は知っていた。

「すまない、シャーロック」

 ときどきジョンがそう謝るのを僕は聞いた。けれどその度にシャーロックは首を傾げて聞き返していた。

「なぜ君が謝るんだ」
「だって僕は、」
「君が今もここにいてくれることが、僕にとっては重要なんだ」

 それに、とシャーロックは付け加える。彼の目はきらきらと子供のように煌めいている。

「僕はいつだって君と冒険に出かける準備がある」

 シャーロックはいつもそう答え、愛用のバイオリンを取り出すと窓際に立ってメロディを奏でていた。それはとても優しく美しいメロディで、僕が今まで聞いたことがない類のものだった。

 その曲が、シャーロックがジョンのために作ったものであることを知ったのは、随分あとになってのことだ。
彼らが221Bを出たあと、窓際を片づけていたとき、僕は積み重なった五線譜の中に覚えのあるメロディラインを見つけた。僕はそれまでまったく音楽に触れたことはなかったけれど、バイオリンをひくシャーロックとクラリネットを吹くジョンに接しているうちに、ピアノくらいは弾けるようになりたいものだと大層なことを考えて、趣味で演奏できるくらいのレベルまで勉強したことがある。

 ハドソンさんの家には、調度品と化した古いピアノがあって、手伝いの合間にそこでピアノの練習をした。楽譜の読み方はシャーロックが教えてくれて、指導は何故かマイクロフトがやってくれた。あの人は、政府の重役でずいぶん忙しい人だと聞いていたんだけれど、何故かベイカー街にちょくちょく顔を出す不思議な人だった。きっちり細く巻いた傘をステッキ代わりに持ち歩き、何を考えているのかよく分からない人だったけれど、僕に対しては不思議と好意的で、必要なものがあれば何でもいいなさいと微笑んでくれたことを思い出す。そういえば、僕をシャーロックかジョンの養子にするよう口を出していたのもマイクロフトだった。シャーロックははねつけていたし、ジョンも呆れた顔で断っていたけれど。
 僕?僕は、あくまでも彼らの助手であって、子供になりたいわけでもなかったから。今でだって半ば家族のようなもので、僕は今の境遇に十分満足していた。
 結局マイクロフトの要望は通らず、彼は少しだけがっかりしていたみたいだった。そんな不思議なマイクロフトだったけれど、彼のピアノは素晴らしかった。彼は僕に、まずは楽譜通りにきっちり弾くことを教えた。彼は驚くほどよい教師だった。マイクロフトのピアノを伴奏にシャーロックがバイオリンを弾けば、きっと素晴らしいだろうにと思ったけれど、残念なことにとうとう叶わず仕舞いだ。
 ハドソンさんは置物になっていたピアノが音を奏でるのを聞いてずいぶんと喜んでいた。彼女のリクエストに応えるためにも、僕はかなり頑張って練習に励んだと思う。

 そんなわけで、僕はシャーロックの楽譜を読むことができた。五線譜に並ぶ音符が驚くほど簡単だったからというのもある。そして楽譜には、タイトルの場所に走り書きで「Dear…」と記されていた。続きに何かを書こうとして書くのを止めた、そんな字だった。でも僕にはわかった。シャーロックがDearと呼びかける人間がいるとすれば、それはたった一人しかいない。
 シンプルなメロディを僕は口ずさんでみた。一音一音拾い上げながらゆっくりと。けれど、彼がバイオリンで奏でていたものほど情緒豊かなものにはならなかった。今も耳の奥に残るメロディにはとうてい及ぶべくもない。あの美しい、思わず胸が締めつけられてしまうような曲はただ、シャーロックがジョンを想って奏でるときだけ、一つの曲として完成されたのだろう。

 そう、シャーロックはジョンのことを愛していた。そんなことを言えば彼は笑って首を振るだけだろうけれど、あれを愛と呼ぶのでなければ、いったい何をもって愛を語ればいいのか僕にはわからない。
 そして同じだけの深さで、ジョンもまたシャーロックを愛していた。心の底からお互いに。
 最初来たばかりのころはわからなかった。幼くて人生経験も浅かった僕には、彼らの間に流れる空気がどういう種類のもので、なんと呼ぶべきものかまったく分かっていなかったけれど、今はよく分かる。あれが愛なんだと。


     ***


 ある日、こんなことがあった。
 僕が221Bの助手になってから、もう5年が経っていた。僕は贅沢にもスクールに通わせてもらいながら助手の仕事を続けていた。
 ちっぽけだった背はシャーロックと同じくらいには伸びて、女の子のお誘いも増えたけれど、僕がいつも助手の仕事を優先するので付き合いは大体長続きしなかった。結果的に僕があまりにも女の子をとっかえひっかえしているので、シャーロックは「変なところがジョンに似た」と顔を顰めていた。一方のジョンは「そのうち落ち着くところに落ち着くもんさ」なんて嘯いていた。ジョンの華々しい武勇伝を聞いていた僕は思わず噴き出しそうになったけれど。

 といっても、やはり僕の今後をジョンは心配してくれていて、大学に行ってもいいのだと僕に言ってくれたけれど、そんなつもりにはなれなかった。ここでシャーロックとジョンの手伝いをすることの方が、大学で得られるどんな知識や経験より、豊かで人生に役立つもののように思えた。221Bの書棚には、多少片寄ってはいるけれど、面白い本が大量にあったし(その中の一部は読ませてもらう許可がジョンから下りるのにしばらくかかったけれど)、シャーロックについて事件現場に行けば、今のロンドンを十分知ることができた。僕が生きている社会の表と裏を。それにシャーロックは以前ほど外を駆け回ったりできなくなっていて、ヤードとの連絡を僕が請け負うことも増えていた。そして、ジョンは冬になると身体を壊すようになった。もともと頑丈な人だったはずだけど、家に引きこもらざるを得ない状況が身体を弱らせてしまったらしかった。

 ジョンの脚は、寒くなるととくに痛むらしかった。動かしにくい足はそれだけに血が通いにくく、どれだけ布で覆ってもなかなか温まらなかった。それに年齢も加わって、日によっては椅子から立ち上がって移動することも困難だった。
 マントルピースの前でチェアに座り、足を少しでも温めようとさすっている姿を毎日目にした。
 夜になるとシャーロックがジョンの前に座り、氷のようになってしまった脚をゆっくりと撫でてやっていた。
 それは僕にとって当たり前の光景だった。シャーロックは今日の出来事を語りながら、両手でジョンの脚を温め、ジョンはときどきゆっくりと頷きながらシャーロックの話に耳を傾け、小さな声でブリリアントと囁いていた。

 僕がその日、ヤードから預かってきた書類を届けに221Bの部屋に入ったときも、やはり二人は暖炉の前にいた。照明は暗めに落とされ、暖炉の明りだけが眩しかった。
 いつもとほんの少しだけ違っていたのは、ジョンがチェアで転た寝をしていたことだ。話を聞くうちに寝入ってしまったのだろう。彼の子供のように丸い頭は右に傾いだまま動かない。小さな足置きの上に投げ出された脚はズボンの裾がめくり上げられている。暖炉の明りに照らされて、陽の光にあたらない肉の落ちたジョンの足は病的なほど白く、赤みを帯びて薄暗い部屋の中で浮かび上がって見えた。

 最初、いつものようにシャーロックがジョンの裸足の足をふくらはぎから足首、つま先とマッサージをしているのだと僕は思った。けれど、そう見えてそうではなかった。
 シャーロックはジョンの脚を持ち上げるようにして、その足首に唇で触れていた。ゆっくりと辿るように、慈しむような動きで口づけていた。
 僕は部屋の入り口で呆然と立ちつくし、その光景に見入っていた。
 それは不思議な光景だった。嫌悪感は感じなかった。どこか現実味がなく、絵画的で美しくさえあった。それでいて奇妙ななまめかしさがあった。僕は彼らに対して抱いていたものの正体が、すとんと答えになって胸に落ちるのを感じていた。
 シャーロックは顔を上げることもせず、僕に声を掛けた。

「書類はキッチンのテーブルに置いておいてくれ。後で確認する」
「うん」
「寒い中、ヤードに向かわせて悪かった。今日はもう休め」
「うん」
「どうした。他にもまだ何かあるのか?」
「…シャーロック」
「なんだ、ビリーJr.」

 ジョンの足に手を触れたまま、シャーロックは答えた。その目線はただジョンにだけ注がれていた。僕は声を振り絞るようにして口を開いた。

「シャーロックはジョンが好きなの?」

 今思い出しても、なんて馬鹿げた質問だと思う。それでも僕は聞かずにはいられなかったのだ。シャーロックの口から、聞きたかったのだ。
 シャーロックは小さく笑ったようだった。暖炉の明りが、年を経てもなお秀麗と感じさせる彼の特徴的な横顔をくっきりと浮かび上がらせていた。
 てっきりはぐらかされるかと思いきや、シャーロックはそうはしなかった。
 ジョンの足を愛おしむように撫でながら、シャーロックはぽつりと呟くように声を洩らした。

「…何かを伝えようと思ったことはある。昔から、そして今も。それはいつも僕の胸を締めつけ喉元までせり上がって、声帯を震わせようとする。けれど、結局形にしたことはない」

そう言ってから、苦笑して首を振った。部屋に落ちるシャーロックの影がゆるゆると動く。

「違うな、できないんだ」

 ――できない。あれだけ見事な推理を淀みなく語ることのできる彼ができないこと。

「僕のこの想いを的確に表す言葉を、僕はずっと見つけられないでいる」

 その口調は悔やむようでいて、彼の抱くもどかしさを伝えるようでいて、けれどもどこか幸福そうでもあった。胸に抱えているものの深さと重さを、静かに敎えるものだった。

「それなら、僕はもうこのままでいい」

 ジョンが今もここにいてくれるから、それだけでもう構わないのだと、シャーロックはまるで子供のようなそれでいて老成した男そのものである眼差しを、柔らかにジョンに向けて呟いた。
 僕は心臓がぎゅうと引き絞られたようになるのを感じた。なんだろう。これはいったいなんだろう。
それ以上何も言う言葉が見つけられずに、僕は足を一歩引いた。縫いつけられたように動かなかった足はあっさりと自由を取り戻し、僕の意志通りに踵を返した。僕は一言だけ告げた。

「おやすみ、シャーロック」
「おやすみ、ジュニア」

 シャーロックは僕に挨拶をくれたけれど、その眼差しはやはりジョンに向けられたままなのにちがいなかった。部屋を出る前、僕は一度だけ暖炉の方を振り返った。ジョンの足に顔をすり寄せるようにしているシャーロックの頭に、ゆっくりと手が伸ばされるのを僕は見た。いつの間に目を覚ましていたのか、シャーロックの、白いものが目立ち始めた癖毛をその手は優しく引っ張った。

 僕はその晩、221Cの自分の部屋でベッドに潜り込みながら、ほてるような熱を収められずにいた。どこにも行き場のない熱が、あの部屋を満たしたまま時を止めていた。一瞬覗き見た光景がじくじくと皮膚を粟立たせ、どうしても寝付くことができないまま、僕は自分で自分を慰めた。無理矢理熱を吐き出してしまってから、どうしようもなく胸が苦しくなって少しだけ泣いた。

 僕はそれ以降も、シャーロックがジョンに対して愛だの好きだのと口にするのを聞くことはなかった。それはジョンも同じで、シャーロックを誉めはするものの、それ以上の何らかの感情を言葉にするのを耳にしたことは一度もなかった。
 彼らに、世間一般でたまに言われていたような肉体関係があったのか、僕は知らない。知りたいと考えたこともない。きっと、シャーロックとジョンにとって、それは大きなことではないのに違いなかったからだ。彼らは探偵と助手で、どこまでも友人だった。かけがえのない唯一の存在だった。セックスをしていようがしていなかろうが、彼らは常に相手を大切な友人と考えていたに違いなかった。

 ジョンはかつて結婚していたこともあったという。それはとても短い結婚生活で、相手はとても優しい綺麗な人だったということくらいしか、僕は教えてもらったことがない。
 ジョンの結婚がどんなもので、そのことがシャーロックとの間に何かしらの波紋を呼んだのかどうかも、僕は知らない。グレッグもモリーもハドソンさんも、その辺りのことは口にしなかった。
 スカルのビリーなら知っているのだろう。シャーロックの想いも、ジョンの心も。けれど、彼は話を聞いてはくれるけれど、抱え込んでいるのだろう記憶を教えてくれることはなかったから、僕はとうとう事の顛末を知らないままだ。 だが、僕が彼らに出会ったとき、ジョンはずっと昔からそうしていたように221Bでシャーロックと住んでいた。
 愛を囁くことも、好きだと口にすることもしない彼らは、けれど常に一緒にいた。そして今もここから離れた南の地で共に過ごしている。それが答えなのだろう。

 僕は、シャーロックが「ジョン」と呼びかけるのを、もう気が遠くなるくらいの回数聞いた。
 その声は、いつも何かを訴えかけるような切ない響きに満ちていて、その続きに何を口にするのだろうかと僕は考えないでもなかった。
 けれど、シャーロックが声に出すのはただ、「ジョン」という呼びかけだけだった。それ以上もそれ以下もなかった。そして名を呼ばれたジョンは、決まってシャーロックを振り返って静かに笑った。それは全てを悟り、受け入れている微笑みだった。
 僕には呼びかけの意味がまるで分からなかったけれど、ジョンにはちゃんと伝わっているようだった。コーヒーを入れたりペンを取ったりモバイルを取ったり。時にはシャーロックが転がるカウチの隙間に座り、シャーロックの頭を撫でているだけの時もあった。
 ジョンもまた、シャーロックの名をよく呼んだ。彼独特の柔らかな声で。少し尻上がりに、まるで歌うように。ジョンが呼ぶとき、シャーロックの名前は眩暈がするほど美しく響く。

「シャーロック」

 僕は、名前にあれほどの深い感情を乗せて呼びかけることができる人を他に知らない。
 彼らにとっては、まるで名を呼ぶことそのものが、愛の囁きであるかのようだった。


     ***


 シャーロックが探偵業を引退すると言い出したのは、今から2年前のことだ。僕には唐突な提案にしか思えなかったけれど、ジョンはすでに悟っていたようだった。じゃあ僕も助手は廃業かとジョンが笑った。そうしたらシャーロックが、君は探偵の助手じゃなくて僕の助手だろう、死ぬまで廃業にさせるもんかとふて腐れた。つまりジョンも一緒に行くことはもう決定事項だった。
 サセックスはイングランドの南にある。ロンドンからは列車で約一時間の道程だ。僕は行ったことはないけれど、海が見えるなだらかな丘陵地帯で、ここよりも気候は温暖で過ごしやすい場所としてよく知られる。きっと、冷え切ったジョンの足も幾らかの熱を取り戻すかもしれない。それに狭い階段を上り下りせざるを得ないロンドンの建物に比べ、広い敷地と屋敷での生活は、格段に快適な環境になると想像できた。
 シャーロックのことだから、その辺りは抜かりなく準備を済ませているのに違いない。
 それは喜ばしいことだったけれど、僕には気がかりなことがあった。
 僕が完全に探偵を止めてしまうのかと尋ねると、シャーロックはそうだなと少し思案した。

「数は限定されるが、サイトからの依頼は内容によって引き受けることはあるだろう。ヤードの連中がどうしても解決できないことについて連絡をしてくることも当然考えられる。今までのようにロンドンを駆け回ることがなくなるだけだ。完全に止めてしまうわけじゃない」
「この家はどうするの?」

 僕にとってはそれも大問題だった。ハドソン夫人は、5年前にこの世を去っていた。僕らの女神は最後まで優しく朗らかで、そして偉大な人だった。壮年の探偵と助手をまとめてボーイズと呼べるのはあの人だけだった。
 そして彼女は僕のことをリトルボーイと呼んだ。病床に着いていた彼女は、二人がいないときに、僕に小さく囁いた。私のボーイズをよろしくねと。僕は小さくなってしまった彼女のしわくちゃの手を握りしめ、泣きじゃくりながら頷いたのを覚えている。
 221のフラットは、ハドソン夫人の希望でシャーロックに権利が譲られた。ここを維持するも手放すも、シャーロック次第だった。

「僕らは、ここを出たらおそらく二度とロンドンに戻ることはないだろう。フラットを手放すつもりはまだないが、ただこの部屋は貸し出してもいいと思っている。君もここに縛られることはない。もっと生活のしやすい場所に越してもいい」
「シャーロック!」

 僕は思わず叫んでいた。

「僕はここに残る。だからこの部屋をなくさないで」

 そうシャーロックとジョンに訴えた。どうかこの家にあるものを消してしまわないでと僕は願っていた。
 シャーロックとジョンが一緒に体験したたくさんのことが、この部屋にはつまっている。まるで部屋そのものが宝箱のように。そしてここには彼らが互いに囁こうと何度も口に上らせて、それでも声にできずに飲み込んだ想いもまた染みこんでいた。シャーロックの、ジョンの血の中を繰り返し廻り、溢れ、熱となって部屋を満たしたものが。
 僕には彼らが互いに抱いているであろう、言葉にもできない想いというものが、今なお想像がつかない。それでも彼らの過ごした時間を、このままなかったことにしてしまいたくなかった。
 そんなのは僕の勝手な感傷で、彼らは彼らのまた新しい人生を生きようとしているのだろうけれど、僕にはどうしてもこの部屋が失われるままにはできなかった。
 ここに残ると言ったとき、シャーロックとジョンは少し驚いた顔を見せ、それから笑った。互いに顔を見合わせ、もう一度笑んで、あっさりと二人は言った。

「なら、ここはお前に任せる」
「そうだね、君は僕らの、この221Bの助手だから」

 僕がそう言い出すのを、彼らがどこか待っていたような気が僕はしていた。それもまた勝手な思いこみだったかもしれないけれど。
 僕はもう一つだけわがままを言った。ビリーを残して欲しいと。
 僕の大先輩。僕よりももっと長くこの部屋を見守ってきたビリーを傍に置かせて欲しいと。
 彼は、シャーロックとジョンがベイカー街で暮らし始めた、その最初の瞬間からを知っている。
 この221Bの守り手には、彼とそして僕の二人のビリーが相応しい。
 シャーロックは少し考えてから、僕の頼みを了承してくれた。そしてビリーだけでなく、ほとんど全ての持ち物を221Bに残していくことを決めた。
 シャーロックがサセックスに連れて行ったのは、ジョンと、それから彼のバイオリンだけだった。


     ***


 これが、僕と、221Bに住んだ探偵と助手との話。
 僕は相変わらず221Cで寝起きしているけれど、ほとんどの時間は221Bで過ごしている。
 シャーロックとジョンとは頻繁に連絡を取っていて、今も探偵としての幾つかの依頼は僕が中継ぎという形で引き受けている。依頼内容や必要な資料のほとんどはメールでやり取りし、8割はこれで解決する。さすがシャーロックといったところだ。それでもさすがに連絡だけで全てを済ませることはできないから、僕は最低月に一度はサセックスに行き、ついでにロンドンでの入手を頼まれた必要なものを届けている。荷物を送るなんて野暮なことはしない。顔を見せるのも助手の仕事だ。そして何よりも僕が二人に会いたい。
 ジョンは、ロンドンではあまり使うことのなかった電動車椅子を使って、シャーロックについてよく出かけている。足の調子も随分ましなようだ。部屋の中では杖だけで歩き回っていた。最近は書き物を続けているらしい。シャーロックが解決した事件をまとめているんだそうだ。ブログは使わずに、紙とペンで記録している。少し見せてもらったけれど、相変わらず几帳面で綺麗な字だった。
 シャーロックも元気で、退屈だと騒ぐこともなく毎日蜂の世話にいそしみ、他の時間は植物や石を採取して土壌の傾向を調べている。そのうち菜園でも作るんじゃないかとジョンが笑っていた。彼なら自分でスパークリングワインだって作ってしまいそうだ。
 それと、驚くべきことに天体観測まで始めたらしい。この前行ったとき、立派な天体望遠鏡が庭先に置かれていて、僕は口を開けたものだ。
 引退してからの方がずいぶんと生き生きしているように見える。彼らはいつだってスリルに満ちた日常を送っていたから、サセックスでは平穏な老後を楽しむのだろうと思っていたけれど、決してそんなことはなく、新たな謎とスリルを見つけてはその解明に励んでいるらしい。
 ロンドンの、このベイカー街221Bで過ごしていた頃のように。
 いや、そうじゃない。彼らは今度こそ221Bから飛び出していったんだ。二人だけの、終りのない冒険へ。


     ***


 ああ、ビリー。放っておいてごめん。
 シャーロックは相変わらずだよ。今回帰宅が遅くなったのはジョンが少し身体を壊して寝込んでいたから。季節の変わり目で不調が続いてしまったらしい。でももう大丈夫だ。ジョンが体調を崩すと、慌てるのはシャーロックだからね。
 まだまだ死ねないなあってこっそり笑っていたよ。本当にね。
 そうそうハチミツをもらってきたんだ。今年もシャーロックが採ったやつだ。明日は、これをグレッグやモリーに届けてあげなきゃ。
 ねえ、ビリー。僕の大先輩。君をあの二人から引き離してしまってごめん。でも僕も話し相手が欲しいから。それにやっぱり君には221Bのこの場所がふさわしいと思う。
 今度サセックスに行くときは、こっそり君も連れて行こう。君も彼らの今の姿を記憶に止めておきたいだろう?
 向こうにもここみたいな大きな暖炉があるんだ。きっと君のいい眺め場所になる。シャーロックもジョンも、相変わらず暖炉の前で向かい合って過ごしているから。
 君がいれば、きっと彼らはロンドンでの日々を眩しく思い出すだろう。
 そして僕らは、今も続く彼らの冒険を目にすることだろう。
 冒険譚を聞き終えたら、僕と君はまたベイカー街のフラットに、この221Bへ戻ってこよう。
 だって、そのために僕らはここにいるのだから。


- end -


2013/11/15
スカルじゃないビリーのお話でした。遅れてやってきた青春をこじらせすぎて自重を忘れた221Bの同居人二人。
妄想という名の夢をつめこみました。 シャーロックに優しくしよう週間の産物でもあります。別にそんなに優しくなかった。優しく週間は三日で終わりました。
心のホモ天秤にお伺いを立てたところmg単位でSJに振れましたのでSJです。
221Bにゆず胡椒をあげたい。豆のスープにちょい足ししたい。

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