魔女と王子とお姫さま

ヴィクトル & 勇利



わたしの名はギオルギー・ポポーヴィッチ。
私はそう、悪い魔女。
…の気持ちになっている。


《魔女と王子とお姫さま》


 自身を悪い魔女に例えて、去ろうとする愛(もうとっくに去っていたらしいが認めたくなかった)を恨み、あるいはすがる演技を踊ったのは前シーズンのことだ。
 それなのになんだって今こんな気持ちになっているのだろう。
 と、ギオルギーは静かに項垂れていた。
 悪い魔女は魔女でも、姫に永遠の呪いをかけるというよりは姫を物理でさらってくる魔女の方だ。
 こんな思いをしているのも、全部が全部目の前の男のせいだ。
 ギオルギーは恨めしげに窓際に向かって隣に座る男…ヴィクトル・ニキフォロフを見つめた。

 二人がいるのは、サンクトペテルブルク市内のネフスキー大通りに面したコーヒーチェーン店だ。
 観光名所が点在する中心街の店舗ということもあり、店内にはロシア人だけではなく、各国からやってきた観光客と思われるたくさんの人で賑わっている。その窓際の隅に陣取って、ギオルギーはヴィクトルとともに、ひたすら時間が過ぎるのを待っていた。
 ヴィクトルはまったく心ここにあらずといった様子だった。
 店舗ロゴが刻まれた大きな窓ガラス越しに夏の日差しが降り注ぐ窓の外を眺め、切なげにほうと息を吐いている。通りの向こうには車道を挟んでカザフ聖堂が見えているが、ヴィクトルの目には入っていないだろう。
 眉は苦しげに寄せられ、何かを希求するように、すがるような眼差しでひたすらここではないどこかへと思いを向けていた。

 ――ハートブロークン

 ギオルギーの頭にそんな言葉が浮かんだ。
 ギオルギーが前シーズンに自身のテーマとしたものだ。
 今のヴィクトルはまさにハートブロークンしている。そう表現するしかない。理由は一つ。彼の最愛の人物がそばにおらず、心が傷ついている。
 ゆうり、と形の良い唇が小さく音を紡ぐ。
 ギオルギーから見ても胸を掴まれるような悲しげな声だった。そしてその様子がおそろしく絵になっていた。
 28歳となり、歳を重ねて色褪せるどころか深みを増して輝くばかりだと称賛される端正な容貌は、今この時も暴力的なまでに美しい。
 実際、今いるカフェでも、周囲にいる人々の目線をちらちらと感じる。彼らはひたすら物憂げに、窓の外を眺める白銀の髪を持つ男に釘づけだった。「あれヴィクトル・ニキフォロフじゃないの」「ああリビングレジェンドの」という囁きも聞こえる。
 だが当の本人はまったく気づいていない。
 彼が意識を向けているのはたった一つ、たった一人だけ。
 短い夏を謳歌して通りを行きかうたくさんの人の中から、一人の姿だけを見つけ出そうと必死になっている。

 俺を置いていかないで。俺のところに戻ってきて。どうか。
 
 心の悲鳴が聞こえてくるようだ。男が苦し気にその長い腕を伸ばせば、その手を誰もが取りたいと思うはずだ。だが彼が望む人は今ここにいない。彼が掴みたい手はたった一つなのに。
 今の心情でヴィクトルが氷上で舞えば、その真に迫った感情に揺さぶられ、かつて以上に誰もが心動かされ涙するだろう。
 …そう。
 例えハートブロークンの内容が、大切な人に買い物に連れて行ってもらえずカフェに置き去りにされた男というものであっても。…多分。

「だって、ヴィクトル目立つんだもの」
 
 その理由をユウリカツキはしごくあっさりと口にした。
 オフ日ということもあり、中心街で買い物がてら昼食を食べようと出かけたギオルギーが運悪く遭遇したのは、パサージュ百貨店付近で押し問答をしている二人組だった。
 それが見知った人物…同門の先輩弟子であるあのヴィクトル・ニキフォロフと、彼がかつてトップスケーターとしての地位をぶん投げて国を飛び出す原因を作り、彼の指導を受けて昨年のグランプリファイナルで金メダルを獲得したのち電撃引退、その後の紆余曲折を経て今はここサンクトペテルブルクでヴィクトルとパートナー生活をしているユウリカツキだとすぐに気づいてギョッとなった。
 思わず避けて通ろうとしたが、それにしても珍しく何を争っているのだろうと気になってついつい足を止めてしまったのが運の尽きだった。

「あ、ギオルギーだ! ねえ、君からもユウリに言って!」

 ――なにをだ。
 なぜかこういうときだけ目ざとく知り合いを認識したヴィクトルに声をかけられ、ギオルギーは泣く泣く彼らのそばに近づいた。周囲がざわざわと遠巻きに眺めながら通り過ぎていく、ロシア人と日本人の二人組へ、だ。
ぶっちゃけ他人の振りをしたい。今からでも他人になりたかった。
 ああ、どうして世界はこんなにも自分に冷たいのだろう。スケートの女神よ、どうかわたしにもほほえんで!! だが現実はむごい。
 ユウリはというと、メガネの奥の大きなヘイゼルをぱちぱちと瞬かせ、あれっと声を上げた。

「え、あ、ほんとだ、ギオルギーさんだ。こんにちは」
「はは、どうも」

 それであなたがたはこのメインストリートのメイン店舗のそばで何をしているのですか。

 聞くところによると日本にいる家族にロシアのものを買って送りたいというのが、今日のユウリの目的らしかった。
 個人的な用事だし、すぐ済ませるからヴィクトルは喫茶店とかで待っててとユウリが言ったのに、ヴィクトルがショックを受けて同意せず、押し問答していたらしい。

 ――アホらしい。
 
 と、ギオルギーは思った。聞いて損した。とっとと失礼して立ち去ろうとしたときだった。そうだ、とユウリが手を叩いたのは。

「ギオルギーさん。ヴィクトルのこと見ててもらえませんか」
「は!??」

ギオルギーはぎょっとした。
何を言い出すんだ、この日本人!!?
いやだ!と反射的に叫ぶ前に、ヴィクトルが悲痛な声を上げた。

「いやだよ、ユウリ!」

せっかくのユウリとのオフなのになんでここに来てギオルギーと、ともはや泣きそうな顔だった。
あからさまに拒否されてギオルギーも憤慨した。

おい、そんなにいやか。わたしだっていやだ。なんで、わたしが、お前と!

だがユウリは首を傾げ、瞬きをしてからしごく当たり前のように口にした。

「ギオルギーさんと一緒なら寂しくないでしょ。知り合いなんだし」
「「……」」

 そういうことじゃないだろうとギオルギーは心の底から思ったし、実際ヴィクトルの顔は見ものだった。信じられない何を言っているんだこの子はという目でユウリを見つめている。

「ユウリ…本気で言っているのかい…」
「え、大丈夫でしょ。ギオルギーさん、ヴィクトルをよろしくお願いします」
「ユウリ!!!」

 うちの大切なワンちゃんよろしくお願いしますみたいな調子で言われて、ギオルギーは面食らった。
 だが、実際ロシアの英雄はいやいやをするようにユウリにしがみついていて、それはまさに主人に置いて行かれたくないと訴える大型犬そのものだった。ユウリの肩に顔を埋め、むき出しになった首筋に銀色の髪をすりつけている。…犬だ。上等な容姿に上等なサマージャケットが泣いている。

「ねえ、なんで俺はユウリと行けないの。俺だって、マリやユウリのパーパとマーマに贈り物をしたいよ? それにミナコにだって。だいたいユウリだって目立つじゃないか。俺はロシア人だけど、ユウリは日本人だ。それにユウリの顔だってみんな知ってる」
「それは演技中の僕でしょ。ヴィクトルはどこで何してたって目立つんだから」

 まったくだと、ギオルギーも同意した。だがあえて言わせてもらうなら、今この瞬間もお前たちは二人とも最高に悪目立ちしている。この周囲の視線がわからないのか。頼む、気づいてくれ。
だが、ギオルギーの願いはやはり天には届かなかった。

「それにヴィクトルが一緒だと、買い物に時間がかかるし」
「俺はそんなに邪魔!?」
「邪魔じゃないけど…今日はちょっと邪魔」

 そんなと、ヴィクトルは顔を覆ってよろめいた。

「ユウリが冷たい…」

 なんかさっきからものすごいものを目にしているなとギオルギーは思った。正直早くこの場から去りたい。そして自分の用事を済ませて帰りたい。ヴィクトルの面倒を見るなんて予定外もいいところだ。
 だが、立ち去るタイミングを完全に逸したギオルギーの横で、ヴィクトルとユウリは言いあいを続けている。

「だって、ヴィクトル寄り道してあちこち店をのぞくでしょ。それで自分の買い物だけじゃ飽き足らずに、僕にあれが似合うとか僕にあれを買いたいとか言い出すでしょ…この前だってさんざん店内で僕のこと着せ替えてたじゃないか。僕はシャツを新調したかっただけなのに…気づいたらコートとスーツ2着とネクタイ3本にカフスまで増えて!!」
「あれはユウリによく似合ってたね。俺の前で着てくれる日が楽しみだ」
「ありがとう! でもそうじゃない! ヴィクトルのばか!」

 ヴィクトル、お前そんなことをしてたのか。

「え、いやだった? ユウリがいやならもうしない。本当はしたいけど我慢するよ」
「い、いやなわけじゃないけど、ヴィクトルが僕のこと考えてくれるの嬉しいし…でも恥ずかしいんだよ…」

 こっちが恥ずかしいわ、もうやめろこのバカップル。
 しかし、信じられないことに、彼らは別に恋人同士というわけではないという。恋人の定義ってなんだっけ。どこまでが友人でどこからが恋人なんだろうか。教えておじいさん。
 多分彼らの時空はコーチと弟子という間柄であった間にどこかで宇宙に繋がり、ぐんにゃりと歪んだまま完成されてしまったに違いない。


 結局なだめすかされてデパート内へ消えていくユウリを見送り、路上に立ち尽くしたまま意気消沈するヴィクトルを引きずってギオルギーがコーヒーチェーン店に避難したのが30分前のこと。
 その間ヴィクトルはずっと凹みながらふてくされていた。妙に器用な男だ。恨めしげにこちらを観る顔に、まるで自分が王子に恋い焦がれるお姫さまを引き離してさらってきた悪い魔女にでもなった気分でいるわけだった。
 お姫さまといっても、成人して相当に久しい身長180cmのロシア人男性だ。透けるような美しい銀髪も白皙も両眼にはまった宝石のようなアイスブルーも、おとぎ話の姫君に劣らないものがあるかもしれないが、姫君にしてはごつすぎるし可愛げもない。お姫さまはこんなにふてぶてしいものじゃない。
 ちょうど空いていた窓際のカウンター席の隅にヴィクトルを押し込み、コーヒーくらいはおごってやろうと注文を聞けば、拗ねた表情を崩さないまま呪文のようなメニューを読み上げられた。
 カスタムだと、何さまだこのやろう。
 一度では覚えきれないそれをメモし、自分はシンプルに本日のコーヒーのトールサイズ、あとは甘いもので気持ちを落ち着けようとチョコレートパイを注文して、ヴィクトルの分と一緒に席まで持って戻れば、ありがとうの言葉もそこそこに、なんでギオルギーとコーヒーを…と再びぼやいた。

わたしにあやまれヴィクトル!! わたしのこの広く寛大な心に!!

 あげくに、ユウリにここの場所を連絡しておけと言ったら、ふるふると首を横に振って右手を額に当てると、左手で自分のスマホを差し出してきた。

「……おいヴィクトル、なんだこれは」
 なんのつもりだ。
「俺の代わりに送ってくれないか。ああユウリは一番上のアドレスだから。もちろんわかるよね。会えないって分かってるのに今ユウリのアドレスを見たらこらえきれずにデパートまで駆け出してしまいそうなんだ。それでユウリを怒らせることはしたくないよ」
「……」


 ギオルギーは無言でユウリのアドレスにカフェの場所を送信した。至って事務的なメールを送っている隣で、ヴィクトルは悩まし気にため息をつく。

「そういえばギオルギー、君も黒髪なんだね。けっこう長いつきあいの気がするけれどあまり気づいてなかったよ。ユウリも黒髪だ。もちろん知ってるよね。でも似ても似つかないな…ユウリの黒髪はしなやかで艶があって、髪質までユウリという人間性を表してるんだ。俺はユウリの髪の毛を洗うのも、そのあと梳かして乾かすのも大好きなんだ」
「………」
 
 もう帰っても許されるだろうか。
 だがユウリカツキに頼まれたという事実がギオルギーをとどまらせた。

 わたしは悪い魔女!!王子から姫を引き剥がし、無理やり監禁している悪い、魔女!!!

 姫がヴィクトルなら王子がユウリなのかとか、設定に突っ込みどころは山ほどあるが、もはやそう思い込んでいないとやっていられない。
 だいたいどこの世界に囚われの姫にコーヒーをごちそうをしてやる魔女がいるというのか。毒も入れずに。
 去年ギオルギーがSPで演じたカラボスは《眠りの森の美女》に出てくる魔女で、姫君に呪いをかけて永遠の眠りにつかせる。
 いっそこの男を眠らせて黙らせたいと思いながら、ギオルギーは一刻も早くユウリが戻ってくるのを願った。

「まったく、たった一時間かそこらだろう。買い物ごときで何を大げさな」

 ユウリは住まいこそロシアに移したが、日本での仕事は継続している。スケートの試合実況や解説、テレビCMや広告、スポーツブランドのイベントなどだ。
 以前は最低限しか受けていなかったという対外的な仕事を、彼は引退後にこなすようになった。限定はしているが、振付の仕事も受けているらしい。日本への一時帰国の期間はそのときどきではあるが、長い時は一週間にも及ぶと聞いている。
 たかが買い物程度で離れたくないと騒ぐようではいったい長期離れるときはどうなっているのだ。
不安と興味をかき立てられたが、ヴィクトルは静かに目を伏せただけだった。その唇がかすかに弧を描いているのに、ギオルギーは目をみはった。
 テーブルに右手で頬杖をつき、ヴィクトルは呟くように口にした。

「仕事と思えば平気なんだ。俺とユウリは、ともに生きるために互いに今できることを精いっぱいやると決めたから。ユウリが仕事で頑張っているということは、俺のためにそうしてくれてるということだ。きっとユウリは俺のことを考えながら仕事と向き合ってる」

 実際、ユウリはそう言ったのだとヴィクトルは口にした。
 ユウリが引退しながらもスケートに関わる仕事を続けるのは、ヴィクトルに見てほしいからだと。ヴィクトルを驚かせたいからだと。

 ――僕はあなたをもっと僕で驚かせたい。アメイジングって、パーフェクトだよユウリって言ってほしい。あなたの想像を超える存在でありたい。これからもずっと。

「情熱的だろう?  ユウリはいつも思いもよらないイマジネーションを俺に与えてくれる。距離が離れてても心はそばにいる。ちゃんとそれを信じられる。でもね、」

 ヴィクトルは困ったような、ひどく心もとない笑みを浮かべた。

「すぐそばにいるのに…手を伸ばせば、走っていけば捕らえられる場所に今いるのに、それをとどめられるのは…とても苦しいよ」 

 一緒にいられるときは、その一瞬さえも惜しい。そのすべてを閉じこめて永遠にしてしまいたいほど。

「夜でさえ眠るのがもったいないくらいなんだ。でも、明日のユウリにも会いたいから眠らなくちゃいけない。夢の中でも会えたらって願いながら目を閉じるんだ」

 いつだって、ユウリのことを想っている。今も。
 右手の薬指にはまった金色の輝きがギオルギーの目を射る。
 ヴィクトルはやわらかく微笑みながら、切なくつぶやいた。

勇利ユーラに会いたい」


 ――なんでこうなった。
 そう低く呟いたのは自分たちの父ともいえる尊敬すべき師、ヤコフ・フェルツマンだったが、それを聞いた誰もが無言でうなずき同意した。
 ほんと、なんでこうなった。
 答えは決まっている。ヴィクトルがユウリカツキの動画を見て日本へ行った時からすべては決まっていたのだ。いや、もしかしたらその前、ヴィクトルが金を、ユウリカツキが最下位に終わったグランプリファイナルのときから。
 あのときのバンケットにギオルギーは出席していないが、その際なにかしら交流があったらしいことを聞いている。主にリンクメイトのミラ・バビチェアから。もっとも彼女にそのときのことを詳しく聞いてもゲラゲラ笑うばかりでほとんど話にならないし、ユーリも一切口を割らない。
 何にせよ、言いたくもなる。
 なんでこうなった。
 
 サンクトペテルブルクに夏がきた。短い夏だ。あっという間に過ぎてしまう爽やかで陽光にあふれた季節を、人々は身体中にため込むかのように存分に味わう。
 そんな夏がくる前からヴィクトルはずっと浮かれている。大変幸せそうでけっこうだが、まったく浮かれているとしか表現できない。理由は簡単。そばにユウリがいるからだ。
 いったいなにをどうやったのか、ロシアの長い冬が終わり、雪解けとともに遅い春が訪れててしばらく経ったある晴天の日、ヴィクトルは日本からサンクトペテルブルクへユウリカツキを連れ帰ってきた。それも手荷物1つだけで。
どういうことだと呆気にとられるヤコフたちに、ヴィクトルは「ユウリをさらってきた」と笑顔で答えたのみで周囲を黙らせた。
 ユウリはヴィクトルとのコーチを解消したのち、スケート引退後は日本に留まると宣言していたはずだ。
 人間関係のトラブルかと、一時期ずいぶんメディアも騒ぎ立てた。当人たちも、周囲の人間もいっさい口を割らなかったため、憶測にまみれた騒動はやがて収束したのだが。
 さて、いったいどうやってそのユウリカツキを口説き落としたのやら。
 事情を多少知る身内は首を傾げた。
 ただ1つわかるのは、ユウリがヴィクトルに同意し、そしてその決定を後悔していないということだ。
 あれから二人はサンクトペテルブルクのヴィクトルの自宅で一緒に暮らしている。
 そしてヴィクトルは次のシーズンでの復帰を宣言し、再びヤコフの指導のもとにリンク上へと戻ってきた。今から練習を積み重ねてどれだけブランクを解消できるか眉を顰めるヤコフをよそに、ヴィクトルはすさまじい勢いと執念で練習に励んでいる。
 もともとのポテンシャルが高い男であることは知っているが、これほどまでに練習に打ち込む姿を、ギオルギーも目にしたことはない。
 そのくせリンクから降りると、ヴィクトルが口にするのはユウリのことばかりだった。

「ユウリは本当にすばらしいよ。俺にユウリの全部をくれるって言ったんだ。だから俺も俺の全部をユウリにあげたい。俺の演技は全部ユウリに捧げるよ」

 俺の復帰シーズンのテーマは「ユウリ」にするよ!などと言い出したので、全員がやめろと叫んだ。
 とりわけユーリ・プリセツキーのキレっぷりはものすごかった。シーズンがはじまって事あるごとにテーマはユウリ!と紹介されてはたまらない。同じ響きの名前を持つユーリとしては死活問題だった。

「ふっざけんな!!! 冗談じゃねえ!!! それならいっそまんまカツ丼にしやがれ!!!!!」
「ユリオも、俺とユウリの愛を語るには欠くことのできない存在だよ! むしろ一部だといってもいい。うん、やっぱりユウリしかないな」
「うるっせええええぇえ!!!」

 ユーリは全身の毛を逆立てて怒鳴った。

「色ボケしすぎて脳味噌が溶けたのか、このジジイ!!!」

 誰かカツ丼呼んできてこいつ黙らせろ!!!呼ばねえなら俺が呼ぶ!!!
 この半年で身長がめきめき伸びだしているユーリは、増加する体重ともあわせて身体のバランスと演技の調整に苦心している。
 そんなところにこのありさまのヴィクトルだ。
 ユウリカツキの移住はユーリもひそかに喜んでいる様子だったが――やたら連絡を取っていたり買い物に誘う姿を見かける――リンクで顔を合わせばのろけを炸裂させる兄弟子の態度は、完全にユーリの神経を逆なでしている。
 そんな状況にまったく頓着せず、師匠とリンクメイトたちを前に、ヴィクトルはその日も白い頬をうっすらと興奮に染めて、ユウリについて延々と語っていた。
 アイスブルーの目がきらきらと輝いて、まるで恋する乙女のようだ。そこにかつての氷上の絶対王者たる貫禄はない。
 誰に対してもあたりがよく、それだけにむしろ踏み込ませず近づきがたい印象を与えていた男が、たった一度の出会いで変貌した。

 愛なんてわからないよ、とかつて男は言った。
 酒癖があまり良いとはいえないヴィクトルに付き合わされるのはだいたいがギオルギーだった。
 楽しく美味しいものを食べてお酒を飲みたいという男は、酒の席ではたわいのないことを口にしてはしゃぐばかりなのだが、一度だけそんな愚痴めいたことを漏らしたことがある。

『彼女たちは俺に愛されたくて必死になるけど、それが愛なのかな。俺の好みを教えて、全部そのとおりにするわなんてみんなそろって口にするけど。結局彼女たちは俺という肩書に愛された自分を愛してるだけだ。
ねえ、俺はリンクだけじゃなくて、家でもベッドの上でも《皇帝》《英雄》でいなきゃいけないのかな。
誰もが俺に支配されたいとすり寄ってくる。不思議だよね。
俺は誰かを支配したいわけでも束縛したいわけでもないのに』

 ――愛ってなんだろうね。

『ただ俺のそばにいてほしいだけなのに。自分の意志で、自分の心で。愛してほしいだけなのに』

『俺が、愛してあげたいのに』

 スケート界の頂点に君臨し、その容貌と能力で今や世界一モテるといっても過言ではない男が、いったい何を言っているのやらとそのときは聞き流したが、あれは実のところこの男の本音だったのかもしれないと今ではしみじみと思う。

『…愛はわからないけど、スケートは大好きだ。俺が捧げた分だけ、俺が愛した分だけ俺を愛してくれる。俺を輝かせてくれる。そんな俺を見てみんながわくわくしてくれる。すごく楽しい。ヤコフも好き。すぐ怒鳴るけど俺を絶対に捨てたりしない。それにマッカチン。ああ、マッカチンだ。いつも俺のそばにいてくれるのは。…だから大好き』

 ――だから、俺はそれでいいよ。

 酔っぱらった顔でふにゃふにゃと笑いながら、ぽつりぽつり歌うようにヴィクトルは言った。
 スケート界に身を置く者にとって、ヴィクトル・ニキフォロフは理想形であり、同時に目の上のたんこぶだ。それはヤコフ門下の人間にとりわけ重くのしかかる。
 常にヴィクトルの名がついて回り、彼と同じようなスケーティングをしたところで日の目を見ることはできない。ヴィクトルを追うあまりにつぶれていった人間は何人もいる。強すぎる光は周囲の人間の目を灼く。
 ギオルギーは、ヴィクトルの不在によって初めて大舞台で自分だけの演技を滑ることができた。25歳にして初めて。それでもファイナル出場も表彰台も遥か遠かった。
 スケートの女神に、そして世界に愛された男。ギオルギーが持たないものをすべて持つ男。それなのに、ヴィクトルの目はときどきひどく孤独に満ちていた。
 まるで子供のような男だ。幼子の純粋さで無邪気さで、無心にリンクにかじりつく。まるでそれしか知らないかのように。
 あいつは昔から変わらんのだとヤコフは嘆息して言った。その声は慈しみと哀れみに満ちていた。

『ねえ、見てヤコフ。僕すごいでしょ。もっと跳んだら、もっとメダルを取ったら、ヤコフはびっくりする? みんな喜んでくれる?』

 誰にも愛されているはずの男が絶対的に信頼するのは己のスケートと師であるヤコフだけであり、手元に置くのは愛犬だけだった。
 ヴィクトルはマッカチンと名付けたスタンダードプードルを本当に愛している。散歩も手入れも餌も、できるだけ自分で用意して手をかけて。一緒に寝ることも多いという。マッカチンもヴィクトルの愛に寄り添っている。
 それが彼の見つけたたった一つの揺らぐことのない愛なのではとさえ、ギオルギーは思ったのだ。
 ギオルギーが見るに、ヴィクトルは愛の比重がめちゃくちゃに大きい。愛されたいし、それ以上に愛したい。愛し尽くしたい。そんな感情に飢えている。あれはそういう男だ。
 自分でも制御しきれない愛を抱えるからこそ、ヴィクトルは誰にも深く踏み込まず、誰も愛さないし愛せないのだろう。
 図太いともいえる堂々とした態度は、本来の子供のような無邪気で繊細な心を守るために培われたようなものなのかもしれない。
 ミラは、ギオルギーが女性に振られるたびにあんたの愛が重すぎんのよと呆れて言うが、自分などまったくかわいいものだと思う。
 ヴィクトルの愛なんか、自分に比べればブラックホールだ。あの涼しげな見た目がそう思わせないだけだ。愛の自重で潰れないのが不思議なくらい。
 あの男の持つ愛に耐えられる人間がいるんだろうか。ギオルギーはそう思っていた。
 ヴィクトルが日本人選手のユウリカツキのコーチになることを知ったとき、ギオルギーはユウリをこっそり哀れんだ。おそらく彼に振り回され、最悪つぶされるのではと。
 その予想は温泉on ICEと、ユーリ・プリセツキーの帰国後の行動で裏切られ、さらにはグランプリシリーズ第3戦、中国大会で初めて師弟としての彼らに遭遇したときに決定的となった。
 6分間練習が近づいているとき、ウォームアップエリアの隅から聞きなれた声がすると思い、目を向けた先にヴィクトルとユウリカツキが向かい合っていた。

『ユウリ、よくお前を見せて』

 そう言うと、ヴィクトルはユウリの顔に両手で触れ、その感触を確かめるようにゆっくりと撫でてから、ついで髪の毛を整えた。乱れのないように丁寧に。それから両手をすくい上げるように取り、手のひらと手の甲、爪の先までなぞって検分してから離す。
 最後に右手でユウリの顎を持ち上げると、じっと見つめたあとに、ジャケットのポケットから手のひらに収まるサイズの小さな容器を取り出し蓋を開けた。右の人差し指ですくい取った中身を、ユウリの唇の上に乗せた。丹念に伸ばし、むらなく伸ばしていく。
 唇が艶を帯び、次第に照明の光を受けて輝いていくのを、ギオルギーは声もなく見つめた。
 ヴィクトルの手つきは慈しみに満ちていた。どこか淫靡でありながら、まるで壊れものを扱うかのようにどこまでも優しかった。この男がどれだけユウリという青年を愛おしんでいるか理解するには十分すぎる時間だった。
 そして、その間ユウリはされるがままだった。何も言わずゆるやかに瞼を閉じ、ただコーチであるヴィクトルにすべてを預けて彼に任せていた。

『ユウリ』

 ヴィクトルの声でユウリは静かに目を開く。ヘイゼル色の瞳はまっすぐにヴィクトルだけを見つめていた。

『きれいだよ、ユウリ』

 その言葉にユウリはゆっくりと微笑んだ。嫣然と。それはまるで花が綻び、艶やかに開く姿を思わせた。
 そこには、つい少し前まで自信なさげに立っていた線の細い青年の姿はどこにもなかった。

 すごいと思った。
 すごい。ユウリカツキおそるべし。
 あの皇帝ヴィクトル・ニキフォロフの愛を一身に注がれ、その愛に呑み込まれずつぶれもしないなんて、ただものではない。
 お前がブラックホールか。
 ほとんどの女がヴィクトルを理解できず、振り回され、最後は去っていった中で、ただ一人残ったのが、同業・同性の日本人だとは。
 しかもただ愛されるばかりではない。ユウリ自身が、ヴィクトルを愛しぬいている。心をもらったんだとヴィクトルが言ったことはおそらく真実だ。
 さきほど、ギオルギーとの留守番を命じられてごねるヴィクトルにユウリが見せた姿を思い出す。

「わがまま言わないで。僕を待っててよ、ヴィクトル」

なだめる声は、優しさと愛情に満ちていた。困ったなあと思いながら、けっしてそれを厭ってはいないことが伝わってくる。

「すぐに帰ってくるから。ここに、ヴィクトルのところに。ね?」
「そんなに長くは待てない。ねえ、俺を置いていかないでユウリ」

 俺を一人にしないでとヴィクトルはユウリを抱きしめた。
 
 ――わたしがいますが。今ここに。
 
 ギオルギーは心の中でそっと手を挙げたが、一方的にヴィクトルのお目付役を命じられたギオルギーのことなど、二人の視界からはとっくに消え去っている。たかがすぐそこに買い物に行って帰ってくるだけだろという突っ込みはもはやする気力がない。
 永遠の別れを前にした恋人のようなやりとりを繰り返す二人を無言で見つめるだけだ。

「聞いて、ヴィクトル」

 ユウリは両手でヴィクトルの顔を挟み、下から覗き込むようにして呼びかけた。

「僕はあなたを置いていったりしないよ。ちゃんと戻る。だから僕のこと待ってて。ね。
…ヴィーチャ」

 魔性だ、とギオルギーは思った。
 睦言を囁くときのような、甘ったるい艶を帯びた声だった。一瞬にして場の空気が一変する。
 ユウリカツキという存在に多少免疫があるはずのギオルギーでさえ、背筋がぞっと泡立つような感覚を覚えた。
 一見して人ごみに埋没しそうな大人しい容貌の青年は、今このとき蠱惑的なほど美しい生きものへと変貌していた。あの日のリンクの上でのように。
 現役時代、ヴィクトルの振り付けと指導を経た演技は、清冽な色香をまとって観客を虜にした。氷の上から降りると、とりたてて特徴のない地味な東洋人にしか見えないのに、だからこそそのギャップは鮮烈だった。
 今も鮮やかに覚えている。ショートプログラムでの挑発的でありながら、下卑た色はいっさいなく、高潔で品のあるエロス。フリーではイノセントな魅力で、彼の最大テーマである愛を演じきった。
 無垢とエロスを両立させるなど、ユウリカツキにかできないことだろう。女でもないのに、女以上の何かを感じさせる。だからやはり魔性としか呼べない。
 ファイナルでの演技は、まさに圧巻だった。一人孤独だった青年の、愛の軌跡がそこにあった。
 引退してもなお、またあの演技を観たいと切望されるだけの中毒性がある。ネットに上げられた動画は再生数が未だに伸び続けているという。
 その危うい色香を、ユウリカツキは今はたった一人の男だけに捧げている。いや最初からそうだった。競技の前、リンクに滑り出す前に必ずユウリはヴィクトルに何かを口にしていた。耳にしたことがある。

――僕を見てて。

僕から目を離さないで。

僕だけを見ていて。

 彼が誘惑したいのも虜にしたいのも視線を独り占めしたいのも、ただヴィクトル・ニキフォロフだけ。
 そのユウリの演技を、いつもヴィクトルは食い入るように見つめ、ジャンプやステップの一つ一つに一喜一憂した。
 ヴィクトルがあれほど誰かの演技に見入る様など見たことがない。彼はいつだって自分の世界の中で踊っていたのだから。
 陥落させられたのは果たしてどちらだったのか。卵が先か、鶏が先か。もう当事者にしかわからない。
 ヴィーチャと愛称を呼ばれたヴィクトルは、あっけないほど容易く降参した。
 頬に添えられたユウリの右手をそっと外し、その薬指に口づけると、左手でユウリの頭部を引き寄せる。そして触れるほどに唇を寄せて囁いた。

「待ってるよ、ユウリ。ユウリのことを思いながら待ってる」
「うん。僕のことだけ考えてて」
「ユウリ!」

 二人は再び固く抱き合った。天下のネフスキー大通りで。
 
 その場面を思い出し、ギオルギーはせっかくのチョコレートパイを、ペーパーカップのそばからそっと押しのけた。
これ以上甘ったるいものはいらない。胸焼けを起こす。
 しつこいようだが、別に永の別れというわけではない。ユウリはすぐそこのデパートに行って帰ってくるだけだ。
 それがこのありさまだ。もはや悲劇だ。いや、喜劇だろうか。悲劇と喜劇は紙一重だ。シェイクスピアの綴る物語のように。
 これは需要と供給の一致というやつなんだろうと、ギオルギーはしみじみとした。
 あの二人はきっとどちらもが途方もないほどの愛したがりの愛されたがりで、どれだけ相手の器に愛を注いでも自分に注がれても足りないくらいで、そうしながらやっと呼吸をして生きていられる。そんな相手を見つけてしまった。だからもう離れられない。
 ギオルギーは、再び背筋がぞわりと泡立つのを感じた。
 現実は、おとぎ話の世界よりよほど驚きに満ちている。
 こんな関係に名前をつけることは、きっと途方もなくばかばかしいことだ。でも、あえてそれに名前をつけるのならそれは、
 とギオルギーが思ったところで、相変わらず悲しそうに通りを眺めていたヴィクトルの表情がぱっと明るくなりアイスブルーの目をきらめかせた。
 まるで星がちかちかと瞬くような輝きに思わず目を奪われていると、ヴィクトルは音を立てて椅子から立ち上がり、荷物を抱えたまま店内に入ってきた人物に対して、そのよく通る声で名前を呼んだ。

「ユウリ!」

 そしてその場から動くことなくユウリに向かって両腕を広げた。

「ヴィクトル!」

 ヴィクトルを見つけたユウリもくしゃっと笑顔になり、小走りにヴィクトルのもとへと歩み寄るとまっすぐにその腕の中に飛び込んだ。
 自分より一回り小さな身体を、その荷物ごとヴィクトルは囲い込むように抱きしめる。もう二度と離さないとばかりに強く。
 ひどく、胸を打たれる場面だった。ギオルギーは気づけば無言で彼らを見つめていた。
 店内で顛末を見守っていた数人がパチパチと拍手している。わかる。
 なんかいいもんを見た。そんな気持ち。
 そう。それが、たかが一時間の個人的な買い物のために置いてきぼりにされた男の姿であっても。
 周囲のなんともいえないあたたかな視線をまるで気にすることもなく、ひしっと抱きあったまま彼らは会話をしている。

「欲しいものは買えたかい」
「うん、ごめん。ヴィクトルのこと置いていって」
「ユウリがいないから寒くて凍えて死にそうだった」
「待っててくれてありがとう」
「ずっとユウリのことを考えてたよ」
「そう?」
「もう俺を一人にしないで」

 だからお前は一人じゃなかっただろう!! わたしがいるんだが!!?? 今も!!! 横に!!!!
 ギオルギーの声は届かない。
 物語はハッピーエンド。魔女の役目はもう終わり。王子は愛の力でお姫様のもとにたどり着き、お姫様も魔女から解放される。

「ギオルギーさん、ありがとうございました。スパシーバ」

 ひとしきり再会を喜んだのちに、ユウリはギオルギーにぺこりとお辞儀をした。握手でもなく、抱擁でもない、頭を静かに垂れる日本人独特の仕草。こういう挨拶にどう返すべきかわからないギオルギーは、いやまあ別にと立ち尽くすしかない。

「実はヴィクトルに買ってあげたいものがあって」

 そうこっそりと小さく言って、ユウリは笑った。

「なかなか一人で買いに来るタイミングがなかったんですけど、おかげで買えました。助かりました。…ヴィクトルには悪いことしちゃったけど」

 わたしにもだと言いたいところだったがギオルギーはぐっとこらえた。
 目を細めてひどく幸せそうにユウリが笑ったからだった。
 良かったなと口にすると、ユウリはもう一度頭を下げた。ゆるやかな舞を思わせる綺麗な動きだった。そこに後ろからヴィクトルが声をかける。

「ユウリ、疲れただろう。早く家に帰ろう」
「あ、うん。じゃあギオルギーさん、また!」

 今日は夕飯に何を食べようかなどと会話しながら、二人は去っていく。
 その後ろ姿を見ながらギオルギーはじぃんと噛みしめた。

――愛だな。

 愛なんてわからないよ、と途方に暮れた子供のように笑った男の姿はどこにも見当たらない。氷が溶けるようにして跡形もなく消え去った。
 うん、愛だ。
 王子とお姫さまの真実の愛は永久凍土の氷を溶かし、おとぎ話の悪い魔女さえ浄化するのだ。
 

    ***


「ヴィーチャ!!!!」

 リンク上に向かって、サイドからヤコフが唾を飛ばして怒鳴っている。その声はもはやみなが聞きなれたものだ。

「そんな雑なエッジワークがあるか!! どの面下げてシーズンに出るつもりだ!!!!」

 なっとらん! とヤコフが檄を飛ばしている。

「ワオ…きついね…」

 額にびっしょりと汗をかき、息を荒げながら顎に伝う雫を拭い、ヴィクトルは苦笑している。
 だがエッジにこびりつく氷を落としてから、再びリンクを滑りはじめた。
 疲労はにじむもののヴィクトルの表情は明るい。一年のブランクを経て、年齢による肉体の限界を常に目の前にしながら、力強く氷上を舞う。
 復帰を決意した以上、ヴィクトルは間違いなく王者奪還を狙っている。
 コーチになることで、ヴィクトルは弱くなったと揶揄する者もいた。だがそれもまたヴィクトル・ニキフォロフにとっての必然だった。愛を知って自分の弱さを知り、そして強くなった今だからこそ堂々と復帰を果たす。

「やっぱ、さすがヴィクトルって感じよねー…」
 
 練習の順番を待ちながら練習風景を眺めるミラがため息をもらす。

「まだ現役の勘は戻りきってないみたいだけど、しっかしまー幸せそうに踊っちゃって」
 
 けっとその横でユーリが吐き捨てる。

「本気じゃねーやつにリンクに立たれてたまるかよ。復帰したあいつは、俺が全力でぶっつぶす」
 
 どんなヴィクトル・ニキフォロフだろうが容赦しねえと、来シーズンもっとも有望株と期待される少年は言い切った。その顔からは、成長期に入りかけながらなおも妖精と謳われる繊細な美貌はうかがえない。戦場で戦う戦士の顔だ。
 そんな眼差しで少年はどこか晴れ晴れと笑う。

「出戻ってきた人間に居場所なんか作らせねえよ」

 それに頷きながらもギオルギーは感慨深いものを感じていた。。
 ヴィクトルをこうまで動かすもの。リンクにしがみつかせるもの。
 それは、愛だ。
 今のヴィクトルの演技には愛がある。彼がこの瞬間もリンクに立ち続けるのは愛ゆえだ。自分のためではない。
 彼はもう二度と一人では踊らない。リンクの上では一人でも、一人ではない。理由はどうあれ、愛に満ちた姿は美しい。

 ――愛は、強い。

 ギオルギーは改めて思った。ならば自分もまたさらに進もう。
 ハートブロークンは終わった。もう悪い魔女になる必要はない。
 来シーズンでのプログラムの構成についてヤコフに希望を伝えたとき、師は重たくため息を吐いた。

『ギオルギー、お前までわしに逆らうのか』
『いえ、そういうわけではなく、もっと上を目指したいと…!』

 慌てて顔を上げて見たヤコフは、苦い表情を浮かべながらも確かに笑っていた。

『自分の思うようにやってみろ』

 だがやると言った以上容赦はせんぞとつけ加えて。そのヤコフを思い出しながら、ギオルギーは高く宣言した。

「来来シーズンのテーマを決めた!」
「はあ? もう?」

 突然なにやら言い出したギオルギーを、ミラが胡乱な目で見た。スマホをいじりながらストレッチをしていたユーリも画面から顔を上げ、マジかよという顔でこちらを見ている。

「わたしは探究者になる!!」
「なんの…」
「愛の、探究者に!!!」
「うっわ…」
「くそおも…」

 リンクメイトが向けるうわぁという引きまくる目線もなんのその、ギオルギーはリンクの高い天井を見上げて拳を握った。
 ちなみに今度のテーマはフェニックスだ。ブロークンしたハートは今年でもってよみがえる。そうハートはよみがえる、何度でも。

「ふぬおおおぉおおぉぉおおおお!!!!!!」
「やかましいわ、ギオルギー!!!!!」

 怒鳴るヤコフの声もよそに、ギオルギーの心は愛と希望に満ち溢れていた。



『よみがえったハートを抱きしめて、今度こそ自分だけの真実の愛を見つけに行こう』

by ギオルギー・ポポーヴィッチ(26歳)

- end -


Pixiv再録
王子とお姫さまの愛は、魔女の心も忍耐力も気力も体力も奪う。
・苦労人魔女ギオルギーさん
・王子大好きめんどくさい可憐?お姫さまヴィクトル
・男前ざっくり王子勇利くん
以上でお送りしました。
ギオルギーさんには是非真実の愛を見つけてしあわせになってほしい。最終回まであと2話っていうときに白目剥きながら書きました。

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