神さまたちの死ぬ日
ヴィクトル & 勇利
コンコンと、扉を叩く音がした。おっくうそうな鈍い音。
ともすれば聞き落としてしまいそうな小さなそれを耳にして、俺は身体を横たえていたホテルのダブルベッドから跳ね起きた。あめ色に磨かれたフローリングの床に裸足で飛び降り、バスルームの前を横切って扉に近づく。
念のためにのぞき穴から廊下側を確認し、そこに黒い頭部が映っているのを目にしてすぐにドアを開いた。
内側に開いた扉とともに、寄りかかっていた人物が倒れ込んでくる。
自分より一回り小さな身体をしっかり抱きとめて、俺は相手の名前を呼んだ。
「勇利」
勇利はぐったりとしていた。全身が熱をもってあたたかい。焦げ茶色の目はとろりと潤んで半分ほど瞼が落ちている。象牙色の肌は、今は真っ赤に染まり切っていた。とりわけ目尻から頬にかけては、紅を差したようになっている。
そういえば普段かけているはずのメガネもない。まさかどこかで落としてきたんだろうかと全身を両手で辿るようにして確かめれば、コートの右ポケットにひっかかるようにして収まっているのを見つけて安堵した。壊れていないのを確認して俺のシャツの胸ポケットの方に移動させた。
勇利を部屋の中にひっぱりこみ、扉を閉める。
乱れた黒髪を額からかき上げてやると、抱えられていた勇利がふにゃりと笑った。
「ヴィクトルだあ」
甘ったるい声とともに、酒気が香る。その強さに俺は思わず顔をしかめた。
「…悪い子だ。いったいどれだけ飲んできたんだ?」
「えええ、たくさんかなあ。そうたくさん」
勇利はけらけらと笑った。まったく俺の気も知らないで。
オフシーズンに入るや否や休暇を決め込んで、勇利と二人でやってきたスペイン。バルセロナはもう行ったから今度はマドリードがいいと勇利が言って、それならと一週間をここで過ごすことを決めてバラハス空港に到着したのが三日前。
ホテルは市内の中心地にあり、プラド美術館やティッセン・ボルネミッサ美術館にも五分ほどでたどり着く。最高級というほどのランクではないけれど、適度な広さと重厚感があり、設備は古いが手入れが丁寧に行き届いた、長期滞在にはうってつけの居心地の良いホテルだ。部屋はメゾネットタイプのスイートを選び、上段がベッドルームで下段がリビングになっている。
リビングは広めのバルコニーへと続いていて、椅子に腰かけながらゆっくりとコルテス広場を見下ろせる。このバルコニーがあるのがホテルの決め手だった。勇利と二人でワインでも飲みながら、マドリードの夕暮れを眺めるなんてきっと最高だろう。そして実際に素晴らしかった。もう一週間滞在を伸ばしても良かったとつい後悔してしまうくらいに。
ちなみにマドリードの滞在が終わったら、そのまま二人でハセツに向かう予定。勇利の里帰りに俺が同行するのは、すでに決まりきったスケジュールだ。残念なのは、俺があまり長く日本にいられないせいで、マッカチンを連れていけないことだけ。
マドリードに着いてからというもの、観光やショッピング、ホテル内のジムで身体を動かしたり、市内をランニングしたりと、気ままかつ自由に勇利と過ごしていたけれど、今日は珍しく別行動だった。俺に午後からインタビューの仕事が入ったせいだ。せっかく休みを楽しむためにここまで一緒に来たのにと駄々をこねた俺を宥めて、勇利は一人で街へ散策に。俺はSkypeで雑誌編集者と打ち合わせ。
思ったより長引いてしまって、終わったころには日が暮れかけていた。慌てて勇利に連絡を入れて、夕飯を食べに行こうと誘えば、もう少ししたらホテルに戻るから待っててと返ってきた。それなのにいつまでも戻ってこず、電話もメールもあれからさっぱり繋がらない。外へ探しに行こうか、むしろフロントに行って警察かと悶々としていたところへやっと帰ってきたと思えば、まさか酔っぱらいになっているとは。
いくらマドリードが安価で入りやすいバルだらけだからって、一人で酒を煽るのは油断がすぎるんじゃないの。
ねえ勇利、ここは日本じゃないんだ。治安は良いほうだといっても、明らかに地元民でない外国人が酔っ払って一人でふらつく場所じゃない。それが例え夜中でないとしてもだ。そんな当たり前のこと、デトロイトで過ごしてたお前なら分かるはずなのに。
安心と苛立ちでとっさに何を言えばいいかと迷う俺に勇利はのんきなものだった。
「ヴィクトルも一緒ならよかったなあ。お酒、美味しかったんだ。あれ、ヴィクトルへんな顔してる。せっかく綺麗なのにシワがついちゃうよ。ねえ、ヴィクトルの手冷たくて気持ちいいね。僕ヴィクトルの手が大好きだ。手だけじゃないけど」
大好きと繰り返して俺にしがみつく。こうなると勇利は収まらない。ひたすら機嫌よく脈略のないことを繰り返しながら笑い続ける。
これでも、酔っぱらった状態としては軽度な方だ。今日のスイッチは、そう甘えたな子猫…いややっぱり子豚ちゃんか? そんなところ。酔っ払い子豚ちゃんは暑いと言いながら、羽織っていたコートを脱いで床に滑り落としている。俺にしがみついたままなのに器用なことだ。それ拾って掛けておかないといけないのは多分俺だよね。
俺はやれやれと思いながら、それでもやっぱり腕の中のこの子を離せなくて、まいったなあとため息を吐く。
だって酔っぱらった勇利はかわいい。かわいくて素直だ。普段の勇利ももちろんかわいいけど、素直じゃないし、ときどき俺にとても冷たい。
「ねえ、ヴィクトル」
とろけそうな勇利の声が、今度はまた別の響きをもって俺に響いた。見下ろせば、酒で潤んだ瞳が、どこか挑戦的な眼差しで俺を見ている。
心臓がどくりと音を立てる。俺は思わず唇を笑みの形に歪めた。
そう、酔っぱらった勇利が必ずやることが一つある。
勇利は俺の腕の中から猫を思わせるしなやかさでするりと抜け出ると、一歩、二歩と下がって俺から距離を取った。酔っ払いらしく上半身はゆらゆらと不安定に揺れているけれど、下半身は危うげなく、両足でしっかりと床を踏みしめている。
長年重量のあるスケート靴で氷の上を滑り、あるいは蹴って飛びあがってきた足は、こんなときでさえ優雅に絨毯の上を進ませる。
一メートルほど距離を取った先で、勇利はゆっくりと右腕を俺に差し伸べた。
朱の差した目元をゆるりと細め、艶美な笑みを浮かべながら勇利は言った。
「Shall We Dance ??」
***
酔っぱらうと、必ず踊るのが勇利の酒癖だ。それも一人で踊るばかりではない。酒量が一定量を越すと手当たり次第に周囲にいる人を巻き込み、ダンスバトルを始める。ちなみに本人は酔った最中のことはまったく覚えていない。
まあこれは本当に泥酔したときくらいで、ほろ酔い程度の状態なら正気を失うことはないし、ちゃんと記憶も残っている。サンクトベテルブルクのアパルトメントで、俺は勇利と一緒に作った夕食をのんびりつつきながら、バルチカやウォッカを飲むのを何よりの楽しみにしているけれど、翌日に試合や大切な練習を控えていない限り、勇利も晩酌につきあってくれる。酔いが回って気持ちよくなってくると、やっぱり勇利は俺に言う。
『ねえ、ヴィクトル。一緒に踊ろう』
蒸気した頬ときらきらした黒めがちの瞳で俺を誘う。俺はもちろんと答えてソファから立ち上がり、勇利の手を取ってとびっきり優雅に一礼をする。何を踊るの? と目で問いかけると、勇利はそのときの気分で好きな曲を口にする。基本はだいたいワルツ。それからスローフォックストロット。パソドブレといった、ダンスバトルのときみたいな激しいダンスはさすがに踊らないけれど、調子に乗ってくるとワルツがベニーズワルツになって、ひたすら二人でぐるぐるとリビングを回る。マッカチンもそんな僕らの周りを、尻尾をぶんぶんと振りながら一緒になって回る。やがて息が切れて、もつれあうようにソファに倒れ込んで、顔を見合わせて二人でシコーラ(学校)に通う子どもみたいにけらけらと笑う。
これが俺と勇利の日常のひとつ。勇利がロシアに来て、俺とピーチェルで暮らすようになってからの。
それにしても、氷の上だけにとどまらず酒の席で意識が吹っ飛んだ状態でさえ踊りたくなるだなんて、本当にこの子は心底踊ることが好きなんだろう。
勇利はどんなものでも踊れるのだと、前にミナコが口にしていた。幼少の頃からミナコの指導でバレエを始めて、それからフィギュアの道に入ったというけれど、ソシアルダンスや日本舞踊もいっとき習っていたらしい。
フィギュアスケートをやるにあたり、バレエを習うのは珍しいことじゃない。ましてロシアでは基礎中の基礎だ。加えて俺もソシアルダンスは嗜んではいるけど、勇利に至ってはブレイクダンスやポールダンスまでマスターしていた。まったく恐れ入る。このあたりは、デトロイトで過ごしてときに覚えたらしい。うまく滑れないときや、気分転換にこっそりダンスクラブで踊っていたとかなり後になって白状した。勇利のデトロイト時代のことは、今をもっても謎が多い。勇利のリンクメイトであり、ルームメイトでもあったピチット・チュラノンでさえ、クリスの見せた勇利のポールダンスの動画に仰天していたくらいだ。
そう、酔っぱらった勇利とのダンスバトル。もう三年半も前になるんだっけ。あの日のバンケットでのことを今でも俺は忘れられない。勝生勇利という人間を、俺が初めて認識した日。人の顔も約束も、興味がなければすぐに忘れてしまう俺がどうしても忘れられなかった。それどころか繰り返し思い返して、撮った写真を眺めさえした。だって本当に楽しかったから。
あの頃の俺にとって、グランプリファイナルという舞台でさえ特別なものじゃなかった。いつもみたいに最高の演技を見せて、それにふさわしい色のメダルを当然のようにもらって、エキシビション後のバンケットでは、知り合いもまあいるけれど、早く帰って寝たいなあなんて思いながら笑顔をはりつけてにこにこ無難な交流をこなす…。そんなときに、酔っ払いにからまれてダンスバトルを申し込まれるなんて、いったい誰が予想する? しかもその条件が、勝ったら自分のコーチになれだなんて。
ねえ、勇利。
あのとき俺の世界はひっくり返ったんだ。お前が壊した。俺の殻も過去も。
お前はその言葉ときらきらした瞳で、俺の心臓を貫いた。
あのとき、それまでのヴィクトル・ニキフォロフは死んだ。そう、お前が殺したんだよ、勇利。お前はそんなこと、まったく自覚していなかっただろうけれど。
それどころか、あの時間をひとかけらも覚えていなかったわけだけど。
今だって、自分がどんな顔で、何を口にしているのか、まるで知らないような顔をして俺に右手を差し出す。一緒に踊ろうと。そして、俺はその誘いに抗う術を持ち合わせてなどいないんだ。
「今日は何を踊るんだい、勇利」
曲はなに? と続けて尋ねる。勇利は少し悩むように首を傾げてから、ふふっと楽しそうに答えた。
「…ムーンリバー」
「ワオ。センチメンタルだね」
誰もが知る有名な映画に登場する挿入歌。ニューヨークのアパートに暮らす自由奔放な美しいヒロインが窓枠に座り、ギターを抱えてポロポロとメロディを奏でながら、頭上の空を見上げ、ときに目を伏せて物思いに耽るようにして一人静かに歌う姿は、優しく澄んだ歌声とともに俺の記憶にも焼きついている。
どこか胸を締めつけられるようなしっとりとした三拍子。なぜか懐かしく耳に響く「ムーンリバー」という音。
俺が世界で一番よく知る川は、サンクトベテルブルクのネヴァ川だ。街と人と、そして歴史に寄りそうようにしてあの川がある。ハセツにも川が流れていたっけ。橋を渡ってリンクに向かう毎日は、海辺の景色とともにサンクトペテルブルクでの俺の日常を思い起こさせてくれた。でも、この歌の川は多分きっともっと広い。歌詞に、果てしなくとあるから、まるで海のようなんだろう。川の流れていく先には、いったい何があるのだったか。
俺が歌詞を思い出せないでいるうちに、勇利が自分のジーンズのポケットに入れていたiPodから伸びたイヤホンの片方を俺の左耳に押し込んできた。残る一方を自分に右に装着して勇利はねだるようにこちらを見上げる。
いいでしょ、の意味だ。挑むようにも媚びるようにも見える双眸は、結局こちらにダー(YES)しか言わせない。
僕と勇利を繋ぐイヤホンのコード。まるで運命の糸みたいだと思って、笑いがこぼれる。
運命といえば運命だろう。スケートの女神が僕らを引き合わせた。そういえば俺にとって決定打となったあの動画をアップしたのはハセツの三つ子ちゃんだっけ。さながら彼女が俺たちの運命の三女神だ。紡がれる糸は、過去から現在、そして未来へと繋がっていく。うーん、あの子たちに運命を握られてるなんて考えるのはワクワクするけど、かなりドキドキもするかな。出会うたびに、あいかわらずにぎやかな彼女たちを思い返してつい笑みをもらすと、目の前の勇利があからさまにふて腐れた顔をした。ふて腐れたなんてもんじゃないな、目が完全に据わってる。舌ったらずな英語が俺を責める。
「ヴィクトル、何考えてるの。よそ見しないで。――僕だけを見てて」
「わかってる。お前だけだよ、勇利」
あいかわらず酔いで赤く染まったままの小さな耳元に、息ごと吹き込むように低く囁くと、勇利は一度身体を震わせてから満足そうな吐息をもらした。
まったく情熱的なことだ。氷の上と、そしてお酒を飲んだ時だけ見せてくれる勇利の顔。
普段は隠された、けれど間違いなく勇利を構成する彼の一部。
普段の勇利は恥ずかしがって、こんな可愛らしいことを正面から俺に言ってくれたりはしない。それならこういうときはさっさと楽しんだほうがいい。
「どちらがリードする?」
どちらが最初に男役あるいは女役を務めるのかを確認すると、勇利は酒で思考が低下しているとは思えない速度で即答した。
「僕。ヴィクトルは僕に任せて。僕に全部を委ねて」
「ワオ…情熱的だね」
でもあとで交代だよとやんわり釘を刺すと、勇利はいいよと頷いた。どこか傲慢な女王様めいた仕草であり、遊びを楽しむ少年そのものの顔でもあった。勇利はまるでカレイドスコープのようだといつも思う。光と角度で無限に変化して、一瞬ですら俺を飽きさせない。
互いに向かい合い、肩と腰に手を添えてポジションが決まると、勇利がiPodの再生ボタンを押し、耳になじんだ曲がゆったりと流れはじめた。自然と呼吸を合わせ、ずれることなく最初の一歩を踏み出して、俺と勇利はさほど広くもないホテルの部屋の中を、ベッドの間を縫うようにしてステップを踏んだ。
俺は勇利の動きに身体を預け、この子が踊りたいように、その表現したいままに任せる。それはひどく気持ちの良いことだった。勇利と踊るのが俺は大好きだった。勇利の音楽が俺の中で響きあい、共鳴して一つに溶ける。氷の上で踊るのとはまた違う充足感がある。それを勇利も感じていることが、表情と触れ合った熱から伝わる。
きれいだよ勇利と囁くと、勇利は嬉しそうに笑った。
そう、勇利はきれいだ。華やかさには欠けるのかもしれないが、人を引き込む魅力がある。東洋人にしては手足が長く、それでいて彼ら独特の薄く骨ばった身体におそろしくきれいに筋肉が乗っている。素人目にも相当に鍛えられた身体だとすぐにわかるアスリートの身体だ。
勇利がステップを踏み、両手を伸ばして上体をくねらせるたび、シャツの下からうっすらと透ける筋肉が躍動して照明を弾くのが見えた。リンクで踊っているときのように。
――そう。俺と勇利はまだ滑っている。勇利だけじゃない。俺も氷の上にいる。
今度こそ本当の終わりが近づいているのを知りながら、その最後が一瞬でも先であればいいと願いながら、俺たちはリンクの上を滑り続けている。
もっとも、俺たち二人が揃ってリンクに立つには一悶着あった。
忘れもしない。俺をコーチとして、勇利が人生二度目のグランプリファイナルに挑んだ日。SPを滑り終えた、バルセロナの夜。
宛がわれたホテルの部屋で、終わりにしようと勇利は言った。
いったい何を言われたのか俺にはわからなかった。確かにSPは完璧ではなかった。だが、ヤケになるような出来でもなかったはずだ。これからまだやれることは十分ある。このグランプリが終わったあとも。
俺は、勇利のコーチとして俺に何ができるのか、これからのことを考えていたけれど、勇利の頭にあったのは終わりだった。ヤケなどではなく、冷静に真剣に、俺とのコーチ解消と自分の引退を決意しているのだと理解したとき、俺は目の前が真っ暗になる思いがした。
気づけば目じりに涙が盛り上がり、重力に従ってぽろりと俺の頬を伝って落ちていった。俺は何で自分が泣いているのか、どうしたらいいのか分からなかったから、当然涙を拭うこともできなくて、涙が零れるがまま、ただ声もなく勇利の顔を見つめていた。
だってねえ。俺に戻る場所なんてどこにもない。俺をロシアに返すって何様なの。ロシアだって困るよ。ねえ、俺はもうあの国にはいらないんだよ。
勇利には見えなかったの?
俺の持つSPの最高得点を越えたユリオ、俺がいないとつまらないと言いながら自分の演技を滑りきったクリス、王者になることより誰かの記録を抜くことより国のために誇りと愛を演技で捧げたピチット・チュラノン、自分を支え愛してくれる人たちのために踊ったジャン・ジャック・ルロワ、そしてオタベック・アルティン。ユリオの初めての友達。俺たちが当たり前のように教えられ身体に染みついてきたバレエを基礎としたフィギュアを否定し、自らのやり方でここまで上り詰めて新しく英雄の名を冠した彼。
あのファイナルの場に、スケーターヴィクトル・ニキフォロフの影はどこにもなかった。俺は完全に過去の存在になっていた。新しい世代が作り上げるスケートの世界に、もう俺はいらない。
氷の上を降りてしみじみと実感したことがある。俺の存在はきっとたくさんの可能性を潰し成長を阻んできた。俺がロシアを出なければ、俺はユリオのことも潰していた。あの子もまた俺の演技を愛してくれていたから。
俺の不在で、スケート界は頭上の重みを失って、爆発したみたいにいろんな選手が溢れ出した。誰もが自由に頂点を目指せる。誰もが王者になれる。
勇利、お前だってそうだ。最初は、日本人選手のコーチをしているヴィクトル・ニキフォロフに注目していたかもしれない。でもみんな今は、ヴィクトルのコーチを受けて踊るユウリ・カツキを観にきてる。お前の演技を目に焼きつけようとしてる。俺じゃない。
どうして気づかないの。人は忘れやすい生き物だ。もうだれも俺を待っちゃいない。でも俺はそれでいいって思ったんだ。それでも勇利のコーチでありたいと思ったんだ。俺なんかより、勇利を見せたい。もっと世界に。勇利の踊りと音楽を。そのためにできることをする。それが俺の愛だって。
それなのにどうしてお前がそんなことを言うの。今更俺をロシアに返すって。氷の上に戻れって。本当にいったい何様のつもりなんだ。
混乱しながらそんなことをぐるぐる考えている俺に、勇利がぶつけてきたのは「ヴィクトルも泣くんだあ」なんていう情緒も気遣いもまったくない、まるで珍獣を見るかのような言葉だった。すごいよね。俺がこんなに悲しくて胸がつぶれそうな思いをしてるってのに、さすがにそれはないよね。
でもそれくらい、勇利の中で俺という存在は「ヴィクトル・ニキフォロフ」ということだった。勇利の中の絶対。それに今の俺は勝てない。コーチヴィクトルは、選手ヴィクトルに勝てない。そのことが俺には言葉にもならないほどのショックだった。
「俺が踊るのを見たいと思っている人間がいるとしたらそれは勇利、お前だけだよ」
半ば呆れ、半ば絶望した思いでそう口にしたら、でも勇利は言った。
「そうだよ、ほかの誰が待ってなくたって、僕はヴィクトルの演技をまた観れるのを待つよ…!」
迷いのない声だった。
「だって、僕はヴィクトルの踊りが好きなんだ…もっと見たい…ずっと見ていたい…。今のヴィクトルがこの場所で、この選手たちの間で、どんな演技をするんだろうって考えるんだ。僕のコーチになってくれたヴィクトルが、ハセツで一緒に過ごしたヴィクトルが、どんなふうに氷の上で踊ってみせるのか。それを大舞台で見たいって」
「……勝手だな」
俺は吐き捨てるように呟いた。勇利は勝手だ。
「それで、勇利は納得するの。俺がお前のコーチを解消して、ロシアに帰って現役に復帰して、俺の演技が見られればそれで」
「……するよ」
「自分は引退して、遠い空の下からテレビの向こうで俺を応援するって?」
「そうだよ。僕は今この瞬間がピークだ。ヴィクトルがいたからここまで来られた。ヴィクトル以外のコーチなんて考えられない。だから僕は引退する」
あれから話し合いになんかなるわけもなく、あとは試合が終わってから考えようと決めてそれぞれ背中を向けてベッドに横たわったものの、目は冴えたまま一睡もできず。俺も勇利も最悪のコンディションで翌日のFPを迎えたわけだった。
ベッドの上で、夜明けが来るのをじりじりと待ちながら、背中越しに聞こえてくる勇利の呼吸と身じろぎする音に神経を高ぶらせながら、俺はずっと考えていた。
勇利が俺の復帰を望んだということ。それが俺にとって、どういう意味を持つものなのかを。
考えて考えて、脳が焦げつきそうなほど考えて、ああ、そうかと思い至った。
そうだね、勇利。お前は僕のファンだった。
例え世界が俺を見捨て、いつか忘れ去るとしても、きっとお前だけが、最後まで俺の。
なら、やっぱり俺は戻らなきゃいけない。氷の上に。ほかでもない勇利のために。
それにファンだからこそ、勇利は見抜いていたのかもしれない。俺の中にある想い。俺でさえ気づけなかったもの。勇利と出会った俺がもし今選手に復帰するのなら、俺はどんなイマジネーションを抱いて滑ることができるだろう。リンクの上で繰り広げられる美しき苛烈な決戦を目の前にして、俺がそう無意識化で考えていたことを。
これはもう、選手として染みついた性のようなものだ。俺は常に俺という存在を氷の上で試したい。試したかった。その価値と可能性があるかぎりどこまでも。勇利もまた競技者であり、表現者であるから、きっと俺の心に隠れた闘志を感じ取った。
実際、底をついたと思った俺の中の音楽とイマジネーションは、勇利という存在によって水を得た花のようによみがえった。それを勇利に見てほしいという欲望は、確かに俺の中にあった。
悔しいなと思った。俺はやっぱりヤコフのようなコーチにはなれない。勇利をただ守り、導くだけの存在には。
俺と勇利は互いに競い合い、高めあいながら、先へ先へと進んでいく。きっとそういう生き方しかできない。でもきっとそれでいい。それが俺たちの愛の形なんだろう。
でもだからこそ、勇利の引退を許すことはできなかった。俺が競技者であるためには、勇利もまた競技者であり続けてもらわなければならなかった。勇利が氷上から去ってしまえば、今度こそ俺は一人になってしまう。そんなこと、耐えられるわけがなかった。
そして勇利を、氷の上に引き留める役目を、俺はユーリに負わせた。なりふり構ってなんかいられなかった。
ユーリの優しさ、競技者としての誇りと信念、そしてユーリが勇利へ抱く憧憬とライバル心。それを知っているからこそ、俺はユーリを頼った。いや、頼ったなんて殊勝なものじゃない。焚きつけた。あるいは利用したといってもいい。でも内心は縋るような思いだった。だって今の俺は選手じゃない。選手として勇利の価値を突きつけ、引き留めることができるのは俺じゃない。
――勇利を止めて。
俺が言葉にせずぶつけた思いを、あの子供は正確に受け取った。
ユーリの捨て身のアガペーは、勇利を氷から逃がさず、俺をも救った。培った美しさをかなぐり捨て、氷の上に願いを刻みながら心をむき出しにして踊る演技は、俺の目から見ても圧巻だった。それは、ユーリの愛が本当に完成した瞬間でもあった。俺が自身で作りながらも踊りきることのできなかったアガペーは、本当の意味でユーリ・プリセツキーのものになった。
そして俺とユーリは、勇利から競技生活を続けたい、金メダルを絶対取るという言葉を勝ち取った。氷の上から逃れられないことを、勇利はやっと認めて受け入れた。それは勇利が、競技者としての俺とコーチとしての俺、どちらも捨てられず、どちらも欲しいと宣言したようなものだった。勇利はあと一年と言ったけれど、俺はそんな程度じゃ満足できない。勇利に自分の限界なんて決めてほしくない。俺もそんなもの決めたくない。どこまでも、行けるとこまで一緒に行きたかった。勇利と一緒に。
五年を提示すれば、勇利は銀メダルを手に涙を零して笑った。それが答えだった。
あれから俺はフィギュア選手に復帰。同時に、勇利のコーチも続行。二兎を追うものは一兎も得ずとかいう世界共通のことわざがあるけれど、俺は二兎を追って二兎を得ることに成功した。リビング・レジェンドの代名詞は伊達じゃない。俺を生ける伝説にした最大要因は、俺のしぶとさと貪欲さだ。俺は欲しいと決めたものはなんだって絶対に欲しい。手段は選ばない。
勇利には、あいかわらずコーチ料のことは口にしていない。だいたい俺にとってのコーチ料は、勇利のコーチでいられることなんだから、値段をつけるなんて無意味なことなのだ。でも、もしコーチ料を払うと勇利が口にしてきたら、俺はこういうだろう。
コーチ料に勇利をちょうだい。勇利の残りの人生をまるごと俺にちょうだいと。
俺はわがままだよ、ねえ知ってるだろう。勇利。
お前と同じだ。欲しいものぜんぶ余すところなく手中に収めたい。二番なんて嫌だ。三番なんて論外。俺は一番でいたい。勇利にとっての金メダルでありたい。一等高い、一等近い場所に俺を置いていて。
けれど、俺はその願いと想いだけは未だに勇利に言う機会を得られずにいる。今はまだ、俺たちは氷の上にいるから。同じ競技者として、そしてコーチと弟子として滑り続けているから。氷を降りた先のことを、俺はまだ勇利に口にしたことはない。勇利がどうするつもりでいるのかも尋ねたことはない。
男子フィギュアのクオリティは年々進化していて、表彰台に立つことは至難の技だ。誰もが凌ぎを削りながら最高の色のメダルを目指す。
クリスは去年引退した。俺と勇利を演技構成点において僅差で押さえての世界大会初の金メダルだった。
クリスは自分の演技が最高値に達したことを、演技の中で確信したんだろう。最後のポーズを決めながらいつまでも動かなかった。息は荒く目は潤んでいた。会場の高い天井を見上げながら、降り注ぐ喝采に包まれて静かに泣いていた。あの日、リンクの氷はクリスの涙で濡れた。
今の彼はプロスケーターとして、あちこちのアイスショーで踊っている。パフォーマンスに優れるクリスは世界中から引っ張りだこだ。振付師も兼任している。ついこの前の勇利のSPはクリスが振り付けをした。俺が引き出せなかった別のエロスを引き出してみせるとかいってね。勇利のエロスの解釈について、俺とクリスは完全に対立したわけだけど、結局勇利はクリスの意見を入れて演技をした。ひどくないか? もちろん結果は大好評。勇利は、クリスの振り付けで、パーソナルベストを更新した。
ギオルギーもクリスと同時期に引退をした。世界選手権でロシアの出場枠を勝ち取り、パーソナルベストを更新しての堂々たる演技だった。それはもうドラマティックで圧巻のね。彼にしかできない演技を踊りきって氷を降りた。今はスケートの解説者としてよく知られている。演技者以上に熱の入った、情感あふれる解説はもはやロシア国民にとってちょっとした名物みたいになっている。
――そして。
俺も、次がラストシーズンになるだろう。選手としての限界を俺は日々感じ続けている。身体のあちこちから上がる悲鳴をねじ伏せ、無視しきれない痛みと付き合いながらそれでも氷の上にしがみついてきたけれど、その日々が近いうちに終わることを俺はもう悟っている。
勇利もきっと察している。
ずっと、勇利と踊っていたいけれど、ずっとなんてものがないことを俺たちは痛いくらいによく知っている。
ムーンリバーは流れ続ける。マドリードのホテルの一室で俺たちは踊り続ける。
耳の奥から流れ込む歌詞が、切ないほどの震えを帯びて俺の中に染み込んでいく。
ねえ、勇利。俺たちは、同じ虹の向こう側にある夢を一緒に追いかけてきた。その先はまだ見えないけれど、きっといつかたどり着く。この流れの先に。俺たちの虹の麓はどこにあるんだろうね。それはどんな場所だろう。
振り返れば、色んなものを後ろに置いてきた。昔の俺は後ろを振り返ることをしなかったから、自分が何を置いてきぼりにしたのかさえ理解していなかった。それを勇利は思い出させてくれた。LOVEとLIFE。二つの《L》。
俺の故郷は今じゃピーチェルと長谷津の二つだ。あそこは勇利のコーチとして、ヴィクトル・ニキフォロフが生まれ直した場所だから。
俺があの街を訪れると、誰もがおかえりと言ってくれる。
《ゆ~とぴあかつき》の入り口をくぐると、湯気の立つカツ丼を持ったヒロコが俺に言うんだ。
――あらあ、おかえりヴィっちゃん。
――元気にしよったと?
だから俺も両腕を広げて彼らを抱きしめて言うんだ。ただいまってね。
――久しぶり、ただいま。帰ってきたよ。俺のもう一つのふるさと。
――マリ、ミナコ。俺にとっての日本のパーパとマーマ。
ハセツにいたときに使っていた俺の部屋はさすがに片付けてしまったけれど、それでもいつだってあそこには俺の居場所がある。俺が使うための服だとか小物だとかを残して、俺がいつだって勇利と一緒に帰ってきてもいいようにしてくれている。
ハセツで過ごしてからというもの、俺はすっかり広い空間が苦手になってしまった。広すぎる部屋は冷たくて寂しい。それになにより手が届くところに勇利がいなきゃ嫌だ。
だからこのホテルの部屋だって、スイートではあるけれど、ほかの一流ホテルに比べればずいぶんとこぢんまりとしている。使い込まれた調度品の置かれた、落ち着きのある居心地の良い空間。そんなホテルを選んだ。
まあそんなところで踊っているものだから、いくら踊り慣れた俺たちとはいえ、ワルツを踊り続けるのに限界があった。ベッドルームから階段を降り、リビングへ移ってはソファとローテーブルの間をすり抜け、またベッドルームへと移動して部屋中をくるくると踊っているうちに、とうとう勇利の足がベッドに触れてぐらついた。
俺は、勇利が転倒する前に勇利のの腕をひっぱって腕の中に抱き込むと、背中からベッドにダイブした。バネの利いた柔らかなベッドは、俺たち二人の体重を難なく受け止める。
「勇利大丈夫かい? 身体をぶつけてない?」
身体の上に乗せた勇利に尋ねると、俺の首筋に顔を埋めたまま勇利はううぅと意味のなさない呻き声を上げた。
酔っぱらった上にぐるぐるとワルツを踊って、体力底なしと言われる勇利もさすがに疲れたらしい。
うん、楽しかったけれど正直俺も疲れてる。さらにいえばお腹も空いてる。勇利もそうだろう。この分じゃお酒しか口にしていないだろうし。あとでルームサービスでも頼もうか。さいわい、まだ夜中というほどじゃない。
あーあ。俺、今日勇利と食べたいもの決めてたのに。だってここはスペインだよ。美味しいものがあふれてる。定番のパエリヤやアヒージョはもう食べたけど、ヒヨコ豆を使ったコシードに、ハチノスをトマトで煮込んだカジョスとか、ジャガイモ入りのトルティージャとか、茹でたタコとスライスしたジャガイモにパプリカパウダーをかけたタパスとか。まだ食べていないものを思い浮かべれば、胃が切なく鳴いた。ああバルに行きたい。ワインが飲みたいよ勇利。そう思ったら唐突に口の中がカラカラになってきた。それは勇利も一緒だったらしい。
「喉乾いた」
顔を伏せたままぼんやりと呟いたのにふふっと笑って、俺は勇利を抱えたまま身体を起こし、ベッドのサイドテーブルに置いていたミネラルウォーターのペットボトルを手に取った。キャップを外し、中身を口に含むと、とろりとして目をほとんど閉じている勇利の顔に手を添え、そのまま口づけた。触れ合わせた唇の間から、少しずつ水を流し込む。勇利は抗うこともなく、口内に流れ込む水を受け止めて少しずつ嚥下した。白い喉がこくりと音を立てる。口の中の水がすべて勇利の中に移ると、俺は再びペットボトルの水を含み、親鳥がひな鳥にするようにして口移しに勇利に水を飲ませた。舌は入れない。だって、俺たちはべつに恋人同士じゃないから。どんなに俺と勇利との距離が近しくても、どんなに代えがたい存在であっても。もっとも、俺はあまりそういった行為の意味にこだわらない。だから一度当たり前のように舌を入れてしまって、勇利にものすごく怒られた。まあ、あれは多分びっくりしたんだと思うけど。でもそれ以来同じことはやっていない。唇が重なるのは構わないのにね。でも、そこが勇利の線引きなんだと理解したから。
そう…薄く開いた艶を帯びた赤が、どんなに俺を誘っているように見えたとしても。
濡れた唇を親指でぬぐってやりながら、俺は勇利に尋ねた。
「勇利、今日はなんだってここまで飲んだ?」
そう、これを聞くまではまだ寝かせてあげられない。このままうやむやにして朝になるなんてこと、俺は許せないし、許さない。
勇利は普段は酒をそれほど嗜まない。ガードが利かなくなるのを自覚しているからだ。ということを知ったのは彼のコーチになって大分あとになってからだ。
勇利という人間は、とにかく自分のことを明かそうとしなくて、直接聞いても駄目、誰かに聞いても限界、結局そのつど向き合って彼の中身を探り当てる必要があった。
きっとまだまだ彼の中には俺の知らないものが詰まっているんだと感じさせる。本当にびっくり箱のような子だ。まるで俺を飽きさせない。
普段隠していたり抑えたりしている部分が、酒を飲むと一気に爆発する。爆発した内容を本人がいっさい覚えていないというのがまたすごい。本人もどうやら自覚している上に、選手としての体調管理に禁欲的すぎるほど気を遣っている勇利だから、普段は酒を飲まないようにしているというわけだ。
その勇利がここまで酔ったということは理由がある。飲ませられたわけではないだろう。
頑固で警戒心が強いから、たやすく人の口車には乗らない。つまり自分から飲んだ。
「ねえ、勇利」
ベッドヘッドに身体を預け、腕の中に抱え込んだ身体を小さく揺らす。勇利は水を口にしたあと再び俺にしがみつくようにして突っ伏してしまった。意識は落ちていないはずなのに返事をしようとしない。
「俺に教えて」
隠し事なんてなしだ。黙って寄り添うこともできるけど、勇利相手には意味がない。
優しく揺さぶって吐き出させる。そうしないと勇利はどこまでも一人で抱え込む。そんなのはもう勘弁。
「誰かと一緒だった?」
低く耳に吹き込むと、びくりと身体が震えた。心は頑なだけどいつだって身体は正直だ。勇利の素直なところ。
「誰と?」
重ねて尋ねると、少し沈黙してから勇利が小さくくぐもった声で答えた。
「…女の子。広場のカフェにいたら、声をかけてきて」
「ワオ」
「隣いいかしらって言うから、いいよって」
わかりやすいナンパだ。さもありなん。勇利はモテる。
なぜか視線が吸い寄せられるのだ。本人は日本人が珍しいだけだよなどと言うけれど、俺は勇利の自己評価をまったく信用していない。
「それで? カフェのあとにバーにでも?」
「違う。そうじゃない。バーは一人で行ったんだ」
「なぜ」
「そんな気分に、なったから」
「勇利、何があった」
勇利はあいかわらず顔を上げない。それでも辛抱強く勇利の返事を待っていると、勇利はぽつりと言った。
「指輪のこと、言われた」
「指輪?」
ようやく勇利は重たい口を開いた。カフェで話しかけてきたその彼女について訥々と語りはじめる。
「僕の右手を見て素敵な指輪ねって言ってくれたから、大切な人とおそろいなんだって教えたらあなた結婚してるの? って聞くんだ。違うよ、結婚じゃない。僕のお守りでおまじないなんだって言ったら、じゃあ外してなんて言い出したんだ。結婚相手じゃないんなら、今くらい私のこと見て。私あなたのこと素敵だなって見てたの。指輪のことなんて忘れて私と遊びましょって」
ずいぶん積極的で情熱的だ。苛烈なくらいに。でもまあそんなものかもしれない。なんたってここはスペインだ。
「それで勇利はなんて答えたの」
「できないよって。でもそうしたら…」
勇利はいったん声を詰まらせた。それで、俺はこの先にあった出来事こそが問題だったのだと気づいた。俺にしがみつく手が、痛いほどの強さで俺のシャツを握りしめている。爪先を痛めてしまいそうで、俺は宥めるように勇利の手を包んだ。優しく言葉の先を促す。
「うん、勇利。そうしたら?」
「その子、僕のこと知ってたんだ。僕とヴィクトルのこと。指輪を外せないっていった途端、彼女の空気が変わった」
彼女は身を乗り出し、囁くように勇利に告げたという。
『ねえ、わたしあなたのこと知ってるわ。あなたのこと、指輪のこと。テレビでもネットでもたくさん見たわ。そう、あなたとヴィクトル・ニキフォロフのこと。
彼とあなた、やっぱり本当につきあってるのね?
だって彼ってとってもセクシーだもの。
ねえ、教えてくれない?
彼、どうやってあなたのこと抱くの? それともあなたが彼を抱くのかしら』
その問いこそが、声をかけてきた女の本音だった。
ゴシップ誌が面白おかしく書きたて、ときおりインタっビューでもあけすけにぶつけてくるのと同じ問いを、彼女はより露骨に、偏見と悪意を興味にすり替えて勇利を試したのだ。ナンパという形で。
『僕と彼はそういうのじゃない』
誰に問われても今までそうしてきたように、きっぱり答えた勇利を、その女は嘲るように声を上げて笑った。
『なぁにそれ。おままごとみたい』
――意味がわからないわ。
「勇利、どうしてすぐに俺を呼ばなかった?」
そばにいたら、一方的にそんなことは言わせなかったのに。お前は俺の宝物だと、たった一つの真実を伝えて安心させてやれたのに。他者の憶測で語られる偏狭な思想などまったく無意味でくだらないものだと教えてやれたのに。
こんな風に一人で酒を飲ませたりはしなかったのに。
なのに勇利は言う。
「だめだよ、だめだ。だって、ヴィクトルの顔を見たら、僕絶対にあなたに抱きついて泣いてしまうもの。それじゃ駄目なんだよ。意味がないんだ」
勇利、それの何がいけないの。
俺と付き合ってるって言ってしまえば良かったのに。あるいは彼女が言うままに外せば良かったのに。そんなことで俺は傷ついたりしないのに。俺のことを思ってあまりに大事にするから、その優しい心が傷つく。
勇利がひどいのは、自分だけが痛くて苦しいし、それでいいと思ってること。勇利はどんな辛いときだってそうするけれど、まったくわかってない。勇利が痛いなら俺も痛い。苦しんでるならその原因を取り去ってあげたい。いつだって俺はそう思っているのに。
もし俺がその場にいたら、その子の前で勇利にキスをして、勇利は俺の大切な存在だと憚ることなく公言していただろう。
けれどああ、そんなことをすれば傷つくのは勇利だ。彼女は俺たちを見て、なんだやっぱり恋人なんじゃないのといっそう嗤うだけだったろう。それは勇利の本意ではない。なぜなら勇利は。
「ねえ、ヴィクトル。僕はもしいつか誰か結婚したい人ができても、ぜったいにこの指輪を外したりしないよ。だってこれはヴィクトルがはめてくれたものだもの。ヴィクトルが俺の願いをかなえてくれたものだもの。結婚指輪にだって代えられないんだ。それよりももっともっと大切なものなんだ。ねえ、なんでみんなそれをわかってくれないんだろう」
ひどいと、勇利はぐすぐす子供のように泣いた。
その勇利を抱きしめて、背中をあやすように叩きながらしょうがないよと俺は言った。
結婚が最大の愛の証明だと信じているやつらに、俺たちの愛なんてわかるわけがないもの。結婚はもちろん愛の大きな一つの形だ。尊く美しい関係だ。ただ、結局俺たちがそれを選ばなかっただけのことだ。俺たちの間にあるあらゆる愛に、なんらかの決まった形をあてはめることなく、分類することもなく、そのすべてをただ愛と呼んで大切にすることにしただけだ。
でも、ひどいのはどっちだろうね、勇利。
俺に指輪をはめながら、いつか自分が結婚してもこの指輪ははめないなんて。
勇利は、本当に自分が誰かと結婚することを考えているんだろうか。
俺以外の誰かと。
それができると思っているんだろうか。
まるでそれこそが、俺と勇利の完成された穢れのない愛の証明だとでもいうんだろうか。
そう、俺と勇利は恋人じゃない。互いをそう紹介したことも、認識したこともない。俺は、ハセツで勇利に、勇利が望むなんにだってなると告げた。それが例え恋人だって。けれど、勇利が俺に望んだのは、俺が俺であることだった。俺が「ヴィクトル」であること。
あれから、俺たちの間にあるものは何一つ変わらない。互いが互いとしてあること。それが俺たちの愛であり、今もそうだ。
勇利は、俺との関係に肉的な意味での性愛が混じることを恐れている。
俺たちの間にあるエロスは、あくまで精神的なもの。
指輪は勇利の願いの表れで、お守り。俺たちの絆を形にしたもの。
結婚だなんてことになったのは、そもそも俺も悪い。これは婚約指輪で、勇利が金メダルを取ったら結婚指輪になるなんて、俺が言ったことだから。友人たちは純粋に喜んでくれたし、まあ本心ではそうでないとしても、俺はまったく構わなかった。
あのときの俺は嬉しくて、浮かれていたんだと思う。勇利が形を望んだこと。それが不安と決意からくるものだとしても、俺と勇利の関係を確かに証明できる、目に見える証を勇利が俺にくれたことが。
勇利の愛を俺は信じているし、信じてきた。勇利はその踊りで、演技で、全身で俺に愛を告げる。それができる勇利が、この小さな金色の輪に、その想いを込めたことが。
勇利がその心を分けてくれたようで嬉しかった。だから何も考えず、ただ勇利が勇利の思う演技ができるようにと指輪を嵌めながら願った。
心ごと置いていくためだったと知ったときはどうしてやろうかと思ったけれど。
それでもこの指輪は、俺と勇利を繋ぐなによりも強い証になった。
すべてが俺の宝物だ。勇利の心が俺の右手に宿っている。
この子の心は、今や全部俺のものだ。
…だけどねえ。
心をすべて明け渡しながら身体は許さないなんて、どんな魔性なんだか。さすが俺の勇利。町一番の美女。
もっとも、俺は今のところそれで問題がないと思っている。俺たちにとってはリンクがすべてだから。
勇利は、今も俺を想って踊る。僕を見て、僕から目を離さないでと俺に囁きながら氷上を舞う。ステップを刻みながらブレードで氷を削る勇利の意識は俺に向けられている。あの興奮は、快楽といっていい。
クリスのように、氷上での演技にあからさまな性的興奮を感じることはないとしても、似たようなものだ。肉欲に繋がらないとしても、心でセックスをしているに等しい。
馬鹿だなあ、勇利。お前は最初から俺を選んでいて、最後までも俺を選び続けると口にしているようなものなのに。
俺はもっと勇利が欲しいし、同じくらい勇利に求められたい。俺が欲しいって言ってほしい。
それなのに、勇利はこんなことを言うのだ。
「指輪をしてるからって、僕とヴィクトルがセックスしてるって思われるのがいやだ」
――僕たちはそうじゃないのに。
――そんなことで測れるような関係じゃないのに。
そう勇利は愚図るように繰り返すと、俺に抱き着いたままやがて寝入ってしまった。昂ぶった感情を酒で誤魔化し、さらに踊りで発散させた疲弊が限界にきたのだろう。
俺は勇利を起こさないようそっと身体の上から下ろし、勇利をベッドに横たえた。涙で濡れた目元をそっと拭いながら、俺は狂おしいようないとおしさで胸が締めつけられそうだった。
なんてかわいいことを言うのだろう。かわいくて幼くて愚かしい。
もう二十六歳なのにね、勇利。お前は、まるで夢見がちな処女みたいなことを言うんだ。俺はそんなお前が心底いとおしい。
眠る勇利の額に口づける。目じりと、頬と、そして唇に。
でもね、勇利。俺はお前とセックスしてもいいと思ってるし、できると思ってるよ。本当はずっと思っている。
ごめんね、勇利。
お前は俺とセックスをしないことで、俺との関係を神聖なものにしたいのかもしれないけれど。ほかのありきたりな関係と同じにしたくないのかもしれないけれど。
俺は勇利のきれいな部分も汚い部分もぜんぶ含めて俺のものにしたいよ。
一部だけなんて満足できない。上辺だけなんて許さない。
全部が欲しいんんだ。その魂ごと。
勇利の身体の中で俺が知らないことがどこにもないようにしたい。
皮膚の下、その内側までも暴かせてほしい。俺の手でそうしたい。その心臓を直接手のひらで覆いたいくらい。
勇利、お前だってそのはずだ。お前だってその身体の奥に欲を覚えていることを俺はちゃんと知っている。
ただそこまで俺を愛して尊んで、他の何にも変えがたい存在としてひときわ大切にしてくれる勇利の心が嬉しいから、あまりにいじらしくてたまらないから、目をつぶってあげているだけだ。
ティーンは俺か。自嘲したくもなる。
言いくるめて誤魔化して、陥落させてしまうこともできたのだ、きっと。
勇利はそんな俺でもきっと許してくれた。拒みながら葛藤しながら、それでも最後は俺を受け入れてくれただろう。でもできなかった。嫌だった。勇利から、自分の意思で落ちてきて欲しかった。勇利に求められたい。その焦げつきそうな願いは、今も俺の中に燻っている。
でも、今はまだそんな未来を夢想することしかできない。俺たちは二人ともまだ氷の上にいる。俺たちを繋ぎ生かす、その土台とも言える銀盤が、俺たちのかたちをとどめて何にも変化させてくれない。
でももうそれも長いことじゃない。
氷の上で、スケートを通じて繋がってきた関係は近いうちに終わる。選手生命の終焉と一緒に。
リビング・レジェンドとしての俺をお前が殺して、勝生勇利のコーチにした。コーチとしての俺をお前はまた殺し、俺を再度王者へと生まれ変わらせた。
ねえ勇利、じゃあその次は?
決まってる。
俺と勇利はやがてはリンクから下りる。俺たちの長い競技人生は今度こそ終わる。
そのとき、スケーターヴィクトル・ニキフォロフと勝生勇利は死ぬ。勇利のコーチであるヴィクトルも一緒に、永遠に。
そうだ、俺たちは死ぬんだ。どちらが先になるかまだわからないけど。負けず嫌いのお前は少しでも、俺と同じくらいあるいは俺より長く氷にしがみつくだろうから。みっともなく限界まで勝利を望んで力を全部使い果たしてボロ雑巾みたいになるまで滑るだろう。
そうして氷の上の人生を終えた時、そしたら俺たちは何になるだろう。勇利はわかっているはずだ。
俺たちは、今度こそただの人になる。
かつてスケーターだった、ただのヴィクトルと勇利に。
そうしたら、スケートで繋がれた美しく崇高な俺たちの関係はそこで終わってしまうと思う?
そんなことはないはずだ。
ねえ、勇利。俺は今までの人生で、スケートをやめたあとのことを考えたことなんてなかった。氷の上以外に俺が生きられる場所なんてない。だって俺はそれ以外の生き方なんて知らなかったから。学ぶ必要も感じてなかった。でも身体は日に日に俺の年齢を突きつけ、イマジネーションは枯渇していった。いつか滑れなくなる日が怖かった。スケーターじゃない俺に価値はない。そうなったら、きっと俺はもう俺ではいられない。そう思っていた。
でも今はそうじゃない。
だって勇利、お前がいるから。
俺は氷から降りた先でも、きっと俺を見失うことなくヴィクトル・ニキフォロフとしていられるだろう。
俺がお前にとってそうであったように、誰かにとっての氷上の神さまであり続けるお前を、先に人間に生まれ直した俺は地上で待っている。
お前の人生が終わるときにはまっさきに迎えに行くよ。
そうしたら、ねえそうしたら勇利。
スケートの女神から地上に返されたら、ただの人間同士恋をしよう。ごくありきたりで、だからこそ心躍る、とびっきり当たり前の恋をしよう。
勇利とそんな恋が出来たら、きっとどんなに楽しいだろう。俺はどんなに幸せになれるだろう。今、お前と氷の上で愛を紡ぐことだって、何にも代えがたい喜びだけど。もし勇利が…お前が氷から降りた先でも俺を愛してくれるなら、残りの人生を俺に捧げてくれるというなら。勇利の意思で、それを選んでくれるなら。
俺は、自分の引退を感じながら、そんなことをときおり考える。
ねえ、勇利。氷からおりたって指輪の価値は変わりはしない。だってお前が先に永遠を俺にはめたんだよ。そんな形の愛があることを、お前が俺に教えてくれた。気づかせてくれたんだ。だから責任は最後まで取らないと。それともお前はスケートから離れた俺は好きじゃないって? フィギュア選手でもなく、お前のコーチでもないヴィクトルに興味はない?
それならただの人間ヴィクトル・ニキフォロフを好きになってもらえるようにするまでだ。
ねえ、勇利。きっと何度だって勇利は俺を好きになるよ。俺が勇利を好きになるように。だって考えてみて。俺が勇利に心惹かれたのは、リンクの上じゃないんだ。俺は勝生勇利という選手を頭では認識していたけれど、まだ心に刻んではいなかった。俺の魂を射抜いたのは、地上で踊る勇利だった。俺に思いもよらない可能性とイマジネーションをくれたときだった。
きっと俺は死ぬたびに生まれては勇利に出会い愛を抱く。
指輪は永遠の円環の象徴だ。途切れることなく循環し続ける愛の証明だ。その流れが絶えることはない。
お前のアガペーもエロスもすべてここに閉じ込めてしまおう。
ベッドの上で愛を踊ろう。
そして一から恋をしよう。
骨の髄まで愛しあおうよ。
LOVEとLIFE。
二つの《L》を両手に、最後まで一緒にいよう。
今度こそ、この命が終わるときまで。
そのいつかが来る日がこわい。ずっと氷の上で勇利と踊っていたいから。
けれど同じくらい、俺は俺たちが死ぬ日を望んでいる。
氷を降りて、ただのヴィクトルと勇利になる時を。
――その日を、焦がれるほどに待っている。
- end -
何度だって死んで、何度だって生まれて、何度だってお前に恋をする。
公式が公式すぎて二次でやれることはもはやセックスしかないのでは、いやもう公式でセックスしているも同然なのでは、なら二次でセックスをさせないことが公式に対抗??する方法なのでは!??何を言っているんだお前、という混乱思考の行く末による創作でした。(過去形)
こちらに、その後の勇利視点のお話と未来軸アラフォーになった二人のピーチェルスローライフな一本を加えて本にしました(『Hello!!僕の愛しいムーンリバー』)。