引っ越し祝いにピロシキを

ユリオ&ヴィクトル & 勇利



 路面の雪が溶けはじめ、まだまだ寒さ厳しい中にも春の気配が覗きはじめた4月。
 最高気温が今年初めて10℃を越えたこの日、ユーリはプルコヴォ国際空港に来ていた。
 すでに何度となく訪れている馴染みの場所だが、今ユーリがここにいるのは自分が搭乗するためではない。
 ユーリは夜7時過ぎに到着するはずのアエロフロート便を待っていた。
 ベンチに腰掛けながら、スマートフォンで今の時刻を確認する。それから空港サイトに載せられた発着便の一覧を眺め、該当の便に遅れがないことを確かめた。ここに来てから何度となく繰り返している行為だ。
 もう一度スマホの表示画面を見つめ、空港内に設置された時計にも目を走らせてから、ユーリは空港に来る前に買ったミネラルウォーターを最後まで飲み干し、デイパックを背負ってベンチから立ち上がった。去り際に、空っぽのペットボトルを近くのごみ箱に放り込む。そして、パーカーのフードをきっちりかぶり直すと、搭乗待ちや見送りの人々が行きかう中、到着ロビーの方へと足を向けた。
 新設されてまだ数年しか経たない新空港は天井が高く、開放的で明るく綺麗だ。主要都市の玄関口とは思えないほどこぢんまりとしてはいるが、その分移動に時間がかからない。
 着陸からそう時間をかけずに出てくるだろうと思いつつ、どこか気ぜわしい気持ちを押さえつけながら、ユーリはほかの出迎えの人々の隙間に場所を確保すると、出口に目を凝らした。
 ときおりぱらぱらと出てくる到着者たちの間に、見慣れた姿がないかと探す。
 握ったままのスマートフォンはすでに時間を確認するだけのものになっている。SNSを見ているどころではない。
 辛抱強く待ち続け、10分が20分も30分にも思えたとき、ユーリははっと息を呑んだ。
 十数人がいっせいにぞろぞろと姿を現したその中に、ひときわ目立つ黒髪が見える。艶やかなその色は見間違えようがない。そして、その下のなぜか野暮ったく見える青フレームのメガネ。口元をマスクで覆っていても、ユーリにははっきりと分かる。

「っ、勇利…カツ丼!!!」

 大声で呼びかける。
 本来の名前を呼ばれたときには首を傾げるだけだった顔が、カツ丼という言葉を耳にしたときにはっきりと反応を返した。この場所で、この単語を口にできるのは一人しかいない。そう、ユーリ・プリセツキーしか。

「ユリオ!」

 ユーリを認めたメガネの奥のヘイゼルがきらりと輝く。口元のマスクをぐいと引き下ろし、露わになった顔に満面の笑みが浮かぶ。同時に響いた自分の名を呼ぶ声に、ユーリはざまあ! と心の中で快哉した。

――ざまあ、ヴィクトル!

 もはや付き合いが長いだけでは済まされない、兄弟子でありライバルでもある銀髪の男に向かって。



 サンクトペテルブルクに拠点を移すことになった勇利が、いよいよロシアにやってくるという日、もちろん空港まで迎えに行くつもりだったヴィクトルに降りかかったのは、スケート連盟からの呼び出しだった。
 ヤコフとともに、今後の状況について幾度となく説明させられているヴィクトルはこの状況にすでに辟易していて、いっさいをヤコフに押しつけて今回ばかりはトンズラしようとしていたのだが、それを押しとどめたのは勇利だった。
ユーリはちょうどリンクでその会話に居合わせていたので、そのやりとりをしっかり聞いている。
 すっぽかすとかありえないと勇利はきっぱり言った。

『僕の迎えに来てる場合じゃないでしょ。どう考えたって優先順位おかしいでしょ』
『勇利は、一番に俺に会いたくないの!!?』
――やっと久しぶりに会えるのに!?  俺がずっと勇利が来るの待ってたの知ってるよねえ!? 

 別に、というのが勇利の返答だった。

『そんなの僕だって同じだし。っていうか、僕の方が待ってたし。どうせついたらこれからは毎日会えるんだし』

 本人の意図はどうあれ、ある意味、真っ先に会いたいと言われるより熱烈な一言にヴィクトルは声を失ったのだが、問題は勇利の迎えをどうするかということだった。
 ギオルギーやミラも手が空いておらず、かといって一人で行動させたくもない。
 日本からトランジット込みで20時間近くかけてやってくる勇利をちゃんと出迎えてやりたい。少しでも心細かったり困ったりといった目には合わせたくない。海外慣れしているし、デトロイトでの滞在経験もあるのだからそこまで世話を焼かなくていいだろうという声もあったが、ヴィクトルにとってみれば、勇利を一人で放っておくということそのものがあり得なかった。
 しかし飛行機の便はすでに決まっている。
 到着は夜だしギリギリ間に合う? いやそんな賭けみたいことはやりたくない…まいったなあと珍しく進退窮まったヴィクトルに、それなら俺が行ってやってもいいぜと、名乗りを上げたのがユーリだった。
 仕方ねえなあと、ユーリはさも面倒くさそうに金髪をかき上げながら言った。

『俺がカツ丼を迎えにいってやるよ』

 そんなわけで、ロシアに来た勇利を一番に出迎えるという権利を手に入れたユーリは、大変にいい気分だった。
 なんだって一番はいいものだ。とりわけ、目障りなやつを押しのけて手に入れるものは。
 万一に備え、昨晩は迎えの件でああだこうだと連絡してくるヴィクトルにうるせぇと電話で一声怒鳴りつけてからスマホの電源をぶった切って早めに就寝したし、今朝も早く起きて迎えの準備をした。空港には前もって2時間前に到着。スマートフォンをいじりながら待機した。予定はパーフェクト。あとは勇利を市内へ連れ帰るだけだ。
 予定ではそろそろヴィクトルも自宅へ戻っているはずだった。

「遅れがなくてよかったよ。モスクワで飛行機がなかなか着陸しなかったときはちょっと焦ったけど」

 空港から駐車場へと移動し、停めていた車にキャリーケースを乗せながら勇利は安心を顔に浮かべて言った。
 車はユーリのものではない。ヴィクトルがせめてと手配させたものだ。市内まではおおよそ一時間弱。順調にいけば9時頃には目的地に着くはずだ。
 向かう先はヴィクトルの自宅だ。市内のアパルトメント。中心部に近く、ホームリンクまで走って通える距離でネヴァ川を渡った向こうという立地条件は大変便利だ。
 ピーチェルでは一人暮らしをするつもりだという勇利を引き留めたのはヴィクトルだ。慣れない環境な上、英語も満足に伝わらない国で一人暮らしなんてさせられないとそれは必至かつ強引に食い下がった。
「ハセツでだって一緒に住んでたじゃないか。俺は勇利のコーチだよ? 勇利が万全の状態で練習に励めるようにするのが俺の役目だよ!?」とここぞとばかりにコーチ権限をふりかざし、最後は「せっかく勇利がロシアに来るのに離れて暮らすなんて耐えられない…」とどうしようもない本音で勇利を説き伏せていた。
 ロシアナショナルが終わったあとは、ヴィクトルもユーリもハセツで年末年始を過ごした。置きっぱなしにしている荷物整理や、マッカチンを連れ帰る手続きなどを済ませる必要があるヴィクトルに、ユーリもついていった形だ。そこで日本のショウガツというものを初体験したのだが、そのときも、ヴィクトルは勇利の両親や姉に「勇利は俺が責任をもって大切にするからね! ダイジョブダイジョブ!」と熱く約束を交わしていた。
 両親の方は「ヴィっちゃんがいるならよかよか~」とにこにこしていたが、姉のマリの方は、あからさまにうわぁという表情を浮かべていた。『ユリオ…いろいろ迷惑かけると思うけどよろしく』とこっそり伝えてきた彼女は、そうとうに深く事情を察している。
 当の勇利はというと、「ヴィクトルの部屋かあ…何度かインスタに上げてたことあったよね。ヴィクトルって部屋にカメラいれたがらないから、雑誌とかでもほとんど紹介されてなくてレアなんだよなあ…そこに行けるなんて夢みたいだなあ…着いたら写真撮らせてもらっていいかなあ」などとそわそわ嬉しそうにしていて、ユーリはこいつマジかよという気持ちになった。
――撮っていいか、じゃねーだろ。お前が春から住むところなんだろ。その感覚どっから出てくんだ、おい、この豚…!
 ヴィクトルオタクの心理はまったく理解できない。理解したくもない。
 とりあえず、勇利としてはロシアでの生活に慣れるまではということで同居を了承したらしいが、慣れたところでヴィクトルの家から出られる可能性は薄いどころかゼロ、いやマイナス。賭けにもならねえというのがヤコフ門下の面々の一致した見解だ。勇利がヴィクトルの家で暮らすと決まってからというもの、勇利がここで暮らすのに何を買えばいいか、それはもうわくわくと準備をしていたのを知っている。それどころか相談までされた。

『やっぱり炊飯器は買っといた方がいいかな』
『ブタに聞け!』

 ちなみにユーリは日本の炊飯器は購入済だ。初めてハセツに行った帰りに空港で買って帰ってきた。あのカツ丼をロシアでも作れないかと土産代わりに買ったものだが、リリアの家で世話になるようになってから今も活躍している。
 だが、ヴィクトルの対勇利への気配りは炊飯器どころではなかった。勇利のルームウェアやら使うマグや歯磨きブラシまで揃えかねないヴィクトルに、それはさすがに来てからにしたらとミラが冷静に突っ込んで渋々止めていた。
 勇利がこれから向かうのは、そんな男が住む家だ。それなのに当人はヴィクトルのテリトリーに自ら足を踏み入れることの危険をてんで理解していない。お気楽にもほどがある。そんな能天気ブタ野郎は、今も後ろ座席に腰を落ち着けながらのほほんと車内を見回している。

「なんか、ずいぶん大きな車だね」

 車種もヴィクトルが指定したのだろう。車の中にキャリーケースを持ち込んでも、7人乗りのレクサスLXは十分なゆとりがある。座席も座り心地が大変に良かった。
何も知らされていないからとはいえ、別にタクシーでも良かったのにというこの24歳は、まったく人の好意泣かせだ。

「広いから好きにできるぜ。なんだったら、着くまで寝てろよ」

 運転手に出発するよう頼んでから、勇利の隣にどっかりと腰を下ろし、両脚を投げ出しながらユーリが言うと、勇利は大丈夫だよ、と笑った。

「ユリオこそ、僕のこと待ってて疲れたでしょ」
「そんなの大した時間じゃねーし。ヒマだったし」

 迎えもいらなかったなど言われたら腹が立つ。ぶっきらぼうに言い捨てれば、うんありがとう、と返事が返ってきてユーリはこっそり安堵した。

「てめーは疲れてねーのかよ」
「うん、平気。むしろ寝れる気がしないっていうか…機内でもずっと意識が冴えてた。やっと、ここに…ロシアに来れるんだって、そう思ったら」

 勇利の声は静かだった。だが、そこには確かな緊張と興奮があった。いや、ユーリの感覚が間違っていなければ、それは闘志と呼んでもいいものだった。ふつふつとたぎる熱。一見凪いで見える面の下に、勇利の欲が潜んでいる。
勇利がサンクトペテルブルクに降り立ったことの意味を、ユーリは改めて認識した。
 これから、勇利は正真正銘ユーリのリンクメイトになる。ハセツで、ヴィクトルの指導を受けながら一緒に滑ったあの短い時間が、これからはもっと長く続く。

――本当に、カツ丼がロシアに…ピーチェルにきた。

 膝の上に置いた手を、ユーリはぎゅっと握りしめた。

――夢じゃねえ。ここに、いる。スケートをするために。ここに。

ここで、勝つために。

 昂ぶる気持ちを落ち着けようと、ユーリは窓の外に目を向けた。
 車は滑るように市の中心部へ向かって夜道を走り出していた。プルコヴォ空港はとっくに後ろへと遠ざかっている。車窓からは、サンクトペテルブルグの街並の明かりが遠く見えた。夜の闇の下で煌々と輝いて眩しい。その光に、ユーリは金メダルの輝きを思い出す。
 ユーリがシニアデビュー後のグランプリファイナルで手にした金メダル。死に物狂いで勝ち取った一番。
 あれは、何が何でも取らなければいけなかった。あれほどに金メダルが欲しいと思ったことはなかった。あんな思いで滑ったことはなかった。
 演技が終わり、できることはやりきったと感じた瞬間、張りつめていた緊張が途切れ、感情とともに涙があふれて嗚咽が止まらなかったことも。
 全部全部、昨日のことのように覚えている。
 あの、グランプリファイナルの最終滑走のことを。

『あいつが引退するってのか』

 ヴィクトルが復帰する、ナショナルに出る…その言葉は、必然、彼が今コーチをしている勇利の進退に関わるものだった。
 ――あいつはどうなる。あいつは…勇利は。
 おそらく自分は呆然としていたと思う。今はオタベックが演技をしている。出番はすぐそこだ。リンクサイドに向かわなければ。それなのに、そのはずなのに、勇利の引退という言葉だけがぐるぐると頭を回る。
 勇利が決めることだとヴィクトルは言った。

 ――決める。勇利が。あいつは思い切りのいいやつだ。俺は、知ってる。確かな存在感と、ときどきふらつく危うい希薄さを同時に持つ。そういう、やつで。

いつから、いつから考えていた。グランプリのロシア大会? いや、もっと前から? 雪深いモスクワの通りで、カツ丼ピロシキを食べながらワールドの話をしたはずだ。それなのに。

 ――なんで。

 ぐらぐらと揺れる思考が、突然大きな衝撃に包まれた。
 ヴィクトルに両腕で抱きしめられていると気づいたのは、一瞬遅れてだった。ヴィクトルは何も口にしなかった。ただ、痛いほどの強さでユーリの身体を包み込んだ。

 ――ヴィクトル?

 数分にも思えたそれは、一瞬のことだった。すぐに身体を離され、リンクサイドへ向かうよう促される。うつむいたままのヴィクトルの顔は見えなかった。その表情に何を浮かべていたのか、ユーリには今もわからない。
 ただ受け取ったものがあった。確かに託された。
 ヤコフとリリアに付き添われ、リンクサイドに立ったときには心は決まっていた。自分がやるべきことも。
 今ならヴィクトルの行動理由がわかる。

 ――あいつ、俺を焚きつけやがった。

 わざわざあんな場所で、あんなタイミングで自分の復帰を告げたのは、ユーリに聞かせるためだ。

 ――くそ、ヴィクトル。

 勇利を繋ぎ止めてみせろ。
 お前の演技で。
 お前の心で。
 ここが終わりではなくはじまりだと伝えてみせろ。

 勇利を止めてと、泣いて縋ってみせれば可愛げもあるのに、ヴィクトルは決してそんなことはしなかった。
 そのくせ進退は勇利が決めることだと口では淡々と告げながら、ユーリを抱きしめた腕は震えていた。その温度は熱いほどで、ひたすらに全身が叫んでいた。子供のように。

――勇利、勇利、勇利
――行かないで。終わらせないで。俺をひとりにしないで。
氷の上に置いて行かないで。

 あのときヴィクトルが手を伸ばしたいのは、本当に抱きしめて訴えたいのはユーリではなく、勇利だった。けれどヴィクトルにはそれができなかった。コーチとしての言葉では競技者である勇利の心に届かない。けれど、今のヴィクトルは氷の上を降りており、演技で勇利に自分を伝える術をもたない。
 だからユーリに託した。
 ――かっこわりぃ。無様だな、ヴィクトル。
 言葉のない抱擁は、ユーリへの願いであり、激励であり、信頼だった。あの熱が、ユーリの中に炎を灯したのだ。

――だいたいあの豚を、先に見つけたのは俺なんだぞ。抜け駆けしやがって。

 ずるくないかと思う。勇利も勇利だ。長年のファンだかなんだか知らないが、ヴィクトルのことしか見ちゃいない。

――ここには俺もいるんだぞ。お前を見てるやつはほかにだっている。

 今度からシニアに上がることもあり、いったいどんな選手がいるのか下見するつもりで見学していた去年のファイナルだった。その中で見つけた一人の日本人選手。
  ジャンプは失敗ばかりでひどいものだったが、そのステップに目を奪われた。まるで音楽を奏でているような、なめらかで美しいステップ。心を掴まれた。あんなステップができる人間は、ユーリの周りにはいなかった。そう、ヴィクトルでさえ。その選手の名前が、自分と同じということがさらに興味をひいた。
 結果にひどく落ち込んだ様子が気になってあとをつけてみれば、トイレの個室にこもって泣いていた。
 なんだよ。あのステップはすごかっただろ。自信持てよ。泣いてる場合じゃねえだろ。悔しいなら最高の演技をしろよ。ノーミスのパーフェクトな滑りを俺に見せろよ。
 励まし方なんかわからない。そんなことをする相手は今までいなかったから。ただ無性に腹が立って、トイレまで殴り込んでやった。発破をかけたつもりだった。

 ――俺を、俺という存在を覚えとけ。もう一人ユーリって名前がいることを忘れんな。
 ――俺は次シニアに上がる。ぜったいにてめぇもそこにいろ。

 その後、どういう運命のいたずらがあったのか、ヴィクトルが勇利のコーチになるとロシアを飛び出し、そのヴィクトルを連れ帰る名目でユーリも日本へ行った。
 ハセツでの日々。今まで関わったことのない人々、知らない世界。ヴィクトルにしごかれる勇利とのリンク練習。
 ――温泉 on ICE。
 ヴィクトルの指導を受けた勇利の演技に、ユーリは敗けた。結果を聞くまでもなく、勇利を見つめるヴィクトルの目と観客の反応ではっきりとわかった。
 悔しかった。けれど同じくらい清々しかった。

 ――やっぱりあいつの演技はすごかった。あのステップに精度の高いジャンプが加われば無敵になる。あいつはもっと強くなる。そのあいつをぜったいに倒す。俺が。今の俺の演技で、全力で。

 それが楽しみで、ここまで来たのに。

 ――俺は! 俺はやっとシニアに上がったばかりなんだ。これからなんだ。ずっと…お前と滑ってみたかった。同じ世界の舞台で競える。やっとそれがかなうんだ。

 そう、まだこれからなのだ。なのに引退とか馬鹿げている。ヴィクトルの記録を越えて満足したつもりか。ふざけるな。俺たちはもっと上だって目指せる。

 ――綺麗な終わりなんて許さねえ。

 年齢の…それに伴う肉体の限界なんてユーリだって知っている。ヴィクトルが規格外なだけで、二十歳前後で引退する選手などいくらでも見てきた。ましてユーリと勇利との年齢差はあまりにも大きすぎる。二人が同じ競技会場で滑れる可能性、その数なんてほんのわずかだ。だからこそ言える。まだ、終わりのときじゃない。
 リンクの中央に立ち、深く呼吸をして目を閉じる。

 ――俺を見てろ。勇利。
 ――俺の演技をその目に焼きつけろ。

 叩きつけるような激しいピアノの音ともに滑り出した。鍵盤を舞う指を思わせる超絶技巧のステップを氷に刻んでいく。
 馬鹿みたいに必死だった。
 こんなにがむしゃらに誰かのために踊ったことなどない。息が切れるのも足が痛むのも構っていられなかった。
 感情が先走ったせいか、クワドトゥループは失敗。だがすぐに立て直して次の演技に集中する。こんなことで立ち止まってはいられない。勝つのは自分だ。ユーリ・プリセツキーだ。

 豚は銀メダルを握って咽び泣け!
 そんでめいっぱい悔しがれ!!
 もっともっとここにいたいと、まだ終われないと自覚しろ!!!

 だいたい綺麗に終わろうなど都合が良すぎるのだ。終わりのある物語になんの意味がある。そんなやつに金メダルはふさわしくない。あれは限界を越えていく者にこそふさわしい。ゴールの象徴にされてたまるか。くそったれ。
 ロシア大会で、最高のコンディションで最高の演技をしたのにJJに負けた自分の気持ちを、そのどうしようもない悔しさを、勇利も思い知るべきなのだ。
 そもそも自分の最高だとか限界を自分で決めていることさえ腹が立つ。明日の自分、未来の自分、いつかもっと素晴らしい演技ができるのではと、望みをかけて自分たちは高みを目指す。もっともっと、と。
 往生際が悪いと笑えばいい。それがなんだ。

――それでも俺はここにいる。ここで踊り続ける。
――お前はどうするんだ、勇利! この豚野郎!!

 あっという間の、けれど永遠にも感じられた四分半。
 曲の終わり、最後にポーズを決めたあとにユーリは荒く息を吐きながらリンクに崩れ落ちた。
 やりきった達成感と悔しさとなにもかもで頭がいっぱいで、ただ泣けてしょうがなかった。泣きたくなどなかったのに、あふれる涙を止めることができなかった。
 苦しい。息ができない。めちゃくちゃしんどい。身体中が痛い。
 完璧には遠い、プリマとしての美しさにも欠けた、15歳のありのままの自分の演技だった。これがユーリ・プリセツキーのすべてだった。本当の、今の実力だった。
 SPは完璧だったといえる。けれどFSはそうではなかった。
 ――こんな演技で勝ったって、俺はとうてい満足できねえ。こんなんで勝手に終わられてたまるか。
 ――俺は、俺の完璧な演技で、俺の満足する演技でお前と勝負したいんだ。お前に勝ちたいんだ。
 ――これで引退なんかほざいたらぜってぇ許さねえ。地獄の先まで呪ってやる。

 ――なあ、勝生勇利。

 キスクラのことはほとんど記憶にない。1位の表示を見たあとは力が本当に抜けて俯いてしまった。ナショナルジャージを頭からかぶせられ、その背中をヤコフとリリアがずっと撫でてくれていた。あの感触と温度は今も身体に残っている。ジャージの上から優しく抱きしめられたことも。
 それから、勝生勇利は引退しないとヤコフから聞いて、おさまったはずの涙がまた溢れてきて、本当にただの子供みたいに泣いた。
 泣き顔を見られるのがみっともなく、去年の勇利のように誰もいないトイレで泣いた。
 勝ったのは俺なのに俺はやりきったのになんでこんなに涙が出るんだ。
 バーカバーカ、全部てめえの、てめえらのせいだ。ハゲ。豚。
 泣きはらした目でトイレを出れば、その先にオタベックが待っていて、右腕にクマのぬいぐるみを抱えたまま、左手でティッシュを差し出していた。
 いい演技だったと、友人となった男はその容貌と同じく重々しい声で言った。

『心を揺さぶる演技だった。お前が誰の心を揺さぶりたかったのかはわからないが、きっと届いたんだろう。お前は戦った。まぎれもなく氷上のソルジャーだ。しっかり見届けたぞ。俺は誇らしい』

 ――お前が友であることが誇らしい。

 心からの言葉なのだと、疑うことなく受け入れられた。
 俺もお前の演技に感動したんだ、お前も最高だった。お前のフリーをちゃんと見れなくて残念だった。もっと見たかった。これからも楽しみだ。そう伝えたかったのに声にならなかった。こんなに友達の存在に感謝したこともなかった。
 僕はロシアに行くよと、勇利に直接告げられたのは、エキシヴィジョン後のことだった。
 ――春になったらサンクトペテルブルクに移る。君たちの街に。
 凛とした清々しい笑顔だった。とっさに言葉が出てこなかった。憎まれ口も思いつかなかった。そーかよとだけ答えた。おせえんだよと呟いた声を拾ったヴィクトルが、こらえきれないというように笑い、思わずその背中に拳を入れたことは覚えている。


 ――あれから、三ヶ月と少し。約束通り、勇利はロシアへやってきた。
 隣に座る勇利をちらりと見る。勇利は、外を流れていくピーチェルの夜景をずっと眺めていた。通り過ぎる街灯が、その姿を繰り返しぴかぴかと照らす。
 髪が伸びたなとぼんやり思った。出会った頃の勇利は、もう少し短かった。演技中はわからなかったが、氷を降りた彼を初めて目にしたとき、ジュニアにも見える容貌に驚き、公式プロフィールの年齢を何度も確認したものだった。
 思えば、勇利とこうして二人で過ごした時間はほとんどない。出会ってからまだ一年ほどにしかならず、だいたいはヴィクトルも一緒だった。気負うことなく二人並んだのは、ヴィクトルが急きょ帰国したロシア大会後が初めてだったかもしれない。
 ああそうだと、そこでユーリは思い出した。横に置いていたデイパックから紙袋を取り出し、勇利に押しつける。

「ん」
「なにこれ」
「引っ越し祝いにくれてやる」
「なに、うわっ、重いね!?」

 受け取った勇利が目を瞬かせる。ガサガサと音を立てながら中身を覗いて、あっと声を上げた。

「これ、もしかして」
「…カツ丼ピロシキ」
「ユリオが作ったの?」

 驚いた様子に、思わずかっと頬に血が上る。

「…っ、ちゃんとじいちゃんにつくり方教わってるからな! ジジィもリリアも食って大丈夫だったから多分問題ねえよ!! なんだよ、心配なら、」
「ありがとう。いただくよ」
 勇利はさっそく一つを手に取ると、二つに割ってからピロシキを頬張った。

「冷めてるだろ。あっためてから食えよ…」
「でもおいしいよ!! フクースナーだ!」

 勇利はあの時のように、にっこりと満面の笑みを浮かべた。ユリオすごいねと褒められて、なんだかいたたまれない気持ちになる。
 米の硬さとか、味つけとか、ハセツで食べたカツ丼を思い出しながら改良しているが、まだあの味にも、祖父のピロシキにも叶わない。今回作ったのは、カツ丼ピロシキ・プリセツキースペシャル・Version.4だ。朝から作って、出来の良さそうなものを持ってきた。なお、大量の試作品はヤコフに押しつけてきている。
 勇利は腹でも減っていたのか、黙々とピロシキを食べている。機内でもあまり寝れなかったと言っていたし、機内食もほとんど口にできなかったのかもしれない。窓枠にもたれながら、食べる勇利の様子を見ているうちに、つい笑いがこみ上げてきた。

「ふはっ、ホントにブタみてえ。ブタがピロシキ食ってやがる」
「なにそれ、ひどくない? でもさ、ホントに美味しいよ。ユリオの気持ちがいっぱい詰まってる気がする」
「…そりゃ、俺のじいちゃんが発案したもんだし。まずいわけねぇし」
「僕もカツ丼のつくり方を母さんと姉ちゃんに仕込んでもらったから、今度ユリオに作るよ」

 日本の炊飯器や調味料も荷物に入れたから、そのうち届くはずだと勇利は言った。あの味がロシアでも食べられるのなら素晴らしい。

「それ絶対だからな。つか、作り方教えろ。…ヤコフとリリアにも食わせてぇし」

 あともし機会があればオタベックにもだ。彼は日本の食事は好きだろうか。自分が好きだと思ったものを、分け合えたらいいと思う。

「もちろん。代わりにユリオも僕にピロシキ教えてよ」
「仕方ねーな。じいちゃん直伝のピロシキはすげえうまいんだからな。食いすぎてブタになるなよ」
「ならないよ! っていうかいい加減ブタはやめてくんない!?」
「ブタはブタなんだよ、ブタ!」

 車は大きな渋滞にも引っかからず、スムーズに市内を抜けた。何度か橋を渡り、ネヴァ川を越えて住宅街に入る。見慣れた道に差し掛かり、車が速度を落としたところで、窓の外をじっと見ていた勇利が声を上げた。

「あれ、ヴィクトル?」
「マジかよ」

 見れば、行く手のアパルトメンの前に立つ大小の影がある。すらりとした長身と、腰ほどの高さのもこもことしたシルエットは見間違えようがない。
 車が停車して勇利が降りるやいなや、伸びた腕がその身体をかっさらっていった。

「勇利ーーー!!!」

 声を上げて、ヴィクトルは勇利を両腕で抱きしめた。

「くるし、くるしいよ、ヴィクトルっ!」
「無事に来られて良かったよ。迎えにいけなくてごめんね。でもちゃんと用事は済ませたから大丈夫だ。ああ、勇利だ、本当に勇利だ!」

 マッカチンも混ぜてとばかりに、後ろ足で立ち上がって勇利の腕に前足をかけている。勇利はすでに窒息しそうになっているが、ヴィクトルになされるがままだ。なおもぎゅうぎゅうと全力で勇利を抱きしめて離さないヴィクトルの背中を、あとから降りたユーリは容赦なく蹴りつけた。

「おい、はやくカツ丼の荷物運べっ」
「あ、ユリオもおつかれさま!」

 あ、ってなんだこのやろう。
 反論しようとしたところに、振り返ったヴィクトルに捕まり、勇利ごと改めて両腕に抱え込まれてユーリは悲鳴を上げた。

「やめろうっとうしい!」
「勇利もユーリもおつかれさま!!」
「アォン」

 マッカチンが嬉しそうに吠えた。その尻尾はさっきからずっと勢いよく左右に揺れている。ようこそ、とヴィクトルが囁いた。
  ようこそロシアへ。ようこそピーチェルへ。
 うん、やっと来たよ。僕はここに来たよ、ヴィクトル…ユリオ。

 ほんとおせぇし。ばーか。
 
 勇利のキャリーケースを下ろし、車にはチップを払って返してからアパルトメンのエントランスに入る。勇利のキャリーケースを引っ張っていたヴィクトルが、そういえばと首を傾げた。

「勇利、それはなんだい?」

 その視線は、勇利が持っている紙袋に向けられている。げっ、と思わずユーリは呻いたが、勇利は嬉しそうに袋をヴィクトルにかざしてみせた。

「カツ丼ピロシキだよ」
「見せんな、ブタ!」
「ユリオが引っ越し祝いにって。ほら、ロシア大会のときにユリオがくれたって言ったでしょ」

 ああ!とヴィクトルが顔を輝かせる。その反応からして、勇利はロシア大会での自分のことをヴィクトルに話しているのだろう。ユリオ~と甘えるような声がかけられる。

「俺も食べたいなあユリオ?」
「ハゲに食わせるカツ丼ピロシキはねえっ!」
「えーユリオ、ヴィクトルにも食べさせたいよ。あげてもいいでしょ?」
「てめーにやったものだからてめーの好きにしろ!!!」
「フクースナー!!」
「もう食ってんのかよ!!」 

 見れば、勇利が取り出したピロシキを割ってヴィクトルの口の中に押し込んでやっていた。

「ね、美味しいでしょ」

 勇利もひどく満足そうだ。やめろ、こんなとこで食いはじめるな。っていうか、部屋についてからやれ。

「ユリオの手作りピロシキかあ。泣けてくるなあ」
「なんなんだよ! っつうかてめえにまで食わせる予定じゃなかったし!」
「え、でもこんなにたくさんだよ。僕一人じゃ食べきれないよ」
「作りすぎたんだよ!…なんだよヴィクトル気持ち悪りぃ顔しやがって」

 勇利の手からもう一口とカツ丼ピロシキを食べさせてもらいながら、ヴィクトルはとろけそうな顔を浮かべていた。

「ん~愛を感じるなあって思って」
「はあぁ?」
「勇利とユリオの。カツ丼は勇利のエロスでしょ。ピロシキはユリオのアガペーだ。それが一つになってるなんて最高だね。カツ丼ピロシキほんとにサイコー!」

 フクースナー! ハラショー! と繰り返すヴィクトルに、今度は絶対こいつらに焼きたてを食わせてやるとユーリは誓った。あと今晩はじいちゃんに電話しよう。俺のじいちゃんはやっぱりすげぇ。


     ***

「で? 見送りなんてどういう風の吹きまわしだよ」

 用事も済んだし帰ると言ったユーリを、ヴィクトルが送っていくと言い出した。勇利もついてくると言ったが、疲れてるからと却下され、コーチ命令で留守番させられている。

『ユリオ、今日はありがとう。気をつけてね。また明日。あと、ヴィクトルはいってらっしゃい』

 部屋のドアが閉まる前にそう声をかけた勇利に、ヴィクトルは頭上を見上げて「Хорошо…!」と呟いていた。同居して良かった…と続けた声は涙ぐんでいたかもしれない。こわい。勇利はというと、留守番の間、部屋の中を自由に写真撮っていいからと言われてマッカチンを抱きしめながら喜んでいた。…こいつもやばい。
 そういえばヴィクトルの部屋は広いものの部屋数はさほどなく、寝室は確か一つでベッドも買い足した気配はなかったように思うがどう暮らすつもりでいるのか。…いや考えるのは止めよう。とりあえず何かあったらヤコフの家に行けとだけカツ丼に連絡しておこう。ユーリは今もリリアの屋敷に滞在しているが、シーズンを終えたヤコフは自宅に戻っている。まあ、かなりの頻度でリリアの家にも顔を出しているが。

 タクシーを呼ぼうかというヴィクトルの提案を断り、地下鉄の駅までをぶらぶらと歩く。夜とはいえ、そこまで過保護にされる筋合いはないと言うと、ひどいなあとヴィクトルは肩をすくめた。

「俺、ユーリのこともちゃんと心配してるんだよ?」
「うっぜ」

 そう吐き捨てるも、ヴィクトルは楽しそうに笑うばかりだ。いつもこうだ。ユーリがどんな態度をとろうと、ヴィクトルが揺れたことはない。いつだって美しく飄々として上に立つ。
ああなりたいと、そう望んだこともあった。ヴィクトルを目指すことが、スケーターとして頂点に立つ道なのだと。
でも、今はそうではない。ユーリの世界は広がりを増し、より複雑になった。その化学反応を起こすきっかけを作ったのは、勝生勇利だった。
 踊る勇利の姿を思い浮かべた瞬間、ヴィクトルが口を開いた。

「ユーリ、勇利を連れてきてくれてありがとう」
「今更なんだよ」
「勇利の顔を見たら改めてお礼を言いたくなったから、かな」
「自覚があるならもっと感謝したらどうだよ」

 グランプリファイナルでのことを匂わせると、ヴィクトルはまいったなと明るく笑った。

「どうしたらいい? 次のSPも俺が振りつけようか。いいよ、ユリオになら」

 アガペーも最高だったしねと続けたのに、ユーリはいらねえ!と却下した。

「てめぇの力は二度と借りねえ。俺は俺の力で、てめぇとは違うやり方で勝つ。てめぇとカツ丼に」

 競技者としてのヴィクトルに勝ち、勇利にも勝つことでコーチであるヴィクトルにも勝つ。そう決めた。ヤコフにも話したし、今後の振付のことでリリアにも改めて自分から指導を頼んだ。

「うん、ユリオはそうすると思ったよ」

 そうでなくっちゃと当たり前のように返してくるところが腹が立つ。

「それに勇利が現役続行で嬉しいのは俺だけじゃないもんねぇ、ユリオ?」
「っ…だいたいなんでてめーまでリンクに戻って来るんだ、クソ!」

 図星を刺され、ユーリは毛を逆立ててヴィクトルに怒鳴り返した。
 そうだ。なんでこいつが復帰してくるんだ。しかもカツ丼のコーチも継続とかどういうことだ。
 すでに確定事項であるにも関わらず、それでも突っ込まずにはいられない。
 競技者としてのヴィクトルは死んだはずだった。まずはSPの最高記録を抜いて完璧に殺してやるつもりでいたのに、競技者兼コーチとして這い上がってきた。
 ヴィクトルはヤコフに宣言した通り、ファイナルが終わったあとすぐにピーチェルに戻り、短期でできる限りの調整をしてロシアナショナルに出場し、金メダルをかっさらっていった。

――化け物め。

 もとの実力があるとはいえ、表彰台に立てるとしても、これだけ長期の休みのあとで金メダルはないだろうという周囲の予想をあっさりと覆した。
 ヴィクトルは、何がなんでも優勝するという気概を最初から隠そうとせず、むしろ見せつけていた。あんな姿を、ユーリは記憶の限り見たことはない。奪うまでもなく、王冠は息をするようにヴィクトルの頭上にあるものだったからだ。
 そのヴィクトルが、あそこまで金メダルへの執着を見せたのは勇利のためだ。スケート連盟はヴィクトルの選手復帰を承認はしたが、コーチも兼ねることについては難色を示した。結論は保留とされ、ロシアナショナルの成績で判断することとなった。
 そして周囲の懸念を、ヴィクトルは見事に蹴散らしてみせた。
 ジャンプのレベルは全体的に下げたが、それでもクワドは3回入れた上、1つはフリップを完璧に飛んだ。
 とりわけステップシークエンスは圧巻だった。もともと表現力も抜きん出た男だったが、なめらかで透明感のある、まるで音楽を奏でるようなエッジワークは以前のヴィクトルが持たないものだった。
 そのステップが誰の影響を受けたものなのかは明らかだった。しかも単に勝生勇利をなぞったものではなく、力強く艶やかな、深みのあるものへと自分の中で昇華させていた。
 勝生勇利が俺を進化させた。彼のコーチであることが俺をここで踊らせる。あの時間に無駄など1つもなかった。勇利との日々を貶めるようなことは誰にも言わせない。決して許さない。
 競技者ヴィクトル・ニキフォロフに勝生勇利は必要だ、ぜったいに。
 ヴィクトルはあえて自分の演技の中に勇利を意識させることで、勇利の存在の価値と大きさを見せつけ、証明した。それができるのは自分だけだと誇るように。
 皇帝復活に湧く会場。表彰台のてっぺんで、ヴィクトルは左手でメダルを掲げ、右手の薬指にキスを落とした。

――早く勇利の金メダルにキスしたいなあ。

 そう呟いたことは、隣に立っていたユーリとギオルギーしか知らない。
 その想いが、胸を焦がすほどに狂おしい本音であるのも。
 指輪を通して、ヴィクトルは勇利に呼びかけていた。

――早くおいで、勇利。ここまで、俺のところにおいで。

待っているよ、と。

  まずはあと一年続けたいと、勇利はヴィクトルに頭を下げたという。だが、ヴィクトルは勇利に対して5年を提示した。
  彼らの交わした 約束がどう転がっていくのかまだわからない。望むだけの時間が、選手に与えられるとは限らない。
 それでも、勇利がここで可能な限りスケートを続けてくれたらいいとユーリは思う。ユーリが今もあのハセツを忘れられないように、ハセツでの日々がユーリに自分のスケートを滑り続けるための大切なピースをくれたように、勇利にとっても、このピーチェルが意義のある場所になってくれたらいい。勇利のスケートの一部となればいい。
 そうだ、5月になったらサクラを見に行こう。ピーチェルにだってサクラはある。あの国のような一面に咲き誇るサクラ並木は街中にはないけれど、日本から贈られたものが植物園に植わっている。あの樹の花は儚いようでいて強く美しい。どこか勇利を思わせる。
 他にも見せたいものがある。ピーチェルの海。勇利は、懐かしいと、ハセツを思い出すと言うだろうか。いつかモスクワだって案内したい。自分のスケートがどこから生まれたのか知ってほしい。
 友達ごっこをしたいわけじゃない。友達は今のところ大切な一人でいい。
 この地で受ける刺激から変化し進化する勝生勇利の踊りが見たいだけ。この先も進化する男と同じ場所で戦いたいだけ。ただそれだけ。

「なあ、ヴィクトル…愛想尽かされんじゃねえぞ」

 ぽつりと言葉がすべり落ちた。

 逃すんじゃねえぞ。
 俺が繋いだものを、途切れさせたら許さねえ。

「大丈夫だよ。大丈夫、ユーリ」
「…っ」

 思いの外優しい声が返ってきて、思わず息が詰まった。
 なんだよ。兄貴づらすんじゃねえよ。ヴィクトル、お前も俺がぶっつぶすんだ。あのまんまじゃ寝覚めが悪いんだ。俺は中途半端が嫌なだけだ。
 そう思うのに、言葉が出てこない。

「俺がいる。ユーリがいる。勇利はどこにもいかない。踊ることをやめられるはずがない。氷の上から逃れられない。ユーリもよく知ってるはずだ。勇利は負けず嫌いだ。俺たちと一緒だよ」

――だから大丈夫だよ。

 勇利はこれからも滑っていくよとヴィクトルは言う。それは彼の願いであり、同時に確信だった。

「…っ、てめえの記録だってすぐに抜かしてやる」
「それは楽しみだな。あまり待たせないでよ。一人きりで滑るのは飽き飽きだからね。まあ抜かされてもまた取り返すけどね?」

 ただ一人の王者が長く君臨し続けた時代はもう終わる。 新しい歴史が作られる。そのためにここにいる。そして倒すべき存在は、今も目の前に立ちはだかっている。

「だいたいまだ勇利は金メダルとってないしねえ」

 あははとヴィクトルは笑った。
 ヴィクトルの言うとおり、ジャパンナショナルでは金メダルだったものの、勇利は未だに国外の試合では金メダルを取っていない。そして、ヴィクトルの中で、国際大会以外の金メダルはカウントされない。
 ナショナル後に出場した四大陸選手権は、J.J.が金を取り、イ・スンギルが銀を取ったために勇利は銅に終わり、3月の世界選手権では、復帰したヴィクトルが堂々の一位をかっさらって、勇利は銀メダルだった。ちなみにユーリは僅差で銅。
 金メダルにキスさせてとねだられながら、たやすく金を取らせてはくれない状況に、おそらく勇利はかなり燻っている。
 やっとここに、ロシアに来られたと車の中で呟いた声。その目に浮かんだ闘志は本物だ。もっとも、彼自身は自分がどんな表情を浮かべていたか自覚はないだろう。
 なるほど、確かに勇利はしばらく氷の上から逃げられないだろう。こうなったヴィクトルが逃がすはずもない。
 ユーリが繋ぎ止めた存在を、ヴィクトルは今度こそ自分の手でつかみ続ける。勇利だって、きっと離すつもりはない。
 そうだ、だって彼はずっと終わりたくなどなかったのだから。終わらせなければと自分に言い聞かせていただけで、本心では踊り続けたくて仕方がない。

「来シーズンが楽しみだね」

 こんなに楽しみなのは、わくわくするのはいつぶりだろうとヴィクトルはうっとりと溜め息を吐いた。その口元から呼気が白い蒸気となって立ち上り、夜の闇に溶けていく。
 ああ、こいつは本当に戻ってきたのだとユーリは知った。
 何度でも死ぬ人間は強いとリリアは言った。だからユーリは何度だって、過去の自分を殺し、新しい自分へ、次の自分へと自らを生まれ変わらせた。
 過去を殺すことは、否定ではない。それは肯定だ。受け入れ飲み込み、進化させることだ。ユーリはそれをリリアの指導の中で学んだ。
 ヴィクトルもまた、かつての自分を受け入れて新しい存在としてよみがえった。そうして氷の上に立つ。
 ヴィクトルの顔は清々しかった。

「俺はね、俺のLOVEとLIFEを見つけた。もう手放さない」

 2つのエルだよと、ヴィクトルは言った。そして、そう口にした上でつけ加えた。

「だからこそ俺は次のエルが欲しい」
「なんだよ、それ」

 とっさにヴィクトルの言うことが理解できず、ユーリは眉をひそめる。ヴィクトルはふふっと楽しげな笑みをこぼすと、それまで浮かべていた、まるで子供の無邪気さを思わせる表情を不意に改めた。
 ゆったりとした足取りを止め、つられて立ち止まったユーリの目の前でひとさし指を立てる。ゆるやかに口端を吊り上げて言った。

「NEXT LEVEL」

 その響きに、思わず声を失う。目を見開いたユーリにヴィクトルはその美しい目元を細めた。街灯の明かりが、男のアイスブルーを煌かせる。
 ねえ、ユーリとヴィクトルは言った。

「どうせなら誰も見たことのない世界をもっと見たいだろう?」

 ヴィクトルは相変わらず楽しそうに、けれど肉食獣を思わせる物騒で美しい笑みを口元に湛えていた。白銀の毛皮をまとう、ホワイトタイガーのような。
 世界選手権五連覇さえ、この男の渇望を満たすには足りないのだ。強欲なやつ。そうでなければ、王者であり続けられるはずがない。
 勝生勇利という存在を得て、ヴィクトルは残りの競技人生において、かつてない最大の花を開かせようとしている。

「俺は負ける気がしない。この手で頂点を勝ち取りたい。その気持ちと同じくらい勇利の金メダルが欲しい。いくらでもね。手加減なんてしない。それが俺の愛、そして勇利の愛。だから俺たちはこれからも先に行ける」

 ユーリはぞくりと背筋を震わせた。同時に闘志が掻き立てられる。ああ、こいつを早く引きずり下ろしたい。この貪欲な美しい獣を自分の手で。
 何度だって殺してやるよ。
 カツ丼、お前もそうだろう…?

 ヴィクトルと進むこと。ヴィクトルを越えること。
 その道は矛盾しない。確かな同じ未来へ続いている。勇利はそのことに気づいたからロシアに来た。
 ならばユーリの取る道も一つだ。

「ユリオも行くだろう?」

――次のレベル高みへ。

 星座がきらめく頭上を指差しながら嬉しそうに笑うヴィクトルを、ユーリは挑むように見上げた。
 口端をつりあげ、男の眼前に中指を突き立てる。そしてはっきりと答えた。

「ったりめーだ」

 頂点に立つのは、この俺だ。正々堂々と、全力をかけて奪ってやる。勝利と栄誉を掴んでやる。
 命を燃やせ。この短い氷の上の人生を。
 そのためにできることをするのだ。
 走り続けろ。踊り続けろ。
 見晴らしのいい場所で食べるカツ丼ピロシキは最高の味だろう。

 ――踊れ。

 すべては、まだはじまったばかり。



*********

《おまけ》


「ユリオ、聞いてよ!」
「んだよ、うっせぇな」
「ヴィクトルの部屋、ベッド一つしかなかったんだよ!!僕聞いてないし!!」
「あーー…」
「それで俺のベッドで寝ればいいよって、結局一緒に寝ることになってさ!」
「まあ、そうなるとは思ってた。嫌ならヤコフにでも、」
「僕はソファでいいって言ってもぜんぜん聞いてくれなくて、仕方ないしヴィクトルのベッドで寝たんだけど、それが」
「なんだよ。だから困ってんなら…」
「すっごく寝心地良かった。あれ、やばい。めちゃくちゃいいベッドだった。夢も見ないくらい寝れた。やばい」
「……」
「ほんと快適。ユリオも今度泊まりにおいでよ。三人で寝よう」
「死ね。マジでいっぺんてめえは死ね。てめぇらまとめて死ね」


- end -


Pixiv再録
思っていた数倍数十倍、ユリオが勇利を大好きだった。プリセツキー語いとおしすぎか。…いとおしすぎか…。はっぴーサンクトペテルブルク生活を死ぬほど読みたい。と思いながら最終回後に書きました。Pixivでたくさん読んで頂けて嬉しかったです。

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