茜さす銀色の

ヴィクトル & 勇利


 それを尋ねられたのは、スカイプでピチットにフリーの曲の件を伝えたときのことだった。
 デトロイトの音大生に作り直してもらえそうだと話すと、バンコクのリンクで今日も練習に励んでいたらしいピチットは我がことのように喜んで楽しみだね! と告げたあと、そういえばと切り出してきた。

「ねえ、勇利。ヴィクトルのコーチってどんな感じ? やっぱり厳しい? チャオチャオと違う?」

 実はずっと聞きたくてたまらなかったという気持ちが隠しきれていない様子に思わず笑ってしまう。

「何たって勇利がずうっと大好きだった憧れの人でしょ。僕だっていろいろ知りたいよ」

 それを言われると事実なだけに恥ずかしい。
なんたってピチットはリンクメイトであったばかりか元ルームメイトでもある。勇利が相当重度のヴィクトルファンであることを、ピチットはよく知っている。

「ヴィクトルって、勇利の街のこととか食べ物のことしかSNSに上げてくれないんだもん。そりゃあれもすっごく面白いけどね! 僕も勇利の家に行ってみたいなあ」
「あはは…うんそうだね…」

 ヴィクトルのおかげで、スケートファンを中心に、長谷津はすっかり国内外での知名度を上げた。観光客は確実に増加していて、まさに《はせつ観光大使》の面目躍如といったところだ。
 だが、ヴィクトルは長谷津に食道楽な長休暇を過ごしに来たわけではない。それは温泉 on ICEで証明されている。
 勇利は今の状況をどう伝えたものかと唸った。
 ヴィクトルがコーチとして毎日勇利のそばにいること。夢にさえ見たこともない現実との溝はあまりにも大きいようで何もないようで、未だに実感がわかないというのが正直なところだ。美味しいものとお酒が大好きで、酔っ払った姿は正直目も当てられない。ほぼ24時間毎日目にする姿をありのまま話せばピチットは驚くだろうか、喜ぶだろうか。

 ――即ネットで拡散だな。うん。やめとこ。  

「うーん、ヴィクトルの指導はすごく厳しいよ。的確だし、容赦ないし、スパルタって感じ」
「えええ、じゃあ勇利毎日怒られてるの? こわくない?」 
「こわいって思ったことはないなあ…そもそも怒るって感じじゃないし」
「へえ、じゃあ優しいんだ」
「優しい…のかなあ」

 確かに優しい人だと思う。底が見えないほど。基本的にのんきで穏やかで屈託がない。この辺りは無邪気な傍若無人という方が正しいような気もするが。

「勝てないなあって思うよ」
「そりゃあ、あのヴィクトルだもんね」

 リビングレジェンドに逆らえる人間なんていないよと、ピチットは楽しそうに笑った。勇利の場合惚れた弱みってやつもあるよねと続けられては返す言葉もない。

「でも良かったあ、勇利が練習続けられてるみたいで。次のグランプリシーズンでは会えるよね」
「うん…。会えるよ」

 そう答えながら、ピチットとデトロイトにいた頃のように当たり前に大会について会話している不思議さと現実を勇利は頭の隅で感じていた。
 ホームリンクを自国に移したという話からしても、ピチットはグランプリファイナル出場を本気で目指している。
 去年は叶わなかったピチットの夢。タイ人初のグランプリ出場。祖国の悲願をかつてのリンクメイトは背負っている。浅黒い肌に汗を滲ませながら力強く真っすぐな眼差しで 練習に励んでいた姿を思い出して思わずごくりと喉が鳴る。
 だがピチット自身は相変わらず屈託ない様子で画面の向こうで笑っていた。

「フリーの曲が完成したら僕にも教えてよね!」
「うん、またねピチットくん。サワディカップ」


 そう交わして通話を切ったのが二日前のこと。


     ***


 勇利は時間を持て余して、自室のベッドの上に転がっていた。
 本来なら今日も練習のはずだったのだが、ヴィクトルから急きょ休みを宣言されたのだ。
 暇ならちょっと手伝いなさいよと姉に言われて、温泉施設内の掃除をしたあと簡単な昼食を食べ、午後はこうしてベッドでひたすらショートプログラム用の音楽を流しながらイメージトレーニングをしている。
 ヴィクトルはというと、マッカチンの散歩と称してふらりと外に出てしまった。
 昨日の夜、誰から教えてもらったのかイカ焼売が食べたいと目を輝かせていたから、食べに行った可能性が高い。毎日美食美酒三昧でけっこうなことだ。それなのにまったく体形が崩れる様子はない。体質なのか、実は日々きちんとトレーニングは欠かしていないからなのか。
 勇利はううぅと呻きながらベッドから起き上がると、耳穴に押しこんでいたイヤホンを外し、ため息を吐いた。目線は自然と自分の足先に行く。長年の練習で変形した、痣と傷だらけの見慣れた足。

『今日の練習はここまでにしよう。明日は休むこと』
『え?』

 昨日、16回目の四回転ジャンプを跳んだあとでヴィクトルが口にした言葉に勇利は思わず声を上げた。

『でも、明日は休みの予定じゃなかったですよね』
『この前からジャンプの跳びすぎでかなり足に負荷がかかっってる。右足に少し違和感があるんじゃないか? おかしな癖がついたらいけない。今日は念入りにストレッチをしてから早めに休むこと。明日も足に負担をかけるような運動は禁止』
『でも、ヴィクトル、』
『コーチ命令だぞ、勇利』

 右目をぱちんと閉じて綺麗にウィンクすると、ヴィクトルはそれ以上勇利に反論を許さなかった。
 練習を焦りすぎていた自覚はある。それを見抜かれたのかもしれない。どういうわけかこういうときに限って勇利の心理はヴィクトルに筒抜けだ。
 足自体に現状問題はなかったが、負荷が大きくなっていたのも確かだった。
 作り直しを頼んだフリーの曲が完成するまでの間、ヴィクトルが跳べるすべてのジャンプを教えてほしいと食い下がったのは勇利だ。ジャンプにこだわりすぎだと指摘されたこともある。
 だが、素直に頷けなかった。ヴィクトルの方が先に音を上げるほど練習を繰り返した。
 そこにきての丸一日の休日。体力には自信があるつもりだけれど、それでも思った以上に無理をしていたということなのだろうか。

『俺がいなくてもちゃんと休むんだよ、勇利』

 ヴィクトルはマッカチンと出かける前にもう一度繰り返して言った。コーチ命令だよ、と。
 きつい言い方をしたわけではない。いつものように整った顔立ちをふにゃりと崩し、どこか気の抜けたような笑顔で軽く告げただけだ。でも有無を言わさぬ迫力があって、どうにも逆らえないものだった。
 これは自分だけではなく、彼と対峙するあらゆる人がそうだろう。
 ヴィクトルにはやはり王者の風格がある。本人は意図しているのかいないのか、気ままにそれを発揮しては周囲を振り回す。そんな行動さえ無条件で許される人。
 だが指導に関してのヴィクトルの指摘は的確だ。それはもう容赦なく針で突き刺してくる。
「よくそんな入り方で跳べると思ったよね、勇利はチャレンジャーだなあ」と朗らかに言われては返す言葉などあるはずもない。
 最初の頃こそ、自分の前で手本を見せるヴィクトルを見て、はぁかっこよか…とうっとり溜息をついていたが、そんな余裕はあっという間に吹っ飛んだ。
 慣れというものは残酷だ。それでもヴィクトルの美しさも強さも減りはしないのだけれど。
 出会ってからのヴィクトルとの時間を一つ一つ思い出す。

 ――そういえば、怒られたことってほんとにないかも。

 言葉で心を抉ってくるが、それは事実で構成されたものだし、言い方も軽やかで影がない。
 ピチットに告げたように、怒鳴られたり激怒されたことは一度もなかった。寝坊してリンクで待たせたり、あまつさえ練習自体を放りだしたときでさえヴィクトルは怒らなかった。それどころか海へ行こうかと笑って勇利を誘ってくれた。
 ヴィクトルは怒るのが下手なのかもしれないと勇利は考えてみた。
 常に笑顔を崩さない態度に、最初はずいぶん寛大な人なんだと思って、そんな人が自分みたいなメンタルも弱くめんどくさいタイプを生徒にするなんてとひたすら怯えていたときもあったが、あの容赦ないしごき方を思えば、ただ寛大と表現するのは少しズレている気がする。ことスケートにおいて、妥協を許さない人だ。そうでなければ王者の地位を五年も守り続けられるはずがない。
 温泉 on ICEを終え、本格的にヴィクトルの指導のもとで練習に励むようになってから、あっという間に夏が来た。
 ほぼ毎日アイスリンクの上で特訓をしているが、勇利の今のレベルは、未だヴィクトルの望むものにはるかに及ばないはずだ。だが、そのことで苛立つことも、投げ出すこともない。勇利が教えてほしいといったことには必ず根気強く付き合ってくれる。
 どういうことなんだろうと、勇利はときどき思う。

 ――僕のこと、どうやって怒ったらいいのかわからない…とか。

 そもそも、ヴィクトルは怒鳴ったり声を荒げたりということをほとんどしたことがないんじゃないだろうか。
 だからときどき困った顔をして勇利を見るのかもしれない。
 参ったな、さてなんて言おう、どう話そうという顔をするのかもしれない。
 勇利はその表情を見るとどうしても申し訳ないやらいたたまれないやらで、未だにリンクから逃げ出したくなることがある。…二度とやらないが。

 ――そうだよな…ヴィクトルが怒ったの、本当に見たことないなあ…。

 あれこれを考えて、改めて勇利はそう認識した。
 ときどき額に手を当ててため息を吐いているのを見ると、呆れられたのかと怖くなる。 嫌われたんじゃないかと恐ろしくなる。
 ヴィクトルはそういう人間じゃないと頭ではすでに理解しているのに、身体と心が勝手に怖気づく。
 もともとが鋭利なほど研ぎ澄まされた容貌だけに、笑みが消えたヴィクトルの顔はまるで温度がなく、勇利の心を芯から冷やす。
 そんな表情を見せるのは本当に一瞬の間のことで、すぐにヴィクトルは穏やかな笑みを浮かべ、問題点を指摘する。それならいっそ声をあげて、ここが駄目だ、そこがおかしいときつく怒鳴ってくれればいいと思うのに、彼はそれをしないのだ。

 ――そこまでの必要が僕にはないとか…って駄目だ、僕って暗すぎる。

 考えるうちに気が滅入ってきた。練習に打ち込んでいれば、まだ先に進んでいる実感が持てるのに、今はただ足踏みをしているだけの気持ちにしかなれない。
 こんなことなら散歩に行こうかと頭を切り替える。ゆっくり歩く程度ならいいだろう。海か川を目にすれば、気持ちもいくらか晴れるはずだ。
 ベッドから降りて、部屋着からシャツとジャージに着替える。ついでに優子ちゃんのところへ顔を出そうと、ちょうど廊下で鉢合わせた姉にアイスリンクまで行くことを伝えて家を出た。


     ***


「あれ、勇利くん。今日お休みじゃないの?」

 日差しのピークを過ぎたとはいえ、まだ気温が高く、アスファルトから熱が立ち上ってくる中を日陰を選びながら、長谷津城のふもとへと向かう。
 のんびりてくてくと歩いてアイスキャッスルはせつへたどり着いた勇利を見て、受付前にいた優しい幼馴染は大きな目を瞬かせた。
 さきほどまで外にいたのか、首からタオルをかけ、こめかみにはじっとりと汗が滲んでいる。手にはタオルを山と積んだカゴを抱えていた。

「うん、そうなんだけど、家にいてもなんか落ち着かないんだ。散歩ついでにちょっと寄ってみた。滑る気はないんだけどここにいてもいい?」

 そう尋ねると、勇利くんは本当にリンクが好きだねえと呆れながらも暖かく微笑まれた。

「うん大丈夫。もともと勇利くんたちが使う予定で貸し切りにしてあったし。あ、ヴィクトルには伝えてあるの?」
「ヴィクトル出かけちゃったから姉さんに言ってきた」
「そっかあ。あ、ストレッチだけでもしてく? 豪くん呼ぼうか」
「いいよ。突然すぎるし。そんなに長いことはいないから」
「わかった。私はちょっと用事で外にいるけど、好きに使ってていいからね」
「ありがとう」

 こちらの要望にいつも二つ返事で応えてくれるありがたい存在に感謝を告げて、勇利はリンク場の中へ入った。普段はスケート靴に履き替えるところを室内シューズでリンクサイドに向かう。
 最低限の明かりだけが灯されたリンクはがらんとしていた。
 この田舎町のリンク場が、人で埋め尽くされたなんて、あの温泉onアイスの日がまるで夢のようだ。たった一人でここに来るのも久しぶりだった。
 勇利はしばらく目の前の氷を見つめていたが、少し考えてからメガネを外し、そばのベンチの上に置いた。カツンという音がやたらと大きく響く。
 裸眼になることで矯正されていた視界がかすかにぼやけ、輪郭を曖昧にする。なんともいえない解放感と安堵を抱きながらリンクに近づき、室内シューズのままそっと氷の上に足を下ろした。
 目を閉じ、ふうと息を吸い込んでからゆっくり吐く。氷で冷やされた空気がすうっと気管から入って、身体の中から勇利に染み渡った。
 ここにいると楽に呼吸ができる。生きていると実感できる。そして自分はやっぱりここでしか生きられないと思う。
 積み重ねた努力が実績に結びつかなくとも、結局はどうしてもリンクから離れられなかった。
 去年のグランプリファイナルからのどん底に落ちた日々の中でさえ。

 ――そういえばユリオ、どうしてるかな。優子ちゃんが何か言ってたけど、ええと新しい振付師がついたとかだっけ。

 せっかく優子が教えてくれたのに、ちゃんと聞かなかったことを今さら後悔した。
 すぐ自分のことで頭がいっぱいになってしまうから我ながら嫌になる。
 黙っていれば天使を思わせる、繊細で氷細工のような容貌なのに、勝利への…自分が望むものへの渇望と感情を隠すことなくさらけ出して容赦なくぶつけてくる少年だった。
 同じ響きの名前を持つ、もう一人の《ユウリ》。
 最初の出会いこそ恐怖だったが彼を知ればそんなものはどこかへ吹っ飛んで、豚野郎と罵られることもむしろ小気味よくさえあった。
 ちゃんとお別れも言えなかった。でもまた会えると信じている。会わなきゃいけない。きっと今頃彼も必死で練習に励んでいるはずだ。
 ユリオだけではない。ピチットも、そしてシーズンに出場する他国のあらゆる選手もみな。

 ――滑りたいな。 

 ヴィクトルに習っている四回転ジャンプを一つ一つ思い出す。高く、力強く、華やかなジャンプたち。
 とりわけ四回転フリップは勇利にとって特別だ。ヴィクトルの代名詞と称されるほど得意とするジャンプ。あれを跳べたらいいなと思う。いつか絶対跳びたい。
 知らずうち両腕を広げていた。指先までをぴんと伸ばし、イメージを働かせる。
 滑ることはできないからせめてフォームだけ。もう一度目を閉じて、大きく息を吸い込んだときだった。

「勇利!!何してる!!!」

 突然響いた怒声に、まるで雷に打たれたようになって勇利は固まった。全身がびりびりと痺れたようになって動けない。
 いつしか馴染んだ声。だがこんな大声は知らない。こんな、凍りつくような鋭い声も。
 声も出せず、震えながら入り口に目を向ければそこにヴィクトルが立っている。走ってきたのか、肩で息を吐いているのがわかる。
 裸眼でいくらかぼやけた視界でも、その姿ははっきりと視認できた。そもそも勇利がヴィクトルを見間違えるはずがない。

 ――どうしてここにいるんだ? しかも怒ってる?? え、なんで!!??

 頭が混乱する。わたわたと意味もなく周囲を見回し、そういえば自分は今リンクの上にいるのだと思い出してざっと血が下がった。
 スケート靴は履いていない。けれどヴィクトルからはどう見えるだろう。休養を命じられていたのに、氷の上にいる自分の姿は。
 あ、ともう、とも答えられないまま、息を荒げたヴィクトルが足音も荒々しくリンクに近づいてくるのを呆然と見つめる。
 あっという間に距離は狭まり、伸びた手にぐっと腕を掴まれて、食い込んだ手の強さに思わず小さく声が上がった。

「ヴィクト、」
「勇利、何をしているかと聞いてる」 

 冷え冷えとした眼差し。低い声は凍てついていて心臓が握りつぶされそうな気持ちになる。

「マリからここにいると教えられた。勇利、約束を守れないなら、」
「ごめん! でも違う、練習じゃない!」

 勇利は必死にそれだけをなんとか叫んだ。ヴィクトルの形相以上に、続く言葉を聞くのが何であれ恐ろしかった。

「滑ってない! 少し覗きにきた、だけ、ほんと!」

 信じてと、もはや泣きそうな思いだった。
 勇利の声にヴィクトルは大きく目を見開き、勇利の顔を見て、それから足元を見下ろす。
 もう一度足から頭までゆっくり勇利を確認してから、ヴィクトルははああぁあと大きくため息を吐いて片手で顔を覆って俯いた。
 そしてそのまま黙り込んでしばらく動かないでいるのに、勇利は大いに慌てた。

「あ、あの、ヴィクトル」

 おそるおそる勇利が声をかけると、さらに数秒してからヴィクトルがようやく顔を上げた。
額にさらさらと落ちる銀髪の間からのぞくその表情は困ったような気まずそうなもので、目尻がほんのり染まっている。血管が透けて見えるほどに色素の薄い肌だけに、わずかな変化さえ如実だった。

「…ごめん、勇利。俺のはやとちり」
「あ、うん。誤解が解けたのならよかっ…」
「で、済むと思うかい?」

 安心したのもつかの間、恐ろしくドスの利いた声が響いて、勇利はひえっと声を上げた。

 ――やばい。なんだこれ。なんで。…こわい。

 ヴィクトルは口を開くと一気に説教を始めた。

「確かにスケート靴での練習はしていないようだがリンクには入ったね!? だいたいなんでわざわざここに来る! 足を休めろって俺は言ったよね!? ここまでどうやって来た。まさか走ってないよね!? コーチ命令の意味を理解してる!?? どうしておとなしくできない、勇利!! …勇利?」

 ヴィクトルの勢いに勇利は唖然としていた。
 まったく反応を見せずに口を開けたままヴィクトルを見返している勇利に気づいたのか、ヴィクトルはまくしたてるのを止め、形の良い眉を寄せて今度は案ずるように勇利の名前を呼んだ。

「勇利、聞こえてるかい?」

 勇利はなおもしばらく呆けたままでいたが、三度目に呼ばれた声で慌てて我に返った。

「あ、ごめん、ちょっとびっくりして」
「なぜ」

 勇利の言葉に、今度はヴィクトルがあっけに取られた顔をする。びっくりしたのは俺じゃないのかと首を傾げるのに勇利はぶんぶんと首を横に振った。
 ああ、なんだろう。今日のヴィクトルはずいぶんといろんな顔を見せる。だから口にできたのかもしれなかった。ぽろりと言葉が滑り出る。

「だって、あなたがそんなふうに怒るなんて思わなかったから」

 ヴィクトルはもう一度大きく目を見開き、ぱちぱちと瞬きをした。それからもう一度大きなため息を吐く。その様子に勇利は引きつった。
 やばい、今度こそ本気で呆れられたかもしれない。

「あの、ヴィクトル」

 おいで、と手を引かれたので、勇利はおとなしくリンクから上がってヴィクトルのそばに行った。促されるままに、リンクサイドのベンチに並んで腰掛ける。
 腰掛けたあとも繋がれた手はそのままだった。そうしてしばらく互いに無言で座ってから、あのね勇利、とヴィクトルはゆっくり口を開いた。

「俺だって怒るよ。だって、俺は勇利のコーチだ。勇利が危ないこと、ダメなことをしたら俺はちゃんと怒るよ」
「そうなの…?」
「当たり前だろう…!」

 呆れたように、けれどはっきりと言われて、そうか当たり前なのかと勇利はぼんやりと繰り返した。
 そうか。ヴィクトルも怒るのか。こんな風に。

「ああ、でも」
「え、なに?」

 ぽつりと落ちた声をよく聞きとろうと勇利がヴィクトルに身体を寄せた途端、ヴィクトルは突然勇利にもたれかかるとそのままずるずると体重を預け、こつんと勇利の肩に頭を押し当てた。一回り大きな体格はずっしりとしていて、勇利は今度は何が起きたのかと両手をばたつかせた。

「ちょっとどうしたの! ヴィクトル??」
「……気が抜けた」
「はああ?」

 ――なにそれ。

「ははは、慣れないことしたせいかなあ…俺もだめだね」

 勇利の肩に顔を埋めたままくすくす笑う。吐息が首筋に触れてくすぐったい。
 そのままいつまでも顔を上げないので、勇利はおそるおそるもたれてきた身体にそっと手を添える。
 サイズといい、なんだかマッカチンに懐かれてるみたいだなあと思いながらぽんぽんと軽く叩くと、ヴィクトルがほっと息を溢したのがわかった。

「ヴィクトル大丈夫…?」

 大丈夫だよ、でももう少しこうさせてとヴィクトルは言った。それから呟くように口にした。

「そうか、怒るってこんなに疲れるものだったんだね。すっかり忘れてた。ヤコフがはげたの、やっぱ俺のせいかなあ」
「ヤコフって、ヴィクトルの」
「そう、勇利も知ってるだろう? ヤコフ・フェルツマン。俺のコーチ。俺はあまりいい弟子じゃなかったから、いっつも怒鳴られてた」
「ヴィクトルが?」
「そう。誉められたことなんてあったかな。…あんまりないか。いつも大声で怒ってばっかり。でもそれがヤコフの役目だったからね。考えたら俺を怒るのも、俺の代わりに怒ったり怒られるのも全部ヤコフだった。俺はヤコフに怒られるのには慣れっこだったけど、そのほかで怒られた記憶はあんまりないっていうか、そういうのは全部ヤコフが引き受けてくれたんだって、今は知ってるよ」

 ヴィクトルがスケート選手として成し遂げた偉業は大きい。ロシアの選手の層の厚さを筆頭になって知らしめ、ロシアの名をスケート界に刻む上で大きく貢献した。スケート界の歴史を塗り替えた。
 一方で、ヴィクトルがやろうとすることは、いつも人々を驚かせるものであると同時に、連盟の頭を悩ませるものでもあっただろう。メディアが必ずしもヴィクトルのすべてを好意的に捉えたとも考えられない。
 彼らと交渉し、時に盾となってくれたのがヤコフであり、つまりヴィクトルのコーチだった。
 ヴィクトルが国を飛び出して勇利のコーチを引受けたことで被った影響もまたかなり大きかったはずだ。これからヴィクトルがこなすはずだった予定の変更、スケート連盟との談義、その他もろもろ。だが、おそらくそれもすべて彼は愛弟子のために引受けたのだろう。
 勇利が果たして彼に顔を合わせられる日がくるのだろうか。考えるだけで卒倒しそうな気持ちになる。だがこれだけはわかる。

「彼はすばらしいコーチなんだね」
「そうだね。そう思うよ。俺は彼を信頼してる。彼の言葉を疑ったことはない。今だって俺のコーチは彼だけだ。そして俺はあの人が大好きなんだよ」

 ヴィクトルは、はにかむように誇らしげに微笑む。まるで大切な父親を自慢する子供のような笑みだった。
 それを見ながら勇利は思い返す。
 自分はチェレスティーノにそこまで自分を預けていただろうか。ただ、任せていただけじゃないだろうか。
 信頼して預けることと、責任ごと押しつけるのとは違う。
 チェレスティーノもまた経験のある素晴らしいコーチだ。彼に師事できたことを感謝している。勇利を支え、助けてくれた。
 それなのに、5年も指導を受けながら、自分はついぞあの人に、自分の本音も内面もすべてさらけ出すことはできなかった。言われるがまま、アドバイスされるままただ黙々と日々の練習を積んでいた。
 どの大会に出たいと自分から切に訴えることも、メダルが欲しいと主張することもせず、グランプリファイナルを終えてからは目を合わせることさえろくに出来なかった。
 本当はなにもかも自分に問題があったと自覚していながら、チェレスティーノの目の中に自分への失望を見るのがこわかった。
 ヴィクトルは、なんでも自分に話せと繰り返し勇利に言った。勇利のことを教えてほしい、一緒に過ごそうと。歩み寄っては、繰り返し手をのばしてくれる。
 ヤコフに育てられたヴィクトルには、それがコーチとして当たり前のあり方なのだろう。

 ――それなのに僕は。

 僕は何がこわかったんだろう。自分から伸ばした手を払い落されること? お前なんかがと言われること? 期待に応えられないこと? 失望されること? 

 ――ああ、きっと全部だ。

「でも、これからはそうはいかないな」

 勇利の思考を払うようにふふっと笑って、ヴィクトルが顔を上げた。

「俺がコーチなんだから。俺が勇利を守らないと。ヤコフが俺にしてくれたみたいに」

 ――俺が守ると、ヴィクトルは歌うような柔らかさで、けれどはっきりと繰り返した。

「勇利の不利益になるものは許さない。勇利を守るために必要なことはなんでもする。俺が勇利のコーチだから」

 勇利は、半ば呆然とヴィクトルの言葉を聞いていた。

 ――ヴィクトルが、僕を守る…?
 ――僕の、コーチだから?

「そうだよ。だから勇利のこともちゃんと怒る。勇利のために」

 ちょっと声を荒げただけで疲弊してしまったくせに、そんなことを言う。

「ああ、コーチというだけじゃなかった。俺は勇利が言ったこと忘れてないよ」
「ヴィクトル?」

 一体何のことだと首を傾げた勇利の頬に、白くしなやかに見えて大きく硬い手のひらが添えられた。自然と顔が上がり、正面からヴィクトルが飛び込んでくる。ヴィクトルは親指でそっと勇利の目の下をなぞりながら、触れんばかりの間近に勇利を覗き込んで、ゆっくりと区切るように告げた。

「俺がヴィクトル・ニキフォロフだから」

 時間が、そして息が止まった。
 目を見開き、唇がわななく。心臓がばくばくと響いて喉から飛び出してしまいそうだ。
 自分は今、とんでもなく大それた告白を聞いている。恋人に、いや神に誓うかのような重く、真摯な声だった。
 夢うつつのように聞いていた言葉のその意味を、勇利はやっとはっきり理解した。
 飽くことなく勝利を求め勝ち取ってきた男の、その内に存在する、優美でありながら恐ろしく貪欲で獰猛な肉食獣の爪と牙を、ヴィクトルは勇利のために使う気でいる。
 氷の上どころか、望むかぎりあらゆる方法で人を魅入らせ従わせる絶対の王者が。

「あ…」

 疑念を差し挟む隙さえない。穏やかに微笑みながら、宝玉を思わせる一対の碧はひたりと勇利を見据えていて、男の本気を教えている。
 その色があまりにも美しくて、勇利は魅入られたように縫いとめられてひたりとも動けなかった。
 声もなく、ぽかんと口を開いたまま、ただヴィクトルを見つめ返す勇利に何を思ったのか、ヴィクトルはそこで初めて目を細めた。途端に氷の印象がやわらぎ、切なくなるほど優しい目元になる。
 アイスブルーにかかる、髪色と同じ白銀のまつ毛が夏の温度に溶けてしまわないのを不思議に思いながら、なおもヴィクトルを見つめる勇利にヴィクトルはもう一度囁くように言った。

「勇利を守る。そばにいるよ」

 だから大丈夫だと。

「うん信じる」

 反射的に答えていた。

「僕は、ヴィクトルを信じる」

 はっきりと言葉にする。
 心の中に根を張っていた最後のわだかまりが、ヴィクトルの温度に溶かされていくのを勇利は感じた。


     ***


 気づけばリンクに差し込む光が弱くなっていた。夏の夕暮れが近づいている。
 帰ろうかとヴィクトルが言った。はいと頷きながらかけ忘れたままのメガネを探すと、ここだよと手渡される。気恥ずかしくなりながらメガネをかけてお礼を口にすると、ヴィクトルはにっこりと笑った。

「じゃあ、とりあえず勇利」
「はい?」
「俺の背中につかまろうか」

 ――は?

 勇利の思考は停止した。

「今日はもうこれ以上足に負担かけさせないからね。俺が勇利を背負って帰る」
「ええええ!!?」

 何を言い出したんだよこの人は、と勇利の中の冷静な部分が激しく突っ込む。

「無理! ヴィクトルにおんぶされるとか、ぜったいない!」
「俺もさっき昼食食べ過ぎちゃったしねえ。まあ運動にもなるかな」

 ヴィクトルはまったく勇利の反応を意に介さなかった。いや、むしろまったく聞いていない。

「勇利は一人だと無理をするからなあ。目が離せなくて困る。今日は風呂も一人は禁止。一緒に入ろうね。夜はどうしようか。俺が勇利を抱えて寝ようか」
「ノーノーノー!! 無理無理無理!!」

 朝もちゃんと起こしてあげるからねと続けられたのに勇利は必死に叫んだ。

「いくらなんでも過保護すぎるよ!! 一人でけっこうです!!」
「えええ? あいかわらず勇利はつれないな。でも帰りは背負っていくからね」

 そこは譲らないとヴィクトルは断言する。そして本当に勇利に背を向けて膝をかがめた。
 あの氷上の皇帝が。誰に対しても膝をついたりするような立場じゃない人が。
 目の前に広がるぴんと張った綺麗な背中を見つめながら、冗談じゃないと勇利は青ざめた。
 この背中につかまる? しかも23歳にもなる成人男性の自分が? おんぶされる? 
 酔っぱらっているとかひどい怪我をしているとかならともかく、素面で、とくに大きな不調もないこの状況で。
 もはや走って逃げ出したい気持ちになっている勇利に気づくこともなく、ヴィクトルは肩越しに振り返って早くと急かす。

「ねーぇ勇利、ほら早く帰りたいだろう? 勇利がいうこと聞いてくれないといつまでも帰れないよ?」

 マッカチンはきっと寂しがってるし、夕飯も食べられないよと続けた声は、いかにも困っていますというていだが、内容はほとんど脅しに近い。

「勇利はわがままだなあ」
「僕のせいなの!?」

 都合よく問題をすり替えられて思わず叫ぶが、ヴィクトルはまったく取り合ってくれない。

「勇利はなにがいや? 俺が不安? 大丈夫、落とさないよ」

 くすくすと子供のように笑う。

「俺を信じるって言っただろう?」
「う」

 ずるい人だ。それとこれとは違うと言いたいのに行き着く結論は同じところになる。
 ヴィクトルが理由なら、勇利に疑う要素はもうどこにもない。だってヴィクトルだから。それで十分だ。そして全部だった。
 仕方なく、屈むヴィクトルの後ろに立って、そろそろと両肩に手を置く。
 どこにどうすればいいんだとひたすら困惑していると、ぐっと両手を掴まれ、ヴィクトルを囲うように前へと引っ張られた。当然身体の前面がぴたりとヴィクトルの背中に密着する。ひぇえと勇利はもう一度悲鳴を上げた。

 ――ほんとにどういう状況だよ、理解が追いつかないよ!

 思わず腰がひけるが、すかさずヴィクトルに注意された。

「勇利、そんなんじゃ落ちちゃうよ。ほら腕をしっかり前に回して、体重預けて、ちゃんとつかまって、オーケー?」
「わかったよ、わかりました!」

 もうどうにでもなれと、両腕でしっかりとヴィクトルの肩にしがみつく。まるで背後から抱き着いているような姿勢であることはつとめて考えないようにした。腕を回すと同時にしっかりした両腕でぐっと両脚を抱えられる。

「じゃあ立つよ」

 合図と一緒に身体がふわりと浮いた。
 ひといきに足元から地面から離れ、心もとない浮遊感にとっさに回した腕に力を込め、ヴィクトルの首筋にぎゅうとすがりついてしまう。
 反射的に目を閉じ、再び開いた時には、勇利の視界はいつもより頭一つ分以上高いところにあった。

 ――うそ。

 勇利は思わず息をのんだ。
 ヴィクトルの目線、違うそれよりもさらに少し上から下を見下ろしている。ほんの十センチほど変わっただけで、こんなにも見えるものが違う。
 両脚で立ち上がり、背中と膝をしっかり伸ばしたヴィクトルは、はっと息を吐いた。

「ワオ…けっこう重いな」

 しみじみと呟かれた声に、ほらやっぱり!! と勇利は泣きそうな声を上げた。

「そりゃそうだよ! 僕だって成人男性だし、筋肉ついてるし」
「うーん、でもまあがんばるか」

 おろしてくださいと叫ぶ勇利に、だがヴィクトルは暢気に笑うばかりだ。

「腰痛めたらどうするの!」
「勇利は俺がそこまでやわだって? ひどいな」
「そういうわけじゃなくて!」

 うん、いけるいけると何度か身体を揺らして安定を確かめてから、背中を振り向いた横顔がくしゃりと笑顔に彩られる。

「ほら、大丈夫だろう」

 そう言ってやたら得意げに微笑むものだから、勇利はとうとう降参した。
 ああもうと呻いて、もう一度ヴィクトルの背中にしがみつく。

 ――こんなの、ずるいじゃないか。

 ヴィクトルはずるい。
 こんなにあっという間に、こんなにさりげないことで、この人は勇利一人分を、その身体も体重も背中に背負ってしまった。それができるとシンプルに証明してしまった。言葉だけでなく行動で。
 この人はどこまで勇利を理解しているのだろう。近づこうとしてくれるのだろう。
 こんな風にあっけなく勇利の不安と疑念を蹴散らしてしまう。こんなにも自信がなく、人の純粋な好意さえ素直に受け入れられない自分がもう逃げられない。
 優美な肉食獣に、やんわりと急所を前脚で押さえつけられているような気がするのはさすがに被害妄想だろうか。



 夏の夕暮れの中を二人で帰る。いや、ヴィクトルに背負われて帰る。
 ぴったりとくっついて一つになった影が、細く道に伸びていて、自分がどういう状況にあるのかを勇利に教える。
 いや、見なくてもわかる。回した腕から、広い背中に密着した胸元と腹から、両脚を抱える腕から、ヴィクトルの熱が振動とともに伝わってくる。
 日中痛いくらいの光線を降り注いでいた太陽はすっかり傾いて、海の向こうに沈もうとしている。
 それでも気温はまだ下がり切らず空気はじっとりと湿り気を帯びて、潮の香りとともに肌にまとわりつく。
 見下ろせばヴィクトルの白い首筋にもうっすらと汗が浮いていた。ああ、この人も人間なんだと、今更のことをぼんやりと思う。
 勇利にとっては神様だけど、でもヴィクトルは間違いなく血の通う人間だった。
 氷できた彫像のような外見をしているくせに、あたたかな温度を持っている。手のひらは熱いほど。そして、それ以上に苛烈な、炎のような心を胸のうちに飼っている。
 ゆったりとした足取りは驚くほど揺らがなかった。ときどき立ち止まっては、よいしょっと勇利を背負い直し、また歩き出す。暑いねと口にしつつ、勇利を手放す気配はない。
 その様子はどこか楽しげで、鼻歌さえ歌いだしかねない雰囲気だったものだから、勇利はもうおろしてと言うタイミングを完全に失ってしまった。
 思えば常に揺らがない人だ。お酒を飲んだとき以外はと内心でつけ加えて、勇利は繰り返し映像で見たスケート選手としてのヴィクトルの姿を思い出した。
 実力ゆえの栄光と賛辞の下、氷の上で堂々と二本の脚で立っていた。その眩しい人が今、自分を背負って歩いている。
 このまま旅館まで行けそうと笑うのに、恥ずかしいから手前で降ろしてと精いっぱい訴えたけれど、そんな言葉忘れたと言って本当に家まで連れ帰られてしまいそうだ。距離を考えればさすがに途中までだと信じたいけれど。
 長谷津がのんびりした場所で良かった。今が人通りの少ない夕暮れで良かった。
 そうでなければ今ごろネットに拡散されている。勇利が必死に身体を丸めて顔を伏せたところで、自分たちが誰かなんて考えるまでもなく明らかだ。ましてヴィクトルの知名度と目立つ様といったら。
 考えるほど羞恥心で死にたくなる。いや、もう気持ち的には何度か死んでいる。
 アイスキャッスルはせつを出るときに、おんぶをされたまま優子と顔を合わせることになり、勇利くんどうしたの、怪我しちゃった!?とやたら慌てさせてしまって顔から火が出るような思いをしたし、さらにタイミング悪く西郡家の三つ子に見つかって、「勇利、おんぶされてる!」「おんぶだ!」「おんぶおんぶ!」の大合唱を受けたときには、このまま殺して! という気持ちになった。
 そんな勇利の様子をヴィクトルはけらけらと笑うばかりで、面白そうに「オンブ!」と口にしていた。
 もしかしてこれは、大人しくしていられなかった勇利へのヴィクトルなりの罰なのではと思い至ったころには、もはや諦念の観だった。結局大人しくヴィクトルの背中に負われている。
 受け入れてさえしまえば、一歩踏み出すごとに伝わる振動はひどく心地よかった。
 こんな風に背負われたのはいつぶりのことだろう。

 夕焼け小焼けの赤とんぼ
 負われて見たのはいつの日か

 背中から伝う揺れにいつしか眠気を誘われ、意識がふわりとうつろったとき、不意に懐かしい歌が頭に浮かんだ
 あれは秋の歌だ。今は夏。でも秋はもうすぐそこに来ている。
 シーズンの幕開け。銀盤上のアスリートたちがその短い生を謳歌するいっときの季節が始まろうとしている。
 幼い日父に負われていたとき、自分は何を見ていただろう。もう思い出せない。ただひどく安堵していた。
 あのときの勇利には、不安など微塵もなかった。すべてを預け、愛され守られていた。その事実を幼心に確信していた。
 今はどうだ。まるで幼い頃のように守られている。
 凍てつく氷の国からやってきた、4歳年上の、血の繋がりも持たず、国籍さえ違う男に。
 勇利より一回り大きな背中はしなやかで、強靭で、長年にわたって鍛え上げられたものだ。無駄なもの一切がそぎ落とされ絞られている。
 触れてみてはっきりとわかる。自分とは違う。完成されなお磨かれたアスリートの身体。本来なら氷の上で美しく躍動ししなやかに隆起する肢体に、まるでコアラのようにしがみついているなんて眩暈がする。
 男に背負われながら勇利は震えた。
 恐れではない。自分でも表現のつかない感情が溢れそうになったからだった。
 無性に泣き出してしまいたいような気持ちだった。こんなのは嘘だ、現実じゃないと思っても、自分が今しがみついている圧倒的な存在感と温度が、勇利にただ信じろと語りかけてくる。
 これでいい、何も恐れなくていいと勇利に声なく教えてくれている。
 そうか、本当に今はこの背中に頼っていいのかと、勇利はすとんと納得した。
 甘えてもいいのか。この背中で、腕で守ってくれるのか。この人が。
 思えば、あの日、浜辺で彼が勇利に尋ねたこと。

『勇利は俺にどの立場でいてほしい?』

 あれは、勇利の望むどんなものにだってなるということだった。
 勇利のそばにいるために、それが親子だろうが兄弟だろうが、友人だろうが、たとえ恋人だって、望まれるあらゆる形にこたえてみせるという宣言だった。
 そして、今。この人は最初勇利の世界に飛び込んできたときと変わらぬ、ヴィクトル・ニキフォロフとしてここに存在してくれている。
 ヴィクトルはヴィクトルのままでいてと、勇利が願ったとおりに。
 ヴィクトルが勇利のためだけに差し出す信頼と愛情が胸にしみこんで、安堵と一緒に本当に涙が出そうになった。
 思わず鼻を啜ったのに、勇利? と気遣うように名前を呼ばれる。
 勇利、どうしたんだ。
 優しい声が身体越しに勇利に伝わる。勇利はなんでもないですと答えながら唇を噛みしめた。

 ――ヴィクトルは僕のために怒ってくれる人。
 ――僕を守ってくれる人。

 ――今、僕のそばにいてくれる人。

 神様がくれたヴィクトルの時間。限られたこの時を、ヴィクトルという存在を、今だけはすべて心の底から信じていいのだ。それを許されている。奇跡のような現実がここにある。
 幼い日見たものを、もう勇利は思い出せない。
 今勇利の目に映っているのは、茜色の夕日に照らされた銀色の髪と、よく見知った長谷津の景色。
 本来なら結びつくことなど決してなかったはずのこの光景と、身体に伝う温度を、自分は死ぬまで忘れないだろうと勇利は思った。


 首に回す腕を強くして、 夕焼けに照らされてきらきらと茜色に染まる銀色の髪に顔を寄せる。
 自分とはまったく色も質も異なる、銀絲のような髪。 髪の間からのぞく白い耳朶に囁くように、けれどはっきりとありがとうの言葉を吹き込むと、ヴィクトルは一拍置いてから小さく笑った。
 それは音にはならず、ヴィクトルの顔も勇利には見えないものだったけれど、ひどく嬉しそうなそれは、互いの触れた場所を伝って優しく勇利の身体に響き続けた。


- end -


Pixiv再録
まだ勇利から距離を掴みかねてる4話あたりのある夏の日の長谷津。ヴィクトルは怒るのが下手そうというイメージの勝手な検証でした。

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