恋のはじめかた


 あれは、風都に木枯らしが吹き始めた時期のことだった。ひゅうと吹きつける風に羽織ったジャケットの前を掻き合わせながら、今年の冬は寒くなりそうだと空を見上げたことを、フィリップは覚えている。風にあおられて目元にかかった髪を指先で払う。愛用している髪留めを指で確かめながら目を向けた先では、遠くそびえ立つ風都タワーを背景に、風車が勢いよく回っていた。
 鳴海探偵事務所には、翔太郎とフィリップ、それに所長の亜樹子と照井竜が揃っていた。応接場所のテーブルの上に、ダブルドライバーとアクセルドライバー、そして自分たちが持つガイアメモリの全てが乗せられている。それを四人で囲むように見下ろし、やがて翔太郎が口を開いた。
「異存はないよな?」
 ああ、と最初に答えたのは照井竜だった。鳴海壮吉の忘れ形見であるはねっ返り娘を妻にして早くも三年が経った男は、かつて持っていた棘が見当たらなくなった代わりに、安定感と包容力を見せるようになった。
 ゆったりとした仕草で傍らの亜樹子と目を合わせ、互いに頷くともう一度言う。
「俺も同意見だ」
「あたしもそれでいいと思う」
 料理の腕は一向に上達しないが、事務所の所長と主婦という二足の草鞋をがっちり履きこなす亜樹子が力強く続けた。
「翔太郎君の決めたことだもん。お父さんも同意するんじゃないかな」
 笑った顔は、どこか晴れ晴れとしている。その表情に安心したのか翔太郎の顔がわずかに緩む。そして最後にフィリップを見た。
「フィリップ」
 名前を呼ばれ、フィリップは真っ直ぐ翔太郎の目を見返した。一瞬息が詰まったが、すぐに吐き出す。
「…翔太郎の決断は理にかなっている。君がそうするべきだと思うのなら、僕もしたがうまでだ」
 そう口にすると、フィリップは指先をテーブルの上に伸ばす。もっとも親しんだ緑色のメモリを握り、サイクロンと呟いた。
 風都に最初のドーパントが出現してから、すでに二十四年が経過していた。フィリップと翔太郎が初めてダブルに変身した、あのビギンズナイトからは五年。
 フィリップの消失という大きな空白期間を挟みながら、風都で戦い続けてきた仮面ライダーたちは、この日一つの決断をした。仮面ライダーが戦い続ける目的は、風都からガイアメモリを全て取り除き、風都の人々を守ること。その目的が達成されたとき、自分たちが持つドライバーとガイアメモリもまた全て手放し、永遠に葬り去ろうと。


***


 どんよりと重たい雪雲が空を覆う日だった。
 フィリップは、マグカップを片手に事務所内に備え付けの簡易ベッドにもたれかかるようにして座り込んでいた。目を向けたベッドの中では、翔太郎が仰向けに横たわっている。先ほどまで青白かった顔は、今は紅潮して汗ばんでいる。呼吸は浅く短い。高熱が出ているのは明らかだった。
 理由は風邪だ。相変わらず鳴海探偵事務所で第一位の依頼量を誇るペット探しを、雪のちらつく中で一人奮闘した結果だ。しかも迷子の三毛猫がちょうど見つかったところでドーパントが現れた。仕方なく翔太郎は猫の首輪を電信柱にくくりつけて亜樹子に電話をかけ、そのままダブルに変身した。予告もなくサイクロンジョーカーになったフィリップは翔太郎の不調に即座に気づいたが、敵を前にしてはどうすることもできず、とにかくスピード解決するしかないといささか強引に技を繰り出した。ガイアメモリを破壊したところで翔太郎の体力が尽き、変身解除後に事務所のガレージで飛び起きたフィリップは、急いで翔太郎を回収しに向かったというわけだった。
「あいかわらず君は無鉄砲で、自分の限界を考えない」
 恨み言を呟いても、事務所に響くのは翔太郎の荒い息遣いだけだ。ちらついていた雪は、これから本格的に降り出すようだった。部屋の中は一層冷え込み、窓の外は薄暗い。窓に映る風車の影もとても淡かった。
 時折吹く風が家を揺らし、ぎしぎしと軋みを上げる。今日はもう依頼人も来ないだろう。よほど切羽詰まった事情でもない限り。
 看病に必要なものは亜樹子が全て置いていってくれた。翔太郎が目を覚ますまで、フィリップに出来ることはない。せいぜい額の汗を拭ってやるくらいだ。この間にガジェットの手入れでも読書でも、地球の本棚に入ることも出来たけれど、どうしてもそんな気分になれず、フィリップは物思いにふけりながら、眠る翔太郎を見つめていた。
 マグカップには、照井竜が挽いた豆で煎れたコーヒーに、温めたたっぷりのミルクとハチミツがひと匙入っている。ほんのり甘いカフェオレは、翔太郎がフィリップのために作ってくれる定番だ。配分は翔太郎が入れるものと全く同じであるはずなのに、自分で入れたそれは味が異なるように感じる。その理由を探して地球の本棚に寝食も忘れてこもりきった日々は、まるでずいぶん昔のことのようだ。
 何度目かの溜め息をもらし、フィリップはベッドに寄り掛かりながら天井を見上げる。頭を占めるのは、冬に入る前に決めたあの約束のことだった。ガイアメモリを全て取り除いたら、自分たちのメモリも手放すこと。メモリを使用するためのドライバーも含めて。
 このところ倒したドーパントを脳裏に並べる。ミュージアムが故意に流通させた製品に加え、開発途中で巷に流出してしまったプロトタイプのガイアメモリ、それらによって引き起こされるドーパント事件。その数は少しずつ減少していっている。それはつまるところ、フィリップたちの目的がそう遠くない未来に達成されることを示していた。
――喜ぶべきことだ。
 マグカップを両手で抱え、一口飲む。暖房をつけているとはいえ、築年数が古く天井も高い事務所は温まりにくい。傍らに置いた電気ストーブで補っている状態だ。入れたばかりのはずのカフェオレは、すでにぬるくなりかけていた。
――父さんや母さん、姉さんたちもそれでいいと言ってくれる。
 今なお色あせることのない、大切な家族の残像を思い浮かべながら胸のうちで呟く。彼らはフィリップの記憶の中で、いつも優しく微笑んでいる。
 翔太郎の決断は間違っていない。全てのガイアメモリには、自分たちが持つものも当然含まれる。悪用する意思がないとしても、持ち続けることには危険が伴った。ドーパントが現れる恐れがなくなったのならば、それを倒すために作られた仮面ライダーが役目を終えて姿を消すのは当然の流れだった。物事には終わりが存在する。そのために戦ってきた。それなのに、フィリップの心は重たい。その理由は分かっている。
「――翔太郎」
 吐息を洩らすように呟いた。そんなつもりはなかったのに、事務所に響いた声はひどく心細く甘えたもので、思わず苦笑する。
 そう、翔太郎だ。ダブルドライバーとガイアメモリを手放した時、自分と翔太郎の関係がどうなるのか、フィリップはそれだけが気にかかっていた。
 ビギンズナイトで翔太郎と邂逅して以降、フィリップと翔太郎の間には常にドライバーとメモリがあった。
 二人で一人のハーフ&ハーフ。メモリのボタンを押してドライバーに差し込めば、いつでも翔太郎と一つになれた。敵と戦うためだとわかってはいても、翔太郎と一体化し、その思考を…翔太郎の心にあるものを全て自分のものにできることは、フィリップを歓喜させた。自分の思考が言葉を介さずに翔太郎に伝わることが嬉しくて仕方がなかった。
 自分と翔太郎の境目を見失い、強引に翔太郎の心をこじ開けようとしたことも何度かある。それでも翔太郎はフィリップを拒絶せず、最終的には受け入れてくれた。感情も思考もコントロールできるようになった今では、翔太郎に負担を与えることもなくなったが、それでも別個の肉体が一つに融合するあの快楽にも似た感覚は、フィリップを虜にしてやまない。そしてダブルドライバーは、飄々としているくせにどこか危うく、掴んでいなければ風に吹き飛んでしまいそうなところのある翔太郎を、確実に手元に繋ぎ止めておける手段でもあった。
――だけど、もうダブルドライバーに…メモリに頼れなくなる日がくる。
『悪魔と契約する勇気、君にあるか』
 ビギンズナイトのあの時、呆然とこちらを見つめる翔太郎に言い放った言葉。あれからずっと、翔太郎とフィリップの契約は続いている。その契約の証とも言える形を失ったとき、どうやって翔太郎を傍に留めておけるのか、フィリップにはそれが分からなかった。
 仮面ライダーでなくなっても、鳴海探偵事務所は残る。翔太郎は探偵として引き続き風都の人々のために駆け回るだろうし、フィリップはその相棒として傍らで支えるだろう。だが、それだけではもはや物足りないのだ。心をつなぎ身体を一つにする別の方法を探さなければいけない。そしてフィリップはその方法に辿りついていた。いや、本当はずっと心の奥底にあった願いだったのかもしれなかった。
 手にしていたマグカップを慎重に床に置き、膝をついてベッドの翔太郎を覗き込む。
「翔太郎」
 小さく呼びかけてみたけれど、返事はない。
 翔太郎は眠ったままだ。風邪薬がよく効いているのだろう。かれこれ三時間は眠り続けている。このところ探偵事務所としての依頼が続いていたから、これが少しでも休息になればいいと思った。
 上掛けに埋もれるようにして眠る翔太郎は、どこか小さく見える。それが気のせいではないことを、フィリップはすでに知っていた。
――もう、僕の方がすこし大きい。
 暖かな上掛けの中にそっと腕を差し入れ、翔太郎の手をゆっくり取り出す。熱に火照る手を広げ、自分の手のひらとぴったりと合わせる。ぐっと押しつけた手のひらの中心がじんと熱を帯びてくる。
 翔太郎の手は、骨張っていて細い。とても綺麗な形をしていると思う。合わせた手はフィリップの方が五ミリほど大きい。指を絡めて握り込めば、あっけなく自分の中にぴったりと収まることに気づいて、フィリップはため息をついた。
 指を絡めたまま、翔太郎の上にのし掛かるようにしてベッドに半身を乗り上げる。乗せた片膝の重みを受け、ぎしりと軋むスプリングの音に心臓がはねあがりそうになる。それでも構わず翔太郎の顔の間横に両腕をつき、覆い被さるように見下ろす。フィリップ自身の影が翔太郎を黒く染めた。
――肩幅も、僕の方が広い。まだ僅かにだけれど。
 そう確認する。華奢だと、薄っぺらい身体だと言われ続けてきたけれど、もうそんな時期は脱しようとしている。このまま翔太郎の上に覆い被さって、指先だけでなく腕も脚も隙間なく絡めてしまえば、もっとはっきりするはずだ。
 翔太郎にとって、自分がもはやただ庇護されるばかりの幼い子供ではないことを。
――もう、子供じゃないんだ、翔太郎。
 わずかな差はゆっくりと広がり、今後も開き続けるだろう。子供では、いられないのだ。そのことが、どうしようもなく嬉しく、誇らしく、同時に寂しさを覚えて、フィリップは胸が苦しくなるのを感じた。
 ドライバーで繋がれないのなら、物理的に繋がればいいのだと、そう知ってしまったのは、多分ずっと前のことだった。気づいてすぐに思考の奥底に閉じ込めてしまったのは、異性間で行われるのが通常である行為を翔太郎に強いることへの後ろめたさと、ダブルドライバーが存在することへの安心感からだった。フィリップはいつだって翔太郎が欲しかったし、翔太郎の全てを手に入れたかった。だが、ドライバーを失う未来を目の前にして、押しこめていた手段が、本能的な欲と一緒にフィリップの中で渦を巻き、蓋を開けて這いだそうとしている。
 大人になろうとしている自分と、ダブルドライバー無しに翔太郎の傍に今後も在り続けたいという願いが揃ったとき、導き出された答えはとても単純で、露骨で、容赦がなかった。
 人として、男として翔太郎が欲しいのだとはっきり気づいたとき、フィリップは泣きたくなった。同時に笑いたくなった。翔太郎が相棒として家族として自分を愛してくれているのに、それでも満足できないのかと。どこまで浅ましく求めようとするのかと。
 翔太郎には、フィリップのこんな感情は理解できないに違いない。甘すぎる半熟探偵は、どこまでもフィリップを許容するけれど、それは結局フィリップを守るべき存在だと考えているからだと分かっていた。
――翔太郎。
 顔を触れるほどに近づけ、吐息だけで呼ぶ。翔太郎のことを考えるだけで、これからを思うだけでこんなにも苦しい。それが伝わればいいのに。理解してくれたらいいのに。――どうか気づいて。
 そう呼びかけた声が聞こえたはずもないのに、突然伏せられていた翔太郎のまつ毛がかすかに震えた。やがてゆっくりと瞼が持ち上がる。ゆるゆると開いた瞳がまつ毛の間から覗いたことにフィリップは息を呑んだ。身体を起こすことも忘れ、覆いかぶさったまま、ただ翔太郎を見下ろす。
 翔太郎はぼんやりと目を開け、数度瞬きを繰り返してから、あ? と間抜けな声を洩らした。
「フィリップ?」
「…翔太郎」
「…なに…お前の顔すげえでかいんだけど」
寝起きの掠れた声が、間近で耳に響く。なんと答えたものかと考え、ひとまず水を飲むか尋ねようと思ったとき、翔太郎がぼんやりと続けた。
「なに、俺、寝込み襲われてんの?」
「………」
 確かにこの状況は、寝込みを襲っているようなものだ。けれど翔太郎は本気でそう考えたわけではないだろう。思ったことを適当に口にしただけだ。それが何だかとても悔しくて、フィリップはあえて強い口調で言い返した。
「そうだよ。君を襲うつもりだったんだ」
 翔太郎は呆気にとられたようにぱちぱちと瞬きを繰り返すと、やがてへらっと笑った。
「まじかあ…襲われてんのか…」
 ぼけっとした声にフィリップはがくりと肩を落としそうになった。
 なんだ、この緊張感の無さ。朝食の卵がきれていたのとまったく同じ言い方だ。残念というよりは事実確認しただけの適当なあれ。
 どうせこんなことだろうと分かっていた。熱があるのだとしても緊張感がなさすぎる。そもそも、この状況を現実として捉えているのかも怪しい。翔太郎にとってフィリップは脅威ではないと証明されたようなものだ。そのくせ、半ば眠りの中に意識を残した声は低く掠れていて甘いのだ。
 体の芯から熱を呼び起こすような、その熱がじわじわと尾てい骨から背筋を這い上がってくるような声だ。
 思わずフィリップは身体をぶるりと震わせたものの、ぐっと衝動を押さえ込むと、翔太郎に笑いかけた。
「だから、君はもっと抵抗したまえ」
 騒ぐなり、突き飛ばすなり、何かしらの反応を見せてみろと、口を尖らせて言い返す。
「抵抗ってなあ…」
 翔太郎はさすがに首を傾げた。もごもごと口の中で呟く。
「俺、今病人だぞ」
 その自覚はあったのかと思わず苦笑する。
「そう、君は病人だ。熱は三八度を超えているよ。そんな君に無体なことをしようとしているんだから、君は僕を卑怯だと非難する、または拒絶する権利がある。言うべきことがあれば早く風邪を治すことだ」
 ことさらに明るく、まるでコントのようなノリで、翔太郎の上から覆い被さったまま告げる。下らない冗談に聞こえていればいい。考えるほど迷宮に入り込む思考も、拭おうとして拭いきれない薄暗い欲望も全て覆い隠して、今はただ翔太郎との時間を楽しめればそれでいいのだと胸の内で言い聞かせる。
 しばらくぼんやりと翔太郎はフィリップを見返していたが、その目がとろりと細められた。
「抵抗とか…非難だとか…無理だろ…」
「翔太郎?」
「だって、お前はフィリップだし。そしたらさ…しょうがねえだろ」
「…しょうたろう?」
 言っている意味がよくわからず、名前を呼ぶ。
「だって、俺はお前が何しようが何されようが、かまわねーって思ってるんだ、ずっと」
 ふにゃりと笑った顔のあどけなさに、フィリップは声を失った。目を見開いたまま固まっているフィリップに翔太郎は更に続ける。
「だって、結局俺にはお前しかいないからさ」
「君は…!」
 思わず叫んでいた。
「ずるいだろう…っ!」
 身体を起こし、拳を握りしめる。これだけ自分が必死に考えているというのに、ぐちゃぐちゃに絡まる感情を整理しようと足掻いているというのに、翔太郎はすべてを軽々と飛び越えてあっさりとそんな言葉を寄越す。しかもひどい理由だ。まさか消去法か。それとも妥協か。みっともなく泣き出してしまいたい。
「おいフィリップ」
「そうやって君はまた僕を…」
「フィリップ」
 子ども扱いするんだろうと続けようとして、宥めるような声に遮られ、フィリップは声を飲み込んだ。そしてまじまじと翔太郎の顔を見つめ直す。翔太郎は目を逸らすことなく真っ直ぐフィリップを見ていた。どこか困ったような照れているようなそんな表情で。
「子供扱いなんかしてねえよ。お前だから何だっていいって、俺はそう言ってるんだ」
「しょうたろう?」
「あんまり見くびるなよ。俺はお前の相棒で保護者だ。お前の考えてることくらいそれなりに分かるんだよ。メモリのことを決めてからずっとおかしかっただろ。だから何か悩んでんじゃないかって思ったんだが…」
「どうして…ダブルドライバーのことだってわかるんだい?」
 ぽつりと尋ねると、翔太郎は左手を伸ばしてフィリップの頭をぐしゃりと撫でた。
「お前の悩みが、多分俺と同じだろうと思ったから。俺も…お前と繋がれなくなる日がくるのが、少し怖いからだ」
 ゆっくりと紡がれた声。少しだけ揺れる眼差しは、翔太郎の悩みと躊躇いの跡を感じさせる。
「とりあえず俺とお前は残る。俺はそれでいいと思ってる。これからの関係はまた新しく作っていけばいいんじゃないかって、そう考えた」
「それがどんなものでも?」
 尋ね返したフィリップの声は震えている。
「僕が子供だからって妥協しているわけじゃない?」
「俺は、最近お前があんまり成長しちゃったから、すげえ寂しいけど、同じくらい誇らしく思ってるよ」
 どこか眩しげに微笑んだのに胸を突かれ、フィリップは思わず横たわる翔太郎にそのまま抱きついた。
「ぐえ…重てえ…おい…俺病人…!」
 抗議されるが、構うことなく熱っぽい翔太郎の首もとに鼻を埋める。
「好きなんだ。翔太郎。僕は君のことが本当に好きなんだ」
 今にも泣き出しそうな告白は、今までも繰り返してきた言葉なのに、これまでで一番ぶかっこうだった。
「知ってるよ」
 俺もちゃんとお前のことは大事なんだと言われて、汗ばんだ香りと染み付いた翔太郎の香水の入り交じった香りを吸い込む。ああ翔太郎だと思った瞬間、耳元でからかうような声が響いた。
「で、なに、俺マジで襲われるの?」
「――それは襲ってほしいということかい、翔太郎」
 ふざけた口調が気に食わず、じとりと睨みつける。
「君が自業自得で風邪なんかひいていなかったら、いますぐにでもそうしたかった」
 動きを止めて恨めし気に言うと、悪ぃと声が返ってきたと思うもなく翔太郎が再び笑いに身体を震わせた。
「お前って紳士だなあ」
「からかわないでくれ。あとで熱のせいだって言い訳に使われるかもしれないのも避けたい」
「俺って信用ねえなあ…」
 後頭部に回された手が、くしゃくしゃとフィリップの癖毛をかきまぜる。
「でもお前…ちゃんと俺のこと考えてたんだな…やべーなー…考えたらなんか今さらドキドキしてきたわ」
面白がるような声で何てことを言うのだろう。
――僕はずっとドキドキしてるのに。翔太郎の大馬鹿野郎。
「――早く、身体を治してくれ」
「おう。もう一眠りすれば明日の朝ごはんは作ってやれると思うぜ。オムレツにするか? チーズ入りの」
「翔太郎!」
 のんきな予定が返ってきて、さすがにフィリップは翔太郎の上から身体を起こした。自分はそういう日常の話をしていたのではない。うんざりして叫ぶ。
「君はムードってものを知らないのか!」
「今さらムードったってなあ…」
 それは無理じゃねえ? と翔太郎がへらりと笑う。確かにそうだろう。同居は厄介だ。日常がすぐに邪魔をする。出会いが衝撃すぎたのもいけないのだ。
「まあ、俺たちは俺たちのペースで何とかやっていけばいいんじゃねえ? 一緒にいる限り、平気だろ」
 何とかなるさという翔太郎の言葉は相変わらず暢気で、そのくせ的確で、必死に考えていた自分が馬鹿らしく思えてきてフィリップには溜め息を吐いた。
 ビギンズナイトから、フィリップの世界はほとんど翔太郎で占められている。翔太郎のいない世界をフィリップは知らない。そしてこれからも知る予定はない。
 あの消滅していた一年間だけで十分だ。かけがえのない半身。二人で一人。最初に魂をわけあってしまったから、離れることなんて出来はしなかった。最初から、そうだったのだ。


***


 薬を飲み、汗ばんだ服を着替えてからもう一度ベッドにもぐりこんだ翔太郎の、その枕元に座って見下ろしながら、フィリップはくすりと笑った。
「ねえ、翔太郎。僕は昔から、ずっとやってみたいことがあったんだ」
「フィリップ?」
 何を?と聞かれて口端を吊り上げる。
「恋、というやつだ」
 頭が落ち着く場所をもぞもぞと探っていた翔太郎が、ぎょっとしたように動きを止めてフィリップを見上げ
た。
「こい…!?」
 鯉じゃなく!?
 という予想通りの反応に笑い出しそうになりながら、意気揚々と続ける。
「クィーンやエリザベスが騒いで、あきちゃんをキラキラさせる恋というものを僕も体験してみたいとずっと思っていた。彼女たちをあれだけ幸せそうな顔にするのだから、きっと素敵なものに違いないってね」
「うっわ…恥ずかしいな…お前…マジかよ…」
「僕はいつだって大マジだ」
 新しく提案された関係性は翔太郎を確実にうろたえさせたらしい。――恋…フィリップと恋…なんだそれすごい響きだな…と、頭を抱えている。
「あのな…その…多分幸せなだけじゃないかもしんねーぞ。飽きるかもしれねえし。夢見てると泣くぞ」
 上掛けをひっぱりあげながらもごもごと呟かれた反論を、フィリップはまさかと笑い飛ばした。
「僕が? そもそも僕が翔太郎に飽きることなどありえない。幻滅上等。幸せばかりじゃないというのも承知の上だ。君はいつまで僕を子ども扱いするんだい?そもそも君と僕が過ごしてきたこれまでの時間を考えてみたまえ。山と谷しかないだろう。むしろ君が僕に飽きることを僕が心配すべきだ」
「だから、俺はどんだけ信用がないんだ…?」
「自分の胸に聞いた方がいい」
 そうだ、恋をしようと、フィリップは思った。今ならできる気がする。
 本当はずっと恋していたのかもしれない。知らぬうち焦がれ続けていたのかもしれない。でも今度ははっきりと自覚して、たった一人決めた相手と一対一の立場で、ただのフィリップと翔太郎として恋をするのだ。
 何しろ相手は翔太郎だ。きっととても面倒に決まっている。それこそが醍醐味でもある。何しろ翔太郎以外他に相手などいない。選択肢は最初から一つきり。今後もそうだ。だからきっとできるはずだ。最初で最後、一度きりの恋ってやつを。
 見下ろす翔太郎の唇を指先でなぞる。熱で少し乾いているけれど、厚みのあるそれは思ったよりも柔らかい。数度辿るとくすぐってぇと文句を言われたので、自分の唇で塞いだ。初めてのはずの感触は、ずっと昔から知っているかのような懐かしさをフィリップに与えた。重なったところから熱が生まれ、じんと全身へと広がっていく。境目が曖昧になり、ゆるゆると一つに溶けていくような錯覚を覚える。それはドライバーで繋がるのに比べ、もどかしくなるほど穏やかでゆっくりとしたものだった。けれど目眩がするほどの幸福感があった。うっすらと目を開けると、翔太郎がまっすぐこちらを見ているのに気づく。くしゃりと細められた眼差しの柔らかさに、フィリップはいっそう口づけを深くした。
 僕と恋をしよう。
――翔太郎。


- end -


2014??
フィリ翔アンソロに寄稿させていただいたものです。メモリをすべて砕いたあとの彼らのことをよく考えていました。一つの終わりとともに、新たに始まる関係があるとしたらなんだろう、という話です。
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