Changing Color
味覚が曖昧になっていると自覚した(正しくはさせられた)とき、正直なところ、映司はさほど失望しなかった。
ただ、真木博士の言葉はすとんと、胃の中に落ちていって。
なるほど、そうなのかと、今まで抱いていた違和感の答えを見つけて、むしろ映司は納得したのだった。
――あぁそうか。それなら…仕方ない。
味覚が無くても、少なくとも食らうことはできる。食べなければならない理由もある。何より。戦いが続けられさえすればいい。だから、生活に支障などないはずだっだ。比奈が丹誠込めて作った料理の、その本当の味を体験することができなかったのは、折角作ってくれた彼女に対して申し訳なかったけれど、それでも、残念だと悔いるほどではなかったのだ。
***
今思い出してみれば、味覚以外にも、様々な知覚が欠落を始めていたのだろう。きっと、自分では意識すらしていなかった。少しずつ、進んでいたから、気づくことはなかった。
どうも、色覚に異常が出始めたらしいというのは、やはり日常の一コマから判明した。
いつだったか、知世子が、「今度店で着る服、こんな色で行こうと思うんだけどどうかしら」と聞いてきた時に、「素敵なグレーですね」と答えたら、彼女はひどくきょとんとした顔をしていた。ついで、堪えきれぬと言うように笑い出した。
『やだ、何言ってるの!映司君ったら。これ、ターコイズブルーよぉ?』
そりゃあ部屋の中で見たら、もうちょっと暗く見えるかもしれないけどと、そういって笑う知世子の後ろで、凍り付いたようにこちらを凝視する比奈の姿を見つけてしまい、しまったと思う。
『あ、違います!俺、そういう青って、どういう名前で呼ぶのか全然知らなくて…』
色のこと詳しくないんです、適当なこと言ってすいませんと笑って謝る。そう?と知世子は首を傾げただけだったのだが。
『映司くん…!』
明らかに顔色を失って、飛びつくように腕を掴んできた比奈に、「大丈夫。大丈夫だから」と宥めるように笑いかける。彼女は、映司を常に心配してくれていた。些細な変化をも、ただ見過ごそうとはしなかった。そんな彼女に、全く信憑性のない言葉を並べ立てることしかできない自分が腹立たしかった。
結局、距離を取ることしか思いつかなかった映司を、それでも掴んだ腕があったから、映司は今もまだ一人ではない。それなのに、そのことに、どれだけ感謝しているのかということすら、まだ満足に伝えられていない。心配ばかり、かけている。
色を失うということは、彼女にとって恐怖と悲しみでしかないだろう。けれど、信じてもらえないだろうが、それでも映司にとっては「大丈夫」だったのだ。
―――そっか。とうとうここまで来たんだ。俺。
グリードという存在に、日々、一刻一刻と近づいているという現実。紛れもない事実であるというのに、映司が恐怖を感じることはなかった。
「グリードか…」
グリードとして、真っ先に思い浮かべる存在は、ただ一人しか知らない。そして、その唯一は、真木博士が語るグリードの在り方とは、最も遠いところにいた。いようとしていた。
その彼を思うと、どうも恐怖を抱く気にはなれなかった。最も、その感覚すら鈍りはじめているだけなのかもしれなかったけれど。
「アンク、今、何してんのかな」
何をしているか、なんて。分かりきったことだというのに。
映司は遠く離れた友人を思うかのような気安さで、鳥のグリードへと想いを馳せてしまった。
アンクは、その存在そのものが鮮烈だった。容姿も、好む色も、口調も。
どこに居ても、人の目を奪ってしまうような、そんな。
「どんな、色だったっけ」
――アンク。長い間ではない。けれど、決して短くない時を、横で過ごしたのに。思い出そうとすればするほど、形も色も、何故かひどくあやふやになっていくことに、映司は困惑した。
―――オレンジみたいな色だったかな。
―――オレンジ、橙色。いや、もっと濃い。
違う、そうじゃないと否定する。そんなすぐに手に届くような、思いつくような色ではなくて。
もっと派手で、力強くて、眩むような。
「あ、そうだ。夕日」
思い出した、夕日の色。そうだ、アンクは夕日の色を纏っていたのだと思いついた。そう気づいてしまえば、身体が動いていた。
今は夕刻だ。太陽が沈みゆく、その景色を今、自分は見に行かねばと、映司は焦った。
西の彼方、沈み行く間際に放つ、暴力的なまでの閃光。
あの色を、捉えにいかなければと。
気づけば、走り出していた。いつしか馴染んだ町並みを走り抜け、土手の方へと向かう。ごちゃごちゃとした、温かく騒がしい景色を通り抜けて、ぽっかりとした空間へと辿りついた時には、全力疾走を続けたために、ぜぇぜぇと息が切れていた。
「…っ、はっ……夕日…っ」
何も遮るものがない空を、見上げて。
はっと、エイジは乾いた笑みを吐き出した。
見たいと願った色は、くすんで…濁っていて、望んだものを反射させることはなかった。
「…そっか…うん。そうだよな…」
色を失っていく世界。それはこういうことだ。あの男もそう言ったではないか。
およそ鮮やかさとはかけ離れた、その色。瞬きをして、記憶に映る赤を見いだそうとしたけれど、色味を残しているのであろう、沈み行く太陽の光を受けた雲に、懸命に目を凝らしてみたけれど。それは、どんよりと、もどかしくなるほどの鈍さを湛えていた。目の前のくすんだ世界は、記憶の色までをも塗りつぶす。思わず、空から目を背け、映司は指先を握り込んだ。
どんな感覚を失っても、悔やむことなどないと思っていた。仕方ないと、そう思っていた。分かっていると、受け入れていると、自分で思いこんでいた。それなのに。
まだ、思い出せる。アンクの声、言葉、仕種。
それなのに。――あの。色が。心ごと奪い去っていくような、あの、《真紅》が。
―――足りない…って、何だ…?
ぞろりと、得体の知れぬ感覚が、いや、ずっと知っていたようで蓋をし続けていた何かが、身体の奥底で蠢くのを感じる。
思わず叫び出しそうになるのを必死に堪え、そして堪えきれずに、食いしばった歯の間から何かを押し出すようにして、映司は呻いた。
今、初めて。
アンクがまとっていた赤が目に映らないことが、もう思い出すことすらできなくなりつつあることが、残念だと、思った。
***
ふと、寝そべっていた身を起こして、アンクは空を見上げた。
「夕方か…?」
夕日が照りつける屋根の上に、やたらとしっくり馴染むその姿は、尋常な人とは、やはりどこかかけ離れたものを感じさせる。それでいて、降り注ぐ光に思わず目を細めた姿は、やたらと人間くさかった。
―――くそっ、眩しい。
不快の念を露わにし、そう胸の内で吐き捨てながら、それでもアンクは目に映る景色から目を離すことができずにいた。
世界の美しさなど、未だ分からない。だが、気の遠くなるほど複雑な色彩を構成する、この景色は、理由も理屈も飛び越えて、アンクの胸の奥にある何かを掴み、引きずり込もうとする。
こんなものを己は知らない。そう、思うのに。
真っ直ぐに、逸らされることなくぶつかってきて、時にこちらの身を竦ませるような光を、自分は知っているのだと思った。それは頭上ではない。見上げなければ目に映らないものではない。ぶれることも、揺らぐこともなく。呆れるほどの図太さで、愚鈍なまでの真摯さで、手を伸ばせる場所に立っていた。
あぁ、それは。
身を焼くほどのオレンジは、やがて翳りを帯び、次第に濃い紫へと変化していく。夜の訪れまで、もう間もないことを示す、その色彩を認めた時。
ぞっと、冷たいものがアンクの背を走り抜けた。
(―――何だ…?)
空を下方からじわじわと喰み、侵食し、やがて漆黒へと塗りつぶしていく《紫》。危うげに、けれど妖艶に移ろう。
――それ、は。
指先から這い上がってくる不安。いや、それは怖れか。何故、そんな感覚を抱く。何故。
空を見上げたまま立ちつくし、アンクは、理由も分からぬままに身を震わせた。
- end -