わたしであること


 あ、と声を上げたのは一騎だった。
 どうしたのかと顔を上げた総士は、一騎の視線の先にあるものを見つけて目を見開いた。距離にして二〇〇メートルは先だろうか。海風に煽られてか、よろめいた女性の抱えた荷物からリンゴが零れてゴロゴロと道を転がっていく様子が見える。女性は両腕とも荷物で塞がっていて、リンゴを追いかけることができずにいるようだった。

「先、行っててくれ!」

 そう言い終える前に、すでに一騎は走り出している。待てとも、一緒に行くとも言えなかった。一呼吸もおかずに加速した一騎に追いつける者など、島の人間にはいない。総士と遠見をその場に残したまま、細身の背中は瞬く間に遠ざかり、海沿いの通りを一目散に駆けていく。
 その姿を、総士は半ば呆気に取られて見送った。一緒にいた遠見も目を丸くしたまま、総士と同じように足を止めてしまっている。
 青い海を背景に、若木のようにしなやかな四肢を伸びやかに動かして、風のように走る一騎の姿は、目を奪うものがあった。踏み出す一歩は軽やかで、だが地を蹴る様は力強い。その姿勢にいっさいの無駄はなく、野生の獣の優美ささえあった。
 普段は猫背気味に身体を縮こまらせている印象があるが、肢体の隅々に力を漲らせている様子は、まるで水を得た魚のようだ。どこまでも視線で追いたくなる。あれが一騎なのだと思う。

「……きれいだねえ」

 ため息を吐くように呟いた遠見の声に、総士は思わず息を止めて隣を見た。
 まるで、今感じたことをそのまま見透かされたかのように思ったのだ。だが、遠見は駆けていく一騎の姿を目で追いながら、微笑むばかりだった。
 きれい、ともう一度繰り返す。

「この前泳いでるときもそうだったけど、あんなふうに人間の身体って動かせるんだって、あたし一騎くんを見て解ったかも」
「……そうだな」

 それが兵器になるために備えられたものだとしても、あれは一騎の「個性」だ。生まれながらに与えられたすべてが、一騎を一騎にしている。陸を駆けようが、水中を泳ごうが、ファフナーに乗っていようが、一騎の一挙手一投足を、総士は見間違えることはしない。
「サヴァン」と、また遠見が呟いた。再び心を読み取られたかのように感じるが、それは忌避すべき感情ではないと自分に言い聞かせる。彼女は、総士の心理をまるごと読んでいるわけではない。
 だが、そこで初めて総士に向けられた遠見の眼差しに、結局自分の浅はかな心の動きなど彼女の観察眼の前には裸も同然であると即座に白旗を揚げた。一騎の沈黙は際限のない受容だが、遠見のそれは鏡に似ている。彼女の視線にほとんどの人間がたじろいでしまうのは、正視したくないものを突きつけられる恐怖、身の内に抱える疚しさゆえだと総士は知っている。

「……そんなに警戒しなくてもいいのに」
「そんなつもりでは」

 返した言葉は、我ながら説得力がなかった。
 どうかなあと遠見は肩をすくめて笑った。その声に総士を責める響きはまるでなく、むしろあっけらかんとしていて些か驚く。それでも先に続ける言葉も見い出せず、手持ち無沙汰のまま一騎の方へ目を移せば、あっという間に転がるリンゴを拾い上げたらしい一騎は、持ち主に捕まって熱心に礼を言われているようだった。ひどく困惑して恐縮している様子が遠目にも分かる。リンゴが転がっているのが見えた、だから拾った。それだけのつもりだった一騎にとっては、相手からの礼は戸惑うものでしかないだろう。居心地悪そうに身体を揺らすのがいかにも一騎らしくて、そのまま視線を送っていると、遠見が少し間を置いてから口を開いた。

「……あたしね、最初にサヴァンのことを聞いたとき、安心したの。ああ良かった。あたしのせいじゃない。全部サヴァンのせいだったんだって。そんな都合のいいこと考えた。そうじゃないのに。…もう、これがあたしなのにね」

 それは諦めというよりは、確かめるかのような口調だった。彼女はすでに答えを出している。向き合い、今改めて受け入れようとしている。

「一騎くんを見て、翔子を見て、みんなを見てわかった。これがあたし。ほかのだれでもない、あたしという存在。しょうがないな。でもそれでいいんだなって、やっと思えてきた。……ねえ、皆城くん。あたしのサヴァンは……ううん、あたしは、この先みんなの役に立てるかな」
「ああ、必ず」

 総士はきっぱりと返答する。
 彼女は必要だ。それだけはぜったいに揺らぐことのない確信だった。

「……ありがとう」

 遠見はそれだけを告げてふたたび前を見る。そこにはふたたびこちらに駆け戻ってくる一騎の姿がある。ためらうことなくまっすぐに、鮮やかに進もうとする足取りに迷いはない。近づいてくる顔が不思議そうなのは、先に行くこともせず並んで立ち尽くしている自分たちのせいだろう。
 海風が吹いて、遠見と総士の髪を巻き上げていく。同じ風を、走る一騎もまとっていた。

「やっぱり、きれいだなあ」

 彼女は、もう一度しみじみと呟いた。


2019/04/06 up
文庫ページメーカーより再録(09/01)
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