真壁一騎の鬱屈


 あ、と思ったときには、指先が消しゴムを弾き飛ばしていた。
 机の上から飛び出した一騎のちびて丸くなった消しゴムは、教室の床にぶつかって大きく一度跳ねると、二度、三度と小さくバウンドしながら、掃除を終えて整頓された机の脚の間を転がり、コロンコロンとさらに数回転がったあとでようやく止まった。思いのほか遠くまで行ってしまった消しゴムを、一騎は眉をひそめてちいさく睨んだ。
 日直の責務である日誌はまだ書きかけだ。日直の感想欄が一番のくせもので、一騎はすでに何回も書き直していた。日誌の上には消しゴムの滓が散らばり、ところどころで小さな山を作っている。以前、「今日も普通でした」と書いて提出したところ、せめてどう普通だったのか主体性をもって書いてほしいと苦笑交じりに担任に言われてしまったのだ。
 下校時間はとっくに過ぎているが、終わらせなくては帰宅することが出来ない。はやく拾わねばと億劫な思いで席から立ち上がろうとして、一騎はぎくりと全身をこわばらせた。
 廊下から近づいてきた軽い足音と共に、視界の端で白い布が揺れるのが見えた。それは、「彼」がいつも羽織っているパーカーのものだった。なにか取りに戻ってきたのだろうか。彼は、すぐに教室に一騎一人しか残っていないことに気づいただろう。だが、それでも一騎はどうか気づかないでくれと無意味に願った。顔を深く俯けて書きかけの日誌を見つめ、身を縮こまらせながら息を殺す。
 彼は教室に入り、いったん足を止めたようだった。一拍を置き、なにか動作ををしたあとで、再び歩き出す音が聞こえる。その音は、なぜか一騎の方に近づいてきた。
 一騎は混乱した。悲鳴を上げそうになるのを必死に押さえつけ、いよいよ身体を硬くする。どっどっ、脈を打つ音が響く。まるでと身体中が心臓になってしまったようだ。強く握りしめた拳は力を入れすぎて震え、背筋を冷たい汗のようなものがつうと流れ落ちるのを感じた。だが、目を閉じることはしなかった。それだけは、してはいけない気がしていた。
 規則正しい足音は、一騎の机の前でぴたりと止んだ。俯く一騎の視界の隅で、細長い、けれど少年らしく骨張った指が、机の上に消しゴムを乗せるのが見えた。一騎が弾き飛ばした、一騎の消しゴムだった。指先はすぐに引っ込み、あの白いパーカーが翻る。来たときと同じリズムで足音は遠ざかり、小さくなって、やがて何も聞こえなくなった。
 それはほんのわずかな時間の出来事だったが、一騎の目には、消しゴムを置いたその指先がなめらなかなことも、形の良い爪がきれいに切りそろえられていることも、鮮やかすぎるほどに焼きついた。
 教室が静寂を取り戻し、再び一人きりになってから、一騎は強ばった身体を軋むように動かし、視線をあげて、手元に戻ってきた消しゴムを見つめた。そして、それを掴むと途中まで書いていた日誌を無心に消しはじめた。繰り返し消しゴムをかけたせいでページはすでにいくらかよれていたが、構わなかった。できるだけ真っ白になるようにと念じながら消しゴムをかけ続け、最後に自分の名前も消すと、一騎は散らばった消しゴムの滓を手でかき集め、指先で擦りあわせるようにひとまとめにした。
 一騎が書いたもの、そして一騎の名前を取り込んだものが、黒ずんだ一つの塊に集束していく。
 ぞっと鳥肌を立てて、一騎は塊になった消しゴムの滓を払いのけた。滓はポトリと床に落ち、そのまま沈黙した。とっさに立ち上がり、駆け寄って落ちた滓を上履きの底で磨り潰す。

――いなくなりたい。

 それは、一騎がずっと抱えている想いだった。
 ザリザリと、何度も一騎は滓を踏みつけ、踏み躙った。痕跡一つ残さぬよう。そう、まるで最初からどこにもいなかったかのように。
 脳裏で、白いパーカーが揺れる。あの、シミひとつない真っ白な。一騎はもう、あの白には届かない。

――いなくなりたい……どこからも。

 泣き叫びたい気持ちで、ただただ声もなく強く願った。ほかにはもうなにもいらない。だから、どうか。
 床に擦りつける動作を止め、上履きを退けた先を見下ろして呻く。
 一騎の思いをあざ笑うかのように、黒ずんだ消しゴムの滓は、どこまでも醜く教室の床にこびりついていた。


2020/04/10 up
文庫ページメーカーより再録(09/01)
文字書きの為の言葉パレット2:10…「消しゴム」「主体」「集束」より。
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