まかべさんちの梅酒


「よしっと」
 ぐっと身体を伸ばしながら立ち上がる。目の前に用意したものをもう一度確認すると、部屋を出て階段を下り、一階の作業場にいる父さんのところへ向かった。ひょっこりと覗けば、首にタオルをかけ、タンクトップに上半身を包んだ見慣れた父親の背中がある。一心に土に触れているそこに声をかけた。
「父さん。準備できたぞ」
 轆轤を回す手がピタリと止まる。ん、と唸るような返事が返ってきた。
「…やるか」
 父さんの声に頷き、俺はああと笑った。


 ――6月。この時期になると我が家では青梅を買ってくる。梅酒を造るためだ。別段、この竜宮島では珍しいことじゃない。自給自足が基本の島だから、各家庭でも何かしらの保存食を作ることが多く、季節ごとに準備や仕込みをする。それは果実酒だったり、味噌だったり、漬物だったり、乾物だったりといろいろだ。
 居間には、きれいに洗い、あく抜きを終えた梅がいくつものざるにてんこ盛りになっていた。こうして見るとそこそこの量だ。
 それから滅菌消毒した瓶と布巾。あとは氷砂糖。それに焼酎。
 梅の量に父さんもちょっと怯んだらしい。まじまじと見つめてぼそりと呟く。

「こんなに多かったか」
「今年は増やした。溝口さんにも多めにやりたいって言ったの、父さんだろ」
「そうだったか」

 首を傾げながら梅の前にどっかりと座り込む。その父さんに俺は布巾と竹串を手渡した。

「あと梅シロップも作るし。それと今年は梅干しも漬けようかと思って」
「梅干しか」
「聞いたら、なんか自分でも作れそうだったし」

 俺も父さんもそこそこ食べるし、なんなら作ってもいいなと前々から思っていたから、とりあえず物は試しでやってみることにした。上手く行ったらまた作ろう。
 買ってきたのは15kg分だ。梅酒用に8kg、梅シロップ用に4kg。残りの3kgを梅干しにするけど、この分は熟してから使用するから、梅の色が青から黄色に変わるまでもうしばらく放置だ。
 父さんが作るのは梅酒だけだけれど、俺は梅シロップも一緒に仕込む。こっちは処理した梅を一度凍らせてから使用する。実際に漬けるのは明日の仕事になるだろう。これからの夏の暑い時に、梅シロップで作った冷たい梅ジュースは、けっこう喜んでもらえるんじゃないかと思う。かき氷やアイスにかけてもいい。
 父さんの横で梅酒作りを手伝っているうちに、ふと思いついて作り始めたそれが思いの外自分でも気に入って、楽園でバイトを始めるようになってからは多めに作るようになった。いくらかは知り合いに分けたりもする。去年、瓶詰にしたシロップを手渡したときの遠見の様子を思い出して、思わず笑みが零れた。

 ――今年は、暉にも分けてやるか。

 この前から西尾家の双子の片割れである暉が、楽園でバイトに入るようになった。バイトの初日、俺に挨拶した口調が、まるで果し合いにきたみたいな言い方で、なんだか懐かしいなあと思ったのを覚えている。いや、あいつはバイトに来たんだけど。
 最初こそあまり目も合わなくて、表情もぎこちなくて、こいつ少し前の俺みたいだなあと考えていたら、遠見が面白そうな顔で俺を見ながら、『似てるけど、ぜんぜん似てないよ』と言った。遠見の言ったとおりで、我武者羅な勢いで仕事内容を覚えた暉は、最初のぎこちなさはどこへやら、今じゃちゃきちゃきとホールスタッフをこなしつつ、調理補助もやってくれる。おかげで作業効率が前より格段に上がった。ただ、俺への態度はあいかわらず果し合いを挑む勢いだ。最近はそれが楽しいと言ったら、多分すごい顔で睨まれる気がする。遠見にはとっくにばれている。梅シロップをやったら、あいつどんな顔をするんだろう。
 そんなことをつらつら考えながら、俺も梅の処理のために座布団の上に座った。

「じゃあ、父さんはそっちのざるから。俺はこっちのやるから」
「わかった」

 大まかに分担を決めれば、あとは黙々と作業をするだけだ。父さんが梅を手に取るのを目にして、俺もざるに手を伸ばした。
 父さんと二人で梅のへたを取り除き、滅菌した瓶に氷砂糖と交互に詰め、最後に酒を注ぎいれて蓋をする。俺が物心ついてから変わらない、馴染んだ作業だ。
 もともとは母さんが造っていたものだという。その梅酒造りを、父さんは母さんが死んだあとも引き継いだ。
 俺が大きくなってからは、俺の方が梅や必要な材料を準備するようになったけれど、二人で作業をする習慣は変わっていない。
 梅についた水気を布巾できれいに拭ってから、竹串を使ってへたを出来るだけ綺麗に取り除く。単調な作業をひたすら繰り返しながら、一年が経つのは早いもんだなあと、今更しみじみ思う。
 去年の6月は俺の目がほとんど見えていなかったから、父さんが主体になって仕込んでいたし、その前の年は俺がそもそも家にいなかった。同化現象を抑えるために、アルヴィスで生命維持装置に入っていたからだ。こうして父さんと面と向かって梅酒を作るのは随分久しぶりな気がした。
 作業中、父さんとの会話はほぼない。これも毎回のことだ。以前より多少会話は増えたとはえ、俺と父さんが必要以外のことを口に出すことはあまりない。基本的になんというか相変わらずだ。互いにウィットに飛んだ会話とかいうものが得意でないのを知っているからだ。ただ、間に落ちる空気は変わったと思う。言葉がなくても居心地の悪さや緊張感を覚えることはなくなった。いつも通り二人で黙々と梅のへたを竹串でほじくりだす。
 そういえば、なんで俺は梅酒造りを手伝うようになったんだっけ。普段と違う作業をしている父さんが気になったから。転がっている梅の形や色が面白かったから。あと、そうだ。氷砂糖だ。俺が梅を処理する父さんの近くをうろうろしていると、口を開けろと言われて、それから放り込まれたのが氷砂糖だった。固くて、仄かに甘くて、でも飴玉とは違う不思議な食感。
 普段とは違う食べ物、それを父さんが俺にくれたこと。
 俺は、それがなんだか嬉しくて仕方なかったんだと思う。だから、梅酒造りは俺にとってちょっとした「特別」になった。
 少し手を休めて、傍らに用意してある袋から氷砂糖を取り出す。
 手に取った氷砂糖を光にかざせば、かすかに緑みを帯びて淡くきらめく。少し同化結晶に似ているなと思う。
 同化結晶の緑の方がもっと美しく、澄んでいるけれど。あれを口に入れたらどんな味がするのだろう。自分から落ちた欠片さえ、そういえば拾ったことはなかった。不謹慎な考えにぼんやりとした背徳感を覚えながら、氷砂糖を口の中に放り込む。唾液が絡むうちに、仄かな甘さがじわじわと染み出してくる。しばらくごりごりとした食感を味わいながらガリリと歯を立てた。口の中で砕ける砂糖に、ふと胸がひきしぼられるような感覚を覚えて、ああ噛まなければよかったなと後悔した。

「一騎」

 名前を呼ばれて、はっと現実に引き戻される。父さんを見れば、手元にある梅の処理はすっかり終わっていた。

「あ、ごめん。じゃあ終わったやつから瓶に入れてくれ。俺もすぐ終わらせるから」
「そんなに急がなくてもいいぞ」

 このあたりの作業はそれこそ父さんも馴れたもので、処理の終わった梅を、氷砂糖と交互に丁寧に瓶に詰めていく。焼酎の紙パックを取り上げて、慎重に瓶に注いでいくのを俺はなんとなく目を細めて見つめた。
 せっかく隣で手伝っても、俺は未成年だから出来上がった梅酒を飲むことができない。竜宮島は昔の日本の慣習に倣って、成人年齢を二十歳と定めている。それが少し勿体ないし、当たり前だと納得する自分もいるし、やっぱりもどかしくもある。
 そんなわけで酒の味が分かるはずもないけど、俺は小さい頃、間違って酒を飲み、そのままひっくり返ったことがあるらしい。総士が言っていた。
 顔を真っ赤にして笑い続けた挙句にぱったり倒れた。
 総士は俺がおかしくなったと思って大慌てだったらしい。パニックになりながら、家中の介抱道具を引っ張り出し、遠見先生に連絡を入れ、父さんを呼んだところが総士らしいけれど、ほとんど泣く寸前の顔だったという。 これは最近になって父さんが教えてくれたことだ。夕飯を食べに来ていた総士が俺の隣で死にそうな顔をしていた。父さんとしては、総士は昔からしっかりしていたってことを言いたかったらしいけど、多分絶対に伝わってない。
 俺のメモリージングが解放されるずっと前からアルヴィスで働いてきた父さんだから、他にだって俺が知らないような総士のあれこれを知っているんだろう。俺が総士と話せずに過ごしていた間のことも。
 俺はというと、酔っ払った時のことはよく覚えていない。ただひどく楽しい気持ちで、ひたすらけらけらと笑っていた気がする。ええと、そうだ。確か総士が3人くらいいた。総士が3人もいたら、どうやって遊べばいいんだろう。でも頭のいい総士が3人になったっていうことだから、いろいろ難しいことがあっても、すぐに解決するだろうな。それってすごいよな。でもどう会話したらいいかやっぱりわからないな。総士が3人なら、俺も3人いた方がいいのかな。そんなことをぐるぐる考えていた。
 …うん、すごいな。俺は確かに酔っ払っていたらしい。
 お前は酒が飲めるようになってもあまり飲むなと、ついこの前も総士が苦い顔で釘を刺してきたところを見ると、総士にとってはトラウマかなにかなのかもしれない。

「酒を飲むときはとにかく注意しろ」
「そんなこといっても、昔から料理で普通に酒は使ってるしな」
「そ、そうか…」
「アルコール成分は飛んじゃうし」
「まあ、そうだな」
「あ、たまに父さんの日本酒を拝借するときがある。ちょっといいやつ」
「おい、一騎」
「少しだけ味見をするときもある」
「一騎っ!」

 あまりに真剣な顔で声を上げるものだから、思わず笑ってしまった。

「お前、真面目だなあ」
「そういう問題じゃない」

 憮然とした総士の機嫌を宥めるのには多少の時間がかかったけど、せっかくだからと次に夕飯を一緒に食べた時に粕汁を作ってやった。ほら酒粕使ってても大丈夫だろというつもりだったけど、総士は驚きを通り越して呆れた顔をしていた。粕汁はきっちり完食していた。
 食後、父さんの晩酌に付き合って酌をしている総士を傍らで見ながら、総士も酔ったりするんだろうか、なんていうことをぼんやり考えた。酒に強いんだろうか。それとも弱いんだろうか。弱かったらいいのになとこっそり思う。俺が酒を飲んで笑うタイプなら、総士は泣けばいい。あいつはいつも絶対に涙を見せないから。飲み込んで胸の奥にしまって、抱え込んで誰にも見せたりしないから。酒を飲んだ時くらい、少しだけ俺に見せてくれたらいい。俺だけじゃなくて、どうせならみんなに介抱されたらいい。剣司はどうだろう。咲良は、それにカノンは。遠見は強そうだな。いや、その逆で弱いかもしれない。
 遠見が初めてファフナーに乗った時のことを思い出す。それこそまるで酒に酔っぱらったみたいになって、けらけらと明るく笑い続けていた。一方的に絡まれてどうにもできなくて、総士に助けを求めても手を差し伸べてはくれなくて、本当に弱り果てたけれど、無邪気にはしゃぐ遠見は今思い返しても可愛かった。
 遠見をファフナーに乗せたくなくて総士とあれこれ悩んだり考えたことを笑い飛ばされているようで、同時に遠回しに慰められたようで、やっぱり胸が苦しくなったことを覚えている。

『あたしはだーいじょうぶ!あはは、一騎くんったらおっかしいの。皆城くんもへんな顔!』

 遠見が俺と総士を見て、そんなことを言って笑ったから。

――ね、あたしはだいじょうぶでしょう?

 遠見の目がそう、繰り返していたから。


 梅酒造りで面倒なのは梅の処理くらいで、それが終わってしまえばあとは簡単だった。父さんと二人で全ての梅を氷砂糖と一緒に詰め、焼酎を注ぎいれてしまうと瓶の蓋を閉じてそれで終わりだ。瓶は台所にある戸棚の下に並べればいい。
 同じ体勢で作業をしていたからか、拳でトントンと腰を叩きながら身体を伸ばしている父さんを見上げて声をかける。

「あとは俺がしまっとくから父さんはもういいよ」
「道具は俺が片付ける」
「わかった。じゃあ頼む」

 新しく作った梅酒を保存する前に、去年作った梅酒の瓶の確認をした。
 戸棚の下に保管してある瓶を引っ張り出す。梅を取り出すためだ。だいたい一年経つと漬けていた梅は取り出してしまう。取り出した梅は、今年もジャムにすることにした。これも楽園で使えるだろう。どう使うかは、零央に聞いてもいい。あいつはお菓子作りのセンスがあるから、多分俺なんかよりもいい案を出してくれるだろう。ミカド屋さんに行ったとき、たまたま試作品だっていう息子の洋菓子を試食させてもらって、びっくりしたことを思い出す。それ以来、楽園で出すデザートを頼んでいるけど、作るたびに上達しているからすごい。どんな風に使ってもらえるか考えるだけでも楽しみになった。
 基本的に作った梅酒はほとんど一年かけて飲みきってしまうけれど、古い瓶も幾つかある。蓋に貼りつけてあるラベルを撫でては、日付を確認する。中には、俺が昏睡状態でアルヴィスのカプセルに入れられていた時のもある。2147…俺が蒼穹作戦からたった一人で竜宮島に帰りついた翌年を示す数字。意識もない中でただ総士を待っていたときの。この年に漬けたのは、どうもこの小さな一瓶だけらしかった。そしてその瓶は飲んだ形跡はおろか、封を開けた様子さえなかった。漬ける前より二回りほど小さくなった梅が瓶の底に沈んでいる。
 初めてそれを見つけた時、たった一人でも父さんはちゃんと梅酒は作っていたんだな…一瓶だけだとしても習慣を守ってたんだなと知って、嬉しいような胸が苦しいような気持ちを抱いたのを覚えている。
 漬かって3年になる梅酒の瓶を、俺はそっと持ち上げて小さく揺らした。去年漬けたものより一段深い琥珀色の液体を眺めてから俺はそれを戸棚へ戻した。この瓶はこの先も開けられることなく、このまま時間を過ごすんじゃないかなという気がしている。
 その奥に、特別に取り分けられた梅酒の瓶があるのを俺は知っている。俺は、棚の奥を覗き込んで、少し考えてからその瓶を引っ張り出した。
 それは母さんが作った梅酒だった。
 もう16年ものにもなる母さんの梅酒は、いくつかある梅酒の中でもひときわ色が濃く、揺らすととろみを帯びている。
 きっちり封をしたこの瓶は、年に一度だけ蓋が開けられる。母さんがいなくなった日に。
 父さんが自分の手で開け、母さんの作った器に注いで、ロックでちびりちびりと舐めるように飲むのだ。毎年こうするのだと、父さんが俺に言ったことはない。俺の前で飲んだこともない。ただ、部屋で静かにそうしているのを、昔俺が少しだけ開いていた襖の間からたまたま覗いてしまっただけだ。
 俺は何も言えないまま少し立ち尽くした後、音を立てないようにして父さんの部屋の前から自分の部屋に戻った。布団の上で足を抱えて蹲りながら、いつまでも父さんの背中のことを思い出していた。
 翌年も、その翌年も同じだった。それが父さんの習慣だった。
 母さんの写真を前に、ゆっくりと時間をかけて梅酒を飲んでいるとき、父さんは母さんと会話しているんだろう。島のこと、みんなのこと、そして多分俺のこと。

「だいぶん、減ったな」

 取り出した瓶を見つめてそう呟く。いつか、全部がなくなる日が来る。それは当たり前のことだ。形あるものは必ず消える。母さんが生きたこと、梅酒を作っていたこと、その梅酒を今も父さんが飲んでいること、その事実と記憶は、俺や父さんがいる限り消えることはないけど、目に見えるものがなくなっていくのは、やはり少し寂しいような気がする。
 あとどれくらい持つんだろうかとぼんやり考えていると、憮然とした声が響いた。

「お前の分も残してある」

 いつの間にか片づけを終えた父さんが戻ってきていた。
 俺は呆気に取られて父さんを見て、それからもう一度梅酒を見た。

「俺の?」
「そうだ。母さんが作ったものだ。お前も飲まなきゃいけない。当たり前のことだろう」

 そうやたら重々しく言うものだから、俺は数回瞬きを繰り返し、さらに数秒あとに吹き出した。

「…ふっ…あはは!」
「なんだ、一騎」
「いやごめん。うん、楽しみだな」

 なんだ。俺の分もあるのか。残してくれてるのか。
 嬉しかった。この人は、俺が大人になることを考えてくれている。こんなことを口にすれば、それこそ当たり前のことだと怒られるだろう。だけど、俺はまったく思い至ってなかったのだ。

 ――俺、ものすごく親不孝なんだろうけどな。

 自分が選んできた道も、選ぶことで父さんにぶつけてきた言葉も、全部全部覚えている。消えることじゃないし、消していいものでもない。
 こんな俺に、この家が帰る場所だ。ここに帰って来いと、言い続けてくれるのは父さんだけだった。俺を土のついた不器用な手で育ててくれたこの人だけだった。

「なあ。俺が酒が飲めるようになったら父さんが作ったのも飲ませてよ」

 今日父さんが飲むだろう以外の瓶をすべて戸棚に並べ直し扉を閉じてから、横に立つ父さんを見上げる。父さんが俺を見てかすかに目を細めた。

「ああ」

 力強く頷く。

「もちろん飲ませてやる」

 父さんの作った器と、母さんの作った器と、そして俺の作った器と。それらを並べて酒を飲む。
 思い浮かべるだけで心が躍る。

――あと、4年。

 胸の内で小さく呟く。それが、数日前知らされた俺の生存限界だ。
 正直、その数字をどう捉えれば良いのか未だにわからない。思ったより長いと思ったし、そんなに生きられるのかとびっくりした。一瞬先の命さえ考えられずにファフナーに乗ってきた俺にとって、来年のことを考えられる今の状況というのは、馴染みがなさすぎて未だに違和感しかない。その通りに口走って遠見先生が愕然と目を見開いたのを視界に収めてしまって、しまったなと思った。きっとまた泣かせてしまうだろう。先生は優しい人だから、自分の無力を思って、きっと一人幼い子供のように泣くんだろう。咲良が言ったように。そう考えたら、申し訳なくて仕方なかったけれど、あれ以上のことを俺が言えたとも思えなかった。
 だって、本当に明日さえ望んだことのない命だった。総士が待っていろと言ったから、どうにか繋ぎ止めていたような命だった。ただ、今は違う。今日があって、明日があって、多分明後日もある。
 こんな穏やかな毎日がどれだけ続くのか、どこにも保証はないけれど、俺が今生きる時間は、ただ一人で孤独の闇を泳いでいた日々に比べてとても優しい。優しすぎて、途方に暮れてしまうくらいに。
 本当に俺があと4年生きられたとして、そうして過ごした4年後の今日、俺は笑ってそこにいるんだろうか。やっぱり4年は短かったと泣くんだろうか。覚悟したり、するんだろうか。俺はいつだって覚悟しているつもりで、それでも本当に覚悟ができていたことなんてなかった。
 怖いものは怖いし、痛いものは痛かった。何かを誰かを失うのは嫌だった。誰にも、言えなかったけど。それでもファフナーに乗りさえすれば、すべてを心の奥に封じ込めて、ただ目的のためだけに動くことができた。意識の向こうには総士がいて、俺の弱い部分も汚い部分も全部知った上で俺に命令をくれた。でも、今の俺には、その手段がもうない。ザインは封印されて、シミュレーションでさえ搭乗が許されない。だから今どれだけ考えても想像がつかなかった。
 指の根元にくっきりと刻まれたニーベルングの接続痕にちらりと目を走らせ、ついで手元の梅酒の瓶を見た。
 母さんの遺したものを思う。それに向き合う父さんを思う。梅酒は、父さんにとって母さんの命の一つの形なんだと思う。
 梅と酒と氷砂糖と。これだけを瓶に詰めたら梅酒になるなんて単純なようでいてとても不思議だ。総士なら、その仕組みと過程を詳しく教えてくれるんだろう。俺に分かるのは少しのことだけだ。この瓶の中で何かが生きていて、形を変えながら命を繋いでいるということだ。そして年経るごとに深みを増していく。これもまた生命の循環の一つなんだろう。
 俺が作ったものも、ここに残り続けるんだろうか。父さんが母さんの作ったものを今も大切にし続けているように。
 残していけるんだろうか。そんなふうに存在を繋いでいけるんだろうか。俺の生きた意味は…証は消えずに残るんだろうか。
 なあ、総士、総士。
 そのとき、俺は…俺たちはどこにいるんだろう。
 今日漬けた梅酒は、来年には飲みごろになる。来年の9月に、俺は二十歳になる。今作っているものが、飲めるようになる。命が続くならば。俺と、そして総士や遠見、剣司も。少し遅れて咲良も。
 今年多めに梅酒を仕込んでしまったのは、同じように二十歳を迎えるあいつらのことを思ったからでもある。カノンはもう一年先になるけれど。その頃には暉が、里奈が、芹が、広登が…。
 考えたらきりがなくて、考えるうちに困って、結局うやむやになってしまった。
 明日のことを考えるのは、今は楽しい。明後日のこと、明々後日のこと。来週来月、そして来年。だけど、4年後となると途端に全部が現実味を失って朧気になる。
 二十歳という年齢。子供から、大人へ変わるということ。人に、成るということ。
 竜宮島は、大人と子供の区別を明確にしている、と思う。年齢の差を視覚的にも構造的にも。とりわけアルヴィスでは、制服できっちり分けている。ファフナーパイロットである俺達より、島にいるどんな大人たちよりずっとアルヴィス上層部に関わってきた総士でさえ、着ているのは子供用の制服だった。
 俺達は島のために戦うことを義務付けられ、そのために生きてきたけれど、それでも「子供」だった。大人たちは、俺たちを「守るべき存在」として「子供」でいることを許してくれた。俺達に島を守らせながら、命を落とす場所へ追いやるというひどい矛盾を抱えながら、それでも「子供」は「子供」だった。そんな日々と、永遠に決別する日が来ようとしている。
 俺は4年後の自分の命について考えることはできないけれど、来年のことは頭をよぎる。
 「大人」になったとき、俺は何を見るんだろうか。父さんたちが見ているものを、同じ目線とはいかなくても、今より近い立場で目にすることができるようになるんだろうか。今はファフナーに乗ることもできない俺に、大人になることでできることがあるんだろうか。大人に、なれば。

「父さん」
「なんだ」

 気づけば口から零れ落ちていた。

「俺、早く大人になりたい」

 なりたい。早く。俺がまだ何かをできるうちに。俺が俺でいられるうちに。かつて総士を奪われたときに抱いた焦燥より、もっと穏やかな、それでも同じくらい切実な想いだった。
 どうか。早く。

「…そうか」

 俯いたままの俺に、父さんはそう言った。
 それきり、父さんから返事は返ってこなかった。ただ大きな手で髪の毛をぐしゃりとかき回された。それだけだった。でも充分だった。胸に染み入るような深い声が、きっと父さんの想いの全部だった。指先を握り込み、そっと目を伏せて俺は微笑う。
 限りあるからこそ、一歩でも先を生きたかった。自分の足で、意思で進みたかった。
 意識の奥で、虹色に輝く白亜の怪物が俺を呼ぶ。そこに手を差し伸べたい衝動を、今少しの間だけ押し殺す。
 この命がまだ大人になることを許してくれるというのなら、生まれ育ったこの島で、総士が戻ってきたこの世界で、大切な仲間たちと共に、そして誰よりもこの父のそばでそうなりたいと密やかに願った。


- end -


2015/11/06 pixiv up
真壁生誕祝いのつもりでした(遅)
↓本文のどこにもないCP成分↓
「昔酔っぱらったとき、総士が3人になった」
「3人…だと」
「3人もいれば面白いよな」
「僕は3人もいらないだろう!」
「でもきっと便利だぞ。お前が研究してるとき、別の一人がうちで飯食えるし。もう一人は睡眠もとれるし。俺も寂しくないし」
「悪かった。いろいろ突っ込みたいところは多いがとにかく僕が悪かった。とりあえずお前は絶対に酒を飲むな」
「いや、でもせっかく20歳になったし」
「おい」
「飲みたい酒もあるし」
「一騎」
「というわけで飲む」
「一騎、よせ!一騎!!!一騎イイィィィィィ!!!」

次回:マカベと3人のミナシロ
(続かない)

↓本文のどこにもない真壁飲酒成分↓
「はは、ショコラはずいぶん毛がふさふさしてるな」
「かっかかかかかずきっ!!!!?」
「おい、一騎やめてやれ。そいつはカノンだ」
「何言ってんだ剣司。ショコラはショコラだろ」
「かっ…一騎が望むなら…私はショコラになってもかっかまわな…」
「落ち着けカノン!!おい、誰か一騎を引き剥がせ!!カノンが倒れる!!総士、お前なんで悲愴感丸出しの顔で立ち尽くしてんだおい!!」
「ショコラはいい子だなあ」

一騎はすごいザルか酔っ払ってもまったく顔に出ないイメージ(=大事故)
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