椿の咲くころに


 どっ、と雪の上に花が落ちた。
 空気を震わせたかすかな…それでいて心臓に響くような重たさを持つ音に、総士は足を止め、かすかに目を細めた。
 真っ白な雪に、真紅の花が落ちている。それはヤブツバキの花だった。雄しべの黄色との対比も美しい。色の鮮やかさに息を呑み、身を屈めて指を伸ばそうとして、総士はそれを止めた。このままにしておくべきなのだと、自分の心が囁いたからだった。
 コートのポケットに両手を入れたまま、ただ静かに花を見下ろす。自然と吐息が零れた。吐きだした息が、肌がひりつくほどに冷えて澄みきった朝の空気と混じり、白い蒸気となって空へ消えていく。
 ツバキは花びらを散らさない。花ごと落ちる。
 その潔いばかりの命の一つの終焉に、この花の美しさがあった。
 落ちた花は、やがて萎み、虫に食われ、華やかな色合いを鈍らせて、そうして土に帰っていく。
 土になり、そうして新たな命を芽吹かせるものになる。
 ――つばき。
 自分のたった一人の妹のように。
 人間が数十年かけて行うサイクルを、花のように短く生きて死んで、そうして生まれる命。それを彼女は選んだのであり、これから生まれる彼女も選んでいく。生と死の循環を、それによってもたらされる多くの事柄を島のミールに教え続けるために。
 皆城乙姫がミールに帰って、もう四年がたった。いつまでも実感がわかないものだなと、総士は自分に苦笑する。二年をフェストゥムの側で過ごしていたせいか、ただでさえ時間の経過に疎く、新たなコアとして生まれ変わった乙姫の姿を岩戸のコアギュラの中で目にしても、ときどき彼女の声を聞くような気がするのだ。今も乙姫は、島の一部としてここに存在しているのだから、きっと錯覚ではないのだろうけれど。
 胸を刺すこの感情が、寂寥と呼ぶべきものであることを総士は理解している。小さく笑みを零し、雪の上の真紅をもう一度見つめてから、立ち去ろうとしたときだった。
「総士先輩?」
「立上か」
 防寒具にしっかりと身を包んだ立上芹が、そこに立っていた。
 思いもかけぬ邂逅に相手の名前を呼ぶと、頬を赤く染めて白い息を吐きだしながら芹は笑った。浅く息を弾ませている。神社からの階段を駆けて下りてきたのだと知れた。
「珍しいですね、お散歩ですか?」
「ああ、久しぶりに休みができた」
「それでお散歩。寒いのに」
 しかもこんなに朝早くにと、どこか面白がるような声に、何と返したものか迷う。お互い様ではないのかと言いたくはあったが、より珍しいのは確かに自分の方だった。
 予報通り、二日ほど降り続いていた竜宮島の雪は、今朝になって止んだ。地上がどうなっているのか確かめたい気持ちもあったし、ただ冷えた空気を吸い込みたかったのかもしれない。積雪二十センチという予報は、竜宮島には珍しいものであり、思えば自分も少しだけ浮かれていたのだろう。幼い頃、皆で雪遊びをしたことを思い出したくらいには。
 芹の腕には、寒椿があった。さきほど総士が見つめていた鮮やかな赤。まだ切り取ったばかりなのだろう枝葉が瑞々しい。
 しんしんと冷える外にいながら、芹は手袋をはめていなかった。その手間さえ惜しかったのか。彼女がこうして急いているとき、その目がきらきらと輝いているときは決まっていた。総士に挨拶をしながらも、彼女の目はすでにその先を見ている。
 あまりにも真っ直ぐなその想いを隠すこともしない様子に、別の馴染み深い存在がつい重なる。どこか面映ゆく、気恥ずかしささえ覚えるのは、それでいてどうしようもなく心が温まるのは、きっと彼らの抱く感情が、同じ色と温度を湛えているからなのだろう。
 目を細めて、芹に尋ねる。
「見せに行くのか」
「はい。とても綺麗に咲いたから」
 芹ははにかむように笑んで、胸の寒椿を支える腕にそっと力を込めた。
「この色、乙姫ちゃんに似合いそうでしょう」
 彼女は、島のコアに命を見せに行くのだった。皆城乙姫によって維持され、育まれている島の命を、その小さなものからすこし大きなものまで。いかにそれが美しいか、喜びに溢れているか、そのことにどれだけ皆が…自分が感謝しているのかをわずかでも伝えるために。
「はい、総士先輩も」
 腕の中から葉のついた一輪を差し出されて、総士は目を瞬かせた。
「僕にか」
「総士先輩にも分けたって話したら、きっと乙姫ちゃんも喜んでくれます」
「…遠慮なくいただこう」
「ツバキ…わたし大好きなんです」
 総士が赤くかじかんだ指先からツバキを受け取ると、芹は目を伏せて口元を綻ばせた。
「命そのものっていう感じがするから」
 ――なによりも、乙姫ちゃんを感じる花だから。
 いとおしむように寒椿を抱く彼女の姿は、彼女の生きる在り様そのものだった。
「行ってやれ、立上」
 総士は口にした。どんなに苦しくとも一瞬の生を選んだ乙姫が、友達と呼ぶことを許した存在。
芹に対して総士が抱く、誇らしさとほのかな寂しさと、何よりも深い感謝の想いは、乙姫の肉親としての情だ。
 乙姫といてくれたことを感謝している。今も、そしてこれからもそうしてくれるのだろうことに。
 ――とっくの昔に、わたしから離れてたくせに。
 からかうような口調。それでいて、まるで母を思わせる慈愛に満ちた微笑みを浮かべてそういった彼女もまた、自分の道を歩いていた。小さな自分の足で。
「きっと待っている」
「はい」
 行ってきますと朗らかに笑い、芹は真っ直ぐな黒髪をたなびかせて雪道を駆けていった。急ぐな、歩いていけと、声をかける間もなかった。一心に、脇目も振らず走っていく姿は、どこか危うくもあったが、誰の手も、声も彼女を止めることはできないように思えた。堂馬広登なら、落ち着けと苦笑しながら宥めただろうか。乙姫に少しでも、一瞬でも早く会いたいのだと、彼女の背中が語っていた。
 小さくなっていく芹の姿を見送ってから、総士もまた雪が残る道をゆっくりと歩き出した。
 芹が向かったのはワルキューレの岩戸だ。島のコアが眠るコアギュラが設置された、島の中枢。そこに芹が入れるのは、ほかならぬ島のコアが許しているからだと総士はよく知っていた。芹の扱いをどうするべきなのか、アルヴィス上層部も頭を悩ませたが、島に帰還した総士の口添えと願いもあって、芹は島のコアに自由に会いに行く権利を与えられている。二年前のフェストゥムの襲撃の際、コアの代替カプセルに自ら進んで入ったことも大きいだろう。
 仮に、大人たちがどれほど阻止したところで、島のコアが許可してしまえば、障害などないに等しい。それは真壁一騎が知らず岩戸に眠る乙姫のもとへ導かれたように、数々の事例がすでに証明していることだった。
 そして何より総士自身、芹が欠かさず乙姫に会いに行くことに感謝している一人だった。
 兄として、自分がしてやれることなど、ほとんどなかった。それ以上に彼女は島のコアであり、透徹とした眼差しが見つめる未来に、自分を…島を導く存在だった。揺らぐことを許されず、そして揺らがなかった。
 それでも、自分を見上げる幼い顔の向こうに、肉親ならではの優しさと甘えが滲むのを自分は知っていた。お互いにそれを許した。たった一人きり残された家族として。
 一騎とのことさえ仲介し、諦めることも立ち止まることもせずに、短い命を駆け抜けていった。 彼女が島の大気に還ったとき、アルヴィスには風が吹いたという。外部とは切り離された艦内。地上とは異なり、自然の現象など起こりえない完全に制御された空間に、優しい、まるで春の息吹を思わせる風が踊るように人々の間を吹き抜けて行ったという。
 それは、きっと彼女の起こした最後の奇跡であり、祝福だったのだろう。
 ――ねえ、総士。話そう?
 時折口癖のように、乙姫は総士にそう言った。人の身体が言葉を発するとき、息を吸い込み、肺が動き、声帯が震えて音を出す。そのことが奇跡のようで、楽しくてならないのだと言った。
 学校で、芹や里奈と一緒に、自分の声を録音したのだといって、音声データを聴かせてくれたこともあった。わたしはこんな声をしているんだねと驚きながら首を傾げる様子は、年齢相応の人間の少女そのものだった。
 島を知るため、自分が学んだことをミールに教えるため、乙姫はいつも動き回っていた。一つところには留まらず、幼子の好奇心そのもので、目に映るもの、耳にするものをすべてを吸収していった。
 服の脱ぎ着が難しいといって笑い、食事をするための箸がうまく扱えないと喜んだ。走って転んだときも、痛いねと言いながら嬉しそうにしていた。出来てしまった痛々しい擦り傷に、総士が絆創膏を貼ってやったとき、いつまでもそれを上からなぞっていた。
 ――ありがとう、くすぐったいね、痛いけど、優しいね。不思議だね、総士。
 五感で感じるすべてを、乙姫は腕を広げて受け入れていた。
 ――全部が私になるの。
 ――全部で私になるの。
 幸せそうな微笑みさえ浮かべて彼女は言った。生きることすべてを幸福と呼んで。
 ――全部、覚えておきたいな。だから教えて。もっと話して。

 話そう、総士。

 彼女が自分に教えてくれたこと。選択すること。生きる痛みを受け入れること。そして、対話すること。人としてここに存在するための一番大切なこと。自分がフェストゥムではなく、皆城総士であるという事実を証明するために、すべて必要なものだった。
 不意に、会いたいと思った。会って話したいと。顔を見て、声を聞いて、交わす言葉に変化する表情が見たいと。その相手を思い描くより前に声が響いた。
「総士?」
 名前を呼ばれて、目を上げればそこには一騎がいた。コートを羽織り、首元にきっちりとマフラーを巻いている。口から白い息を立ち上らせて総士を見ていた。総士は驚きのあまり、ただそこに立ちつくした。
「ほんとに総士だ」
 きょとんと見開かれた目がくしゃりと細められて、ぱっと笑みを浮かべる。その鮮やかさに眩暈がした。真っ直ぐ、揺らぎなくただ自分だけに向けられる感情に。
 時々、どうしようもなく泣きたくなるようなこの想いをくれるのは今までもこれからもきっと一騎だけだった。
 何も言えずに、それでもなんとか笑みを返した総士に、一騎は躊躇いもなく駆け寄ってくると、総士が手にしているものを見て目を瞬かせた。
「どうしたんだ、それ」
「さっき立上と会ったときにもらった。おすそ分けだと」
「寒椿…ツバキか」
「ああ」
「きっと喜ぶな」
「…ああ」
 何を説明するまでもなく、一騎もまた芹の目的と思いを悟ったのだろう。総士が目を細めて頷くと、一騎が尋ねてきた。
「総士は、部屋に飾るのか」
 そういえばと思い至った。さて、もらったこれはどうしたものか。
 アルヴィスの自分の部屋には、花を飾ることはなかった。特にはっきりとした理由はないが、生きているものを置くことがどうしても憚られた。自分の部屋に、ツバキの赤は…いくらか鮮やかすぎる気がした。とはいえ、せっかくの花を無碍にはしたくない。なによりもこれは、芹がくれたツバキだった。
 どうすれば一番いいのかと考え込んだ総士に、一騎はそれなら、と口を開いた。
「うちに、飾ってもいいか」
「なんだと」
 思いもかけない提案に、総士は目を見開いて、穏やかに微笑む幼馴染の顔を見つめた。それから手元のツバキに目を落とす。ぽつりと声が洩れた。
「…一騎、ツバキは…花ごと落ちる」
「うん」
「花びらを散らすことはしない」
「うん」
 ――いつか、終焉を迎える。花の命が終わる。
「花が落ちたら、そのときは水に浮かべてやろう。花が萎れてきたら…土に埋めてやろう」
 そうしよう総士、と一騎はふわりと笑った。
「だからさ、お前はたまにうちに様子見に来いよ」
「…そうしよう」
 約束だからなと、笑みを浮かべる一騎に総士もまた微笑んで頷く。そうしたところで、ふと疑問を思い出した。
「それにしても、お前はどうしてここにいる」
「いや、俺は…総士に会いに行こうと思ってた。やっと雪も止んだし、うちに来て昼ごはんでも食べないかなって」
 だから、目の前に現れてびっくりしたのだと一騎は笑う。
 ――僕もびっくりした。
「電話でも良かっただろう」
「そういえば、そうだな」
 まるで考えもしなかったというように目を丸くする。
「でも、顔見たかったし。ちゃんと声も聞きたかったし。外にも出たかったし」
 お前にも途中で会えたし結果オーライだと納得している一騎の腕を、総士はツバキを持たない左手で掴んだ。
「総士?」
「一騎、話そうか」
「どうしたんだ急に」
 一騎が呆気に取られて目を瞬かせる。それに構うことなく、総士は一騎の腕を引っ張るようにして歩き出した。一騎が歩いてきた方向。真壁家へと続く道を。
「お前と、話したい気分だ」
「いいけど…」
 一騎は首を傾げながらも総士の足取りにあわせて着いてくる。総士が手を離しても、互いの距離は変わらなかった。雪道に点々と二人の足跡が刻まれていく。
「お前がまた説明してくれるのか?」
興味津々といった様子の一騎に、総士は憮然とした。
「僕だけに話をさせるのか」
「うーん、とりあえず俺もがんばるよ」
「とりあえずとはなんだ」
「あんまり得意じゃないし」
「なら、昨日作った料理の手順でもいい」
「なんだよそれ」
「お前の料理の手際は興味深い」
「…なあ、総士」
「なんだ」
 隣を歩く一騎に目を向けると、明るい鳶色の双眸が総士を見ていた。その目が細められる。嬉しそうに。
「俺もさ、お前と話したかったよ」
「…そうか」
 真紅のツバキの花を手に、二人並んで雪道を辿って行く。
 ――全部で僕になる。
 ――全部が、僕になる。
 ――僕も、全てを覚えておきたいと思う。…乙姫。
 この時間が、ここで紡がれるものが自分になる。その全てで、自分というものが形作られるのだ。そして、それはいつまでも残り続けるものなのだ。
 腕の中のツバキの真紅を目に焼きつけながら、総士は噛みしめるように胸に刻みつけた。


2022/07/11 up
2016/01/31発行の短編集『とおりガラスのうちせかい』書き下ろし分より再録。
▲top