トロイメライ


 ジリリと電話のベルが鳴り響いた
「はい、喫茶楽園です。…剣司か?」
 電話を取った一騎が驚いた声を上げるのを、カウンターでコーヒーを手にしていた総士もまた目を開いて見つめた。
「ああ、うん。わかった。大丈夫だ。そっちに着くのもいれて40分くらいかかるけどいいか? ああ…そうなのか。じゃあまたあとで」
 そう言って受話器を置く。リン…と涼やかな音が響いて消えた。
 総士はカップをソーサーに置くと一騎に尋ねた。
「剣司か。どうした」
「ん、出前」
「どこに」
「学校。昼食取る時間がないままこれから職員会議らしい。終わったら何か食べたいってさ。咲良の分もって言われた」
 腕の時計を見れば、もう13時を回っている。職員会議がどれくらいかかるか分からないが、彼らが落ち着いて休憩を取れるのは14時を過ぎてからになるのだろう。
「忙しいな」
「学校、新学期始まったばかりだろ、確か」
 一騎の指摘に、そういえばそうだったと思い出す。4月初めの学校ほど慌ただしいものはない。あれほど馴染んでいた学校の年間スケジュールがこんなにも遠くなっていることに総士は自分でも驚いた。
 道理で客も少ない。ゆっくりとカフェで食事やお茶を楽しむにはまだ早いということだろう。春の浮き立つような空気は、そのまま竜宮島に住む人びとにも息づいて、新年度という響きが孕む新鮮でそしてどこか晴れやかな緊張感を漂わせていた。
「総士は新しい自分に会ったりしたか?」
 キッチンに戻る一騎に唐突に尋ねられて、総士は目を瞬かせた。こちらを見る一騎の顔は、どこか面白がるような気配を漂わせている。
「なんだそれは」
「遠見がさ、新学期になるたびに言ってたんだ。鏡を見たら全然違う自分がいるんじゃないかって。とくに新年度はやっぱ特別らしくって」
 懐かしむように一騎が目を細める。
「俺はそういうのよく分からなかったし、遠見も気分的なものだったんだろうけど、なんとなく新学期になるたびに俺も鏡を見るようになってた」
 高校を卒業してからも、学期が新しくなる時期にそのやりとりがふとよみがえるのだという一騎の声を聞きながら、総士は今朝身だしなみを整えた時の鏡の中の自分を思い返した。
「…いつもの自分と変わらなかったな。お前はどうなんだ」
 一騎は、ふっと柔らかく笑んで目を伏せた。
「俺も一緒」
「そうか」
「残念だった。それから…ちょっと安心した」
「…そうか」
 総士は微笑んで、コーヒーの最後の一口を飲み下した。
「店はどうする」
「今日はこのまま店閉めていいって溝口さんに言われてるから、出前に行ってそのまま家に帰るよ。剣司も休憩までにまだかかりそうだから、届けるのはゆっくりでいいって言ってたし、歩いて学校まで行く」
「そうか。なら僕も行こう」
 総士の言葉に、一騎が目を真ん丸に見開いた。
「行こうって、学校にか? お前も?」
「駄目か」
「いや、いいけど。なんか変な気分だな」
「なんとでもいえ」
 学校という響きに、ふと心惹かれたのは事実だった。自分たちが高校を卒業したのは去年のことだ。卒業証書は筒に入れたまま大切にしまっている。卒業以降、総士が竜宮島学園へ足を向けることはほとんどなかった。一騎が行くのならついていこうというその思いつきは、自然に浮かび上がったものだった。
「それで、出前は何を持っていくんだ」
「どうしようかな」
 そう言いながら一騎は冷蔵庫を開いて中を確かめる。
「ランチの残りも少しあるからそれ使うか…軽く食べられるのがいいだろうし、サンドイッチかな」
「やることがあれば手伝おう」
「じゃあ、とりあえずコンロのミネストローネあっためてくれ」
 さっそく冷蔵庫からタッパーを幾つか取り出し、パンを並べ始めた一騎に総士は頷いて立ち上がった。壁にかけてあるスタッフ用のエプロンをつけ、キッチン側に入る。時折流れで手伝いに入ることもあるため、総士自身としては慣れたものだった。
 総士がミネストローネの入った鍋を慎重にかき回して温める横で、一騎は食パンの上にバターとマスタードを効かせたマヨネーズを薄く伸ばし、敷いたレタスの上にランチの残りだったポテトサラダを挟んでいく。更には手早く焼いたオムレツにケチャップを塗ってオムレツサンドに仕上げた。足りない肉気は、残っていたハンバーグの種を肉団子にしてミートボールを作ることで補うことにしたらしい。それらを恐ろしい手際の良さで済ませると、用意した弁当箱に丁寧に詰めていく。ほとんど手元を見ていないのではないかと思うほどの鮮やかさだ。実際に見ずとも相当のことが出来るのは実証されており、同化現象が引き起こした結果とはいえ、視力低下の経験は一騎のスキルを更に押し上げたのだった。
 すべてを作り終え、温め直したミネストローネを保温容器に入れるまでにかかった時間は20分ほどだった。ちなみに出来上がったサンドイッチは、総士の厳密な計算により完全なる均等に切り分けられた。
 一騎が普段出前に使う岡持ちではなく紙袋に弁当を入れている間に、総士がまだ外に出しっぱなしだった看板を中に入れる。片付けが済んでいることと火元を再確認すると、二人で楽園を出て扉を閉じた。鍵はかけない。もともと閉鎖的で見知った人間ばかりが暮らす上、すべてがシステムによって管理されている竜宮島では、防犯のために鍵をかける意識が薄いが、とりわけ楽園に関してはいつからか暗黙の了解になっていた。ここは島の皆が集う《楽園》であり、それ以上に大切な仲間の帰る《家》だからだった。
 一騎は、外に掛けられた小さな黒板の前に屈みこみ、《閉店》と書き入れると、目を細めて楽園の外観を見上げた。その横顔を眺めてから総士も同じようにする。春先の柔らかな風が二人の髪の毛をふわりと撫でた。
「行くか」
 一騎が総士を見て笑い、総士も微笑んで頷いた。



 竜宮島学園は、島でもかなりの高台に位置している。海側から山へ目を向ければ、大体のどの場所からでも校舎を見上げることができた。
 二つに分けて紙袋に入れた弁当箱をそれぞれぶら下げ、楽園の前を流れる川を渡ってから、川沿いを上へ上へと登っていく。総士にとっては、かなり久しぶりとなる道のりだった。一騎にしても、出前の要請があったところでそう頻繁に訪れる場所ではないだろう。坂道と階段が交互に織りなす急勾配に、運動を怠っているつもりではない身でもやや息が上がる。
 この距離を毎日通えたのは、無尽蔵の子供の体力と、慣れのせいだろう。竜宮島の子供たちの健脚ぶりは、通学路の道で鍛えられた面が多分に大きいはずだ。
 教師たちはアルヴィスの通路から出勤していることも多かったと早くから知らされた総士は、事情が事情であるとはいえ、幼心にも不公平ではないのかと感じたのを覚えている。通常よりかなり早くからメモリージングを解放されながらも、表向きはただの一生徒でしかなかった総士は、他の子供たちと同じように毎朝自宅から坂を登って学校へ通ったのだった。急なアルヴィスからの呼び出しにより、通路を通って「下校」するとき以外は。毎日、一騎と一緒に。あの事件からは一人きりで。
 学校に通うことは、竜宮島で育つ子供たちの《役目》だった。坂を登って学校に通い、仲間たちと学び、校庭で遊び、坂を下って家に帰る。いつか《卒業》する日まで。それが定められた日常だった。
 そう、自分たちは毎日この坂を登ったのだ。鞄を背負い、山の中腹に佇む学校へと。学校へ続く坂は最後には一本道となる。島中から登校する子供たちはそこに集結する形で揃って校門へと向かうのだった。一本道の手前、分かれ道が終わるところで一騎と待ち合わせ、一緒に学校へ登校したのはいつが最後だっただろうかと総士は懐かしく思い返す。この坂を、ほぼ息を乱すことなく軽々と駆けて行き来していたのが一騎だった。だが、その日々ももはや遠のいた。幼い一騎が学校への道を勢いよく駆け上がっていく景色がふと思い出され、息が詰まると同時に胸がしくりと痛んだ。思いの外、自分がかつての学び舎に郷愁のようなものを抱いていることに、総士はひそかに驚いた。
 それからもとくに会話もなく、道行く景色に目を向けながらのんびりと歩いていたが、次第に大きく近づいてくる校舎の姿を眩しげに見やって、一騎がふっとおかしそうに洩らした。
「昔から思ってた。なんでこの学校はこんなにでかいんだろうって」
 そう言われて、総士もまた改めてしみじみと学校を見つめる。
 一騎の指摘する通り、竜宮学園は島の規模や居住人口と比較して不釣り合いな大きさだ。もともと小学校・中学校を併設する建物だったが、その頃から教室は十二分に余っていた。高校を増設しても何の問題もないほどに。かつての日本には各地に多く存在したという大学を増設することも可能だろう。ただ、そこまでの教育機関を今の島が必要としていないだけだ。
 総士は学校の外観を目にしながら、かつて自分が聞いたことを思い返した。
「…たまたま耳にしたことで真偽はわからないが、アルヴィス建造時、竜宮島の居住区を設計するにあたって、誰もが真っ先に学校を建築することを挙げたそうだ」
 自宅より、商店街や他の必要な施設よりも先にまず学校をと。そして、その場所はもっとも見晴らしが良く、もっともよく陽が当たり、海と空を綺麗に臨む土地が選ばれた。
「へえ。そうなのか」
 一騎が感心したような声を上げる。
「わざわざ最初から山の上に学校を作ったってことか。正直、もっと海沿いなら通うのが楽だったんじゃないかって思った時もあったけど」
「それは僕もだ」
 羽佐間翔子も、この道のりでなければもう少し学校に出席することが可能だったのではないかと思える。第二種任務を学校に定め、今でもほぼ毎日教員として学校へ行く剣司と咲良は大したものだと考えてしまうほどだ。
「でも、今ならなんとなく分かる気がするな」
 そう笑った一騎を見て、総士もまた微笑んだ。
 大人たちは守りたかったのだ。海に近くては、いつかやってくる敵から子供を守れない。
 敵の襲来を受けたときに逃げ場などほぼないように思える小さな島だったが、山側に位置し、地下シェルターに続くアルヴィスへの通路もひそかに備えた学校は、見た目以上に堅牢な造りをしていることを総士はよく知っていた。
 いつか、この学校が子供達で溢れることが、大人たちの描いた夢だったのだろう。竜宮島は、屈辱と悲しみと痛みのうちに生まれ育った故郷を追われ、多くを失った人々の夢の島だった。
 いつか訪れた戦いのための準備をしながらも、その戦場に育てた子供たちを投入せねばらならないのだとわかってはいても。島の可能性として、島のための道具として子供を育て守ることが自分たちに課した十字架であり使命であったのだとしても、彼らにとってはこの学校こそが最後に守るべき楽園だったのかもしれなかった。


 *


 学校にたどり着いた総士と一騎が校門から中に入ると、まだ十人ほどの男子中学生たちが校庭でサッカーに興じている様子が見えた。その向こうでバトミントンをやっている女子学生もいる。
 見慣れない部外者が校内に入ってきたことに、子供たちはすぐに気づいた。いったい誰が来たのかと遠慮ない視線をこちらに向けて、数人があっと声を上げる。
「あ、一騎先輩だ!」
「ホントかよ」
「なんで、学校に?」
「すっげええ!」
 口々に騒ぐ子供たちの声を受けて、一騎が苦笑しながら肩を竦めた。喫茶楽園でバイトをしている一騎は、島の人たちと接することが多いために顔が広く、年齢を問わずよく知られている。加えて、一騎には在学中に残した様々な記録があった。噂が噂を呼び、もはや伝説とさえ言われているのは周知の事実だった。
 サッカーボールを抱えた少年が、一騎に向かって声を張り上げる。
「一騎先輩! 今度俺たちと海野球してください!」
「いつかな」
「えええぇ」
 不確定な約束はないのも同然だ。あっさりとはぐらかされて子供たちが不満の声を上げる。とはいえ、そこはさすがの子供たちで、あっさりと自分たちの遊びへと戻っていく。切り替えの早さには驚かされるばかりだ。
「さすがだな」
「どうだろうな」
 つい総士が洩らした声に、一騎は軽く笑って答えただけだった。さっさと中へ入ろうとばかりに、校舎の入口へ歩いていく。その姿に何か声を掛けようとして言葉が見つけられず、結局総士は諦めた。
 一騎について教員用入口に向かい、靴からスリッパに履き替える。明らかに部外者であることを意識させられ、何とも言えない居心地の悪さを感じて思わず眉をしかめると、同じくちょうどスリッパを履き終わった一騎と目が合った。
「…なんだ」
「お前こそなんだよ」
「あれ、総士先輩と一騎先輩だ」
 不毛な応酬をしかけたところに驚いたような声を掛けられ、二人して相手に目を向けた。
 こんにちはと丁寧に挨拶してきたのは、柔らかな髪色をした男子中学生だった。見覚えのある顔に、総士はすぐに名前を思い出した。
「…鏑木か」
 中等部に所属する鏑木彗だった。たしか今年の四月で三年生になったはずだ。父母の第二種任務はそれぞれ警察官と美容師であるが、総士はむしろ彼の姉の存在ゆえに、彗の存在をよく認識していた。名前を呼ばれて、はいと笑って頷くのに、続けて一騎が声をかける。
「剣司…っと…近藤先生はいるか?」
「ええっと確か、」
「保健室に残ってましたああ!」
 彗が答える前に、一人の生徒がバタバタを横を駆け抜けながらそう叫んで去っていく。まるで昔の剣司か、堂馬広登のようだなと呆気に取られていると、少し先の部屋がガラリを開いて、白衣姿の青年が飛び出してきた。
「お前ら!! 廊下は走るなって…、あ、一騎!と、総士か?」
 学校へ来た目的の人物がそこにいた。驚いたように動きを止めた相手によく見えるように手にしていた紙袋を持ち上げると、一騎が晴れやかに笑った。
「出前」


*


 通された保健室は、消毒液の匂いで満ちていた。アルヴィスのメディカルルームとはまた異なる、学校の保健室独特の匂いだ。
「悪いなこんなとこまで呼び出して」
「大したことじゃない。仕事のうちだし」
 申し訳なさそうな剣司の声にけろりと答えた一騎が、総士が持っていた紙袋と一緒に弁当を剣司に手渡す。それを受け取りながら、剣司がしみじみと口にした。
「しかし、まさか総士も来るなんてなあ」
「ちょうど楽園でコーヒーを飲んでいた。たまたまだ」
「それで、ついでに少し総士にも手伝ってもらった」
「そりゃ良かったな」
 ははっと笑う剣司が普段向かっているらしい机を見て、総士は思わず息を洩らした。
 机の上には、大量の紙の束と医学書が積み上げられていた。ついさっきも開いていたのだろう。背幅の厚い一冊が、表紙を伏せた形で置かれていた。
 剣司が保健医をしながら、さらに医学の道を究めるために勉学を続けていることは総士もよく知っていた。その努力と熱意が、まさに目の前にあった。
「忙しそうだな」
「まあな」
 労う思いも込めて短く伝えると、剣司がくしゃりと目元を細める。だがそれも一瞬のことで、すぐに顔つきを改めた。
「だいたい知ってるだろうが、今日は新学期恒例の定期検診の日でな。その直後に職員会議があって、ついさっき終わったところだ。休憩を摂ったら、午後は全生徒の結果をまとめるつもりだ。今日中には全部のデータをアルヴィスに届ける。そのあとは遠見先生が取りまとめて結果を参照してくれるはずだ」
「…それは、次期パイロットの選出資料としてか」
「まあ…そういうことだ」
 剣司と総士のやり取りを、一騎もまた無言で聞いていた。定期的に行われる学校検診は、総士たちが何も知らされていない頃から、島にとって重要な意味を持っていた。その意味は今も変わらない。
 いつか訪れるだろう未来を、この場にいる誰もが予感している。そのための準備をしている。
「大丈夫だ。俺たちが守る。一人だって失わせやしない。そのための元パイロットだ。そうだろ」
「ああそうだな」
 決意を込めた剣司の声に、総士が深く頷いたとき、ガラリと入口の扉が開いた。
「あーつっかれたああぁ!」
 左手で杖をつきつつ器用に伸びをしながら声を上げて入ってきたのは咲良だった。
「やあっと延長分の職員会議が終わったわよ。どんだけ引き延ばすんだっての!」
 身体を伸ばしたついでに大きく欠伸をするのに、剣司が額に手を当てながら呆れた声を出す。
「おい、咲良、口に手を当てろ手を!」
「細かいわねえ。生徒もいないんだしいいでしょ。あら、一騎来てたの。総士まで」
 来客に気づき、腕を下ろしながら目を瞬かせた咲良に、剣司が紙袋を指で示した。
「出前届いてるぞ。一騎に頼んどいたやつ」
 昼食にありつけると悟って咲良はたちまち破顔した。
「助かるわあ。お腹ぺこぺこよ。一騎、ありがとね。で、何作ってくれたの」
「サンドイッチ。余り物で作ったありあわせで悪いけど、すぐに食べれそうだろ」
「何ありあわせとか言ってんの、十二分よ。それにしても総士も一緒なんて、あんたたち相変わらず仲良いわね」
 ――そんなに僕が一緒に来ることが問題になるのか。
 剣司と似たような内容をさらに感心したように言われて、自分たちを棚に上げていったいどの口が言うのかと思ったが、何とか総士は言葉を飲み込んだ。
「…教師も忙しそうだな」
「そりゃあね。あんたたちも一度教師やってみなさいよ。といっても、一騎は向いてなさそうね。総士は案外向いてるんじゃないかと思うけど。一度特別授業でもしてみる? なんなら職員会議にかけてあげるわよ」
「せっかくだが丁重にお断りする…」
「はいはい。総士はそう言うと思ったわよ」
 からかうような口調に棘はない。去年、教員になったばかりの頃に比べて格段に落ち着きと余裕さえ感じられる姿に、総士もすぐに顔を和らげる。
「ずいぶんと楽しそうだな」
「そうね。楽しいっていうか…満足してる」
 子どもたちが笑っているから、と咲良は微笑んだ。いとおしむような笑みだった。
「守らなきゃ、頑張らなきゃって思える。元気をもらってるのは私の方だわね、きっと。母さんが教師を続けた理由、今になってわかる気がするの」
「そうか」
 守られる側から、守る側になった。ファフナーやシステムによって島を守っていた時とは違う。生き延びて今ここにいるからこそ選べる職務を、そこにどんな葛藤や矛盾があったとしても、剣司も咲良も大切に果たしているのだった。
「なんか、去年まで俺たちも学生だったはずなのに、すごい年食った気になるよなあ」
 剣司が懐かしむように笑った。ずっと同じように学校にいたはずなのに、今は異なる道を選び、異なる立場でここにいる。その不思議さを噛みしめながら四人で顔を合わせて笑いあう。ひとしきり軽い会話を交わしてから、剣司と咲良がまだ昼食を取っていないことに気づいて、総士は一騎と退室することにした。
「じゃあ、僕たちはこれで失礼する。長居して済まなかった」
「あ、弁当箱は今度楽園来たときに返してくれればいいから」
「おう。ありがとな、一騎」
「そうだ、あんたたち時間あるの?」
 部屋を出かけたところで咲良に尋ねられて、総士は一騎と二人で顔を見合わせた。
「特には…ないが」
「俺も別に」
 揃って首を傾げつつ答えたのに、咲良はふっと目を細めた。ひどく大人びた優しい仕草だった。
「なら少し他の教室も見ていきなさいよ。久しぶりでしょ。総士、あんたも懐かしいんじゃないの」
「そうだな」
「職員室にも寄ってくでしょ」
「ああ、それはそのつもりだが」
「先生たち今日はまだみんないるから」
 喜ぶわよきっと、と笑う咲良に一騎もまた口元を綻ばせた。
「うん。ありがとな、咲良」
 最後、総士が保健室を出る前に振り返って見たのは、仲睦まじく笑いながら一騎の弁当を広げる二人の姿だった。懐かしいようでいて、昔とは異なる風景がそこにあった。開け放たれた窓の向こうで、緑葉を覗かせはじめた桜の木が残る花びらをはらはらと散らしていた。



     ***



 ぺたん、ぱたんと、歩くたびに足音が響く。
 総士と一騎が履いている客用スリッパの立てる音だ。つるつるとした廊下に張りついては剥がれるビニル素材の音はどこか間が抜けている。学生時代に履いていた上履きの頑丈さと軽やかさを思い出す。毎週末持ち帰っては洗うのが面倒くさかった。総士はさほどではなかったが、上履きのまま校庭に出たりするような男子たちの上履きは、何かの勲章のごとく黒く汚れていたものだった。あれを履くことはもうないのだろう。スリッパの立てる音が、やはり自分たちを部外者だと認識させる。
 あれから、咲良に勧められた通りに職員室に寄り、羽佐間容子や要澄美らと挨拶を交わした。彼女たちは喜んでくれたが、今やアルヴィスで会うことの方が多い彼女たちと、元生徒の立場で会うのはどこか気恥ずかしく、それ以上に懐かしかった。高校を卒業したのはつい去年のことだというのに、やたらと時が過ぎてしまったように思う。最初からここに来るつもりで用意していたのか、クッキーを差し入れしている一騎を横目に見ながら、総士はしみじみと感慨深いものを味わった。
 そして、失礼しますと頭を下げて職員室を退出したあと、ひやりとした空気が漂う廊下を一騎と歩いている。
 職員室を少し過ぎた先には学園長の部屋があった。本来の主である真壁史彦がここに来ることはほとんどない。在学中に何度か一騎と来たこともあるが、家ではただの父親でしかない史彦と一生徒として相対するのは一騎にとっても微妙な気持ちらしく、アルヴィスで会うより反応に困るとボヤいていた。高校の卒業式の日、竜宮島学園高等部設立後初めての卒業生として父の手から卒業証書を手渡され、最後に書かれた父の名前を確認して、なんとも不思議な表情を浮かべていたことを思い出す。僕の気持ちがようやく分かったかと言ってやると、一騎は数回目を瞬かせたあとに吹き出したのだった。
 自分の父はどうだっただろうか。どんな目で自分を…自分たちを見ていたのだろうか。アルヴィスの司令としてではなく、学校の校長として。父の後を継いだあの人に聞けば教えてくれるのだろうか。聞いてみたい気持ちはあるけれど、総士にはまだ少しそんな勇気は持てなかった。
 廊下少し進んだところで、総士は足を止めた。一騎もつられて立ち止まる。
 学長室の前には、設立以来の卒業生たちの名前が写真と一緒に並べて飾られている。小学校、中学校、高校のすべてがあった。決して多くはない…けれどかけがえのない一人一人の存在の記憶だった。年度を追うごとに少しずつ増えていく子供の名前は、島の大人たちが目指した理想がある形で報われたことを示していた。同時に、それが悲痛と苦悩と悔恨の歴史であることも教えていた。とりわけ初期に在学した子供たちの数は一定ではない。記された名前の裏にある犠牲の歴史を、総士はよく知っていた。
 総士は中学卒業生の名前の中から、自分の卒業年度の場所を探した。五十音順に記された名前の中に、真壁一騎と皆城総士が並んでいた。自分たちは厳密には《卒業》をしていない。総士は肉体を失ってフェストゥムの側におり、一騎は意識のないまま生命維持装置にいれられていた。《卒業生》として書かれているのは、大人たちの想いによるものだろう。あの時、一騎はともかく、総士は完全に失われたものと認識されていたはずだ。総士は必ず帰ると決意はしたが、その宣言は一騎にのみ向けられたものであり、当の一騎は昏睡状態だったのだから。
 併記されている中には春日井甲洋の名もある。ついで小楯衛、羽佐間翔子、…そして蔵前果林の名前を見つけて総士は目を細めた。この壁には卒業できなかった子供たち…在学中に永遠にいなくなった子供たちの名前も添えられているのだった。存命であれば《卒業》しただろう存在として。
 小学校から中学校へと進学し、メモリージングの解放とともに卒業していく。それがかつての島の習わしだった。ここに名前を刻まれた生徒たちのうち、いったいどれだけの人数が、生き延びて成長することを許されたのだろう。総士は、前年の卒業生の中にも懐かしい名前をたくさん見た。それは馴染みのある先輩たちであり、先ほどあった鏑木彗の姉のような人たちだった。その一つ一つを見るたびに、苦しくなるような痛みが胸を刺す。それは島のために自ら犠牲となって去っていった彼らが、確かにこの学び舎にいたことの証しだった。
 一騎も、総士の隣に立って、壁の名前を見つめていた。ぽつりと声が落ちる。
「みんな、ここにいたんだな」
 吐息のような声だった。そうだなと総士も答えた。


 *


 教室を見て回ったあとに図工室を覗き、理科室を覗き、壁に貼られた掲示物を一つ一つ見ながら時に階段を上り、更に歩いていく。
 今となっては窮屈に見える机と椅子が、かつてと同じく少し乱れて並んでいた。教室の壁には今年度の抱負が張り巡らされている。新学期の始まりを感じさせるものだった。
 学校に到着してからというもの、どこか一騎が上の空であることに総士は気づいていた。このところの一騎が時折見せる、曖昧でとらえどころのない空気が、今の一騎を取り巻いている。
 保健室でも会話こそすれ、言葉少なだった。それを指摘すべきか、ただ何も言わずそばにいるべきか考えていると、一騎が「あ」と小さく声を上げた。目線の先を確認すればそこは音楽室と書かれている。すたすたと歩いて行って扉に手をかける一騎に、総士は慌てて制止をかけた。
「一騎。鍵がかかっているだろう」
 一騎は総士を振り返って笑った。いたずらに成功した子供のような顔だった。ひらりとかざされた右手には銀色の煌めきがある。
「お前、いつの間に」
「さっき職員室に行ったときに」
 お前が容子先生と話してる間に許可もらって借りてきた、と悪びれずに言う。呆気に取られて声もない総士をよそに、手際よく鍵を差し込むと、一騎はガラリと扉を引いた。ぶわりと室内の空気が流れてきて、一騎と総士を包みこむ。途端に息が詰まるような感覚に襲われ、総士は動くことも出来ずに立ち尽くした。鼻を掠めたのは、紙と木と、埃っぽく乾いてくすんだ、懐かしく、そしてどこか胸が苦しくなる匂いだった。
 入り口で動けずにいる総士を置いて、一騎は躊躇うことなく中に入っていくと、閉じられていた生成り色のカーテンを開き、大きく窓を開ける。途端入り込んできたあたたかい風がカーテンをぶわりと膨らませ、羽根のようにはためかせた。かすかな潮の匂いが鼻腔に触れる。外から吹き込む風はあっという間に室内の埃っぽい空気を洗い流していった。窓の向こうには海が見える。陽の光を弾いて海面がきらきらと輝いていた。
 髪を靡かせたまま外を見つめる一騎の背を目にしながら、総士は一つ小さな溜め息を吐くと、ようやく音楽室へと足を踏み入れた。
 他の教室とはまた違う特有の空間。残響特性を得るために壁に開けられた沢山の規則正しい穴。その壁に張り巡らされた音楽家たちの肖像画。音符の表記や、発声法の注意の掲示。そんなものが目に入ってくる。
 椅子は譜面台と一緒に壁側に全て積み上げられていた。そして、何よりこの教室でひときわ目立つのはグランドピアノだった。黒板側、弾き手が窓に背を向ける形で設置されたピアノは、窓からの光を受けて黒々とした輝きを放っている。身体が吸い寄せられるようにして、総士はピアノへと近づいた。指を伸ばして触れる。磨き上げられた艶やかな黒が指にひたりと張りつき、馴染むようにその質感を伝えてきた。それは、総士がかつて何度も触れたものだった。
「総士」
 呼ばれてはっと目を上げると、外を見ていたはずの一騎が振り返って総士を見ていた。逆光の姿がひどく眩しくて、思わず目を細める。
「懐かしいか?」
 そう問われて、一騎が意図的に総士をここへ連れてきたことに改めて気付く。なんのつもりかと尋ねようとして止めた。少し考えてからただ、ああと頷いた。
 俺も、と一騎が小さく笑った。まるで今にも泣きだしそうな顔に見えて、総士は心臓を握られたように感じた。
 一騎、と名前を呼びかけようとするよりも、一騎が口を開いたのが先だった。
「弾いてくれ、総士」
「一騎?」
「お前のピアノが聴きたい」



     ***



「…ずいぶんと、突然だな」
 思わず声を失った総士は、数秒を要してからやっと一騎にそう答えた。一騎は確かにそうかと困ったような笑みを浮かべた。
「俺も、お前とここに来るまで忘れてた。学校についてから思い出したんだ」
「何をだ」
 いったい何が言いたいのかと訝しむ総士に微笑むと、窓際から総士の傍へと近づき、一騎もまたピアノの手を滑らせた。ゆっくりと撫でるような仕草を繰り返しながら、一騎は洩らした。
「お前、昔ピアノ弾いてただろ」
「ああ」
 総士は頷く。
「得意だったよな」
「得意かはわからないが、嫌いではなかったな。…昔、おまえに聞かせたこともあったか」
 一騎の声に、総士の記憶も過去へと遡っていった。皆城の家にはアップライトピアノが置かれていた。まだ幼い頃、遊びに来た一騎に、覚えたばかりの曲を奏でてみせた記憶がある。それを一騎もまた覚えているのだろう。もっとも、ピアノを本格的に習っていたのは蔵前果林の方だった。総士にとって同い年の義理の姉であり、ある時期からはともに島の秘密を知る存在として時間を分け合った相手。総士も最初のうちは習っていたが、言われた課題を求められるまま演奏するよりも自分で選んだものを好きなように演奏する方が向いていたためいつしか教師の手を離れて気が向いたときだけ弾くようになっていた。それがどうかしたのかと思いつつ一騎を見たが、だが一騎はゆっくりと首を横に振った。
「違う。その昔じゃなくて」
「一騎?」
「ここで、この教室で。弾いてただろ。放課後に」
「―――」
 思いもよらぬ言葉に思わず目を見開いた。総士は動きを止めて、まじまじと一騎を見た。
「お前…」
 その先は続かなかった。ただぐるぐると思考がめぐっていく。
 ――知っていたのか。
 ――聴いて、いたのか。
「知ってたよ」
 総士の心を汲み取るように、一騎が小さく答えた。
「俺、お前がここでピアノを弾いてるの知ってた」
「なぜ」
「聴いてたから」
「いつ」
 尋ねた声に、一騎は答えなかった。ただ目を伏せて、静かに笑った。懐かしむというにはどこか痛むような淡い笑みに答えを聞くまでもなかった。
 総士がここでピアノを弾いていたのは、ある一時期のことだったからだ。一騎を同化しかけ、左目に傷を負ってから数年後。アルヴィスで大人たちに交じって己に課せられた役割を果たすようになり、やがてL計画が実施されるその少し前から、フェストゥムが襲来して一騎達をファフナーに乗せ、自身はジークフリードシステムに搭乗して戦闘指揮官を担うようになるまでのわずか一年にも満たぬ期間。
「一騎」
 そっと名前を呼ぶと、小さく身体が跳ねる。そっとこちらを見上げた一騎の、どこか後ろめたさを覚えたような、怯えたような表情に、総士はかつての一騎の面影を見た。互いの関係が修復される前の、すれ違うばかりで言葉も交わせなかった14歳の一騎の。
 思わず黙り込んだ総士に何を思ったのか、一騎は焦りを覚えたらしかった。慌てたように総士から一歩離れ、早口で言った。
「その、昔たまたま廊下からお前がピアノを弾いてるのを見かけただけなんだ。それがずっと気になってた。今更お前を困らせたいわけじゃない。変なこと頼んで悪かった」
「待て。困っているわけじゃない」
 総士もまた慌てた。言葉を探しながら、一騎の誤解を解くために続ける。
「ただ、驚いただけだ。お前がまさか僕のピアノを聞いていたとは思わなかった」
 それが言葉通りの意味であるのを感じ取ったのか、一騎が躊躇いがちに口を開いた。
「…お前いつも、決まった曲弾いてただろ。それがずっと頭の中に残ってて。いつかその曲の名前を聞けたらって思ってた。でも…聞く機会がないままだった。そうしてるうちにフェストゥムが来て…戦争が始まって学校どころじゃなくて、お前もピアノ弾かなくなっちゃったし」
 それでも忘れたことはなかったのだと一騎は言った。俯いていた顔が上げられ、一騎の目が正面から総士を射る。過去を思い返しながら向けられる双眸は、確かにこちらに焦点を合わせているのに、どこか曖昧で不思議な色を湛えていた。
「優しいような…懐かしいような…でもどこか寂しい曲だった。…なあ総士。あれ、なんていう曲だったんだ?」
 真っ直ぐな一騎の鳶色の眼差しをしばらく見返してから、総士は目線をピアノに落とした。鍵盤の蓋に指を滑らせる。ああ、そうだ。確かに弾いていた。繰り返し同じ曲ばかりを。目を閉じれば思い出す。総士にとっても懐かしいその曲を。
「…トロイメライだ」
 静かに告げた名前に、一騎は目を瞬かせた。
「トロイメライ?」
「夢、という意味の曲だ」
 『子供の情景』と名付けられた組曲の中の、有名な一曲だった。それは子供の見る夢を描いた曲だった。
 どうしてこの曲だったのか、そのきっかけは総士にもはっきりとは思い出せない。『トロイメライ』をよく弾いていたのは、蔵前だった。そして蔵前がピアノを弾かなくなったのもこの曲が最後だった。弾かなくなっただけではなく、近寄ることさえしなくなった。ある日、それまで持っていた楽譜を彼女はすべて捨てた。
『もう、やめるの。これ以上は上手くならないって分かったから』
 蔵前がピアノを弾かなくなった本当のきっかけを総士は知っていた。蔵前にピアノを教えてくれていた先輩が、アルヴィス内で当時開発中のファフナー起動実験の失敗で亡くなったからだった。卒業前、中学校に在学していた頃は、ピアニストになって世界中を飛び回り自分のピアノをいろんな人に聞かせたいという夢を持っていた人だった。その夢が到底実現などできるはずもないと知らされてからも、アルヴィス勤務の傍ら、施設内の音楽室でピアノを弾いていた。
 あの当時、アルヴィスではティターンモデルの開発と同時にノートゥングモデルの開発が進められていた。その開発過程では、他の多くのプロジェクトと同じように多大の犠牲が払われた。起動実験のたびに、誰かがいなくなった。総士や蔵前は、実験のための搭乗は許されなかった。自分たち二人は、あくまで機体完成後、運用のための数値データを採取するためのテストパイロットとして取り分けられていた。総士の身体に流れる血と組み込まれた因子、蔵前については彼女が身を寄せる皆城の名が、二人を他の多くと同じ犠牲者にすることを許さなかった。
 蔵前には辛すぎたのだろう。歯を食いしばって耐えてはいたが、それでも彼女をゆっくりと追い詰めるには十分だった。いわば共犯者である総士には、彼女の考えが手に取るようにわかった。だが、蔵前は追いつめられるほどに己の使命を強烈に意識するようになっていった。総士が中学二年になった頃から、学校では《卒業》する先輩たちの数が増えて行った。不規則に、年に何回も行われる《卒業式》。同年代の子供たちの間で総士と蔵前だけがその意味を知っており、その先に払われる犠牲も理解していた。葬式と卒業式を、何度交互に味わったかしれない。あの会話は、また誰かアルヴィスでいなくなった日のことだったろうか。喪服を着たまま自宅に帰った総士が蔵前と交わしたのは。
『…蔵前。父さんから伝言だ。明日また、先輩が一人《卒業》する。生徒会と連携して卒業式の段取りをするようにと』
『そう。またいつも通りに学校へ行くのね、私達。ねえ…どんな顔して、それを言えっていうの。何も知らない生徒の振りをして、また卒業式の話をするの? 子供のままでいさせてくれなかったのに、子供の振りしろっていうの? 卒業の話が出るたびに、クラスでは将来の夢についてみんな話すのよ。夢なんて、そんなもの思い描いたことさえ忘れたわ!』
『っ…蔵前…!』
『…ごめんなさい。取り乱しちゃって。大丈夫よ。私、ちゃんとやれるわ。知ってるでしょ。私、そのためにここにいるんだもの。そうでしょ、皆城君』
 結局、パイロットにはなれずジークフリードシステムに乗る道が示された総士と異なり、継続してテストパイロットとなった蔵前は、だがテストパイロットである以上に、ファフナーとして対フェストゥムの実戦に臨むつもりでいた。自身も、いや自身こそが戦うのだという意思を隠そうとはしなかった。L計画の悲劇的な成功は、蔵前と、そして総士の意識を決定的に変えた。
 学校とアルヴィスでの二重生活を続けながら、総士は、蔵前が捨てた楽譜のことをふと思い出した。とくに彼女がよく弾いていた曲をメロディと音譜を手掛かりにアーカイブから見つけ出して、その題名に声を失った。
 『子供の情景』は、大人のために作られた作品集だという。かつて抱いていたもの、今は失われたもの。二度と手に届かない時間を宝箱に大切に仕舞い込むかのように閉じ込めた曲。そのうちの一曲、『トロイメライ』。これを彼女に教えた人は、そしてこれを弾き続けた蔵前は、何を思ってこれを奏でていたのかと思った。いつの間にか引きずられるように、トロイメライを弾いていた。家ではもう弾くことはできなかったから、許可を取って学校で。放課後のわずかな時間、たった一人きりで。蔵前が習っていた曲。大好きだったはずの曲。その曲の名を知るからこそ、彼女の…そして夢を抱き続けることもかなわずいなくなった人々の思いを音にすることで覚えておこうと思った。それに加えて総士がこの曲を弾き続けたのは、せいいっぱい生きて戦って消えていった彼らの記憶に加えて、総士自身もきっと忘れられなかったからだ。――子供の情景。いつか失われるのなら、いっそ最初から与えられなければ良かったのに。何度そう思ったかしれない。総士自身にとってもあまりにも短すぎた、何も知らないただの子供でいられた日々を、それでも諦めきれずなお追うように。幼かった頃の日々はすべて夢であったのだと自分に刻みつけながら、それでも過去に手を伸ばすかのようにして弾いていた。
 それを、一騎がひそかに聴いていたことに、そこにあった想いがなんであれ耳を傾けていてくれたことに、総士は言葉にもならぬ感慨を抱いた。どこに向けることもできず、ただ空虚に奏でるばかりだった総士の音色を、砕けて消えてしまったはずの夢を、他ならぬ一騎が受け止め今も心に響かせていてくれたことに泣きたくなるほどの喜びを覚えた。なんて一方的で独りよがりな想いだろう。それでも、一騎が聴いてくれた、ただそれだけであの日の自分の心が救われるような気さえした。
 不意に泣きたくなるような思いがこみ上げてきて、唇を噛む。こんな風に過去を追憶するために、ここに…学校にきたのではなかった。もっと、たわいもない来訪のはずだった。何故今さらこんなことを思い出すのか。もう消化しきった記憶であり、感情だと思っていたのに。だが、この校舎には、廊下を歩きながら感じ取ったようにあまりにもたくさんの記憶がしまわれていて、けっして風化することがないのだった。そして、思い返せばそこにはいつも一騎がいるのだった。
 ピアノに右手で触れたまま、言葉もなく一騎を見つめる総士に、一騎はただ柔らかく目を細めた。
「そっか」
 一騎は言った。
「――夢、か」
 吐息のように小さく呟く。噛みしめるような響きだった。
 かつての学び舎で、子供たちが駆け回るこの場所で、遊び学んだ日々はもう遠い。自分たちはとうに羽ばたいてしまった。
 俺は、と一騎は口にして一度声を途切れさせた。一つ呼吸を挟んでから続ける。
「俺は、あれから…ずっとお前と一緒に夢を見てる気がしてた。こんなのは全部夢で、いつか覚めるんじゃないかって。フェストゥムのことも、お前とシステムで繋がって戦っていることも。お前のことがわからなかったときも、島を出たときも、これは悪い夢なんじゃないかって。はやく覚めてくれって。…でも夢じゃなかった」
「一騎」
「夢じゃなくて、良かった。お前が俺の隣にいてくれることが、夢で終わるものじゃなくて良かった。でも、もしいつか本当に一緒に夢が見られるなら、いい夢がいいな」
「…そうだな」
 一騎の言葉に、なんと返せばいいのか分からなかった。それでも一緒に夢を見ようと心を差し出してくる相手に、何が言えるのかと思った。ただ頷くことしかできない総士に、一騎は笑った。だから、と一騎は言う。
「弾いてくれ、総士」
 トロイメライを。子供の夢を。かつて自分たちが抱き、確かにそこにいた証を。
「…長いこと弾いていないからな。きっとひどいぞ」
 わずかに逡巡したのち、総士は答えた。それでもお前は聴いてくれるのかと言外に問いかけた。
「いいよ。総士が弾いてくれるならそれでいい」
 それが、いいと一騎は言った。澄み切ったそのまなざしは、総士に抗う気持ちすら与えず自然とピアノに向かわせた。総士が椅子に腰掛けると、一騎が目を輝かせる。そして予備に置かれている同じ椅子を持ってくると、総士の背後に置いてちょうど背中合わせになるように座ったので驚いて振り返った。
「横じゃないのか」
「いいだろ」
 ふっと笑うと、一騎は軽く身体を総士にもたれ掛けさせた。
「おい、一騎」
 咎めようとしたが、触れるほどに寄りかかった身体に重たさはなく、ただ暖かな熱だけをじわりと布越しに伝えてきて、総士は上げる声を失った。制止を諦め、ふうと息を吐いて静かにピアノの蓋を持ち上げる。キーカバーである深紅のフェルト布をとりのけると、規則正しく並ぶ白鍵と黒鍵が現れた。室内の光と受けてつるりと艶を帯びて輝くそれをじっと見つめ下ろす。
 譜面は記憶していた。あれほどに奏でた曲は、総士の心に深く刻まれている。思わず、口元が綻んだ。頭が、身体が思い起こすままに両手の指を鍵盤の上に置く。軽く息を吸い込むと、総士はゆっくりと指を鍵盤に沈ませた。





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 甘く、優しい。それでいてどこか物寂しいメロディが音楽室に優しく響く。耳から、そして総士の身体を伝って、澄んだ鍵盤の音色が一騎の中に流れ込んでくる。
 背を向けたのは、きっと自分が涙ぐんでしまうだろうと予感していたからだった。
 久々に訪れた学校は、その空気を吸い込むたびに一騎を過去に引き戻していった。卒業したばかりの高校よりも、深く鮮やかに思い起こされるのは、14歳を過ごした日々だった。教室でともに過ごした仲間たちのこと、そして総士と自分のことだった。
 校舎に足を踏み入れ、廊下を歩いているうちに耳の奥にふと懐かしい曲がよみがえり、ついで総士が弾いていたピアノのことを思い出した。いつしか記憶の底に押し込まれていた音色が、かつての感情とともにあふれ出し、一騎の胸をつまらせた。
 ――総士。
その音色に気づいたのはいつだっただろう。放課後、どこからともなく聞こえてくる曲が気になって、音を辿りながら行き着いたのが音楽室だった。こんな時間に誰がいるのかと、ドアにはめられたガラス越しにそっと中をのぞき込んで、一騎は声を失って固まった。総士がピアノを弾いていた。放課後の部屋でたった一人、夕日に全身を染めながら無心に。声もなくその様子に見入り、淡々と奏でられる曲調に足は縫い止められたようになって動かなかった。一騎はその曲自体も名前もまるで知らなかったが、それでも心を奪われずにはいられなかった。その曲は、優しくとても綺麗なのに、聴けば聴くほど胸が苦しくなった。息をするのも忘れて音楽室の前に立ち尽くしているうちに、曲は最後の一音を奏でて終わった。そこで一騎は我に返り、慌ててその場を立ち去った。それからもピアノの音色はときどき聞こえてきた。そのたびに一騎はそっと音楽室に足を運んで、息をひそめながらその音に耳を傾けた。いったい自分は何をしているのだろうと思いながら。
 一騎は、廊下の向こうに、背中を夕暮れの光に照らされながらピアノを弾く総士をそっと窺うように見つめるかつての自分の幻影を見た。曲が終わり、総士が鍵盤から顔を上げる前に踵を返して逃げるように走り去る子供の背中を。

『ねえ真壁くん。あなたはこの曲が好き?』

 自分と同じように、音楽室の前の廊下で総士が奏でるメロディに耳を傾けていた少女がいた。それは毎回のことではなかったけれど、四度に一度くらいは彼女に遭遇した。
 クラスの学級委員長である彼女とはクラスで顔を合わせるものの特に多く会話を交わすこともなく、廊下で会ったとしてもただすれ違うだけのはずだった。
 それが一度だけ、声をかけられた時があった。
 短い、たわいもない質問だった。彼女の問いかけに、確か自分は分からないと答えたのだと思う。
 彼女は少し笑い、ずり落ちた眼鏡を細い指先で直してから、窓の向こうのピアノに目を投げかけた。薄く開かれた唇から紡がれた声を、今も一騎は忘れることができない。
『私は嫌い』
彼女はそう言った。
『大嫌い』
 突然の告白に批難することも同意することも何もできず立ち尽くしてしまったのは、彼女の声があまりにも悲しげだったからだ。わずかに震えてさえいた。その顔は今にも泣き出しそうに歪んで見えた。そんな気がした。記憶が曖昧なのは、こちらをもう一度振り返った彼女の顔が、ただ穏やかに笑んでいたからだ。まるで夕暮れの一瞬が見せた夢幻のようだった。
 それ以来、彼女…蔵前果林と廊下ですれ違うことはなくなった。少ししてフェストゥムが竜宮島に襲来した。忘れもしない、戦争が始まった日。その日を最後に、彼女が学校に来る日は永遠に来なくなった。一騎の目の前で、彼女は消えた。跡形もなく。ワームスフィアに飲み込まれて。
 いったい何がこの曲を彼女に嫌いだと言わせたのか、一騎は今も分からないままだ。きっとこれからも理解できないのだろう。
 あの放課後の邂逅のわずかなひと時。蔵前が眼鏡をかけ直す一瞬、一騎には、彼女の瞳が赤く染まって見えた。おそらく夕陽を反射しての錯覚なのだと、あのときの一騎は考えたけれど、今なら分かる。蔵前の瞳は赤かったのだ、本当に。彼女の小さな顔立ちにはやや大きすぎるように思えた眼鏡。あの眼鏡は染まった瞳を隠す役割を果たしていたのだろう。それは同化現象の進行による初期症状だった。彼女がファフナーパイロットであったことのまぎれもない証だった。かつての一騎に起こったのと同じものだった。
 彼女はもういない。それでもあの日彼女はここにいた。総士の奏でる音を聴いていたのだった。自分と同じように。
 息を吸い込み、ゆるゆると吐き出す。体に染み込むメロディが血と一緒に体中を廻っていく。総士によって奏でられる曲は、かつてと変わらず今もただただ優しく美しい。
 ――トロイメライ。子供の夢だと、総士は言った。楽園で慈しまれて優しい穏やかな時間を夢想し、きっと抱いた夢が壊れることなど想像することもないのだろう。
 夢を見ることが許されなかった子供たちを思う。嫌いだと口にしながら、紡がれる夢に耳を傾けていた彼女を思う。
 ――わたし、ここにいて良かったって思う?
 眼鏡の奥の目を涙で歪ませながら、それでも笑って消えた彼女。無に引きずり込まれながら、一騎に進む道を示した少女。
 総士であれば、彼女の想いを知っていただろうか。知っていたはずだ。
 ――俺には分からなかった。
 それでも蔵前が総士にとって必要な存在だったことは分かっていた。何度だって答えるだろう。いて良かったと。総士のそばに、この島にいてくれてありがとうと。
 だが彼女はもういないのだ。彼女に言葉を伝えられたのはあの日、あの瞬間のただ一度きりだった。
 過ぎ去った過去。消せぬ痛みは、今も心の奥に刻まれている。
 あの頃の総士が抱えていただろう孤独と苦しみを知ることもせず、その手段も持たず、ただ互いに背を向けるばかりだった時を思う。
 あの日、声をかけることもできずすれ違うばかりだった日々が、今結び合わされて一つになった。それは夢ではなく、一騎とそして総士がともに紡いだ現実の時間だ。かつて見つけられなかった総士の心がここにある。総士の想いが指先から曲を生み出していく。
 ――なあ、俺は今、ここにいるよ。
 校舎に残る自分の存在の記憶に向かって、一騎は語りかける。
 ――ここに、総士と一緒にいるよ。
 そんな日は二度と来ないだろうと、島から、今いる場所から消えてしまうことだけを考えていた日々は、ガラスの破片のように心を傷つけていた時間は、時の経過とともに角を失いまるみを帯びて、今は優しい光とともに一騎の心で揺れている。
 背中にあたたかな熱を感じながら、総士の奏でる音に身を委ね、一騎はそっと自分の心臓を右手でおさえた。
 窓の外は鮮やかな陽の色に染まり眩しい。身体ごと太陽の生み出す光と熱に沈んでいくかのようだ。その光の向うから過去が優しく手招きをする。美しき子供の情景はひたすらに優しい。辛く悲しかった日々さえも。もう決して届くはずのない時間。それでも窓の外からは、今も子供たちの笑い声が響いている。かつての日々と同じように。
 忘れないでいようと思った。ずっとずっと忘れないでいようと。この先何があっても、どんな道を生きて最後たどり着くのだとしても、ここに存在していたたくさんの時間と温度と音色を忘れずにいようと思った。
 知らず微笑みを浮かべていた。ピアノの音色にすべてを預けながら、一騎はゆっくりと目を閉じた。

 ――夢を見るように。


- end -


2015/12/18 pixiv up
――あのとき、あなたがいてくれたから。
蔵前ちゃんが大好きだよという話でした。
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