みなしろくんとまかべさんちのトイレ


 まずいな、
と総士は思った。このままここにいるのはまずい。
 真壁家の居間でこたつがセッティングされたちゃぶ台に座り、淹れてもらったばかりで熱々の煎茶の湯呑を両手で抱えながら思案する。
 厚みがあり、でこぼことした触感がなぜか妙に馴染の良い湯呑は、真壁家の一人息子が父親の指導のもと総士用にと作ってくれたものだ。
 表面の凹凸を指でなぞりながら逡巡した末、総士は結論を出した。台所にいる一騎に声をかける。

「すまない、一騎。僕はそろそろアルヴィスに戻ろうと思う」
「そろそろって…お前10分前に来たばかりだろ」

 驚いた一騎が、剥きかけのジャガイモと皮むき器を手にしたまま居間に入ってくる。一瞬返答に窮したが、それと悟られぬよう冷静さを装い答える。

「いや、急に用事を思い出して」
「用事が終わったからうちに来たんじゃないのか」
「終わってない別の用事を思い出した」

 どこか落ち着かない様子の総士に一騎は首を傾げていたが、やがてふっと息を吐きだした。

「そうか…お前の分も夕飯用意してたんだけどな」

 用事ならしょうがないかと、苦笑した一騎の顔に明らかな落胆の影を見て取って、総士はものすごい罪悪感を覚えた。夕飯の支度をしているのはもちろん分かっていた。そこに当然自分の分が含まれていることも。

「すまない。いや、5分ほどあれば済む用事なんだが」

 なんなら今すぐにアルヴィスに行って、またこっちに戻ってくるという方法もある。そうだ、そうしよう。ここで一騎の夕食を不意にするのは絶対に避けたい。
 用事を終えたら戻ってくると言うと、いよいよ一騎は不思議そうな顔で首を傾げた。

「それ…どうしても今済ませなきゃいけないのか?」
「あ…ああ、できるなら…」

 一騎は、煮え切らない反応をする総士の顔をまじまじと見つめてから窓の外に目を向けた。

「今、外めちゃくちゃ寒いぞ…?」
「……」

 それは分かっていた。12月も中旬に入り、いよいよ寒さ厳しくなる時期となってきた。
 11月の終わりからこたつを出してきた真壁家の居間は大変居心地が良く、このままいつまでもずるずると居座っていたい魔力に満ち溢れている。居間の台所側ではストーブが青い炎をちらつかせ、上に乗せられたやかんがシュンシュンと湯気を上げている。身体を芯から温める優しいぬくもり。そうか、ここが本当の楽園だったのかと噛みしめたくなるレベルだ。
 しかも今日は小雨がちらついていて、足元から這い上がってくるような底冷えを感じる日でもあった。実際、窓硝子は白く曇り、結露している。外がどれだけ寒いかを端的に伝えていた。その中を、わざわざ暖かな場所を抜け出し、たかだか5分の用事のためにアルヴィスに行って戻ってくる。どう考えても正気を疑う。
 だが、どうしても総士はアルヴィスに戻りたかった。たかが5分が今の総士にとっては最重要事項だった。総士が皆城総士として存在し、肉体組織こそフェストゥムに近いものでありながらも確かに人間であることを証明し、かつその尊厳を保つためにどうしても必要なことだった。
 つまるところ、総士はトイレに行きたかった。真壁家ではなく、アルヴィスの。どうしても真壁家のトイレでは用を足せない理由が総士にはあった。だがその理由は一騎には切り出せない。あまりにも個人的なことである上に、理由が理由すぎて総士のプライドが許さなかった。
 深刻な表情で黙り込んだ総士に、これは相当な用事らしいと思ったらしい一騎だったが、もう一度外の様子を見てこう提案した。

「ごはん食べてから戻るんじゃ駄目なのか?またうちに来るなんてわざわざ大変だろ」
「……そうだな…」

 一騎の気遣いはもっともである。こんなことを一騎が言い出したら、自分だって全力で止める。何を言っているんだお前はと説教さえする。
 ぐっと返事に詰まった総士に、一騎はしばらく考えていたが、そうだと口を開いた。

「もし今戻るってんなら、もう少し待っててくれたらお前の夕食弁当にするけど」
「いや、いい。一緒に食べよう一騎」

 反射的にきっぱりと言い返した。一騎が作る出来立ての夕飯を、一人アルヴィスで食べるなどという選択肢は存在していなかった。

「そっか」

 へらっと一騎が笑った。熱でチーズが溶けるような緩んだ笑みだった。つられるように総士の口元も綻ぶ。

「じゃ、急いで準備するな。父さんは先に食べてていいって言ってたしさ」
「…僕も手伝おう。献立は?」
「ん、豚汁。ジャガイモ入ったやつ」
「それは温まるな」

 アルヴィスに戻ってトイレに行きたいのだとは、総士はとうとう言えなかった。ぬくぬくとしたこたつからはい出しながらぐっと拳を握りしめる。
 大丈夫だ。まだあと最低でも2時間は耐えられる。いや、3時間はいける。それまでに食事を終えてアルヴィスに戻る。大丈夫だ。計算は間違っていない。なかばフェストゥムと化したこの身体が、どこまで尿意に耐えられるかまだ実験したことはないが、一つの参考とするためにも挑んでみよう。大丈夫。僕の膀胱はきっと耐えられる。

 皆城総士は、なんとしても真壁家のトイレを使いたくなかった。どうあっても使いたくなかった。特にこの季節は。


 真壁家は純和風建築の家である。竜宮島の民家は、文化保存の目的もあって昭和40年代頃の日本を模しているが、統一性のない雑多な建築が入り混じり、和風建築も洋風建築も存在する。かつて総士が父や義姉と住んでいた実家は洋館だった。だが、反対に真壁家はぶっちぎって「和」そのものである。
 総士は真壁家の造りが好きだ。どこか懐かしく、安堵を覚える。木造建築だからこその色合いも、湿度を含んだ土や木の匂いもなにもかもが。工房から入った時に漂う、じわりと染み込む土と水の香りも清々しい。その匂いは、家に住む一騎や、父の史彦にも染みついている。幼い頃はよく互いの家を行き来して遊んだ記憶もまた、感傷を抱かせるのだろう。同化未遂事件によって、一騎と疎遠になってからは、真壁家を訪れることはなかった。
 今年は、総士が竜宮島に帰還してから過ごす初めての冬だった。長くアルヴィスに居を構え、帰還後もアルヴィスでの生活を送ることを決めた総士を、一騎をはじめとして皆が気を遣ってくれた。島の優しさに、一騎の温かさに、総士は救われた思いだった。
 特に一騎は、前以上に総士を家に招くようになった。食事はもちろん、泊まることも度々ある。寄ってくだろ、と声を掛けられれば、総士に断る理由などない。真壁家に客間がないため、当たり前のように一騎の部屋で寝ているが、それも子供の頃を想起させて楽しい。アルヴィスでの生活を続けるつもりであったものの、島の一般家屋での生活も大変に良いものだと総士はしみじみした。
 が、その認識が大変にぬるかったことを、竜宮島に冬が来た時に総士は思い知ったのだった。総士は古い日本家屋で過ごす冬を完全になめていた。特に一点において。
 それは12月頭。秋の気配から一転、一気に朝晩が冷え込んだ日のことだった。ふっと目が覚め、トイレに行きたいという思考が総士の頭に浮かんだ。寝る前に済ませておけば良かったのにと、自分でげんなりする。暖かな布団を抜け出すのが大変につらい。
 人としての身体を取り戻してしばらく経つが、未だに総士には感覚が鈍いところがあった。食事をする、睡眠をとるといった基本的な生活サイクルに疎いのだ。ある程度時間を決め、意識して行動するのでなければ、身体が機能維持のために訴えるサインを見過ごしてしまう。食習慣に関しては恐ろしく規則正しい生活を送る一騎の監修により、身体を失う前よりも健康的な生活をしている気がするが、細かな部分は当然自分で管理しなければならない。
 総士はため息を吐きながら身体を起こし、傍らにたたんであった上掛けを羽織る。布団をはい出ると、隣で健やかに寝ている一騎を起こさないようにそっと襖を開け、冷気が中に入り込む前に急いで廊下へ出た。しんとして冷え切った廊下はやはり寒く、総士はぶるっと身体を震わせると、さっさと用を済ませてしまおうとトイレに向かった。
 そして眠気の抜けきらない頭で、習慣が促すままに穿いているものを寛げ便座に腰かけた、が。

「ッッッ!!!!????????」

 かろうじて総士は悲鳴を飲み込んだ。飲み込みはしたが、喉の奥で押し殺しきれなかったものが、歪な音を立てた。眠気を引きずっていた意識は、それはもうはっきりと覚醒し、抱えていた尿意もどこかへ吹っ飛び、総士は反射的に立ち上がって、勢いのままさほど広くもないトイレの壁に衝突した。
 ドゴッ!ガタガタ!!とものすごい音がしたが、総士はそれに構うどころではなかった。

 ――なんだこれは。

 心臓がばくばくと音を立てている。冷や汗だか脂汗だかわからないものがどっとこめかみから吹き出る。
 こんなときでさえ並列思考が仕事をし、僕はここに生きているんだな、と謎の感動とポエム調の感想を抱かせた。生きてて良かった。だが、こんなことで自覚するとは思わなかった。

 ――なんなんだ、これは。

 穿いていたものを整え直してから振り返り、自分がさきほど腰かけようとしたものに目を落とす。白く綺麗に磨き上げられた便器。人間の生活に欠かせない見慣れた形だが、それが今は凶器に見える。
 彼を襲ったのは、まるで氷かと思うような凄まじい冷気だった。便座に腰を落とした瞬間、無防備な素肌にそれが押し付けられた。まるで予想していなかった温度は、総士の心臓を縮み上がらせ、危うく悲鳴まで上げかけたのである。
 正直、便座に殺されると思った。冬の夜の便器とは、かくも冷たいものなのか。尻がじんじんと痺れている。心臓が萎縮したままま戻らない。
 アルヴィスのトイレでは、考えられなかった。すべてが機能的に管理されたアルヴィスは、トイレも機能的にコンパクトである。かつて日本人が開発し、竜宮島においても継承された温水洗浄便座。便座洗浄機能に、消臭・脱臭機能搭載。便座の蓋だって自動開閉。何よりも、便座温め機能があった。人の存在をセンサーで感知し、瞬時に便座を温めてくれる機能である。ごく当たり前に利用していたそれの恩恵を、今初めて総士は自覚した。
 自分はこうして知らないうちに、自分の尻を甘やかしていたというのか。
 なんて恐ろしい罠が冬の真壁家には潜んでいることだろうか。秋を過ぎれば風呂場だって冷たい。でもあれは予測範囲内の冷たさだ。それに大体の場合、風呂場で身体を冷やさないように、一騎が前もって準備をしてくれていた。さすが一騎。今度ちゃんとお礼を伝えよう。だが、トイレは予想していなかった。真壁家では、温水洗浄便座を使用していなかったとは。今更こんなことに気づくとは。死角からルガーランスをぶちこまれたフェストゥムの気持ちってこんなんだろうか。
 真壁親子はこの状況に問題を感じていないのか。どれだけ心臓が強靭なのだ。いや、臀部の構造自体がそもそも違うのではないだろうか。せめて便座カバーをつけるとかしないのか。せめて。
 トイレの中で立ち尽くしたまま悶々と考えている総士をよそに、トイレの外ではちょっとした騒ぎになっていた。
 
「総士、どうしたんだ!?」
「総士君、何があった」
「総士、総士っ!?」

 物音に驚いて起きてきたらしい一騎と史彦が、トイレの外から声を掛けてくる。恐らく一騎だろう、どんどんと扉を叩く音に深く項垂れながら、総士は何とか声を振り絞り、「大丈夫です…問題ない…」と答えたのだった。


 あの時、自分がいったいどんな言い訳をしたのか、総士にはもはや思い出せない。だが、味わった心臓を掴まれたような冷えは忘れられない。身体に刻み込まれている。
 あの恐ろしいまでの冷たさに、再び自分が耐えられる気がしなかった。
 一度知ってしまっただけに、便座に腰かけることさえ相当の覚悟が必要だ。痛みならばいくらでも耐えられる。耐えてみせる。痛みは皆城総士の祝福だ。だが、寒いのと冷たいのは駄目だ。軟弱者と笑いたければ笑え。
少なくとも、冬を越えて春が過ぎ初夏が来るまで、…もう少し寒さが和らぐまで真壁家のトイレを使うことは控えたい。
 どんなに外が寒かろうが、服さえ着れば多少は防げる。だがトイレは纏ったものを脱いで用を足す場である。身体を守るものは何一つないのだ。取れる対策など何もない。用を足すか足さないかである。
 大丈夫。極力水分を取らず、今手にしている湯呑の中身も食後のお茶も避ければ問題ない。夕食は豚汁だったか。メインが水分だ。ハードルが高い。だとしても夕食をきっちりありがたく頂いて真壁家から失礼する。それでいい。完璧だ。

 総士の計算は、だが、その後帰宅した家主真壁史彦の「今日は冷えるし、仕事はひと段落ついたと聞いているから、今日は泊まっていきなさい」という優しさに打ち砕かれるのである。






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ものすごくどうでもいいオマケ
(真壁くんに頼られると皆城くんは嬉しいらしいので)


 どうにも、一騎に弱い自覚が総士には多分にある。
 一騎の希望は叶えられる限り叶えてやりたいし、頼りにされたい。父である真壁史彦のようにとまではいかなくとも、あれくらいのポジションでありたい。ぶっちゃけ総士は史彦が羨ましい。
 だが、基本的に一騎は人に頼らない。別に自分でやれるから平気だと言う。
 実際に平気どころか、一騎に任せた方がスムーズに行くことも多いので、日常生活において総士の出番はほとんどない。
 もっと頼ってもらっても構わないと思うが、一騎が総士に真剣に頼みごとをする内容は基本的にろくでもなかった。
と、総士は思い出した。
 自分一人で戦わせてくれとか、遠見がファフナーに乗らずに済むようにしてくれとかである。
 ひどい。一騎に再び島を出られては困るので、必死に対策を考えた自分もひどい。乙姫がいてくれて良かった。しつこく繰り返すがあれは本当にひどかった。しばらく電話のコール音がトラウマになった。
 まあ、それはいい。とにかく一騎はもっと普通のことで頼ってくれてもいいのにと思うが、総士にできるのは今のところシチューを作ることくらいだった。それも別に頼まれたわけではなかった。
 面と向かって僕に頼れとも言いづらい。空気を醸し出すのは下手であるし(すでに色んな場面で失敗している)、仮に醸し出せたところで、相手はあの一騎である。間違いなく気づかれない。
 料理も掃除も、俺がやっとくよと笑って、すべて自分で引き受けてしまう。
 考え出したら不満がふつふつとわいてきた。

 僕だって一騎に何かをしてやりたい。もらったものは返したい。それでこそ対等な関係だ。

 奮起した総士は、一騎が何をしてほしいのかあらゆる状況、可能性を考察した。並列思考が火を吹きそうになるまで考えた。結果、A4用紙に換算して50頁分となった検証結果を電子ペーパーで眺めながら、この「一騎がやってほしいこと一覧」を一騎本人に目を通してもらい、この中から選んでもらおうと思ったが、そこに至って気づいた。一騎がこれを読む可能性は0だ。

『よくわかんないな。お前に任せる』

 邪気のない笑顔で絶対にすべてをぶん投げる。それでこそ一騎。そうだった。考えるのは自分の役目だった。一騎が望むならそれでいい。
 考え直した末、結局一騎本人に尋ねることにした。

『皆城君さあ…』

 遠見真矢の冷たい視線が思い浮かんだがやはり選ぶべきは対話だ、すれ違いという悲劇を二度と引き起こさないために僕は対話を選ぶと決意して、総士は閉店時間を狙って一騎が勤務する楽園に行った。そして後片付けを手伝いがてら切り出した。


「一騎、僕に頼みたいことはないか」
「なんだよ、いきなり」
「言葉通りの意味だが」
「今、手伝ってもらってるしな?」
「普段から、お前には食事の面で世話になっている。片付けは当然の役目だ。それ以外でという話だ」
「へえ…とくに…思いつかないな…?」
「いや、あるはずだ。なにか」
「あるはずってなんだよ…わかったちょっと考える」
「そうしてくれ」
「天井の電球はこの前替えたし…切れてる食材もないし…」
「お前個人のことはないのか…」
「あ、思い出した!」
「なんだ、一騎」
「いや、うちのトイレのことなんだけど」
「トイレ、だと。ああ、トイレだな…」
「お前、冷たいって言ってただろ。それで便座があったかいのにするか父さんとも考えたんだけどさ、使う時期が短いし、いろいろ機能あっても俺も父さんも多分使わないし、ちょっともったいないかなと思ってやめようって話になったんだ。だから、うちのトイレ冷たいままでもいいか?」
「………」
「やっぱ駄目か。そうだよな、でもこのままじゃうちにお前来づらいよな…」
「問題ない。大丈夫だ。僕個人の都合だから大したことではない」
「そっか、ありがとな!総士」
「ああ…いやまて、違う。一騎。僕が言いたかったことはそういうことじゃ、」


 翌年の一騎の誕生日、総士は一騎もとい真壁家に便座カバーをプレゼントした。


- end -


2015/12/3 pixiv up
皆城くんは座ってする派だと思う。
みなしろくんとトイレのことを考えるだけで白米がうまいです。
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