竜宮島の豆腐屋さん


 ハロー。俺は元人類軍兵士。豆腐屋をやっているしがない竜宮島の一島民である。
 思春期を望まずして戦争に捧げ、兵器を握りしめて生きてきた俺は、今はこの島で毎日大豆と仲良くしている。
 マイラブ大豆。食料プラントで作られる完璧な大豆を今日も仕入れ、俺はこいつを白く美しい豆腐に仕上げるのだ。マイラブ豆腐。
 もっとも、俺はこの島に来るまで、豆腐なんて食い物をまるで知らなかった。
 豆腐がなんなのかを知る知らない以前に、本来だったら、あの金色の地球外生命体、フェストゥムにやられてこの世からおさらばしているはずの人生だった。
 フェストゥムがいなくても、飢えと寒さで死ぬのがせいぜいだっただろう。
 いやそれどころか、味方だと思ってたやつらに見捨てられて島ごと吹っ飛ばされる運命だった。今思い返しても冗談だろって思う。それでも事実は事実だった。
 API-1…島のやつらが竜宮島と呼ぶ、実質巨大な戦艦を占拠し、島の持つ機体とコアを確保するために投入された軍隊の一員だった俺は、その後も島を監視するために、ほかのメンバーとともに島に残された。重要な役目だと言われた。そのはずだった。
 ああ、確かにそうだったんだろう。島の人間の目くらましに使い、なにもかも吹っ飛ばして消してしまうために必要だった。
 ……あいつら、俺たちを見捨てやがった。捨て駒にしやがった。ちくしょう、ちくしょう。下っ端の俺たちなんざ、せいぜいがその程度の命だったんだ。
 もともと最低限の生活の保証だけを頼みに命を質に入れてたようなもんだった。他に生き場所がなかったともいう。義理も恩義もあったもんじゃなかった。こうなった以上、誰一人、人類軍のために殉じようというやつはいなかった。そして 驚くことに、島に降伏することにした俺たち全員を(どんな意図があったんだか)、竜宮島の首脳部は受け入れたのだった。
 俺たちはそんな現状に半信半疑になりながら、牢獄でもどこかの隔離施設でもなく、どうやら食堂らしいとこに集められた。食堂。なんで食堂。よくわからんがうまそうな料理の写真が壁に貼ってある。なぜここ。まさかここで働けっていうんだろうか。まさか。
 混乱を極めつつある俺たちの目の前にはすげえシャキシャキした、ちょっとやそっとじゃ死ななさそうなすげえ迫力のあるばあちゃんが仁王立ちで立っていた。ばあちゃんは投降兵とはいえ、訓練された軍人の男どもを相手にまったくひるむことなくこう言った。

「あんたたちの面倒はあたしが見てやることになった。まずこの中から好きなの選びな」

 マジか。このばあちゃんが俺たちの新しい隊長か。そして言われた場所を見れば、テーブルの上には封筒が俺たちと同じ数だけ並んでいた。俺たちは意味がわからないながら、一人ずつその封筒を取っていった。中を見れば紙が一枚入っている。なんだこれ。たぶんカンジってやつだ。日本人が使う文字。……読めねえ。
 紙を持ったまま途方に暮れて立ち尽くしている俺たちの手元を、ふむとばあちゃんは覗き込むと、ハリのある声で俺らに指示をしていった。

「あんたはカンブツヤ!!」
「ハイ!!」
「あんたはツクダニヤ!!」

 カンブツってなんなの。ツクダニってなにそれ。どんな兵器なんだ。おれたち何させられるんだ。
 頭の中は疑問符でいっぱいだったけど、イエス以外の返事などしようもんなら、そのまま海に沈められそうな怖さだった。
 この、普段はお菓子だの雑貨だの売っているというばあちゃんが島の頭脳の一人、アルヴィス筆頭の科学者だとあとから知った時は泡を吹きそうになったもんだ。
 竜宮島こわい。アルヴィスこわい。この島絶対クレイジー。
 ぶるぶるしている俺を最後に目にとめて、ばあちゃんは大きく息を吸った。

「あんたは…」
「ハイ!
「返事が早すぎる!」
「スイマセン!!」
「…まあいいさね。あんたはトーフヤ!!」
「いや、俺トーフ…ヤ?とか知らないんすけど」
「これから学ぶんだよ!!」
「ハイぃぃ!!!」

 俺は直立不動で敬礼とともに返事をした。
 やばい。こわい。俺はこのままアルヴィスに使役されるんだ。最後はトーフが俺を殺すんだ。
 そんなことをグルグル考えたが、でもそんなものは勝手な被害妄想だった。そのばあちゃんは指示を済ませたあと、俺たちに向かってにっこりと笑ったのだ。どこか懐かしい、昔置いてきちまったものを思い出させてくれるような、鼻の奥がツンとなって苦しくなるような、そんなあったかい顔だった。
 ばあちゃんはびっくりするような優しい声で言った。

「戦争しか教えてもらえなかったあんたたちに、平和ってもんを教えてやるよ」

 俺たちが思い浮かべたのは、ヘイワってなんなんだろうってことだった。そんなもんを俺たちは知ることになるのか。
 それは、トーフとかカンブツとかツクダニなんぞより、よっぽど途方もなくて得体のしれない言葉に覚えた。
 俺たちは完全に毒気を抜かれてしまって、またそのばあちゃんにシャキッとしな! とどやされた。

 それぞれが身の振り方を決められて、アルヴィス内に宿舎も与えられて、それから案内されたのは、島の居住区画にある店舗だった。
 普段は人がたくさん行きかっているんだろう町中は、この騒ぎのせいで静まり返っていた。それでも、緑がいっぱいで、俺たちにとって現実であるはずの戦争という単語が異次元に思えてくるようなのどかな光景だった。血の臭いも鉄や油の臭いも、荒んだ埃っぽさや、えずきたくなるような饐えた臭いもどこにもなかった。
 俺は立ち並ぶ店の一軒の前で立ち止まった。ばあちゃんに開けろと指示されて押し上げたシャッターの向うには、がらんとした薄暗い空間が広がっていた。ここは、今ちょっと留守にしていますといった、他の店の様子とは全然違っていた。
 中からじめっとした冷たい空気がしみだして、俺にまとわりつく。

「ここは…」
「今はもう誰も使っちゃいない。あんたがここでトーフを作ってくれたら、みんなが喜ぶさねえ」

 ばあちゃんの目は優しく、どこか悲しげだった。それでわかっちまった。
 この店の主人は…前にそのトーフとやらを作っていた人間はきっと戦死しちまったんだ。もうどこにもいない。店だけが残されて、確かにそこで何かを作っていた人の痕跡を刻んでいる。ほかにもたくさん見かけた、シャッターが下りたままの店のいくつかは、きっと明日も明後日も開くことのないものなんだろう。まるで店そのものが墓標のようだった。
 俺が今手渡されようとしてるのは、そういうものの一つなのだった。
 外じゃありえないような緑豊かな島の風景だけど、それだってバカでかい戦艦の上に人工的に作ったものだ。
 こいつらは常識じゃ考えられないバケモノみたいな兵器を作るその手で、文化保存なんてものを行なっているという。 そうやって積み重ねて作ってきたものを、今度は島の外からやってきた俺たちみたいな人間にまで引き継がせようとしているんだ。
 俺は胸の奥からじわじわとした熱い何かがこみ上げてくるのを感じた。

「ばあちゃん、トーフってなんなんだ」
「ああ説明が足りなかったね。食べ物だよ。脆くて壊れやすい、真っ白な食べ物だよ」
「それうまいのか」

 俺が聞くと、はじめてばあちゃんが顔を和らげた。

「そりゃあ、この島で食べる伝統料理にはなくちゃならないもんさ。ここで作ってた豆腐はほんとうに美味しかったねえ」

 懐かしいものを思い出す顔で、しみじみとばあちゃんが言った。俺は思わず口走っていた。

「俺頑張るよ」

 顔も知らないこの店の旦那が作ってたのと同じくらい、すげえうまいトーフ作るよ。

「まあ、せいぜい頑張りな」

 働かざる者食うべからずってね! と呪文みたいなことを言って、ばあちゃんがびしりと俺の背中をはたいた。めっちゃ痛かった。

 で、トーフってどうやって作るんだ。


     :::


 そこから俺の新たな戦いの日々が始まった。相手はフェストゥムでもファフナーでも人間でもない。俺が握るのは銃器じゃない。
 俺が今握っているもの、それは。

「この豆が…これになるだと」

 西阪3丁目のゴトーさんが、自家製でトーフを作ったりするとかで(とかいっても、このゴトーさんも当然ながらアルヴィス職員で、食料プラントの食品開発の技術スタッフらしい)、俺の世話役にと西尾のばあちゃんに頼まれて、わざわざ指導にきてくれた。
 俺はトーフになるという豆を手渡されて呆然としていた。
 このクソ固い爪先大の豆が白いふにゃふにゃしたものに…。
 なんだそれ。錬金術か。
 固まっている俺に、ゴトーさんはキりりと言った。

「物は試し、百聞は一見にしかず、とりあえずトーフを食いましょう」

 まずは食ってトーフを知るべし。
 ということでゴトーさんが俺にトーフ料理を振舞ってくれた。トーフに始まりトーフに終わる、ものすごいトーフフルコースだった。いや、大豆コースなのか。トウニュウのスープにユバのサシミ。トウフステーキに、オカラ和え。トウフのブラマンジェ。
 俺は大豆という食材の神秘を見た。そして味わった。食べ終わるころには、大豆教に入信したいくらいだった。とりあえずこの島のミールと、島のどこかで島を守っているという神様にお礼を言った。
 ありがとうありがとう。大豆をこの世に残してくれて。
 真っ白でなめらか、かつもっちりとした食感のブラマンジェをスプーンですくいながら打ち震えている俺に、ゴトーさんが神妙な顔で俺の覚悟を訪ねてきた。

「どうです、トーフ作りますか」
「作ります!!!」

 トーフが豆腐になった瞬間だった。
 それからの俺は二十四時間豆腐と向き合った。
 もはや俺が寝ているこの布団が豆腐なんじゃないかってくらい、豆腐漬けの日々を送った。あんまり根詰めるんじゃないよと、西尾のばあちゃんが釘を刺すくらいだった。そもそも豆腐屋ってのは俺の第二種任務であって、第一種任務は別にある。慶樹島で、戦闘機やミサイルの整備をするのが俺の仕事だ。そっちを疎かにするわけにはいかない。でも、残る時間はすべて豆腐に費やした。
 他の帰化したやつらもなかなかに頑張っているらしい。島の外じゃ死んだ目で銃弾をいじくってた知り合いが、いとおしむ目で「俺の昆布ちゃん…」と呟いているのに遭遇したときは、握手したいようなしたくないような、しかし間違えようのない感動を覚えた。やつは立派な佃煮屋になって、島の皆さんの日々の食卓に寄り添っている。
 俺もそうなれているんだろうか。まだちょっと自信はない。
 最初の頃こそ「なっちゃいないよ!!あんたは豆腐をなんだと思ってるんだい!!」と西尾のばあちゃんにドヤされていたが(それでもばあちゃんはいつもうちの豆腐を買ってくれていた)、このところは孫娘も買いに来て「いい線いってんじゃない」などと褒めてくれる。この前は孫息子も来た。「まあ悪くないんじゃないすか」とか言いやがった。まったくおんなじ表情、おんなじ調子の声だった。なんだよお前ら双子かよ。…そうだ双子だった。
 このころの俺はまだ、自分の作ったものが誰かの手に渡って食べてもらえるのがどういうことなのかわかっていなかった。
 それがどんなに嬉しくて素晴らしいことなのかってこと。
 それでもこの仕事にやりがいを見出していた。今日も一つもらおうかねと、笑顔で暖簾をくぐってくる島民の顔を、俺は少しずつ覚えていった。元人類軍の作った豆腐なんざ食いたくないってやつもきっといただろう。だけどそれでもたくさんの人が、俺の豆腐を買いに来てくれるようになった。俺の作った豆腐で、その日の食事を作るようになった。俺の豆腐が、島の一部になった。
 そんなある日のことだった。

「すみません、木綿豆腐が欲しいんですが」
「はい、らっしゃい!」

 手ぬぐいで濡れた手を拭きながら入り口を見て、俺はおやと瞬きをした。珍しい顔が立っている。いや、顔自体はときどきアルヴィスで見かけるから知っている。特徴的な容姿だから、一度見たことでも豆腐に関すること以外は3歩で忘れる俺でも忘れようがない。この店に…というか商店街にほとんど顔を出したことがない人物がいた。青年になりかけの年若い彼の名前は、確か皆城総士だ。
 商店街どころか、地上で見かけることもなかったというか、確か第二次蒼穹作戦からしばらくアルヴィス以外での行動を自粛、監督処分だという話だったが、そういえばそれも解かれたというのを少し前に聞いたっけ。
 驚いた俺の内心を読み取ったのか、彼はやや気まずそうに頭を下げた。背中まで伸びた長い髪がさらりと揺れる。

「どうも」

 俺は慌てた。どんなに珍しかろうが、いや珍しいからこそお客は大事にしなきゃいけない。

「ええと木綿豆腐だったな!!どれも自信作だ!美味しく食べてもらえるとありがたいねえ!」

 皆城総士は目の前でぷかぷかと水に浮いている豆腐をしみじみと眺めると、神妙な顔で口を開いた。

「どれが木綿豆腐でしょうか」
「……」

 おっとそうきたか。
 こいつは本当に何も知らずに来たらしい。


「木綿じゃないといけないそうなので、間違いがあっては困るもので」

 眉を寄せながらの言葉に、はたと思い当たる。ああ、こいつはもしかして。

「もしかしておつかいかい」
「…? ええ、そんなところです」

 それを聞いてさらにピンときた。

「ああ、一騎くんの」

 ぎょっとしたように彼が固まった。なんでそんなことがわかるんだと言いたげだったが、その態度で答えなんかバレバレだった。特殊な身体事情や能力で若いのに上層部で活躍してるとしか聞いてないが、こうしてみれば年相応の一男子だ。実はフェストゥムだとか言われていても、どこにでもいる、ごく普通の男の子にしか見えなかった。
 一騎くんというのは、この島唯一の喫茶店である「喫茶楽園」で働く高校生の男の子だ。ファフナーのエースパイロットで、この前の蒼穹作戦でも先陣を切って戦っていた。もっとも、体調もあってこのままパイロットは引退するらしいという話だ。
 まあ、俺は喫茶楽園に行く機会はあまりない。あそこは俺みたいなのにはちょっとおしゃれすぎるというか、どちらかというと堂馬食堂の常連メンバーだ。あと、ドンマイさん隠れファンクラブの一員としては、稼いだ金はドンマイさんに貢ぎたい。
 それでも何度か楽園に行ったことはある。なにせこの島で随一の戦歴を誇るエースパイロットが手料理をふるまってくれる店だ。いや、そんな肩書なんかどうでもいいくらい純粋に飯が美味い。タンクトップが似合いすぎるオーナー溝口さん(なんでこの人が食堂じゃなくて喫茶店なんだ…人間わからねえ)のこだわりのコーヒーもめっちゃうまい。洋食が食べたいときはあそこが一番だ。もっとも一騎くんは、とくにこだわりなく何でも作れるとは聞いた。
 一騎くんは、パッと見、ファフナーパイロットという印象がまったくつながらないくらいに、穏やかな雰囲気の少年だ。もっとも、この島のファフナーパイロットはみんな子供たちで、とても兵器になって戦っているとは思えない子たちばかりなんだが、特に一騎くんは、普段店で料理をしたり商店街で買い物をしたりする雰囲気の方が印象が強すぎる。襟足の伸びた黒髪を無造作に一本でくくって、ラフな格好で買い物に来るのをよく見かけるが、言われなければファフナーパイロットだとは思えないし、あの真壁司令の一人息子だともわからない。俺は遺伝子の不思議というものをしみじみ感じたわけだが、島の人間に言わせればあの親子は「そっくり」なんだという。
 そんな一騎くんとセットで名前が挙がるのが、今豆腐を買いに来てくれている皆城総士…総士くんだ。幼馴染の中でもとくに仲が良くて、総士くんが北極ミールとの戦いのあと行方不明になって2年ぶりに島に帰還してからは、とくにつかずはなれずだという。
 俺は島の一般ピープルな上に元人類軍ということもあって、とくに過去の深い事情などはさっぱり知らないんだが、そんな俺でもとにかく彼らが仲が良いということだけは知っている。
 総士くんに何かを頼むとしたら、そして総士くんが頼まれるとしたら、その相手はおおむね一騎くんだろうというのは、この島では誰もが当たり前に推理できることなのだ。
 それにしても、豆腐。おつかいに豆腐。しかも木綿でという注文つき。互いに気安い関係なんだなということがうかがえて微笑ましい。これはなんとしてもおいしい豆腐を持ち帰ってもらわなきゃならない。ついでに豆腐のこともよく知ってもらいたい。

「木綿と絹の違いは、見ただけでわかるもんなんだ」 
「そうなんですか」

 俺はなんだか嬉しくなってきて、とくに頼まれもしないのに豆腐の違いについて説明してしまった。総士くんも、思いのほか真剣に聞いてくれて調子に乗ってしまう。なんていうかこう…すごく真面目な子なんだろう。
それにしても、だ。
 いかにも持たされましたという様子で買い物かごを手に下げた総士くんは、まるで初めてのおつかい…いやぶっちゃけていうなら普段買い物に行かない旦那が嫁さんの指示で慣れないおつかいにきたみたいな感じだった。いや、ほんとそんな感じ。我ながら妙な感想だが。
 友達相手にこれじゃあ、なんだか先行きが心配にならなくもない。説明の末に選んだもらった木綿豆腐をすいっと手ですくいあげ、プラスチックケースに滑りいれると、上からビッと蓋をかけてビニル袋に入れる。
 お代と引き換えにそれを手渡しながら、俺は思わず口走っていた。

「君は…家庭で尻に敷かれるタイプだな」

 びしりと空気が固まった。しまった、口が滑りすぎた。デリケートな年頃っぽい子に俺は何を言っちまったのか。

「あああその他意はなく!!すまんな…!?」
「…いえ、結局勝てないのは僕です」
「へ?」

 一つため息をついたあと、総士くんはゆるりとほほ笑んだ。張りつめていたものが不意にほどけたような、そんな穏やかでやわらかな笑みだった。俺はあっけにとられて、思わずぽかんと口を開けてしまった。
 空気が緩んだのは一瞬だった。続いてまっすぐな目が正面から俺を見て、ついタジタジとなる。整った顔立ちの子だとは思ってたけど、こうして対峙すると妙な迫力がある。

「いや、その」
「どうもありがとうございました。この豆腐は僕の使命にかけて持ち帰ります」

 …お、おう。
 この子は大丈夫なのか。思わずちょっと心配になったが、いやまあご家庭で美味しく食ってもらえるなら、こちらとしてはそれ以上のことはない。それにあの一騎くんなら、さぞ美味しく俺の豆腐を料理してくれることだろう。
 俺は頭を下げて総士くんを見送った。

「またご贔屓にー」

 それからも彼はときどき商店街を訪れるようになった。うちだけじゃなく、魚屋や肉屋、野八百屋などにも顔を覗かせている。たまに一騎くんと来るときもあった。
 店先で絹がいいだの木綿がいいだのちいさく争ったり、がんもどきが食べたいと注文をつけていたり、親友というかなんだか家族みたいな雰囲気の二人だった。


     :::


「あんたも志願したってね」
「西尾のばあちゃん」

 その日、俺が店じまいの片付けをしていると、入り口にばあちゃんが立っていた。少し曲がった背中をかばうようにしながら後ろ手に立ついつもの姿。だがその顔は、逆光となる店内から見ても険しかった。俺はエプロンで濡れた手を拭ってから、へらりと笑う。

「さすが。もう耳に入りましたか」
「どうしてまた外に行くんだい」

 ばあちゃんはため息をついてそう言った。でも俺はもう決めてしまっていた。島外派遣のメンバーに立候補すること。同じように行くことを決めたオルガとも話した。

「俺は、ここで豆腐をつくるしあわせを知ったんですよ。俺が作ってみんなも食べてくれる」
「あんたがいなくなったら、わたしらはどうやって美味い豆腐を食べたらいいんだね」
「あはは、それ暉くんにも言われましたよ。あんたまで外に出てどうすんですかって」

 うちで使う豆腐をどこで買えばいいんだって、呆れたような困ったような顔で呟いていた暉くんの顔を思い出して、俺は思わず目を細めた。

「そりゃあそうさ。うちじゃここで買った豆腐でつくった味噌汁を飲むのが定番だったんだから」
「はは、嬉しいなあ」

 島の外じゃ味噌汁なんて飲めないだろう。俺だってわかる。俺は暉くんのそんなぼやきが嬉しかった。自分だって家族を置いていく立場なのに。
 ばあちゃんは優しい。島の皆はやさしい。こうして俺を惜しんでくれている。

「誰もが美味しい豆腐を作れるようなノウハウはばっちり仕込みましたよ」

 ありがたいことに俺には弟子が出来た。あのゴトーさんの一人息子だ。俺の豆腐作りを見ながら一生懸命に手伝ってくれて、今じゃ二人三脚で豆腐を作っている。俺は豆腐の作り方も全部書き留めて記録にした。この先何があったって、美味しい豆腐を誰もが作れるように。それにあいつなら、俺が作ってきた豆腐をこれからも作ってくれる。もっと美味しいものだって作ってくれる。

「これが文化の保存と伝承ってことでしょ」

 俺にも残せるものがあるんだってこと、俺はここに来て初めて知ったのだ。俺が馬鹿みたいに一生懸命豆腐を作ってたこと、多分島のみんなが覚えててくれるだろう。
 俺は、ここに来た時より少し荒れて皺も増えた自分の手を見下ろした。

「血にまみれてきた俺の手が、こんな真っ白でやさしいものを作れるようになった。ばあちゃんには感謝してます」
「なに…頑張ったのはあんたさね。この島に根づいた、あんたたちだよ」

 ばあちゃんは薄くなった眉を下げて、きゅっと目を細めた。

「あたしは一度逃げちまった。あんたらはえらいよ」
「ばあちゃん」
「本当に、えらいよ」

 ああ、今になってわかるんだ。こうやって、この島の人たちは生きてきたんだろう。

「俺は、島の外に大豆と大豆製品の素晴らしさを伝えてやりますよ」

 出立時に着ていく服のポケットには、少しの大豆をハンカチに包んで入れた。外で出会えたやつらに、この豆がどんな美味いものになるのかってこと教えてやるのだ。こんな小さな豆ひとつ、丁寧に記憶して保存してきた島のことも。
 西尾のばあちゃんは、目を丸くして俺をまじまじと見つめてから、やがてお前はバッカだねえと呆れたように笑った。

「バカな人類軍が来たと思ったら、まさかこんな豆腐バカになるとはねえ」
「みんな竜宮島バカになっちまったんですよ」

 この島で結婚したやつもいる。まさかシャオの結婚式を見ることになるとは思わなかった。あの小娘が、生まれ育ったところじゃ見たこともないだろう形の綺麗な着物を着てお嫁に行った。
 それがどんな奇跡かってこと、島の外から来た俺だから…俺たちだから知っている。この島で命をもらった。命だけじゃない、心ももらった。あの結婚式でとりわけグズグズと泣いたのは俺だった。もっとも、ほかのやつらだって涙ぐんでいた。この島に帰化した人間の中で、俺たちからすればシャオたちはそれこそ幼い少女だった。まだ子供なのに、利用されて捨てられた可哀想な娘たちだった。その彼女が、竜宮島により新しい形で根づくことを選んだ。この島での幸せを見つけた。その意味を、痛いほどに理解していた。

「俺たちは、この島に二度命を救ってもらった」

 一度は、ここに来たとき。
 二度めは、第二次蒼穹作戦のとき。
 島に迎えてもらった俺たち人類軍は、竜宮島を救うための囮になるつもりだった。それが俺たちにできる恩返しだと、みなが思った。誰も反対しなかった。そうして使おうとした命を、また救われた。拾い上げてもらった。
 今度こそ、俺の命を使いたい。そう思ったんだ。ちっぽけな命だけど。この島で得たものを、外に持っていけるんじゃないかって、繋げるんじゃないかって、これはその機会なんじゃないかって、そう思ったんだ。

「またあんたの豆腐が食べられるのを待ってるからね」

 ちゃんと帰ってくるんだよと、ばあちゃんは言った。
 ばあちゃんも死ぬなよ、と俺も言った。これからこの島だってどんな目にあうかわかったもんじゃない。
 みんながのんびり生きてるように見える竜宮島だが、それが「ごっこ」だってことを誰もが分かっている。俺たちは静かに新しい嵐の訪れを感じ、備えに入った。みんなが明日からの自分の生き方を決めている。俺がそうしたように。逆に言えば、決められないようなやつはここで生きることができない。厳しくて優しい、牢獄のような俺たちの楽園。

「ばあちゃん」

 俺は笑った。なんとか笑ってないと、すぐに顔がみっともなく崩れちまいそうだった。

「なあ、俺の帰る場所、守っててくれよ」

 俺が帰る場所があるとしたら、ここ以外にありはしないんだから。

「当たり前さね」

 ばあちゃんがばしりと俺の背中を叩いた。俺は痛くて、嬉しくて、少し切なくて、結局ちょっとだけ泣いた。

「行ってきな!」

 うん、行ってくるよ。
 グッバイ大豆。グッバイ豆腐。グッバイ、新しい俺の故郷…竜宮島。世界で一番きれいな島。
 もし生きて帰れたら、銭湯で熱い風呂に入って美味い飯を食って、また豆腐を作れたらと思う。
 生きて戻れなくても、俺が俺だったものが、どんな形でもいいから、ここに戻ってこられたらと思う。
 いつのまにかこの島が俺の故郷だった。
 だから、いつか帰る日まで。


 ――グッバイ。


- end -


2016/10/10 pixiv up
無印18話人類軍兵士を元ネタにした捏造SSでした。忘れられなかったシーンです。2019/06/23発行の短編集『その手のひらに■を灯し』へ一部改変して収録。
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